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牡蠣の土瓶蒸しと「群青」

牡蠣の土瓶蒸しと「群青」


「父さん、締めだけもう一回」息子がそう言ったのは、俺が筆を洗い終えたあとだった。窓の外はもう暗い。四十分で描く予定の風景画に、撮影を始めてから三時間かかっている。「何があかんねん」「最後、露骨にほっとしてる」「終わったんやから、ほっとするやろ」「終わる二秒前にしてる」カメラの横で瀬戸さんが笑った。俺は椅子へ戻り、描き上げたばかりの絵を立て直す。白い壁の上には、息子が作った『倉田絵画教室』の看板。その下で、五十二歳の俺が、なるべく疲れていない顔を作った。


 息子の拓海と動画を撮り始めて、一年になる。教室の宣伝も兼ねて、初心者向けに水彩画の描き方を紹介している。撮影は拓海、編集は大学の同級生だった瀬戸さん。普段は企業の紹介動画などを編集している彼女に、こちらも仕事として頼んでいた。安い謝礼ではあるが、無料の手伝いではない。だから俺も、もう疲れたので今日はここまで、と簡単には言えなかった。


 片づけの途中で、瀬戸さんが小さなカメラを棚から下ろした。正面のカメラとは別に、手元を撮っていたものだ。「今日、途中で止まったところ、残していいですか」「どこ?」「橋の影の色、混ぜ直したところです」「ああ、あそこは切って。間違えたから」「混ぜ直す前と後、見たほうが分かりやすいと思うんですけど」「失敗のほう覚えられても困るやろ」彼女は何か言いかけ、モニターを閉じた。「一回、つないでみますね」押しが弱いのか強いのか、まだつかめない人だった。


 スマホを確認すると、大槻からメッセージが来ていた。学生のころ、同じアトリエで絵を描いていた男だ。新しい個展の案内に、初日は在廊するから都合がつけば来てくれ、と添えてある。画像を開く。知らない画廊ではない。昔、二人で見に行って、いつかこういう場所でやりたいな、と話したところだった。招待状の絵はいい。小さな画面でも、目が止まる。拡大して見てから、元に戻した。


 〈動画も見てるで。相変わらず教えるのうまいな〉と、もう一通届いた。ありがとう、と打った。続けて個展開催のお祝いを送り、行けるかどうかには触れず画面を閉じる。大槻は嫌なやつではない。こちらの個展にも来てくれたし、一枚も売れずに終わった日には一緒に飲んだ。売れなくてもええ絵はある、と言ってくれた。あいつに言われたから、その言葉をずっと覚えている。あいつには、もう言う必要のない言葉になった。


 「父さん、飯どうする?」拓海が機材を持ち上げた。「何でもええ」「何でもええなら、歌って帰ろうや。予約してあるし」「俺、もう声出えへんぞ」「さっきまで出てたやん」「絵の説明と歌は別や」瀬戸さんが鞄にパソコンをしまいながら、「ごはん、おいしいところですよ」と言った。その言い方では、歌わなくても許されそうだった。


 店の名前はパレットという。絵画教室の帰りに入るには出来すぎた名前だが、拓海は前から友達と使っているらしい。土曜の夕方、受付の向こうからは何かを炒める音が聞こえ、廊下には別々の部屋の歌声が漏れている。「カラオケに晩飯食いに来るんか」「両方できるやん」拓海は迷わず受付を済ませた。俺がこいつくらいの年には、外食一回の金を惜しんで絵の具を買っていた。そう言いかけ、やめる。先週ネットで買った絵の具は、まだ箱も開けていない。


 部屋でメニューを開くと、季節のおすすめを記した紙が挟まっていた。牡蠣の土瓶蒸し。読み直してから、写真のないその文字を指でなぞる。「土瓶蒸しまであるんか、ここ」「父さん、牡蠣好きやったな」「好きやけど、そういう話やない。土瓶があるんやぞ」瀬戸さんが笑った。「私、それ頼もうと思ってました」「食べたことあるん?」「ないです。前に来たとき、ほかの部屋に運んでて。次は絶対って」結局、一人に一つずつ注文した。拓海が唐揚げと白いご飯を追加し、俺もご飯を頼んだ。昼に食べたおにぎりは、もう腹の中のどこにもなかった。


 拓海が最初の曲を入れ、瀬戸さんが飲み物を三人の前へ並べた。俺は椅子の背に体を預け、何となくスマホを開く。昨日公開した動画の再生数は二百八十六。家を出る前より十九増えている。登録している人の数から考えれば、もう少し見られてもいいはずだ。「数字、どう?」マイクを持った拓海が聞いた。「そんな、いちいち気にしてもしゃあないやろ」言ってから画面を伏せた。「俺は二百八十までは見た」「二百八十六や」瀬戸さんがストローから口を離した。何も言わずに笑っているのが、かえって腹立たしい。


 教室は、ありがたいことに生徒が途切れない。子どもが初めて自分で選んだ色を塗る瞬間も、退職してから通い始めた人が一枚を仕上げる日も、何度見たってうれしい。動画にも、娘と一緒に描けました、とコメントがつく。読んでは返事を考え、次の授業に使えそうな質問は手帳へ書き留める。ただ、ときどき教室を閉めたあと、奥に立て掛けた自分の絵へ目が向く。誰かに描き方を教える予定のない、大きな油絵だ。この半年、そこに立つたび、直す場所だけが増えていた。


 拓海はそのあと二曲続けて歌った。俺が知っている曲は一つもない。三曲目が終わったところで、ドアが開いた。盆を持って入ってきた男の人が、土瓶を一つずつ俺たちの前へ置く。小ぶりな猪口と、すだちの載った皿が添えられた。「お熱いので、蓋のところ気をつけてください。最初はそのまま、あとでお好みですだちを」土瓶の肩には、釉薬の濃くたまった筋が一本ある。握りやすい位置へ持ち手が向けられ、白い湯気が注ぎ口から細く上がっていた。


 持ち手をつかみ、猪口へ注ぐ。透き通った汁は、白い器の底でわずかに色を帯びた。口を近づけると、先に出汁の匂いがする。一口含む。熱さを確かめてから飲み込むと、鼻の奥に牡蠣の香りが残った。塩気は強くない。それでも、水みたいには流れていかず、飲んだあとでもう一口欲しくなる。俺は何も言わず、二杯目を注いだ。


 「食べるんじゃなくて、飲むんやな」拓海が俺の手元を見る。「両方や。蓋開けてみ」瀬戸さんが先に開けた。湯気の向こうに三つ葉の緑が見え、きのこの間で牡蠣が丸く膨らんでいる。俺も蓋を取り、一つつまんだ。重みがあって、箸先を寄せ直す。口へ運び、噛むと、中の汁が熱い。出汁を飲んだときより濃い香りが広がり、しばらく話す気になれなかった。硬く縮んでいないのがうれしい。次を取ろうとして、まだ一口目を噛んでいることに気づいた。


 瀬戸さんも口を閉じ、二度小さくうなずいていた。拓海だけが「熱っ」と言って水へ手を伸ばす。「急ぐからや」「父さんもすぐ次いこうとしてたやん」俺は箸を置き、猪口を取った。汁の温度が少し落ち着くと、きのこの匂いも分かる。腹に温かいものが入って、ようやく背中から力が抜けた。今日、俺は説明をしながら、自分で思っている以上に肩を上げていたらしい。


 唐揚げとご飯が運ばれてきたとき、思わず店の人に声をかけた。「これ、おいしいな。前、和食のお店におられたんですか」「ええ。今もここで、和食担当です」男の人は笑った。廊下から「そっち終わったら頼むわ」と声が飛び、「はい、兄貴」と返す。「兄弟でやってはるんですか」「兄が店主で。嫁さんらも、昼は出てます」そう言って、空いた盆を脇へ抱えた。話し込まずに仕事へ戻る足取りが速い。厨房のほうでは、もう次の皿を呼ぶ声がした。


 すだちを少し搾ると、汁の匂いが変わった。さっきまで奥にあった香りが、鼻の近くへ来た感じがする。白いご飯を一口食べ、牡蠣を取る。ひだの寄ったところは濃い灰色で、腹の丸いところには照明の黄色が映っている。灰色に何を混ぜれば、この温かさが出るだろう。「先生、どうしました?」瀬戸さんに聞かれ、牡蠣を宙に持ち上げたまま止まっているのに気づいた。「いや、色がな」「牡蠣の?」「灰色やのに、うまそうに見えるやろ」「うまいからちゃう?」拓海が唐揚げを取った。たしかに、それが先だ。俺も牡蠣を食べた。


 「そういうところ、撮りたいんですけどね」瀬戸さんが言った。「牡蠣を?」「今、色のこと考えてた顔です。撮影中より、ずっと真剣でした」「撮影中も真剣や」「分かってます。ちょっと、種類が違って」彼女は猪口を置き、両手で小さく四角を作った。「先生って、説明するとき、こっちが迷わないように話してくれるじゃないですか。でも自分が迷ってるところは、すぐ隠すので」「そら、先生やからな」「そうなんですけど」また、それ以上は言わなかった。


 拓海が、最近仕事は忙しいのかと彼女に聞いた。話は編集ソフトの調子から、請け負っている動画の納期へ移った。知らない言葉が増えたので、俺は残りのご飯を食べる。「自分のやつは?」と拓海が聞くと、瀬戸さんは箸を止めた。「落ちた」「この前出してたやつ?」「うん。最終にも残ってない」二人が黙った。俺は茶碗を置いた。「自分のやつって、何?」「短い映画、作ってたんです。公募に出してて」「映画?」


 瀬戸さんは、閉店する写真館を半年かけて撮ったのだという。店の人に頼み込み、仕事のない日に通い、最後の撮影から鍵を返す日までを一本にまとめた。いつか、自分が監督した作品を、映画館のスクリーンにかけたい。話しながら少し照れているが、途中で冗談にはしなかった。「昔の写真とか、店に残ってるものばっかり撮ってたなって、今は思うんです。最後の日に店の人が何してたか、そっちをもっと撮っておけばよかった」俺の知らないところで、彼女にも終わった作品と、取り返せない時間があった。


 「まあ、まだ若いんやし。これからやろ」励ましたつもりだった。瀬戸さんは小さくうなずいてから、笑わずに言った。「でも、選ばれた人、私と同い年なんですよ」猪口を口へ運びかけて、止めた。拓海が何か言おうとしたが、その前に俺が聞いた。「見たん、その人の作品」「見ました」「よかった?」「……はい」瀬戸さんが息を吐く。「ちゃんと、よかったんです」「それは、腹立つな」彼女が初めて、こちらをまっすぐ見た。「はい。めっちゃ」


 俺はスマホを取り、大槻から届いた個展の案内を見せた。拓海は名前を見ただけで「ああ」と言った。家で何度か話したことがある。「こいつ、学生のときの友達やねん。今、結構売れててな」瀬戸さんが画面をのぞく。「この絵、すごいですね」「せやろ」褒められると思って見せたのに、褒められると面白くない。俺は自分の口元を猪口で隠した。「先生の絵も、見たいです」気を使わせたかと思ったが、彼女の指は画面ではなく、俺のほうを向いていた。「教室の奥にある、大きいやつ。あれは、いつ完成するんですか」


 「まだ決まってへん」「動画で描いてるのとは、全然違いますよね」「あれは説明用やから」「大きいほうは?」「自分のや」言ってから、何だその区別は、と思う。どちらも俺が描いている。ただ、動画の絵は完成する時間まで決まっていて、奥の絵には決めていなかった。「あれも見せたらええのに」と拓海が言う。「できてからな」「それ、前も言うてたで」俺は土瓶の蓋を戻した。否定するほどの材料がなかった。


 瀬戸さんが端末を取り、曲を探し始めた。画面に『群青』の文字が出る。息子の車で流れていた曲だ。「それ、歌うん?」と拓海が聞く。「歌う。今日は」俺には何の説明もなく、彼女は予約を押した。映画の話を続けるのかと思っていたので、少し拍子抜けした。拓海が空いた皿を端へ寄せ、彼女はマイクを持ち直す。


 入りのところで拍を一つ外した。瀬戸さんは小さく笑い、画面を見て追いつく。俺は残った汁を猪口へ注ぎながら聴いていた。高いところへ来ると、彼女の声が細くなった。それでも音を下げて逃げず、片手を膝の上で握り、届くところまで出している。上手に余裕を持って歌う人ではなかった。だからなのか、途中から猪口を持ったまま、目が離せなくなった。


 カメラの横に座っていた彼女と、同じ顔だ。二十四歳。息子の同級生。頼んだ映像を分かりやすく仕上げてくれる人。そのくらいの認識で、一緒に一年仕事をしていた。彼女が一人で写真館へ通った半年を、俺は知らない。選ばれた同い年の監督の名前を、どれだけ検索したかも知らない。歌っている彼女はこちらを見ない。画面を見て、自分の声を出している。


 俺も大槻の名前を検索する。個展の記事、売れた作品、取材の受け答え。そんな暇があれば描けばいいと、自分で思いながら読む。そのくせ会えば、教室が忙しくて、と話す。忙しいのは本当だ。息子との動画も、いい仕事だと思っている。けれど忙しくなかったあの夜、奥のキャンバスに布を掛けたのは俺だった。教室の先生として間違わない絵より、自分の名前で見せる絵のほうが、よほど手が止まる。


 瀬戸さんの声が一度裏返った。顔をしかめて、それでも歌い続けた。拓海が手を叩く。俺は猪口を置いた。生徒が喜んでくれるから十分だと、誰に言われたわけでもないのに自分で言っていた。十分なわけがない。自分の絵が売れてほしい。知らない人に、俺の絵を見るために出かけてきてほしい。大槻の隣で、友達としてではなく、同じ場所に絵を掛けた画家として酒を飲みたい。五十二歳にもなって、まだそんなことを考えている。いや、五十二歳になっても、そこだけは変わっていない。


 曲が終わると、瀬戸さんがグラスを取り、半分ほど一息に飲んだ。「あー、しんど」拓海が笑う。「全力やったな」「もう一回歌ったら、さっきのとこ出る気がする」「休んでからにしとき」俺は土瓶を持ち上げた。最後の汁が、猪口の半分に届いた。すだちの匂いは穏やかになって、牡蠣の味が残っている。それを飲み切り、二人へ顔を向けた。


 「次の撮影、一本変えてええか」拓海が端末から目を上げる。「何に?」「奥の絵。あれを仕上げるまで、撮ってほしい」「解説は?」「せえへん。描いてるところを撮ってくれ」瀬戸さんがグラスを置いた。「完成まで、どれくらいかかりますか」「分からん」「途中で、また塗り直すかもしれない?」「そら、あるやろな」「そこも撮っていいですか」俺は一瞬、答えを探した。絵がよく見える映像を頼んだつもりだった。気に入らなくて潰すところまで、世間に見せるつもりではなかった。


 「うまくいったところを、うまいことつないでくれたら」「それやったら、いつもの動画になります」瀬戸さんの返事は早かった。拓海は口を挟まず、唐揚げの最後の一つを自分の皿へ移した。「作品の紹介動画なら、それでできます。でも、今の話だったら、私は描いてる先生を撮りたいです。うまくいってないときも」「格好悪いぞ、結構」「はい」「はい、て」彼女は笑わなかった。「私も、自分の作品にしたいので」


 少し腹が立った。俺の絵の話をしているのに、勝手に自分の作品にされている気がした。口を開きかけて、目の前の人を見る。企業から渡された素材をまとめる仕事。教室の名前が先に出る動画。彼女はそこで手を抜いていない。それでも、それだけでは足りないのだろう。さっきまで俺が考えていたことと、大して違わない。「あの写真館で、撮り逃したんやろ」聞くと、彼女はうなずいた。「今度は逃したくないです。ただ、何でも黙って撮るつもりはないです。どこまで撮るか、先に相談させてください」


 拓海が唐揚げを飲み込み、こちらを見た。二人とも俺の返事を待っている。「分かった。途中も撮れ。その代わり、こっちも途中の映像、見せてもらうぞ」「もちろんです」「俺も何か言うかもしれん」「聞きます。でも、全部そのとおりに直すとは約束できません」「君、結構言うな」「先生も、言うじゃないですか」俺は笑ってしまった。「ほな、こっちも、撮られ損にならん絵を描かなあかんな」瀬戸さんの手が鞄へ伸びた。スマホではなく、小さなノートを取り出す。その動きは、今日初めて見る速さだった。


 「ちょっと待って。日程とお金、先に話そう」拓海が自分のスマホを開く。「教室の動画も続けるやろ。別で撮るなら、編集代も別やで」「分かってる」「分かってる顔して、あとでびっくりせんといてな」瀬戸さんも「撮影の回数を決めて、見積もり出します」と言った。気合だけで全部が動くほど、二人とも子どもではなかった。俺はうなずく。「仕事のほうは減らさん。絵は、空いてる日に描く」「来週の日曜、午後なら俺も撮れる」と拓海が言う。「瀬戸は?」「空けられる」「父さんは?」俺が答えるより早く、息子が笑った。「今日、もうしんどい言うてたけど」


 「疲れたんと、もう描けへんのとは違うやろ」思ったより大きい声が出た。瀬戸さんが顔を上げる。「まだイケるし!」言ったあと、少し気恥ずかしくなったが、取り消すつもりはない。拓海は「ほな、日曜」と予定を入れた。瀬戸さんはノートの新しいページに日付を書く。「その前に、絵、もう一回見に行っていいですか。今の状態も撮っておきたいです」「ええよ」「あと、教室に誰もいない時間、少しお話聞かせてください」「何の?」「その絵、最初は何を描こうとしてたのか」俺はキャンバスの下のほうに、何度塗っても残っている青を思い浮かべた。話すことは、思ったよりありそうだった。


 残り十分の電話が鳴った。拓海が受け、延長しないと伝える。瀬戸さんはノートを閉じたが、まだ考え事をしている顔だった。「俺が売れたら、その映像、貴重になるぞ」と言ってみた。彼女はペンをしまいながら答える。「私が先に有名になるかもしれませんよ」「せやな。どっちが先か分からんな」「どっちも、まだ何もできてへんからな」拓海が水を差した。腹は立たない。来週の日付が、ちゃんと三人の手元に入っている。


 会計を済ませると、さっきの料理人が厨房から顔を出した。「ありがとうございました」「土瓶蒸し、うまかったです」俺が言うと、瀬戸さんも隣でうなずいた。「最後の汁まで、おいしかったです」「よかった。またどうぞ」奥から呼ばれ、男の人は片手を上げて戻っていく。俺たちも玄関を出た。冷たい空気が、歌っていない俺の頬まで気持ちよかった。


 拓海が車を取りに行くあいだ、俺は大槻への返信を開いた。〈初日、行くわ〉と打つ。続けて〈俺も今、大きいの描いてる〉と送った。少しして、〈楽しみにしてる。できたら見せて〉と返ってくる。相変わらず、いいやつだ。俺はその短い文を二度読んでから、スマホをしまった。


 隣で瀬戸さんが「先生」と呼んだ。「来週まで、あの絵に何かする予定あります?」「ある。明日から描く」「ちょっと待ってください。描く前の状態、まだ撮れてないです」「ほな、明日来たらええやん」「明日は午前中、納品があるんです。夕方なら」「ええよ。教室、五時に終わるから」彼女は鞄からまたノートを引っ張り出した。「私、一人で撮りに行きます。カメラも持っていきます」「一回来るだけやのに、そんなに書くことあるんか」「増えました。いっぱい」そう答えたあとも、彼女はペンを止めなかった。


 駐車場のほうから拓海の車が曲がってきた。助手席へ乗る前に、俺は瀬戸さんのノートを指した。「五時には来てや」「行きますよ」「遅れたら、先に描くからな」

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