ハンバーグと「KissHug」
悠人から連絡が来たのは、別れて四日目だった。
〈最後に一回、普通に飯食わへん?〉
普通に。
その四文字を、私はしばらく眺めていた。
付き合っていた一年間、私たちは何度もご飯を食べた。仕事終わりにラーメンを食べたこともある。コンビニでおにぎりを買って公園で食べたこともある。私の部屋で、焦げた餃子を二人で笑いながら食べたこともある。
どれも普通だった。
でも、別れた男女が「普通にご飯を食べる」というのは、どうやら普通ではないらしい。
〈何食べるん〉
十分くらいしてから返した。
すぐに既読がつく。
〈ハンバーグ〉
笑った。
十九歳。
本当に十九歳だと思う。
〈子どもか〉
〈19やからな〉
〈そういう時だけ年齢使うな〉
〈パレット13時〉
勝手に決められた。
私はスマホを伏せた。
行かない理由はいくらでもあった。
もう別れた。
会えば、たぶんつらい。
言わなくていいことを言うかもしれない。
言ってほしくないことを聞きたくなるかもしれない。
それでも十二時半には、化粧を直していた。
こういうところが、自分でも嫌になる。
二十八歳にもなって、別れた男に会うために、口紅を二回塗り直した。
*
外は、笑えるくらい暑かった。
駅からパレットまで十分もかからない。それなのに店へ着くころには、背中に汗が張りついていた。
自動ドアではない。
手でガラス戸を開ける。
冷気が顔に当たった。
「あー……生き返る」
「死にそうな顔してるな」
受付の向こうから声がした。
店主の洋介さんだった。
四十代の半ばくらいだろうか。
前に悠人と来たとき、ハンバーグがおいしくて厨房まで褒めに行ったことがある。それ以来、顔を覚えられていた。
「外、暑すぎます」
「夏やからな」
「もうちょい気の利いたこと言えません?」
「冷房効かしてるやろ。十分気ぃ利いてる」
そういう人だ。
受付の奥から、肉の焼ける匂いがする。
「一人?」
「あと一人来ます」
「彼氏?」
少しだけ詰まった。
「……元彼」
洋介さんの眉が上がる。
「ややこしい日に来たな」
「そっちが聞いたんでしょ」
「確かに」
それ以上は聞かなかった。
助かった。
入口のドアが開いた。
「すみません、遅れました」
振り返る。
悠人だった。
白いTシャツに黒いパンツ。肩から小さな鞄を掛けている。
付き合っていたころと、何も変わっていない。
「三分遅刻」
「電車一本逃した」
「走れよ」
「暑いやろ」
「私は時間通り来たけど?」
「真琴は大人やから」
「それ嫌味?」
「褒めてる」
「十九歳って便利やな」
洋介さんが受付の向こうで笑った。
「元気そうやん、二人とも」
悠人がこちらを見る。
「言ったん?」
「聞かれた」
「何を?」
「元彼って」
「うわ」
「何で私が悪いみたいになんの」
「いや、別に」
洋介さんが部屋の鍵を差し出した。
「二時間でええ?」
「はい」
悠人が答える。
「飯、食うんやろ」
「ハンバーグ」
「やっぱりか」
「何で分かったんです?」
「前来たとき、お前二個食うか迷ってたやろ」
「覚えてるんですか」
「料理人は食いっぷりええ客、覚えるねん」
「真琴もめっちゃ食いますよ」
「言うな」
「知ってる」
洋介さんが笑った。
「今日は喧嘩すんなよ」
「もう別れてるんで、喧嘩する権利ないです」
私が言うと、悠人が一瞬だけ黙った。
洋介さんも、それ以上は何も言わなかった。
*
部屋へ入る。
何度も来た部屋ではなかった。
それだけで少し安心した。
いつもの部屋だったら、座る場所まで決まっていた。
悠人がソファの奥。
私が入口側。
今日は何となく向かいに座った。
それが、思っていたより別れた感じがした。
「何飲む?」
「アイスティー」
「酒ちゃうん?」
「昼やで」
「前、昼から飲んでたやん」
「あれ休み前」
「今日休みやろ?」
「このあと予定あるかもしれんやん」
悠人が少しだけ顔を上げる。
「あるん?」
「ないけど」
「何やねん」
メニューを開く。
悠人は迷わずハンバーグのページを開いた。
「これ」
「知ってた」
「真琴は?」
「同じのでいい」
「目玉焼きのやつ?」
「うん」
「黄身取るなよ」
「まだ言ってんの?」
「前、半分持ってったやん」
「一口やろ」
「一番いいとこ」
「小さい男」
「十九なんで」
「またそれ」
内線を取る。
注文をすると、洋介さん本人が出た。
「ハンバーグ二つ。目玉焼き載せるやつ」
『はいよ。ソース、いつものデミでええ?』
「お願いします」
私が横から言う。
「ポテト多めできます?」
悠人が笑う。
『できるで』
「ほんまです?」
『その代わりナポリタンちょい減る』
「真琴、どうする?」
「何で私に聞くん」
「ナポリタン好きやろ」
「じゃあ普通で」
『仲ええな、お前ら』
「だから別れてますって」
『はいはい。焼いとくわ』
電話が切れた。
悠人が笑う。
「絶対信じてへんな」
「別れた四日後に二人でハンバーグ食べに来てるからやろ」
「普通に飯食うだけやん」
「普通って何やろな」
私が言うと、悠人も黙った。
端末だけが、最新曲を勝手に紹介している。
「東京の話」
私から言った。
「うん」
「考えた?」
「考えた」
「で?」
「受ける」
あっさりしていた。
「編入試験」
「うん」
「ほんまに?」
「ほんまに」
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
自分で望んだ答えなのに。
「そっか」
「真琴がおらんでも行く」
「何その言い方」
「だって、それ気にしてたんやろ」
「気にしてたよ」
「俺が真琴のために大阪残るとか言ったら嫌やったんやろ」
「嫌」
「即答やな」
「そらそうやろ」
悠人がテーブルの上のコースターを指で回す。
「でも、俺が決めることやったと思う」
「うん」
「まだちょっとムカついてる」
「それも分かってる」
「勝手に別れ決めたし」
「決めたね」
「俺、遠距離でもいいって言ったやん」
「言った」
「なのに、真琴が無理って」
私は手元を見る。
「私が無理やったんよ」
「何が」
「待つのも。待たせるのも」
悠人は何も言わない。
「私、二十八やで」
「知ってる」
「周りは結婚し始めてる。子どもおる子もいる。会社でも、次どうするんって普通に聞かれる」
「俺は結婚せえへんって言った?」
「言ってへん」
「じゃあ」
「言ってへんから怖いねん」
悠人が眉を寄せる。
私は続けた。
「あんた、まだ十九やろ。大学行って、東京行くかもしれへん。就職先もまだ決まってへん。これから会う人も、住む場所も、何も決まってへん」
「それは真琴もやろ」
「私のほうが、ちょっとだけ決まってること多いねん」
「九年分?」
「たぶん」
九歳差。
付き合っているときは、冗談だった。
私が三十になったら、悠人は二十一。
私が四十になったら、悠人は三十一。
そんな計算をして笑った。
でも未来を決めようとすると、九年という数字は突然重くなる。
ドアが開いた。
「お待たせ」
洋介さんが大きな皿を二枚運んできた。
鉄板ではなく、白い皿。
厚く丸いハンバーグの上に半熟の目玉焼き。濃い色のデミグラスソースが皿の底に広がっている。
横には太めのポテト。
ケチャップ色のナポリタン。
いんげんと人参。
見た目は洋食屋のハンバーグなのに、匂いだけは少し大人っぽい。
「熱いから気ぃつけて」
「ありがとうございます」
「今日はちょい粗挽き強め」
洋介さんが言う。
「何で?」
「俺の気分」
「料理人ってそんなんありなんですか」
「店主やからな」
悠人がナイフを持つ。
洋介さんが私たちを見た。
「飯食うときくらい、難しい話やめとけよ」
「聞いてたんですか?」
「聞こえてへん。ただ顔が難しい」
「どっちが?」
「二人とも」
そう言って、部屋を出た。
余計なことを言う。
でも、たぶん助けられた。
「食べよか」
「うん」
ナイフを入れる。
表面にはしっかり焼き色がついている。
切ると、中から肉汁が出た。
「やば」
悠人が言う。
「絶対うまいやつ」
口へ運ぶ。
粗く残った肉の食感。
噛むと肉の味が先に来て、そのあとに少し苦みのあるデミグラス。
「うま」
同時だった。
二人で笑った。
それだけで、少し昔に戻った。
「これやっぱ好きやわ」
悠人が目玉焼きへナイフを入れる。
黄身が流れる。
私は無意識に皿を見た。
悠人が止まる。
「いる?」
「……ええの?」
「一口だけな」
「別れたのに?」
「黄身に交際状況関係ないやろ」
皿を寄せてくる。
私はハンバーグを一切れ取って、黄身を絡めた。
「うま」
「そこ一番いいとこやぞ」
「さっきくれたやん」
「だから味わえ」
「味わってる」
自分の皿からも一切れ切って、悠人の皿へ置いた。
「何?」
「お返し」
「同じやつやん」
「私のほうが焼き加減いいかもしれん」
「同時に焼いてるやろ」
「食べてから言い」
悠人が食べる。
「同じや」
「ほんま?」
「でもうまい」
「やろ」
何で私が得意げなんだろう。
一年前、付き合い始めたころにも、こんなことをした。
私が頼んだパスタを悠人が食べて、悠人の唐揚げを私が取った。
付き合う前は、九歳下の男の子だった。
アルバイト先で何度か話しただけ。
成人したばかりで、大学受験の話ばかりしていた。
まさか付き合うとは思わなかった。
「そういえばさ」
私が言う。
「最初、私の歳知ったときどう思った?」
「二十八?」
「付き合う前。二十七」
「別に」
「嘘やろ」
「ほんま。綺麗なお姉さんやなって」
「うわ、気持ち悪」
「聞いたんそっちやん」
「もうちょっとマシな言い方ない?」
「じゃあ、めっちゃタイプやった」
「もっと気持ち悪い」
「どうしたらええねん」
二人で笑った。
私はポテトを食べる。
塩が少し強い。
今はそれがうまい。
「俺さ」
悠人が言った。
「真琴と付き合って、ちょっと大人になったと思ってた」
「ちょっとはな」
「でも別れ話されたとき、めっちゃ子ども扱いされてる気した」
箸――ではなくフォークが止まる。
「そんなつもりなかった」
「分かってる」
「ごめん」
「でも、真琴が怖かったのも今はちょっと分かる」
「何が」
「俺が後で真琴のせいにするかもしれんってことやろ」
私は答えなかった。
「東京行けへんかった。あのとき行けばよかった。真琴がおったから、って」
「……うん」
「言わんよ」
「今はな」
「それずるいわ」
「ずるいよ」
「未来の俺が何言うかで、今の俺振られてんねんで」
「だから、ごめんって」
「でも」
悠人は残っていたハンバーグを切った。
「東京は受ける」
「うん」
「受かったら行く」
「うん」
「落ちても、真琴のせいにはせえへん」
「当たり前や」
「そこは優しく言えよ」
「自分の人生やろ」
「そういうとこやぞ」
笑った。
少しだけ泣きそうだった。
でもハンバーグの前で泣くのは、何となく嫌だった。
*
食べ終わると、急にすることがなくなった。
皿だけがきれいに空いている。
「歌う?」
悠人が言った。
「せっかく来たしな」
「何歌うん」
「何でも」
「別れた女が言う『何でも』怖いねんけど」
「何でやねん」
端末を取る。
検索画面を開く。
曲名を打つ。
aiko。
『KissHug』
予約ボタンを押した。
悠人が画面を見て、眉を上げる。
「今日それ歌う?」
「今日やからやろ」
「絶対泣かす気やん」
「誰が」
「俺」
「自意識過剰」
イントロが流れる。
マイクを持つ。
最初の音を聞いた瞬間、さっきまで笑えていたのに、胸の奥が重くなった。
歌う。
一年前を思い出す。
初めて二人で出かけた夏。
悠人が店の前で待っていた。
十分前に着いたくせに、私を見るなり、
「今来たとこ」
と言った。
私はそれを信じた。
あとから、三十分前には着いていたと聞いた。
十九になる誕生日。
小さいケーキを買った。
ろうそくを十九本立てようとして、店員さんに止められた。
私の誕生日には、悠人が無理して少し高い店を予約した。
財布を気にしているのが丸分かりだった。
帰りに、
「今日割り勘でもよかったのに」
と言ったら、本気で怒られた。
たった一年。
でも、私の一年だった。
悠人の一年でもある。
十九年のうちの一年と、二十八年のうちの一年。
数字で割れば、意味は違うのかもしれない。
でも一緒にいた時間の長さは、同じだった。
途中で悠人を見た。
こちらを見ていた。
目が合った。
逸らさない。
私のほうが先に画面へ戻った。
歌い終わる。
採点画面が出る前に停止した。
「点数見んの?」
「見ん」
「絶対低かったからや」
「うるさい」
マイクを置く。
悠人がしばらく何も言わなかった。
「何」
「俺、二十八になったらさ」
「うん」
「真琴が何で別れたか、ちゃんと分かるかな」
心臓が一つ強く鳴った。
「分からんでええよ」
「何で」
「その頃には、その頃の好きな人おるかもしれへんし」
悠人が露骨に嫌な顔をする。
「今それ言う?」
「今やから言う」
「俺は聞きたくない」
「私も言いたくないよ」
「じゃあ言うなや」
「でも、そうなったほうがええんちゃう」
「真琴にも?」
今度は私が黙った。
「真琴も、その頃、誰か好きなん?」
「知らん」
「結婚してるかも?」
「知らんって」
「子どもおるかも?」
「……それも知らん」
「そっか」
悠人がソファへ背中を預ける。
天井を見る。
「九年って長いな」
「長いよ」
「付き合ってるとき、全然感じへんかったのに」
「私も」
それが答えだった。
一緒にいるだけなら、九年なんて何でもなかった。
未来へ進もうとした瞬間、その九年が二人の間に現れた。
*
残り十分の電話が鳴った。
悠人が取る。
「延長しません」
迷わず言った。
少しだけ寂しかった。
自分でも面倒くさいと思う。
会計へ行くと、洋介さんがいた。
「ハンバーグどうやった?」
「やっぱりうまかったです」
悠人が答える。
「真琴ちゃんは?」
「おいしかったです」
「それだけ?」
「何を求めてるんですか」
「前はめっちゃ褒めてくれたから」
「今日ちょっと忙しいんです、感情が」
「知らんがな」
洋介さんが笑う。
会計を済ませ、レシートを渡される。
「また来いや」
悠人が一瞬黙る。
「二人で?」
「別々でもええやろ」
「ああ」
「店は逃げへんから」
洋介さんは、それだけ言った。
少しだけ、ありがたかった。
外へ出る。
午後三時を過ぎているのに、まだ暑い。
太陽が道路を焼いている。
「暑っ」
悠人が言う。
「お前、毎回それ言うな」
「暑いもん」
「十九歳やろ。耐えろ」
「十九関係ある?」
「若さで何とかしろ」
「二十八歳ってそんな年寄り?」
「お姉さんやからな」
「付き合ってるとき、言ったら怒ったやん」
「今日はええねん」
駅まで歩く。
並んで。
肩が触れそうで触れない距離。
手をつなごうと思えば、つなげる。
一年間、何度もつないだ。
でも今日は、どちらも手を出さなかった。
交差点が見えてくる。
そこで道が分かれる。
私は右。
悠人は左。
付き合っていたころなら、悠人が私の駅まで送ってきた。
「ここでええよ」
私が言う。
「まだ時間あるで」
「ええって」
「送るけど」
「今日はここ」
悠人も分かったらしい。
「そっか」
信号は赤だった。
二人で立つ。
車が流れていく。
「最後さ」
悠人が言った。
「ん?」
「ハグしていい?」
私は少しだけ笑った。
「ハグだけな」
「キスは?」
「十九歳、調子乗んな」
「そういうときだけ十九扱いすんなって」
「さっき自分で使ってたやん」
「ずるい」
「知らん」
青になる前に、悠人が一歩近づいた。
私も近づく。
抱きしめる。
最初は軽くするつもりだった。
背中へ腕を回した瞬間、無理だった。
強く抱いた。
悠人も何も言わなかった。
一年前より、少し身体が大きくなった気がする。
たぶん気のせいだ。
でも、私が初めて会った十八歳の男の子ではない。
これからもっと変わる。
私の知らないところで。
それでいい。
それがいい。
そう思おうとした。
「真琴」
「ん?」
「苦しい」
「我慢して」
「いつまで?」
「あとちょっと」
「長いな」
「うるさい」
離れた。
泣いてはいなかった。
悠人も。
それが少しだけ残念だった。
「受かったら」
悠人が言う。
「連絡してええ?」
「それくらいはして」
「落ちたら?」
「それもしたらええやん」
「どっちでもええんかい」
「結果くらい聞きたい」
「分かった」
信号が青になった。
「じゃあ」
「うん」
「元気でな」
「お前も」
「年上なんやから、もうちょい何かないん?」
「試験勉強せえ」
「最後それ?」
「大事やろ」
悠人が笑った。
「真琴らしいわ」
「何それ」
「じゃあな」
歩き出す。
私は反対側へ渡らなかった。
その場に立った。
悠人の背中を見る。
信号を渡る。
向こう側へ着く。
そのまま歩く。
一度くらい振り返ってほしい。
そう思った。
でも、振り返らないでほしいとも思った。
振り返ったら、私はたぶん手を振る。
手を振ったら、呼び止めたくなる。
呼び止めたら、せっかく決めたことが全部どうでもよくなる気がした。
十九歳の夏。
悠人には、これから私の知らない夏がいくつも来る。
東京で過ごす夏。
新しい友達と過ごす夏。
誰か別の人を好きになる夏。
私にも、たぶんまだある。
二十八歳の夏が最後ではない。
それでも、この一年の夏だけは、たぶんずっと覚えている。
白いTシャツの背中が小さくなる。
人混みの向こうへ溶けていく。
私は呼ばなかった。
ただ、その姿を見ていた。
――暑い帰り道に見えなくなるまで。




