すき焼きと「死ぬのがいいわ」前半
「結衣ちゃん、お肉食べられる?」
カラオケ店パレットの最後のお客さんを見送り、受付へ戻ったところだった。
厨房の入口から声をかけてきたのは、店主の洋介さんの奥さん、美玲さん。
私はお腹に手を当てた。
「食べられますけど……今からですか?」
「今から。すき焼き」
「朝ご飯に?」
「夜通し働いたんやから、晩ご飯でもええよ」
時計は朝八時。
どちらと呼んでも、なかなか思い切ったご飯だった。
おにぎりを一つ食べて、帰って寝る。
昨日の夕方までは、それくらいを考えていたのに。
パレットでは、月末の日曜の朝に、賄いの打ち上げをする。
日曜は定休日。
土曜の営業を終えた人も、朝から来た人も集まって、一番広い部屋で食べる。
私は今回が初めてだ。
昨日、帰る前に美玲さんから「朝、残って食べていき」と言われた。
誘ってもらえたのは嬉しかった。
でも、家族で集まるところへ私まで入っていいのか、少し気になっていた。
「お皿、持っていってくれる?」
「はい」
厨房をのぞくと、大きな皿に牛肉が並んでいた。
薄い一枚がふわっと折り重なり、赤いところに細かな白い筋が入っている。
「……これ、全部ですか?」
「みんなで食べるんやから」
「残ったらどうするんですか?」
「持って帰ったらええ。でも、だいたい残らへん」
美玲さんが取り皿を重ね、私に渡した。
私はまだ、肉の方を見ていた。
「さっき、あんまり食べられへんような顔してたけど」
「見たら、ちょっと変わりました」
「ほな、ちょうどよかった」
朝から牛肉なんて、と思ったのは本当だ。
でも今、おにぎりに戻せると言われても、たぶん戻さない。
「卵も持てる?」
「いけます」
「無理せんでええよ。二回に分けて」
伸ばした手を戻した。
こういうところで欲張って、よく失敗する。
「じゃあ、取り皿を先に運びます」
「うん。それでええ」
廊下へ出ると、ずいぶん静かだった。
さっきまでは、扉を開けるたびに違う歌が聞こえていたのに。
外はもう明るい。
最後のお客さんが置いていった傘のしずくが、受付の床に少し残っている。
あとで拭こう、と見ていたら、肉の皿を持った美玲さんが追いついた。
「気になる?」
「ちょっと」
「先に食べよ。今日は、もう次のお客さん来えへんから」
そう言われて、ようやく仕事が終わった気がした。
土曜の夜は忙しい。
部屋を片付けていると受付から呼ばれ、料理を運んでいるとマイクを頼まれる。
電話が鳴って、氷が足りなくなって、廊下の端から「すみません」が聞こえる。
昨日は途中から、何をしに歩いているのかわからなくなった。
午前三時を過ぎてからは、時計も見なかった。
見ても、まだ三時なのかと思うだけだったから。
一番広い部屋の扉を開けて、菜穂さんが待っていた。
洋介さんの弟、和也さんの奥さんで、パティシエだ。
昼の厨房では、お菓子を作っているところをよく見かける。
今日は席ごとに卵を置いていた。
「お腹すいた?」
「さっき、すきました」
「ちょうどええ時間やね。お皿、こっちへ」
取り皿を置いてから、二人を見た。
「昨日、一回帰ったんですよね?」
「帰ったよ。寝て、また来た」
菜穂さんが最後の卵を置く。
「この日は、うちらも一緒に食べるねん。食べ終わったら片付けして、朝まで働いた人は帰って寝る」
「片付け、私もやります」
「お皿運ぶのは手伝ってもらおかな。あとは任せて」
美玲さんが肉の皿を置いた。
「結衣ちゃん、まだ仕事の顔してるで」
「え、どんな顔ですか?」
「何かせなあかん、って顔」
確かに、座っていいのか、次は何を運ぶのか、そればかり考えていた。
「今日は食べる方。まず座り」
「はい」
卓上コンロが二台。
黒い鍋の周りに、白菜、長ねぎ、豆腐、しらたき。
リモコンとマイクは、テーブルの端へ寄せられていた。
「ご飯、どれくらい?」
「少なめでお願いします」
「最初は少なめな」
菜穂さんが、茶碗を持って炊飯器へ向かう。
最初は、という言い方が気になった。
壁際では、お父さんが箸を配っていた。
洋介さんと和也さんの父親で、パレットの初代店主だ。
店のみんなが「お父さん」と呼ぶので、私もそう呼んでいる。
「ここ座り。箸、届くやろ」
「ありがとうございます」
「眠たいか?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとの顔ちゃうで」
目を開け直すと、お父さんの口元が緩んだ。
朝六時から来ているお父さんは、ちゃんと元気だ。
私は昨日の夕方から。
今なら、このソファでも寝られると思う。
「途中で、何を頼まれてたか忘れました」
「何を?」
「マイク取りに行って、氷を頼まれて、受付から呼ばれて」
「そら忙しいわ」
「マイク持って受付に戻りました」
「受付で歌うんか」
思わず声が出た。
今なら、おかしなことをしていたとわかる。
そのときは、手にマイクがあることも気にならなかった。
「わからんようになったら、聞いたらええよ」
「何回も聞いていいですか?」
「忘れたままにされる方が困るわ」
「次は聞きます」
目の前に、ご飯が置かれた。
茶碗を持つと、指先が温かい。
仕事中なら、料理はお客さんのところへ運ぶものだ。
今は自分の前に置かれている。
それだけなのに、どこかくすぐったかった。
そこへ、洋介さんと和也さんが入ってきた。
二人で夜の厨房を担当しているので、最後まで片付けをしていたらしい。
「お待たせ」
「もう始めるで」
美玲さんが言う。
洋介さんは鍋をのぞき、コンロのつまみへ手を伸ばした。
「そのままでええ」
「まだ何もしてへんやん」
「弱めようとしてたやろ」
「鍋、空やから」
「今から焼くねん」
私は茶碗に目を落とした。
肩が動いたせいで、見ていないふりはうまくいかなかった。
「結衣ちゃん、笑ってええで。毎回これや」
「毎回、触ろうとするからやろ」
美玲さんはもう、牛脂を鍋へ滑らせていた。
中華料理をやってきた美玲さんは、火加減に厳しい。
厨房でも、鍋の様子を見る目は真剣だ。
洋介さんはつまみから手を離し、椅子へ座った。
「今日は食べる方やな」
「最初から、そのつもりで座って」
白い牛脂が通ったところだけ、黒い鉄につやが出る。
小さく脂の鳴る音がした。
「そろった?」
菜穂さんが、みんなの手元を見る。
お父さんが湯飲みを上げた。
「ほな、お疲れさん」
「お疲れさまでした」
麦茶で乾杯した。
コップを置いたときには、肉が一枚、鍋へ広げられていた。
じゅう、といい音がする。
砂糖が振られ、その上から醤油。
甘い匂いが来た途端、私は茶碗を持っていた。
「早いな」
洋介さんに言われて、手を止める。
「まだですか?」
「もうちょっと。最初は肉だけ食べてみ」
美玲さんが裏返した一枚を、私の取り皿へ入れてくれた。
「私からでいいんですか?」
「卵、割って。冷めるで」
「あ」
慌てたせいで、殻が一欠片落ちた。
箸で追いかけると、白身に押されて逃げていく。
「貸してみ」
お父さんが、割った殻の端ですくってくれた。
あっさり取れた。
「それで取れるんですね」
「取れるときはな」
「今度からそうします」
「まず、落とさんようにな」
卵を溶いて、肉をつけた。
持ち上げると、黄身が細く伸びる。
一口には少し大きい。
でも、半分にするのが惜しくて、そのまま口へ入れた。
熱い。
噛むと、甘辛い味のあとに肉の脂が広がった。
もう一度噛む。
まだおいしい。
飲み込むのが、少しもったいない。
「どう?」
美玲さんに聞かれ、ようやく答えた。
「おいしいです」
「よかった」
「朝でも、食べられますね」
「せやろ」
茶碗を持ち直すと、洋介さんがこちらを指した。
「もう目ぇ開いてるやん」
お父さんも、私の顔を確かめるようにのぞき込む。
「ほんまや」
「お肉ってすごいですね」
「結衣ちゃんがわかりやすいんや」
二枚目は、ご飯に載せた。
卵のついた肉と、白いご飯。
一緒に食べると、さっきとは違うおいしさになる。
ご飯だけ、もう一口。
茶碗を見たら、半分なくなっていた。
「な」
菜穂さんが言った。
「最初は少なめ、ですね」
「おかわりあるからね」
そのつもりで、私はうなずいた。
さっきまで、たくさん食べたら悪い気がしていた。
でも、菜穂さんは私の茶碗を見て嬉しそうだし、美玲さんは次の肉を用意している。
食べない方が、もったいない。
そう思ったら、箸が出しやすくなった。
野菜が入ると、鍋の音が少し落ち着いた。
白菜の葉がしんなりして、長ねぎの白いところに焼き色がつく。
和也さんが、向こうの鍋へ豆腐を並べた。
「白菜、もういけるで」
一つ取って、少し冷まして食べる。
葉の間にたまった汁まで甘かった。
「あ、白菜もおいしい」
「肉の味、吸うからな」
「これだけで、ご飯食べられそうです」
「ほな、肉はこっちもらおか」
洋介さんの箸が、私の皿へ伸びる。
「それは食べます」
「しっかりしてるわ」
洋介さんは自分の皿へねぎを取った。
冷ましてから、美玲さんの取り皿へ置く。
「もうええと思うけど」
「うん」
美玲さんは食べて、代わりに肉を一枚返した。
お父さんが豆腐の角を崩すと、和也さんが小さなお玉を渡す。
崩れた分をすくいながら、お父さんが言った。
「味は一緒や」
「豆腐、好きなんですか?」
「好きやで。肉も好きやけど」
「全部ですね」
「全部食べられる方がええやろ」
私は白菜をもう一つ取った。
家族の食事へ入れてもらっていると思っていた。
けれど、少しずつ、みんなで仕事のあとに食べているだけ、という気持ちになってきた。
私の取り皿も、ほかの人と同じように卵で汚れている。
「結衣ちゃん、ご飯は?」
「お願いします」
「今度も少なめ?」
「さっきより、ちょっと多めで」
「はいはい」
菜穂さんへ茶碗を渡すと、洋介さんがマイクを拾った。
「これ、油つくで。誰か歌う?」
「今ですか?」
「せっかくあるし」
壁の大きな画面を指す。
確かに、ある。
カラオケの部屋にいることを、すっかり忘れていた。
「結衣ちゃん、入れてええよ」
「歌ってる間、お肉なくなりません?」
「一曲ぐらい待ったるわ」
「取っといてくださいね」
「食べる気、しっかりあるな」
リモコンを受け取り、履歴を開いた。
友達となら、すぐに何曲か浮かぶ。
ここにいる人たちの前で歌うと思うと、どれも少し違う気がする。
題名を目で追っているうちに、指が止まった。
「死ぬのがいいわ」。
祖母が好きな曲だ。
「これ、うちのおばあちゃんが好きなんです」
「へえ。一緒に歌うん?」
洋介さんに聞かれ、首を振った。
「聞く方です。私が流してたら、もう一回って。声がいいって言ってました」
祖母の家の台所を思い出した。
小鍋を混ぜながら、スマートフォンの方へ耳を向けていた。
何を作っていたのかは覚えていない。
二人で食べたことは覚えている。
「おばあちゃん、近くに住んでるん?」
美玲さんが聞く。
「会いに行ける距離です。最近は電話が多いですけど」
「元気?」
「元気です。昨日も、買い物で歩きすぎたって言ってました」
「よう歩けるんやね」
「私には運動しなさいって。そのあと、晩ご飯はうどんにするって言うから、たまにはすき焼きしないのって聞いたんです」
祖父が亡くなってから、祖母の家ですき焼きを食べていない。
肉が高いからだと思っていた。
「そしたら、一人だと忙しいって」
「忙しい?」
「私も、よくわからなくて」
美玲さんが鍋の火を少し弱めた。
「食べてる間も、見とかなあかんからかな」
「あ」
和也さんがお父さんへ豆腐を取り分けている。
菜穂さんは、私のご飯をよそっている。
洋介さんがねぎを取り、美玲さんが肉を足す。
「一人だと、全部自分でやるんですね」
「好きなように食べられるけどな。肉、取られる心配もないし」
洋介さんに言われて、取り皿を少し手元へ寄せた。
祖母は、うどんに何を入れるか、いつも教えてくれる。
揚げがあるから。ねぎが残っているから。
私はそれを聞いて、ちゃんと食べているなら大丈夫と思っていた。
今度は、もう少しゆっくり話を聞いてみようかな。
ご飯が戻ってきたので、私は曲を入れた。
画面に題名が出る。
「朝から、えらい曲やな」
お父さんが口元を緩めた。
「おばあちゃんには、題名を言う前に聞かせました」
「その方がええかもな」
マイクを受け取る。
前奏が始まったところで、お父さんがぽつりと言った。
「お母さんも、似たようなこと言うてたな」
洋介さんが顔を上げる。
「この歌?」
「歌やない。飯より、あんたがええって」
「お母さんが?」
「そうや」
亡くなった千鶴さんの話だった。
お父さんの奥さんで、洋介さんと和也さんのお母さん。
店のご飯を作り、二人をここで育てた人だ。
私は会ったことがない。
「そのくせ、肉はよう食う人やったわ。わしの分までな」
「お父さんの分、ちゃんとあったん?」
和也さんが聞く。
「取っとかんと、なくなる」
「結衣ちゃんと一緒や」
「私、まだ取ってないです」
みんなの声が重なった。
洋介さんも和也さんも、驚いている。
私の知らない千鶴さんの話は、二人にとっても、初めて聞く話らしかった。
歌い出すタイミングは、もう過ぎていた。
「歌わへんの?」
洋介さんに聞かれ、マイクを膝へ置く。
「先に、お話聞きたいです」
「昔のすき焼きの話やで」
「聞きたいです」
菜穂さんが曲を止めてくれた。
鍋の煮える音が、よく聞こえる。
美玲さんが、お父さんの取り皿へ肉を一枚置いた。
「冷める前に食べてな」
「うん」
お父さんが食べ終わるまで待ってから、私は聞いた。
「どんなときに言われたんですか?」
箸を置き、お父さんが少し首を傾けた。
「かっこええ話でも、ないんやけどな」




