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唐揚げと「365日の紙飛行機」

 朝六時十三分。駅へ向かう人の流れに逆らって歩くのは、いつまで経っても慣れない。


 スーツの男が眠そうに信号を待ち、制服姿の高校生が自転車で横を抜けていく。コンビニの前ではトラックが荷物を降ろしていた。


 みんな、これから一日が始まる。


 私たちは、今から終わる。


「ビール飲みたい」


 隣を歩いていた田辺茜が言った。


「朝六時やで」


「知ってます」


「最低やな」


「佐伯さんも飲むでしょ」


「飲む」


 二人で笑った。


 笑うと頬が重い。夜勤明けは、顔の筋肉まで働きたくないらしい。


 病院を出てから十五分。家とは反対方向だったけれど、今日はまっすぐ帰る気にならなかった。


「パレット、開いてます?」


「二十四時間。日曜以外は」


「カラオケですよね?」


「そう」


「朝六時から?」


「そう」


「誰が来るんですか」


「私らみたいなんちゃう」


 茜は納得したような、していないような顔で歩いた。


 昨日の夕方、出勤した時点では、今日も普通の夜勤になると思っていた。


 普通の夜勤という言い方がおかしいのは分かっている。病棟にいる以上、何も起きない夜なんてほとんどない。


 点滴が漏れる。眠れないと訴える。トイレへ行こうとして立ち上がる。ナースコールが重なる。家族から電話が来る。医師を呼ぶ。記録を書く。


 その全部が予定どおり終われば、それを私たちは普通と呼ぶ。


 昨日は、普通ではなかった。


 明け方四時を過ぎたころ、山崎さんの呼吸が止まった。


 八十三歳。肺炎で入院して三週間。状態が悪いことは家族にも伝えていたし、看取りの方針も決まっていた。私たちも分かっていた。


 分かっていたからといって、何も感じなくなるわけではない。


 五時前に家族が来た。


 娘さんが、ベッドの横で父親の手を握っていた。


 私にはすることがあった。


 点滴を外して、身体を整えて、医師と確認をして、書類を書いて、次の勤務者へ申し送りをする。


 泣くのは家族の仕事で、こちらは仕事をする。


 そういう時間だった。


 パレットの看板が見えた。


 古い。


「ここです?」


「ここ」


「……佐伯さん、渋いですね」


「店が渋いだけや」


 ガラス戸を開けると、油の匂いがした。


 カラオケ屋に朝六時に入って、最初に油の匂いがするとは茜も思わなかったらしい。鼻を少し動かしている。


 受付の奥で、白髪交じりの男の人が新聞を畳んだ。


「いらっしゃい。二人?」


「二時間」


「朝から?」


「開けてるんでしょ」


「開けてるけどな」


 お父さん――この店の初代店主だ。


 私も数回来ただけだが、顔は覚えられている。


 お父さんが茜を見る。


「今日は娘さん?」


「違います」


 私が答える前に茜が言った。


「後輩です」


「そうか。姉妹に見えたわ」


 悪い気はしなかった。


「どっちが姉に見えます?」


 茜が聞く。


 やめとけばいいのに。


 お父さんは一秒だけ私たちを見比べた。


「そら、こっちやろ」


 私を指した。


「何で答えるんですか」


「聞かれたからや」


「そういうとこですよ」


「朝から怒られたわ」


「朝から余計なこと言うからです」


 茜が笑っている。


 お父さんも笑った。


「仕事終わり?」


「はい」


「看護師さん?」


 茜が少し驚く。


「分かるんですか?」


「この時間に女二人で、死にそうな顔してビール飲みに来る仕事、そんなにないやろ」


「まだビール頼んでません」


「頼む顔してる」


 また余計なことを言う。


 でも、当たっていた。


「生二つ。それと唐揚げ」


 私が言うと、お父さんは注文用紙に何も書かず、「はいよ」と答えた。


「ご飯は?」


「いらん」


「若いほうは?」


「私もいらないです」


「二人ともちゃんと食わなあかんで」


「今からビール飲む人に健康指導せんといてください」


「看護師に健康指導してしもたな」


 そう言いながら、お父さんは奥へ入っていった。


 部屋に入るなり、茜はソファへ倒れ込んだ。


「無理」


「靴脱ぐなよ」


「脱いでません」


「寝るなよ」


「寝ません」


 目は閉じている。


 私は端末をテーブルの端へ寄せ、鞄を置いた。


 病院では身体が勝手に動いていた。ここへ来た途端、膝から下が重い。


 白衣から私服に着替えているのに、まだ身体のどこかに病院の匂いが残っている気がした。


「佐伯さん」


「ん?」


「私、昨日なんかしました?」


「いっぱいしたやろ」


「そういう意味じゃなくて」


 茜は目を開けなかった。


「山崎さんのとき」


 私は答えなかった。


「何回考えても、もうちょっと早く気づけたんちゃうかなって」


「何に」


「呼吸」


「見てたやろ」


「見てましたけど」


「先生にも連絡した」


「しました」


「家族にも連絡した」


「はい」


「ほな、やることやってる」


 茜が顔を横へ向ける。


「それでも考えるんですよ」


「知ってる」


 私も考えている。


 山崎さんが最後に水を欲しがったのは、何時だったか。


 枕を直したのは誰だったか。


 巡回したとき、苦しそうな顔をしていなかったか。


 何度確認しても、結論は変わらない。


 それでも、頭だけが夜勤を続けている。


 ドアが開いた。


「お待たせ」


 お父さんがジョッキを二つ置いた。


「唐揚げ、今揚げてるからな」


 黄金色のビールの上に、白い泡が厚く載っている。


 茜が身体を起こした。


 さっきまで死体みたいだった人間の目に光が戻る。


「乾杯します?」


「何に」


「夜勤終了」


「それでええか」


 ジョッキを軽くぶつけた。


「お疲れさまでした」


「お疲れ」


 一口目を大きく飲む。


 冷たい。


 喉の奥が痛いくらい冷たい。


 胃へ落ちていく場所が分かる。


「あー……」


 茜が、おっさんみたいな声を出した。


「うま」


「朝やで」


「晩です」


「そうやった」


 二人でもう一口飲んだ。


 窓のない部屋では、今が朝なのか夜なのか分からない。


 それがありがたかった。


 五分ほどして、またドアが開いた。


 今度は匂いが先に入ってきた。


「はい、唐揚げ」


 大皿に、七つ。


「七個?」


「二人やったら喧嘩するやろ」


「偶数にしてくださいよ」


「最後の一個、じゃんけんしたらええ。仲良なるで」


「夜勤一緒にやってる時点で、十分仲良いです」


「それもそうか」


 お父さんが皿を置く。


 唐揚げは、見た目だけなら何も特別ではない。


 衣は薄めで、ところどころ色が濃い。横にはキャベツ。レモン。小さな器にマヨネーズ。


 洒落た飾りは一つもない。


 それでも、揚げたばかりの油と生姜の匂いで、腹が鳴った。


 お父さんがそれを聞いた。


「やっぱり飯いるんちゃう?」


「聞こえてました?」


「店やって長いからな。腹鳴る音には敏感や」


「関係ないでしょ」


「あるある」


 笑いながら出ていく。


 茜が箸を持った。


「いいですか」


「食べ」


 一つ取る。


 私も取った。


 熱いのは分かっている。


 それでもそのままかじった。


 衣が小さく割れた。


 熱い。


「っつ」


「佐伯さん、急ぎすぎ」


 茜が笑う。


 中は柔らかい。醤油と生姜、それから少しにんにく。噛んだところから肉汁が出る。


 何か変わった調味料が入っているわけでもない。


 普通の唐揚げだ。


 ただ、朝六時半に食べるには、うますぎた。


 すぐビールを飲む。


 口の中の油が流れていく。


「……あかん」


「何がです?」


「これ、あかんやつや」


「めっちゃ合いますね」


 茜もビールを飲んだ。


 もう一つ取る。


「レモンかけます?」


「自分のだけにして」


「佐伯さん、かけへん派?」


「途中からかける派」


「めんどくさ」


「一番楽しめるやろ。前半そのまま、後半レモン」


「人生設計みたいに言わんといてください」


 茜が自分の一つにだけレモンを搾る。


「マヨネーズは?」


「最後」


「まだ段階あるんですか」


「唐揚げ舐めんなよ」


 ビールが半分になった。


 身体の芯に残っていた緊張が、少しずつほどけていく。


 茜が三つ目に手を伸ばしかけて、止めた。


「佐伯さん」


「ん?」


「山崎さん、亡くなりましたね」


「うん」


 唐揚げを持ったまま、しばらく黙っていた。


「娘さん、間に合ってよかったですね」


「うん」


「手、ずっと握ってましたね」


「握ってたな」


「……私のお父さんも、ああなるんかな」


「まだ元気やろ」


「めっちゃ元気です。昨日もゴルフ行ってました」


「ほな、まだ考えんでええ」


「でも、いつか来るんですよね」


「来るな」


 茜は唐揚げを口へ入れた。


 私も食べる。


 慰める言葉は、もう仕事中に使い切っていた。


 大丈夫ですよ。


 そばにいますよ。


 ご家族、もうすぐ来られますよ。


 必要な言葉を、必要な人に、必要なだけ使った。


 今は二人とも看護師ではなくていい。


「私、辞めようかな」


 茜が言った。


「辞めたら?」


 茜が目を丸くした。


「止めてくださいよ」


「なんで」


「普通、後輩が辞めたいって言ったら、もうちょっとあるでしょ」


「何が」


「やりがいとか。向いてるとか」


「言うてほしい?」


「いらないです」


「ほなええやん」


 茜は笑った。


「佐伯さん、辞めたいと思ったことあります?」


「毎月」


「毎月?」


「忙しい月は毎週」


「なんで辞めてないんですか」


 考えた。


 給料。


 生活。


 慣れ。


 患者。


 同僚。


 辞めるのが面倒。


 続けたい日もある。


 全部本当だ。


「何となく」


「それで十五年?」


「そんなもんやろ」


「夢ないなあ」


「あると思って看護師なった?」


「ありましたよ」


「偉いな」


「過去形ですけど」


「十分や」


 残り三つになった。


「四個食べました?」


「三個」


「私も二個です」


「一個、誰が食った?」


 二人で皿を見る。


 もちろん唐揚げが勝手に消えるわけがない。


「佐伯さんでしょ」


「田辺や」


「絶対違います」


「記録ないから分からんな」


「こういうときだけ記録言わんといてください」


 笑った。


 腹の底からではない。


 それでも、笑った。


 やがて茜がカラオケ端末を手に取った。


「何か歌います?」


「歌う体力ある?」


「一曲くらい」


「何入れるん」


 茜は検索画面を触りながら言った。


「朝っぽいやつ」


「雑やな」


 しばらくして、画面に曲名が出た。


『365日の紙飛行機』


「朝ドラやん」


「朝やし」


「うちらは夜やって」


「もうどっちでもええでしょ」


 イントロが流れる。


 茜がマイクを持つ。


 私は最後の唐揚げを半分に割ろうと箸を入れた。


「それ、どうするんです?」


「半分こ」


「急に平和的」


「疲れた」


 うまく割れなかった。


 大きいほうを茜の皿に置く。


「ありがとうございます」


 歌が始まった。


 茜の声は少し枯れている。


 夜勤中、何度ナースコールに答えたか分からない。申し送りでも喋り続けていた。


 それでも歌う。


 上手いのかどうかは知らない。


 私は途中からマイクをもう一本取った。


「佐伯さん歌えるんです?」


「だいたい」


「だいたいで入ってこんといてください」


「知ってるとこだけ」


 二人で歌った。


 途中、私が完全に分からなくなるところがあって、茜が笑った。


 茜も次のところで音を外した。


 私が笑った。


 笑うたびに歌が途切れる。


 それでいい。


 誰かに聞かせるためではない。


 点数も見なかった。


 歌が終わると、画面が次のおすすめ曲へ変わった。


 私たちはマイクを置いた。


「もう一杯飲みます?」


「やめとこ」


「ですよね」


「寝れんくなる」


「ビール飲んで?」


「飲みすぎたら逆にしんどいやろ」


「健康的なんか不健康なんか分かりませんね」


「看護師なんてそんなもんや」


 会計を済ませて外へ出ると、完全に朝だった。


 眩しい。


「うわ」


 茜が目を細めた。


「世間、元気ですね」


「腹立つな」


「分かります」


 通勤の車が増えている。


 近くの小学校から、子どもの声が聞こえた。


 私たちは店の横にある灰皿のところへ移動した。


 煙草を一本取り出す。


 茜も同じようにした。


 火をつける。


 最初の一口を吸い、ゆっくり吐いた。


 病院では吸えない。


 当たり前だけれど、患者の前でも吸わない。


 自分の身体に悪いことくらい、誰より知っている。


 それでも今日は、この一本をやめようとは思わなかった。


 煙が朝の光の中で薄くなる。


「今日、何します?」


 茜が聞いた。


「寝る」


「私も」


「風呂入って寝る」


「私は先に寝るかも」


「化粧落とせよ」


「それは落とします」


「起きたら?」


「知らないです」


「私も」


 少し黙る。


 茜が煙を吐いた。


「私、辞めるかもしれません」


「うん」


「辞めへんかもしれません」


「うん」


「どっちでもいいです?」


「田辺の人生やからな」


「冷たいなあ」


「十五時間一緒におった人間に、まだ優しさ求める?」


「それもそうですね」


 煙草が短くなる。


 吸い殻を灰皿へ落としたところで、店のドアが開いた。


 お父さんがゴミ袋を持って出てきた。


 私たちを見る。


「まだおったんか」


「一服」


「看護師さんが煙草吸うたらあかんやろ」


「出た」


 茜が笑う。


「また余計なこと言う」


「健康に悪いで」


「知ってます」


「肺がな」


「知ってます」


「肌にも」


「お父さん」


「はい」


「今度来たとき、唐揚げ一個減らしますよ」


「作るの俺や」


「あ、そうか」


 お父さんが笑う。


 ゴミ袋を持ったまま、灰皿をちらっと見た。


「まあ、ほどほどにな」


「はーい」


 返事だけは二人ともいい。


 お父さんが店へ戻ろうとした。


「お父さん」


 私が呼ぶ。


「ん?」


「唐揚げ、うまかった」


 白髪の頭が少し動いた。


「嫁の味や」


「奥さんの?」


「昔からあれだけは、ほとんど変えてへん。子どもらの晩飯によう作ってたからな」


 それだけ言って、今度こそ店へ戻っていった。


 茜が灰皿を見ながら言った。


「何か、いいですね」


「何が」


「分かりません」


「分からんのかい」


「でも、いいです」


 私は二本目を出さなかった。


 鞄を肩へ掛ける。


「帰ろか」


「はい」


 駅へ向かう人の流れは、さっきより増えていた。


 私たちはまた、その反対へ歩く。


 今日を始める人たちと、今日を終えた私たちが、同じ朝の道を使っている。


 山崎さんは亡くなった。


 茜が仕事を辞めるかどうかも分からない。


 私だって、次の夜勤でまた辞めたいと思うかもしれない。


 何も解決していない。


 でも、揚げたての唐揚げを食べた。


 ビールを飲んだ。


 歌った。


 煙草を一本吸った。


 今は、それでよかった。


「佐伯さん」


「ん?」


「また夜ですね」


「せやな」


 信号が青になった。


 私たちは朝日の中を、家へ帰った。


 ――さあ、心のままに、365日。

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