豚骨ラーメンと「真夏の果実」
昼の十一時を少し回ったころ、私は台所に立って冷蔵庫を開けた。
卵が四つ。納豆が二パック。昨夜のきんぴらが少し。野菜室には、しなびかけた小松菜と、使いかけのキャベツ。
閉めた。
もう一度開けた。
増えてはいなかった。
「今日、昼ご飯作らへんから」
リビングに向かって言うと、三人分の反応が返ってきた。
「えー」
九歳の陽菜。
「別にええけど」
十六歳の美月。
「私、二時から予定あるで」
十九歳の七海。
誰一人として、「じゃあ私が作る」とは言わない。
まあ、そうだろうとは思っていた。
「なんか食べに行くで」
「どこ?」
陽菜がすぐ食いつく。
「まだ決めてへん」
「マクド?」
「昨日食べたやろ」
「うどん」
「昨日の晩うどんやった」
「じゃあ焼肉」
「昼から?」
「お母さんが何か食べに行くって言うたんやん」
そう言われればそうだ。
私は冷蔵庫の横に貼ったカレンダーを見る。
八月。
夏休み。
夫は休日出勤。私はスーパーのパートが珍しく休み。七海も大学の講義がない。美月は部活が午後から休み。陽菜は、もちろん一日中いる。
四人が昼に家にいる。
考えてみれば、最近あまりない。
「カラオケ行こか」
口から出た。
七海がスマホから顔を上げる。
「急やな」
「涼しいし」
「理由そこ?」
「ご飯も食べられるし」
美月もようやくソファから身体を起こした。
「パレット?」
「うん」
「飯食いにカラオケ行くん?」
「歌えばええやん」
「お母さん歌うん?」
「歌うよ」
「何を」
「何でも」
「それが怖いねん」
「何でやねん」
陽菜だけが、もう行くつもりで靴下を探していた。
四十五歳。
三人の娘がいる。
そんなことは毎日知っている。
でも、こうして三人並んでいるのを見ると、ときどき数が多いと思う。
よく三人も育てたな、と他人事みたいに思う。
そして、まだ育てている途中だということも忘れそうになる。
パレットに着いたのは十二時前だった。
外は、アスファルトまで白く見えるような日差しだった。
「暑っ」
店に入った瞬間、陽菜が言った。
「生き返った」
「死んでへん」
「死ぬ一歩手前やった」
「大げさやな」
受付には、髪をきっちりまとめた女性が立っていた。
何度か見たことがある。昼間によくいる店主の奥さんだ。
「いらっしゃいませ。四名様?」
「はい。二時間で」
「お子さんも一緒ですね。広めの部屋にしましょうか」
その人が陽菜を見て笑う。
陽菜は、こういうときだけ妙に行儀がいい。
「ありがとうございます」
私が答えると、美月が小声で、
「外面ええな」
と言った。
「聞こえてるで」
「聞こえるように言ったし」
十九歳と十六歳は、この程度のことを平然と言う。
私も慣れた。
部屋に入ると、陽菜が一番にソファへ飛び込んだ。
「涼しー」
七海はすぐに端末を手に取り、美月は飲み物を選び始める。
「お母さん、何飲む?」
「アイスコーヒー」
「暑いのに?」
「暑いからや」
「意味分からん」
意味は私にも分からない。
ただ、四十五年生きていると、理由の説明できない好みが増える。
私はメニューを開いた。
最初に目に入ったのは、季節限定の文字だった。
豚骨ラーメン。
「これ」
思わず言った。
三人が同時にのぞく。
「カラオケ屋で豚骨?」
七海が言う。
「ええやん」
「真夏やで」
美月が言う。
「ええやん」
「お母さん、汗かくで」
陽菜まで言う。
「ええやん!」
三対一で負けそうになったので、声を少し大きくした。
メニューの写真には、白濁したスープに細麺。青ねぎ、きくらげ、焼豚。横に小皿で紅生姜が添えてある。
「私これにする」
「じゃあ私も」
七海が続く。
「え、ほんまに?」
「お母さんがそんな言うなら気になるやん」
「じゃあ私も」
美月まで乗ってきた。
陽菜は少し考えたあと、
「私、半ラーメンある?」
メニューをめくる。
あった。
「じゃあそれ」
結局、女四人、真夏の昼に豚骨ラーメンを食べることになった。
注文の電話を入れると、受付にいた奥さんが出た。
「豚骨三つと、半ラーメン一つお願いします。あと……紅生姜、多めにできます?」
言ってから、娘たちが私を見る。
「できますよ」
受話器の向こうで笑う声がした。
「うち、九州なんで。紅生姜は多いくらいがちょうどいいです」
「じゃあ、遠慮なく多めで」
「はい。いっぱい持っていきます」
受話器を置いた。
「お母さん、紅生姜そんな好きやった?」
七海が聞く。
「好き」
「知らんかった」
「言う機会なかったし」
「十九年一緒におって?」
「紅生姜について語る機会なんか、そんなないやろ」
美月が笑った。
「でも確かに。お母さんって、牛丼でもめっちゃ乗せるよな」
「せやろ」
「味変わるぐらい」
「そこがええねん」
陽菜だけが不安そうに聞いた。
「辛い?」
「ちょっと」
「じゃあ私は少なめ」
「好きにし」
七海が端末に曲を入れた。
最近の曲だった。
私は知らない。
美月は知っているらしく、すぐ二本目のマイクを取った。
陽菜はサビだけ参加する。
三人が同じ画面を見ている。
七海は歌いながら、途中でスマホも見る。美月は振りまでつける。陽菜は分からないところを勢いで乗り切る。
それを見ながら、私はアイスコーヒーを飲んだ。
昔は、三人とも私の横にいた。
スーパーへ行けば、七海がカートの横を歩いて、美月が後ろから服を引っ張って、陽菜は抱っこだった。
いや、陽菜が生まれたころには七海は十歳だった。
そう考えると、三人が全員小さかった時期なんて、本当はほとんどない。
記憶の中では、ごちゃ混ぜになっている。
プールバッグ。
濡れた髪。
虫よけの匂い。
日焼け止めを嫌がる腕。
家に帰ってからの洗濯物。
冷蔵庫の麦茶が一日でなくなる。
夏休みになるたび、早く学校始まってくれ、と何度思っただろう。
今はもう、七海の夏休みの予定を私はほとんど知らない。
美月も部活や友達で勝手に出ていく。
陽菜だけが、まだ「今日どこ行く?」と朝から聞いてくる。
ドアが開いた。
「お待たせしました」
さっきの奥さんだった。
大きな盆の上に、丼が四つ。
一気に部屋の空気が変わった。
「うわ、豚骨」
七海が笑う。
「匂いすご」
美月も鼻を動かす。
白いスープから湯気が上がっている。
青ねぎは細かく、きくらげは黒く細切り。焼豚は薄い煮豚ではなく、縁に焼き色のついたものが二枚。
そして真ん中に、紅生姜。
小皿ではなかった。
深めの器に、山のように入っている。
「多っ」
娘三人が同時に言った。
奥さんが笑った。
「多めって言われたので」
「ありがとうございます」
「足りなかったら言ってください」
「これ以上いくんですか?」
七海が聞く。
「いけますよ」
「お母さん、挑まれてるで」
「負けへんし」
「何の勝負なん」
奥さんは陽菜の前に半ラーメンを置く。
「こっちは紅生姜、別にしてるからね。辛かったら入れなくていいよ」
「はい」
「替え玉もできます。お母さんたちは、食べてから考えてください」
「そんな本格的なんですね」
私が言うと、奥さんが少しだけ胸を張った。
「出身、九州なんです。中華の店にいたんですけど、豚骨だけは別枠です」
「別枠?」
「故郷なんで」
それだけ言って、また笑った。
なるほど。
店で覚えた味ではないのだろう。
「いただきます」
四人で言った。
まずスープを飲む。
濃い。
でも、重すぎない。
舌にまとわりつく感じはあるのに、あとに変な臭みが残らない。豚骨の匂いはしっかりする。むしろ、それがないと物足りないくらいだ。
「うま」
七海が先に言った。
「うん」
美月も続く。
陽菜は慎重にふうふうしている。
私は麺を持ち上げた。
細い。
すすった瞬間、スープが絡む。
そのまま一口。
「……これ、あかんわ」
「何が?」
美月が聞く。
「替え玉する」
「早っ」
まだ一口目だった。
焼豚を食べる。
表面が香ばしい。中は柔らかいが、煮込んだだけの味ではない。
「これ、チャーシューも違うな」
七海も気づいた。
「中華っぽい」
「分かるん?」
「何となく」
十九歳になると、娘が急に大人っぽいことを言う。
私は紅生姜を取った。
最初から多めに載せる。
「うわ」
美月が引く。
「まだ味変する前やろ」
「最初からこれが完成やねん」
「知らんわ」
紅生姜の酸味と辛味が、豚骨の脂を切る。
スープの色も少し変わる。
これだ。
私はさらに追加した。
「入れすぎ」
七海が言う。
「うるさい」
「スープ赤なってるやん」
「ええねん」
陽菜が自分の紅生姜を一本だけ取って、舌の先につけた。
「からっ」
「無理せんでええ」
「お母さん、何でこんなんいっぱい食べるん?」
何でだろう。
好きだから、としか言いようがない。
「大人になったら分かる」
「絶対分からんやつ」
美月が言った。
三人とも笑った。
ラーメンを食べているあいだ、誰も歌わなかった。
画面では次の曲をおすすめしている。
七海が髪を耳にかける。
「暑い」
「言うたやろ」
美月が得意げだ。
「でもうまい」
「それも言うた」
「お母さん、何も言うてないやろ」
「心の中で」
「ずる」
私は替え玉を頼んだ。
七海も頼んだ。
美月は悩んでから半玉。
陽菜は「替え玉って何?」と聞いて、説明すると、
「私も」
と言った。
「自分の食べてから言い」
「食べるもん」
「残したらお母さん食べへんで」
「食べるし」
こういう会話を、いつまでできるのだろう。
急にそう思った。
替え玉が来るまでの間、七海がスマホを見た。
「ごめん、二時半には出なあかん」
「彼氏?」
美月がすぐ聞く。
「ちゃう」
「友達?」
「まあ」
「男?」
「うるさい」
「彼氏や」
「ちゃうって」
陽菜が嬉しそうに参加する。
「七海ちゃん彼氏おるん?」
「おらん!」
私は黙ってスープを飲んだ。
こういうのは、母親が入ると急に終わる。
聞きたい気持ちはある。
でも十九歳の娘に、全部話してもらおうとするのは違う。
分かっている。
分かっているけれど、少し寂しい。
替え玉が来た。
私は麺を丼に入れ、紅生姜を追加した。
「まだ入れるん?」
「まだいける」
「もう豚骨ラーメンじゃなくて紅生姜ラーメンやん」
「豚骨があるから紅生姜がうまいねん」
「名言みたいに言わんといて」
美月が笑う。
七海は時計を見ながら、それでも替え玉を全部食べた。
陽菜は途中で苦しくなって、残りを私へ寄こした。
「ほら」
「食べたもん」
「半分やん」
「半分以上」
「はいはい」
結局、私が食べた。
三人育ててきて、残り物を食べることだけは本当に上手くなった。
食べ終わるころには、四人とも少し汗をかいていた。
「冷房もう一個下げよ」
「さっき寒い言うてたやん」
「ラーメン前と後は別」
七海が温度を下げる。
美月が端末を取った。
「次、何歌う?」
「お母さん歌ってないやん」
陽菜が言う。
「歌うよ」
「何?」
「何でもええ」
「またそれ」
七海が検索画面をこちらへ向ける。
「これどう?」
表示されていたのは、『真夏の果実』だった。
「古っ」
美月が言う。
「知ってるくせに」
七海が返す。
「知ってるけど」
「お母さん世代やろ」
「世代ではない」
「え、ちゃうん?」
「もっと前や」
「じゃあ何で知ってるん」
「名曲やからや」
言い切った。
七海が予約を入れる。
「お母さん歌って」
「一人?」
「私も知ってるとこ入る」
マイクを渡された。
イントロが流れる。
夏の曲だ。
でも、明るいだけの夏ではない。
私は画面を見た。
歌い始める。
隣で陽菜がスープの残った丼をまだ覗いている。
美月はスマホを触りながら、ときどきこちらを見る。
七海は二本目のマイクを持って、知っているところだけ入ってくる。
その声を聞いていたら、昔の夏が、勝手に戻ってきた。
七海が三歳の夏。
海へ連れて行った。
怖がって足を水につけず、砂浜で泣いていた。
美月が五歳の夏。
祭りで一瞬いなくなった。
見つけたとき、本人より私のほうが泣いた。
陽菜が四歳の夏。
ベランダに小さなビニールプールを出した。
水を全部外へかき出して、夫に怒られた。
その夫も若かった。
私も若かった。
毎日、余裕がなかった。
朝から「早くして」と言って、昼には「静かにして」と言って、夜には「早く寝て」と言った。
夏休みなんて、早く終われと思っていた。
毎年思っていた。
それなのに、終わった夏ほどよく覚えている。
曲が続く。
七海の声が横から入る。
この子は、もう十九歳だ。
来年、再来年、その次。
いつ家を出てもおかしくない。
美月だって、あと三年で十九になる。
陽菜も、今は私の腕にぶら下がるけれど、そのうち触るなと言うだろう。
歌いながら、急に腹が立ってきた。
勝手に大きくなっている。
私が毎日ご飯を作って、洗濯して、怒って、病院連れて行って、学校の書類を書いて、その隙に三人とも勝手に大きくなった。
曲が終わった。
七海がマイクを置いた。
「お母さん、途中からめっちゃ感情入ってたな」
「うるさい」
「泣くかと思った」
「泣いてへん」
美月がこちらを見る。
「何なん?」
私は三人を順番に見た。
七海。
美月。
陽菜。
「あんたらさ」
「何」
「勝手に大きなりすぎやねん」
三人とも止まった。
最初に笑ったのは七海だった。
「知らんし」
美月も笑う。
「育てたんそっちやん」
陽菜だけが真顔で言った。
「私、まだ九歳やで?」
一秒置いて、全員で笑った。
「せやな」
私は陽菜の頭を撫でる。
「まだ一人おったわ」
「まだって何」
「まだ子ども」
「陽菜だけずる」
美月が言う。
「じゃあ美月も撫でたろか」
「絶対いらん」
「ほら、もう大きい」
「そういう意味ちゃう」
七海が時計を見る。
「あと一曲だけ」
「もう行くん?」
「予定あるし」
「分かってる」
「また四人で来たらええやん」
あまりにも普通に言う。
私は少しだけ驚いた。
「また来るん?」
「ラーメンうまかったし」
「そこ?」
「あと紅生姜」
「七海、ほとんど食べてへんやん」
「お母さんが食べてるの見てたら、ちょっと好きになった」
「嘘つけ」
「ほんま」
美月が手を挙げる。
「次、私チャーハン食べたい」
陽菜も、
「私、ケーキ」
と言う。
「店バラバラやな」
「ここ全部あるやろ」
確かにある。
七海が最後の曲を入れた。
知らない曲だった。
三人は知っている。
私は聴く側に回った。
同じ家で暮らしていても、三人には三人の歌がある。
それでいい。
私の知らないものが増えていく。
私の知らない友達も増える。
私の知らない好きな人も、そのうちできる。
そうやって、少しずつ遠くなる。
でも今は、まだ同じ部屋にいる。
さっきまで豚骨ラーメンをすすっていた四人で、同じ画面を見ている。
今は、それで十分だった。
会計へ向かうと、受付にはさっきの奥さんがいた。
「ラーメン、どうでした?」
「めっちゃおいしかったです」
七海が先に答えた。
「ほんまに」
美月も続く。
陽菜は、
「紅生姜は辛かった」
と言った。
「それはごめんね」
「でもラーメンはおいしかった」
「よかった」
私が財布を出す。
「紅生姜、最高でした」
奥さんが笑った。
「でしょ」
「途中から入れすぎって言われました」
「誰に?」
「娘らに」
奥さんが三人を見る。
「娘さん三人?」
「はい」
「ええなあ。女四人」
「毎日一緒やと、そんなええもんでもないですよ」
何となく、そう返した。
奥さんは会計をしながら、
「そうでしょうね」
と笑った。
その返事が妙に気に入った。
羨ましいだけでもなく、大変ですねでもない。
そうでしょうね。
それくらいでいい。
店を出ると、熱気が一気に身体へまとわりついた。
「暑っ!」
陽菜が叫ぶ。
「さっきより暑い」
美月も顔をしかめる。
「ラーメン食べたからや」
七海が笑う。
「お母さん、紅生姜食べすぎて顔赤いで」
「暑いだけや」
「ほんま?」
「ほんま」
駐車場までの短い道を、四人で歩く。
陽菜が私の手を握った。
暑い。
手のひらが汗ばんでいる。
いつもなら、
「暑いから離して」
と言うところだった。
今日は言わなかった。
前を歩く七海と美月の背中を見る。
この二人も昔は、両側から私の手を握っていた。
今はもう、呼んでも振り返らないことすらある。
それでいい。
それでいいのだと思う。
駐車場に着くころ、七海が振り返った。
「お母さん」
「何?」
「次いつ休み?」
「知らん。シフト見な分からん」
「四人合う日あったら、また来よ」
「予定あるんちゃうん」
「毎日あるわけちゃうし」
美月も言う。
「今度はお父さん抜きでな」
「何でやねん」
「女だけのほうが楽やん」
「それ、お父さん泣くで」
陽菜が私の手を揺らす。
「次もラーメンある?」
「あるんちゃう?」
「紅生姜なしで」
「それは自分で決め」
三人が好き勝手言いながら車へ向かう。
私は少し遅れて、その後ろを歩いた。
夏は、長いと思っているうちに終わる。
子育ても、たぶん同じなのだろう。
真っ最中にいるときは、いつまで続くのかと思う。
終わりが見えてきてから、もう少しだけ続けばいいのにと思う。
勝手なものだ。
「お母さん、早く!」
陽菜が呼ぶ。
「はいはい」
私は小走りになった。
まだ、間に合う。
まだ四人で、同じ夏を歩ける。
愛を、そのままに。




