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13/30

ハンバーグと「KissHug」

 悠人から連絡が来たのは、別れて四日目だった。


〈最後に一回、普通に飯食わへん?〉


 普通に。


 その四文字を、私はしばらく眺めていた。


 付き合っていた一年間、私たちは何度もご飯を食べた。仕事終わりにラーメンを食べたこともある。コンビニでおにぎりを買って公園で食べたこともある。私の部屋で、焦げた餃子を二人で笑いながら食べたこともある。


 どれも普通だった。


 でも、別れた男女が「普通にご飯を食べる」というのは、どうやら普通ではないらしい。


〈何食べるん〉


 十分くらいしてから返した。


 すぐに既読がつく。


〈ハンバーグ〉


 笑った。


 十九歳。


 本当に十九歳だと思う。


〈子どもか〉


〈19やからな〉


〈そういう時だけ年齢使うな〉


〈パレット13時〉


 勝手に決められた。


 私はスマホを伏せた。


 行かない理由はいくらでもあった。


 もう別れた。


 会えば、たぶんつらい。


 言わなくていいことを言うかもしれない。


 言ってほしくないことを聞きたくなるかもしれない。


 それでも十二時半には、化粧を直していた。


 こういうところが、自分でも嫌になる。


 二十八歳にもなって、別れた男に会うために、口紅を二回塗り直した。


     *


 外は、笑えるくらい暑かった。


 駅からパレットまで十分もかからない。それなのに店へ着くころには、背中に汗が張りついていた。


 自動ドアではない。


 手でガラス戸を開ける。


 冷気が顔に当たった。


「あー……生き返る」


「死にそうな顔してるな」


 受付の向こうから声がした。


 店主の洋介さんだった。


 四十代の半ばくらいだろうか。


 前に悠人と来たとき、ハンバーグがおいしくて厨房まで褒めに行ったことがある。それ以来、顔を覚えられていた。


「外、暑すぎます」


「夏やからな」


「もうちょい気の利いたこと言えません?」


「冷房効かしてるやろ。十分気ぃ利いてる」


 そういう人だ。


 受付の奥から、肉の焼ける匂いがする。


「一人?」


「あと一人来ます」


「彼氏?」


 少しだけ詰まった。


「……元彼」


 洋介さんの眉が上がる。


「ややこしい日に来たな」


「そっちが聞いたんでしょ」


「確かに」


 それ以上は聞かなかった。


 助かった。


 入口のドアが開いた。


「すみません、遅れました」


 振り返る。


 悠人だった。


 白いTシャツに黒いパンツ。肩から小さな鞄を掛けている。


 付き合っていたころと、何も変わっていない。


「三分遅刻」


「電車一本逃した」


「走れよ」


「暑いやろ」


「私は時間通り来たけど?」


「真琴は大人やから」


「それ嫌味?」


「褒めてる」


「十九歳って便利やな」


 洋介さんが受付の向こうで笑った。


「元気そうやん、二人とも」


 悠人がこちらを見る。


「言ったん?」


「聞かれた」


「何を?」


「元彼って」


「うわ」


「何で私が悪いみたいになんの」


「いや、別に」


 洋介さんが部屋の鍵を差し出した。


「二時間でええ?」


「はい」


 悠人が答える。


「飯、食うんやろ」


「ハンバーグ」


「やっぱりか」


「何で分かったんです?」


「前来たとき、お前二個食うか迷ってたやろ」


「覚えてるんですか」


「料理人は食いっぷりええ客、覚えるねん」


「真琴もめっちゃ食いますよ」


「言うな」


「知ってる」


 洋介さんが笑った。


「今日は喧嘩すんなよ」


「もう別れてるんで、喧嘩する権利ないです」


 私が言うと、悠人が一瞬だけ黙った。


 洋介さんも、それ以上は何も言わなかった。


     *


 部屋へ入る。


 何度も来た部屋ではなかった。


 それだけで少し安心した。


 いつもの部屋だったら、座る場所まで決まっていた。


 悠人がソファの奥。


 私が入口側。


 今日は何となく向かいに座った。


 それが、思っていたより別れた感じがした。


「何飲む?」


「アイスティー」


「酒ちゃうん?」


「昼やで」


「前、昼から飲んでたやん」


「あれ休み前」


「今日休みやろ?」


「このあと予定あるかもしれんやん」


 悠人が少しだけ顔を上げる。


「あるん?」


「ないけど」


「何やねん」


 メニューを開く。


 悠人は迷わずハンバーグのページを開いた。


「これ」


「知ってた」


「真琴は?」


「同じのでいい」


「目玉焼きのやつ?」


「うん」


「黄身取るなよ」


「まだ言ってんの?」


「前、半分持ってったやん」


「一口やろ」


「一番いいとこ」


「小さい男」


「十九なんで」


「またそれ」


 内線を取る。


 注文をすると、洋介さん本人が出た。


「ハンバーグ二つ。目玉焼き載せるやつ」


『はいよ。ソース、いつものデミでええ?』


「お願いします」


 私が横から言う。


「ポテト多めできます?」


 悠人が笑う。


『できるで』


「ほんまです?」


『その代わりナポリタンちょい減る』


「真琴、どうする?」


「何で私に聞くん」


「ナポリタン好きやろ」


「じゃあ普通で」


『仲ええな、お前ら』


「だから別れてますって」


『はいはい。焼いとくわ』


 電話が切れた。


 悠人が笑う。


「絶対信じてへんな」


「別れた四日後に二人でハンバーグ食べに来てるからやろ」


「普通に飯食うだけやん」


「普通って何やろな」


 私が言うと、悠人も黙った。


 端末だけが、最新曲を勝手に紹介している。


「東京の話」


 私から言った。


「うん」


「考えた?」


「考えた」


「で?」


「受ける」


 あっさりしていた。


「編入試験」


「うん」


「ほんまに?」


「ほんまに」


 胸の奥が、少しだけ痛くなった。


 自分で望んだ答えなのに。


「そっか」


「真琴がおらんでも行く」


「何その言い方」


「だって、それ気にしてたんやろ」


「気にしてたよ」


「俺が真琴のために大阪残るとか言ったら嫌やったんやろ」


「嫌」


「即答やな」


「そらそうやろ」


 悠人がテーブルの上のコースターを指で回す。


「でも、俺が決めることやったと思う」


「うん」


「まだちょっとムカついてる」


「それも分かってる」


「勝手に別れ決めたし」


「決めたね」


「俺、遠距離でもいいって言ったやん」


「言った」


「なのに、真琴が無理って」


 私は手元を見る。


「私が無理やったんよ」


「何が」


「待つのも。待たせるのも」


 悠人は何も言わない。


「私、二十八やで」


「知ってる」


「周りは結婚し始めてる。子どもおる子もいる。会社でも、次どうするんって普通に聞かれる」


「俺は結婚せえへんって言った?」


「言ってへん」


「じゃあ」


「言ってへんから怖いねん」


 悠人が眉を寄せる。


 私は続けた。


「あんた、まだ十九やろ。大学行って、東京行くかもしれへん。就職先もまだ決まってへん。これから会う人も、住む場所も、何も決まってへん」


「それは真琴もやろ」


「私のほうが、ちょっとだけ決まってること多いねん」


「九年分?」


「たぶん」


 九歳差。


 付き合っているときは、冗談だった。


 私が三十になったら、悠人は二十一。


 私が四十になったら、悠人は三十一。


 そんな計算をして笑った。


 でも未来を決めようとすると、九年という数字は突然重くなる。


 ドアが開いた。


「お待たせ」


 洋介さんが大きな皿を二枚運んできた。


 鉄板ではなく、白い皿。


 厚く丸いハンバーグの上に半熟の目玉焼き。濃い色のデミグラスソースが皿の底に広がっている。


 横には太めのポテト。


 ケチャップ色のナポリタン。


 いんげんと人参。


 見た目は洋食屋のハンバーグなのに、匂いだけは少し大人っぽい。


「熱いから気ぃつけて」


「ありがとうございます」


「今日はちょい粗挽き強め」


 洋介さんが言う。


「何で?」


「俺の気分」


「料理人ってそんなんありなんですか」


「店主やからな」


 悠人がナイフを持つ。


 洋介さんが私たちを見た。


「飯食うときくらい、難しい話やめとけよ」


「聞いてたんですか?」


「聞こえてへん。ただ顔が難しい」


「どっちが?」


「二人とも」


 そう言って、部屋を出た。


 余計なことを言う。


 でも、たぶん助けられた。


「食べよか」


「うん」


 ナイフを入れる。


 表面にはしっかり焼き色がついている。


 切ると、中から肉汁が出た。


「やば」


 悠人が言う。


「絶対うまいやつ」


 口へ運ぶ。


 粗く残った肉の食感。


 噛むと肉の味が先に来て、そのあとに少し苦みのあるデミグラス。


「うま」


 同時だった。


 二人で笑った。


 それだけで、少し昔に戻った。


「これやっぱ好きやわ」


 悠人が目玉焼きへナイフを入れる。


 黄身が流れる。


 私は無意識に皿を見た。


 悠人が止まる。


「いる?」


「……ええの?」


「一口だけな」


「別れたのに?」


「黄身に交際状況関係ないやろ」


 皿を寄せてくる。


 私はハンバーグを一切れ取って、黄身を絡めた。


「うま」


「そこ一番いいとこやぞ」


「さっきくれたやん」


「だから味わえ」


「味わってる」


 自分の皿からも一切れ切って、悠人の皿へ置いた。


「何?」


「お返し」


「同じやつやん」


「私のほうが焼き加減いいかもしれん」


「同時に焼いてるやろ」


「食べてから言い」


 悠人が食べる。


「同じや」


「ほんま?」


「でもうまい」


「やろ」


 何で私が得意げなんだろう。


 一年前、付き合い始めたころにも、こんなことをした。


 私が頼んだパスタを悠人が食べて、悠人の唐揚げを私が取った。


 付き合う前は、九歳下の男の子だった。


 アルバイト先で何度か話しただけ。


 成人したばかりで、大学受験の話ばかりしていた。


 まさか付き合うとは思わなかった。


「そういえばさ」


 私が言う。


「最初、私の歳知ったときどう思った?」


「二十八?」


「付き合う前。二十七」


「別に」


「嘘やろ」


「ほんま。綺麗なお姉さんやなって」


「うわ、気持ち悪」


「聞いたんそっちやん」


「もうちょっとマシな言い方ない?」


「じゃあ、めっちゃタイプやった」


「もっと気持ち悪い」


「どうしたらええねん」


 二人で笑った。


 私はポテトを食べる。


 塩が少し強い。


 今はそれがうまい。


「俺さ」


 悠人が言った。


「真琴と付き合って、ちょっと大人になったと思ってた」


「ちょっとはな」


「でも別れ話されたとき、めっちゃ子ども扱いされてる気した」


 箸――ではなくフォークが止まる。


「そんなつもりなかった」


「分かってる」


「ごめん」


「でも、真琴が怖かったのも今はちょっと分かる」


「何が」


「俺が後で真琴のせいにするかもしれんってことやろ」


 私は答えなかった。


「東京行けへんかった。あのとき行けばよかった。真琴がおったから、って」


「……うん」


「言わんよ」


「今はな」


「それずるいわ」


「ずるいよ」


「未来の俺が何言うかで、今の俺振られてんねんで」


「だから、ごめんって」


「でも」


 悠人は残っていたハンバーグを切った。


「東京は受ける」


「うん」


「受かったら行く」


「うん」


「落ちても、真琴のせいにはせえへん」


「当たり前や」


「そこは優しく言えよ」


「自分の人生やろ」


「そういうとこやぞ」


 笑った。


 少しだけ泣きそうだった。


 でもハンバーグの前で泣くのは、何となく嫌だった。


     *


 食べ終わると、急にすることがなくなった。


 皿だけがきれいに空いている。


「歌う?」


 悠人が言った。


「せっかく来たしな」


「何歌うん」


「何でも」


「別れた女が言う『何でも』怖いねんけど」


「何でやねん」


 端末を取る。


 検索画面を開く。


 曲名を打つ。


 aiko。


『KissHug』


 予約ボタンを押した。


 悠人が画面を見て、眉を上げる。


「今日それ歌う?」


「今日やからやろ」


「絶対泣かす気やん」


「誰が」


「俺」


「自意識過剰」


 イントロが流れる。


 マイクを持つ。


 最初の音を聞いた瞬間、さっきまで笑えていたのに、胸の奥が重くなった。


 歌う。


 一年前を思い出す。


 初めて二人で出かけた夏。


 悠人が店の前で待っていた。


 十分前に着いたくせに、私を見るなり、


「今来たとこ」


 と言った。


 私はそれを信じた。


 あとから、三十分前には着いていたと聞いた。


 十九になる誕生日。


 小さいケーキを買った。


 ろうそくを十九本立てようとして、店員さんに止められた。


 私の誕生日には、悠人が無理して少し高い店を予約した。


 財布を気にしているのが丸分かりだった。


 帰りに、


「今日割り勘でもよかったのに」


 と言ったら、本気で怒られた。


 たった一年。


 でも、私の一年だった。


 悠人の一年でもある。


 十九年のうちの一年と、二十八年のうちの一年。


 数字で割れば、意味は違うのかもしれない。


 でも一緒にいた時間の長さは、同じだった。


 途中で悠人を見た。


 こちらを見ていた。


 目が合った。


 逸らさない。


 私のほうが先に画面へ戻った。


 歌い終わる。


 採点画面が出る前に停止した。


「点数見んの?」


「見ん」


「絶対低かったからや」


「うるさい」


 マイクを置く。


 悠人がしばらく何も言わなかった。


「何」


「俺、二十八になったらさ」


「うん」


「真琴が何で別れたか、ちゃんと分かるかな」


 心臓が一つ強く鳴った。


「分からんでええよ」


「何で」


「その頃には、その頃の好きな人おるかもしれへんし」


 悠人が露骨に嫌な顔をする。


「今それ言う?」


「今やから言う」


「俺は聞きたくない」


「私も言いたくないよ」


「じゃあ言うなや」


「でも、そうなったほうがええんちゃう」


「真琴にも?」


 今度は私が黙った。


「真琴も、その頃、誰か好きなん?」


「知らん」


「結婚してるかも?」


「知らんって」


「子どもおるかも?」


「……それも知らん」


「そっか」


 悠人がソファへ背中を預ける。


 天井を見る。


「九年って長いな」


「長いよ」


「付き合ってるとき、全然感じへんかったのに」


「私も」


 それが答えだった。


 一緒にいるだけなら、九年なんて何でもなかった。


 未来へ進もうとした瞬間、その九年が二人の間に現れた。


     *


 残り十分の電話が鳴った。


 悠人が取る。


「延長しません」


 迷わず言った。


 少しだけ寂しかった。


 自分でも面倒くさいと思う。


 会計へ行くと、洋介さんがいた。


「ハンバーグどうやった?」


「やっぱりうまかったです」


 悠人が答える。


「真琴ちゃんは?」


「おいしかったです」


「それだけ?」


「何を求めてるんですか」


「前はめっちゃ褒めてくれたから」


「今日ちょっと忙しいんです、感情が」


「知らんがな」


 洋介さんが笑う。


 会計を済ませ、レシートを渡される。


「また来いや」


 悠人が一瞬黙る。


「二人で?」


「別々でもええやろ」


「ああ」


「店は逃げへんから」


 洋介さんは、それだけ言った。


 少しだけ、ありがたかった。


 外へ出る。


 午後三時を過ぎているのに、まだ暑い。


 太陽が道路を焼いている。


「暑っ」


 悠人が言う。


「お前、毎回それ言うな」


「暑いもん」


「十九歳やろ。耐えろ」


「十九関係ある?」


「若さで何とかしろ」


「二十八歳ってそんな年寄り?」


「お姉さんやからな」


「付き合ってるとき、言ったら怒ったやん」


「今日はええねん」


 駅まで歩く。


 並んで。


 肩が触れそうで触れない距離。


 手をつなごうと思えば、つなげる。


 一年間、何度もつないだ。


 でも今日は、どちらも手を出さなかった。


 交差点が見えてくる。


 そこで道が分かれる。


 私は右。


 悠人は左。


 付き合っていたころなら、悠人が私の駅まで送ってきた。


「ここでええよ」


 私が言う。


「まだ時間あるで」


「ええって」


「送るけど」


「今日はここ」


 悠人も分かったらしい。


「そっか」


 信号は赤だった。


 二人で立つ。


 車が流れていく。


「最後さ」


 悠人が言った。


「ん?」


「ハグしていい?」


 私は少しだけ笑った。


「ハグだけな」


「キスは?」


「十九歳、調子乗んな」


「そういうときだけ十九扱いすんなって」


「さっき自分で使ってたやん」


「ずるい」


「知らん」


 青になる前に、悠人が一歩近づいた。


 私も近づく。


 抱きしめる。


 最初は軽くするつもりだった。


 背中へ腕を回した瞬間、無理だった。


 強く抱いた。


 悠人も何も言わなかった。


 一年前より、少し身体が大きくなった気がする。


 たぶん気のせいだ。


 でも、私が初めて会った十八歳の男の子ではない。


 これからもっと変わる。


 私の知らないところで。


 それでいい。


 それがいい。


 そう思おうとした。


「真琴」


「ん?」


「苦しい」


「我慢して」


「いつまで?」


「あとちょっと」


「長いな」


「うるさい」


 離れた。


 泣いてはいなかった。


 悠人も。


 それが少しだけ残念だった。


「受かったら」


 悠人が言う。


「連絡してええ?」


「それくらいはして」


「落ちたら?」


「それもしたらええやん」


「どっちでもええんかい」


「結果くらい聞きたい」


「分かった」


 信号が青になった。


「じゃあ」


「うん」


「元気でな」


「お前も」


「年上なんやから、もうちょい何かないん?」


「試験勉強せえ」


「最後それ?」


「大事やろ」


 悠人が笑った。


「真琴らしいわ」


「何それ」


「じゃあな」


 歩き出す。


 私は反対側へ渡らなかった。


 その場に立った。


 悠人の背中を見る。


 信号を渡る。


 向こう側へ着く。


 そのまま歩く。


 一度くらい振り返ってほしい。


 そう思った。


 でも、振り返らないでほしいとも思った。


 振り返ったら、私はたぶん手を振る。


 手を振ったら、呼び止めたくなる。


 呼び止めたら、せっかく決めたことが全部どうでもよくなる気がした。


 十九歳の夏。


 悠人には、これから私の知らない夏がいくつも来る。


 東京で過ごす夏。


 新しい友達と過ごす夏。


 誰か別の人を好きになる夏。


 私にも、たぶんまだある。


 二十八歳の夏が最後ではない。


 それでも、この一年の夏だけは、たぶんずっと覚えている。


 白いTシャツの背中が小さくなる。


 人混みの向こうへ溶けていく。


 私は呼ばなかった。


 ただ、その姿を見ていた。


 ――暑い帰り道に見えなくなるまで。

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