あん肝と「真夏の夜の夢」
四十八歳になってから、鏡を見る時間が短くなった。
嫌いになったわけではない。
化粧はするし、髪も染める。パート先に行く前には眉を描くし、スーパーへ行くだけの日でも日焼け止めくらいは塗る。
ただ、じっと見る必要がなくなった。
今日もそうだった。
ホテルの化粧室で口紅を塗り直し、鏡の中の自分と目が合ったのは、ほんの数秒。
「まあ、こんなもんか」
誰に言うでもなく呟いて、鞄を持った。
昔勤めていた会社の同窓会のような飲み会だった。
正確には、創業何周年とかいう会社の集まりに、退職者も何人か呼ばれたらしい。私は結婚を機に辞めて二十二年になる。
今でも付き合いのある人は二人だけ。
だから本当は、行くつもりもなかった。
それでも案内状を捨てずに置いていたら、夫が言った。
「行ってきたらええやん」
簡単なものだ。
夫婦とは、こういうところがある。
若いころなら、「誰が来るん?」とか「男もおるん?」とか、余計なことを聞かれたかもしれない。
今は、
「晩飯どうする?」
が先に来る。
冷凍庫にカレーあるで、と答えた。
娘は大学の友達と出かけると言っていた。
だから今日は、久しぶりに誰の晩飯も作らず、誰の帰宅時間も気にせず、昔の職場の人間と酒を飲んだ。
そして、そこで坂井に会った。
「……うそやろ」
向こうが先に言った。
「何が」
「全然変わってへんやん」
「それ、一番信用したらあかんやつやで」
「いや、ほんまに」
「坂井は変わったな」
「どこが」
「頭」
「おい」
前髪の生え際を指さすと、坂井は笑った。
五十歳。
昔より少し太って、眼鏡をかけていた。
でも笑うと、口の端が片方だけ上がるところは同じだった。
二十代のころ、同じ営業部にいた。
私は事務で、坂井は営業。
電話を取って、書類を作って、失敗したら怒鳴られて、帰りにみんなで飲みに行った。
坂井とはよく話した。
よく喧嘩もした。
付き合ってはいない。
キスもしていない。
手もつないでいない。
ただ、たぶん、少し好きだった。
向こうもそうだったのかもしれない。
そのくらいだ。
同じ会社にいる間、何も起きなかった。
私が今の夫と付き合い始め、それから結婚して会社を辞めた。
坂井はその二年後に結婚したと、人づてに聞いた。
それだけ。
「奥さん元気?」
聞くと、坂井がビールを持ったままうなずいた。
「元気。そっちは?」
「夫?」
「他に誰がおんねん」
「元気やで。腹だけ出てきた」
「お互い様やな」
「私は出てへん」
「そういうこと言う女、だいたい出てる」
「殺すで」
昔みたいだった。
昔と違うのは、お互いに左手の薬指へ輪があることだけ。
一次会が終わったのは九時半だった。
二次会へ行く人たちが集まり始める。
私は帰ろうと思った。
明日は休みだが、それと夜更かししたいかどうかは別だ。
ホテルの入口でスマホを確認すると、夫からメッセージが来ていた。
〈カレー食った。先寝る〉
娘からは何もない。
「帰るん?」
振り返ると、坂井がいた。
「うん。そっちは?」
「俺も抜けた」
「付き合い悪なったな」
「五十やぞ。若いやつらについて行けるか」
「さっき三杯飲んでたやん」
「まだいける」
「ほな行けば」
「いや」
坂井が少しだけ間を置いた。
「もう一軒、二人で行かへん?」
その言い方が、妙に昔っぽかった。
胸が鳴った、とは言いたくない。
四十八歳にもなって。
でも、ほんの少しだけ呼吸が変わった。
「何。今さら口説いてんの?」
「二十二年遅いな」
「遅すぎるやろ」
「ほな、ただの飲み直し」
「そのほうがええわ」
言いながら、私はついて行った。
パレットは坂井が知っていた。
「カラオケ?」
看板を見て聞く。
「ここの飯、うまいねん」
「カラオケ来て飯?」
「お前、昔から酒飲んだら何か食うてたやろ」
「覚えてるん」
「焼きおにぎり二個食ったあとにラーメン食ってた」
「いつの話よ」
「二十五年くらい前」
「忘れろや」
受付を済ませ、二人で部屋に入った。
昔なら、二人きりの個室に入るだけで、もっと意味があったのかもしれない。
今はもう、何の意味もない。
そう思うことにした。
坂井がメニューを開く。
「何食う?」
「まだ食べるん?」
「一次会の飯、少なかったやろ」
「男はすぐそれ言う」
「お前も絶対腹減ってるって」
否定しようとして、やめた。
減っている。
「軽いやつな」
メニューをめくる。
刺身。
焼き魚。
だし巻き。
その中に、小さく「あん肝ポン酢」とある。
「これ」
指さす。
「あん肝?」
「好き」
「昔そんな渋かった?」
「四十八やで」
「年齢であん肝好きになるん?」
「知らん」
坂井が内線を取った。
「あん肝一つ。あと生二つ」
「私はハイボール」
「あ、生一つ、ハイボール一つで」
電話を切ってから、私を見る。
「昔ビールやったやん」
「変わるねん、人は」
「さっき全然変わってない言うたの誰や」
「顔の話」
「それも嘘やろ」
二人で笑った。
酒が来る。
乾杯の理由を探す。
「再会に?」
坂井が言った。
「大げさ」
「ほな、二十二年ぶりに」
「もっと大げさ」
「じゃあ、健康に」
「急に老けたな」
結局、何も言わずグラスを合わせた。
ハイボールを一口飲む。
氷が鳴った。
「で、幸せ?」
坂井が聞いた。
「雑やな」
「二十二年分、聞くこと多いから」
「普通」
「普通か」
「そっちは?」
「普通」
「一緒やん」
また笑う。
夫婦仲は悪くない。
夫を嫌いではない。
たぶん夫も私を嫌っていない。
休日には二人で買い物に行くし、娘のことで相談もする。
結婚記念日は、ときどき忘れる。
誕生日にはケーキを買う。
寝室は別になった。
いつからかは覚えていない。
そういう二十二年だ。
坂井も似たようなものらしい。
「嫁とは喧嘩せえへんの?」
「するよ」
「何で」
「だいたい俺が余計なこと言う」
「昔からやん」
「お前にもよう怒られたな」
「怒らせてたんやろ」
ドアが開いた。
「失礼します」
男の人が小さな皿を運んできた。
薄く切られたあん肝が、丸く並んでいる。
上には青ねぎ。
横にもみじおろし。
下には薄くポン酢。
飾り気はない。
色も地味だ。
なのに、見た瞬間に酒が欲しくなる。
「うわ」
坂井が覗き込む。
「うまそう」
「やろ」
「お前が作ったんちゃうやろ」
店員が笑う。
「日本酒もありますよ」
「悪い誘い方するなあ」
「この人、飲むからやめといてください」
「誰がや」
「では、ごゆっくり」
店員が出ていく。
私は箸で一切れ取った。
柔らかい。
形が崩れない程度に締まっているのに、舌へ置くとほどける。
濃い。
脂のようで、脂だけではない。
ポン酢の酸味がなければ、たぶん一口で十分だ。
でも酸味があるから、もう一ついける。
「うま」
坂井も食べた。
「ほんまや」
「日本酒欲しなるな」
「店員さん呼ぶ?」
「やめとく」
「大人なったやん」
「四十八やからな」
「さっきそれ聞いた」
あん肝を少しずつ食べた。
昔話も少しずつ出た。
営業部長が怖かった話。
冬のボーナスが出た日に、みんなで焼肉へ行った話。
坂井が客先で大失敗して、私が書類を作り直した話。
「お前、あのとき泣いてたよな」
「泣いてへん」
「給湯室で泣いてた」
「何で知ってんの」
「見たから」
「声かけろや」
「声かけたら怒ると思って」
「正解」
二十五年前の正解に、今さら丸をつける。
あん肝が残り三切れになったころ、坂井が言った。
「俺な」
「ん?」
「あのころ、お前のこと結構好きやったで」
箸が止まった。
「……知ってた」
「嘘つけ」
「なんとなく」
「俺は全然伝わってへんと思ってた」
「伝わってたよ」
「じゃあ何で何もなかったん」
「そっちが何もせえへんかったからやろ」
「お前もや」
「女から行けって?」
「今なら行くやろ」
「今の女と昔の女一緒にすんな」
坂井が笑った。
私も笑った。
でも、そのあと少し黙った。
「お前は?」
「何が」
「俺のこと」
「今それ聞く?」
「二十二年経ったし、時効やろ」
グラスの中の氷を回した。
音がする。
「ちょっと好きやったよ」
言った。
思ったより、あっさり出た。
「ちょっとか」
「そこ引っかかる?」
「こっちは結構やぞ」
「知らんがな」
「損した気するわ」
「何の損よ」
「もうちょい頑張ればよかった」
「頑張ってどうするん」
「分からん」
「ほら」
二人で笑った。
笑ったあと、坂井が皿の最後の一切れを私のほうへ寄せた。
「食べ」
「ええの?」
「昔、焼きおにぎり二個食ってた女やし」
「まだ言う?」
取った。
あん肝を口へ入れる。
濃い。
さっきより濃く感じた。
「もしさ」
坂井が言う。
「ん?」
「あのとき付き合ってたら、どうなってたんやろな」
飲み込んでから答える。
「別れてたんちゃう?」
「即答やな」
「坂井、モテてたし」
「お前もやろ」
「私は真面目やった」
「俺も真面目や」
「嘘つけ」
「ほんまやって」
「じゃあ結婚してた?」
言ってから、自分で笑った。
「ないわ」
「何でや」
「坂井と結婚してる自分、全然想像できへん」
「ひど」
「そっちは?」
坂井は少し考えた。
「俺も無理やな」
「ほら!」
声が大きくなった。
笑いが止まらなくなった。
何なのだ。
二十二年ぶりに二人で飲んで、昔好きだったと告白し合って、結論が「結婚は無理」。
笑うしかない。
「でも」
坂井が笑いを収めた。
「一回くらい、付き合ってみたかったな」
その言葉だけは、笑えなかった。
「……せやな」
答えた。
部屋の空気が少し変わった。
何も起きていない。
坂井は向かいに座っている。
触れてもいない。
それなのに、さっきまでより距離が近い。
四十八歳にもなって、こういう空気がまだ分かることに驚いた。
男と女は、年齢と一緒に消えるものではないらしい。
ただ、扱い方を覚えるだけだ。
私は端末を取った。
「歌お」
「急やな」
「カラオケ来たんやから」
「何歌うん」
検索する。
ふと、曲名が浮かんだ。
松任谷由実。
『真夏の夜の夢』
予約を入れる。
坂井が画面を見て笑った。
「それ歌うん?」
「何」
「いや、今日これ?」
「怖い?」
「ちょっと」
「何が」
「お前が」
「失礼やな」
イントロが流れる。
マイクを持つ。
何度も聴いた曲だ。
若いころにも歌った。
でも、そのころとは違って聞こえる。
二十代の私には、もっと派手な恋の歌だった。
四十八歳の私には、少し違う。
夢と現実の境目を知っている人間が、それでも一晩くらい夢を見てしまう歌。
そんなふうに聞こえた。
歌いながら、坂井を見た。
目が合う。
向こうが先に逸らした。
少し嬉しかった。
馬鹿みたいだ。
歌い終わる。
坂井が拍手した。
「うまなったな」
「昔からうまい」
「それはない」
「帰る?」
「急に?」
「もう十一時過ぎたし」
「そやな」
坂井も端末を置いた。
延長はしなかった。
会計を済ませ、店を出る。
夜の空気は思ったよりぬるかった。
真夏ではない。
それでも、酒を飲んだ身体には少し暑い。
「駅まで歩く?」
「うん」
二人で並んだ。
歩道には人が少ない。
コンビニの灯りが明るい。
坂井がポケットに手を入れたまま歩く。
「なあ」
「ん?」
「このあと」
言葉が止まる。
何を言うのか分かった。
たぶん向こうも、私が分かったことに気づいた。
私は前を見たまま言う。
「今度は昼な」
坂井が少し遅れて笑った。
「やっぱり?」
「何が」
「いや」
「夢は夢で置いといたほうが、長持ちするで」
「二十二年もったしな」
「十分やろ」
「十分やな」
それで終わった。
手もつながない。
抱きしめない。
キスもしない。
駅前の交差点で、坂井は右、私は左。
「じゃあな」
「うん」
「また」
「昼な」
「分かったって」
坂井が手を上げた。
私も上げた。
何歩か歩いてから振り返った。
坂井も振り返っていた。
「何」
声は届かない距離だった。
それでも、口の動きで分かった。
向こうも何、と言っている。
二人で笑った。
今度こそ背を向ける。
スマホを見る。
夫からメッセージは増えていない。
たぶんもう寝ている。
娘からは、
〈明日昼いる?〉
と来ていた。
〈いるよ〉
と返す。
現実は、ちゃんと私を待っている。
嫌ではない。
むしろ帰りたい。
でも今夜だけは、二十二年前に何も起こらなかったことと、今夜も何も起こさなかったことを、少しだけ惜しんでもいい気がした。
あん肝の濃さが、まだ舌の奥に残っている。
夜の熱も、少しだけ。
私は一人で駅へ向かった。
――カリビアンナイト。




