すき焼きと「死ぬのがいいわ」後半
「建築の仕事してたころ?」
洋介さんが聞いた。
「そうや。まだ、そっちが本業やったころ」
「店は、お母さんがやってたんやろ」
「昼も夜もな。わしは仕事終わってから手伝うぐらいや」
お父さんは湯飲みを持った。
「洋介さんたちも、ここでご飯を食べてたんですか?」
「部屋が空いてたら。いっぱいやったら、奥で」
和也さんが答える。
「食べてる途中で呼ばれたら、お母さん、すぐ出ていくねん」
「ほんで、戻ってきたら、まだ食べてたん、って」
「自分が食べてへんのにな」
二人が顔を見合わせた。
「冷めちゃいますよね」
「そうそう。ちょっと温めてくるわ、って厨房へ行って、また帰ってこない」
「ほな、わしが呼びに行く」
お父さんが口を挟んだ。
「食べ終わったんやったら、これ持っていって、言われる」
「お父さんまで仕事になるんですね」
「なる。空いてる手は使う人やった」
美玲さんが、洋介さんの前へ肉の皿を寄せた。
「これ、向こうの鍋に入れて」
洋介さんはお父さんを見た。
「今も一緒やな」
「聞こえてるで」
「聞こえるように言うてる」
お父さんが湯飲みの向こうで目を細めた。
千鶴さんも、こんなふうにやり取りしていたのだろうか。
「すき焼きも、してたんですか?」
「たまにな。子どもら、お肉や言うたらよう食べるから」
「そら食べるやろ」
「お前らのあとやと、わしの皿、ねぎばっかりやった」
「ねぎ好きやん」
「好きでも、肉は欲しいわ」
美玲さんが鍋から一枚取った。
「今日は食べて。まだあるから」
「ありがとう」
お父さんは卵につけ、今度はすぐ口へ入れた。
食べ終わってから、箸を置く。
「仕事がうまいこといかん時期があってな」
洋介さんも茶碗を下ろした。
「家で食べても仕事の話になる。店に来ても売り上げの話になる。何を食べたか、あんまり覚えてへんねん」
「食べるどころじゃなかったんですね」
「食べてはいたんやろけどな。お母さん、出してくれるから」
お父さんは鍋の方を見ていた。
「ある日、店に来たら、すき焼きしてて」
「何かのお祝いですか?」
「何もない日や」
少し考えてから、言い足した。
「たぶん、わしが覚えてへんだけでもないと思う。普通の日やった」
「普通の日にすき焼き、嬉しいですね」
「わしも、そう言うたらよかったんや」
お父さんの指が、取り皿の縁に触れた。
「最初に、いくらしたんやって聞いてしもうた」
私は膝の上へ手を置いた。
ここへ来て、私も肉の値段を気にした。
でも、お父さんは楽しみで聞いたのではなかったのだろう。
「お母さん、何て?」
和也さんが聞く。
「そんなことより座り、って」
「言いそう」
洋介さんが小さくうなずいた。
「座った?」
「座ったけど、食べんと話してた。今月はこうや、次の仕事はどうや、って」
「鍋の前で?」
「せや。肉冷めるで言われても、まだしゃべってた」
お父さんは取り皿を軽くたたいた。
「ここへ置いてくれてたんやけどな」
「お母さんは?」
「食べてた。わしが話してる間に」
「そら、冷めるもん」
和也さんが言う。
「わしも食べたらよかったんや。それやのに、しばらく、こういうもん食べられへんかもしれんなって」
鍋の白菜が、小さく揺れた。
美玲さんが火を確かめ、端へ寄せる。
「すき焼きの話、してたんですね」
「そう聞こえるやろ。でも、別にすき焼きがどうとかやなくて」
お父さんは首の後ろへ手をやった。
「先のこと考えて、不安になってただけや」
誰も、急いで返事をしなかった。
私は白菜へ箸を伸ばしかけて、戻した。
お父さんがこちらを見る。
「食べてええよ。冷めるで」
「あ、はい」
「わしと一緒になってまう」
白菜を口へ入れると、まだ熱かった。
お父さんもねぎを一つ食べて、話を続けた。
「お母さんがな。食べられへんかったら、別のもん食べたらええやん、って」
「まあ、そうやけど」
「わしもそう言うた。それはそうやけどな、って」
お父さんの口元が少し緩む。
「ほな、あんたが座って食べてくれたら、それでええって」
菜穂さんが、卵の器をテーブルへ置いた。
「一緒に食べたかったんですね」
「そうやったんやろな。わしは、仕事の話ばっかりしてたけど」
「聞いてくれたんですか?」
「聞いてくれたで。ただ、先に一口食べ、って」
洋介さんが茶碗を持ち直した。
「食べた?」
「食べた。うまかったわ」
「お母さんのすき焼きやもん」
「腹も減ってたんやろな。昼、抜いてたと思う」
「忙しくて?」
「それもあったやろけど、食べる気にならんかったんかもしれん」
お父さんの目が、私の茶碗へ移った。
「一口食べたら、もう一口ほしくなってな。気づいたら、ご飯のおかわりしてた」
「今日の私と一緒ですね」
「ほんまや」
私は茶碗の底に残ったご飯を集めた。
お父さんの話を聞いていたら、少し冷めてしまっていた。
それでも、肉の汁がついたところまでおいしい。
「それで、飯よりあんたがええって?」
洋介さんが聞いた。
「その前後やったと思う。言い方は、もっと大げさやったけどな」
「お母さん、そんなこと言うてたんや」
「お前らには、先に宿題せえ、ばっかりやったな」
「それは、お父さんも言うてた」
「わしは、お母さんに言われて言うてたんや」
和也さんが顔を上げた。
「それ、今言う?」
菜穂さんが口元を押さえる。
私も、ご飯を飲み込んでから声を出してしまった。
お父さんの取り皿を見ると、肉はもうなくなっていた。
「お肉、食べます?」
「もらおか」
鍋から一枚取って、置いた。
「私のじゃなくて、鍋のですけど」
「それでええ。それで」
お父さんは、今度も冷めないうちに食べた。
「おばあちゃんも、一緒に食べたいんやろな」
美玲さんが言った。
「すき焼きですか?」
「すき焼きでも、うどんでも」
祖母との電話を思い出した。
何を食べるのと聞くと、いつもちゃんと答えてくれる。
私が食べたものを言うと、それだけで足りるんかと聞く。
自分はうどんでいいと言うのに、私には卵も食べなさいと言う。
「今度、お肉持っていこうかな」
「ええやん」
「でも、作ってあげるのは、ちょっと自信ないです」
「一緒に作ったら?」
「あ、そっか」
菜穂さんが私の取り皿を指した。
「卵割って、ご飯よそって。それだけでも助かると思うよ」
「殻、入りそうですけど」
「取ってもらったらええ」
お父さんが言う。
作ってあげる、と考えると、少し難しい。
お肉を持っていって、一緒に作って、一緒に食べる。
それなら、できそうだった。
スマートフォンを開き、祖母へメッセージを打った。
『今度、一緒にすき焼きしよう。お肉持っていく』
少し考えて、もう一つ。
『卵は家にある?』
すぐに既読がついた。
「起きてました」
「早いなあ」
菜穂さんが空いた皿を重ねる。
返事が届いた。
『あるよ。何時に来るの』
私はスマートフォンを持ったまま、吹き出した。
「今日だと思われてます」
「今度って、いつでも使えるからな」
洋介さんが言う。
「来週って入れます」
その途中で、もう一通。
『ご飯は炊いておくね』
まだ日も決まっていないのに。
「何て?」
「ご飯、炊いておくって」
「ほな、お肉忘れんように」
「忘れないです」
来週の日曜に行く、と送った。
時間はあとで電話して決めよう。
祖母が冷蔵庫を開け、卵を数えているところが浮かんだ。
たぶん、ご飯を何合炊くかも考えている。
「結衣ちゃん、歌は?」
菜穂さんが、膝のマイクを指した。
「あ、歌います」
「肉、残しとこか?」
「今は大丈夫です」
「やっと満腹?」
「たぶん」
「まだ余裕ありそうやね」
もう一度、曲を入れた。
前奏の間に麦茶を飲む。
今度は、ちゃんと画面を見た。
朝まで働いたあとの声は、少しかすれている。
最初の方は、いつもより低く聞こえた。
でも、誰も気にしていない。
美玲さんは鍋を見ながら、足で拍子を取っていた。
和也さんは豆腐を食べ、お父さんは湯飲みを持って聞いている。
途中で洋介さんと目が合うと、軽くうなずいてくれた。
少し歌いやすくなった。
上手に聞かせようとすると、息が続かない。
今日は、いつものように歌えばよかった。
祖母の台所で流したときも、こんな感じだった。
誰かが何かを作っていて、そのそばに私がいる。
歌い終わると、みんなが手をたたいてくれた。
「おばあちゃんにも歌ったり」
洋介さんが言った。
「隣にいたら、ちょっと恥ずかしいです」
「ここでは歌えたやん」
「ここはカラオケ屋なので」
「便利な言い訳やな」
マイクを戻す。
今度は、鍋から少し離して置いた。
お父さんは、何か考えるように画面を見ていた。
「千鶴さんも、歌ってたんですか?」
「歌うで。店におるんやから」
「一緒に?」
「たまにな。わしが入れた曲まで歌うねん」
「取られちゃうんですね」
「マイク二本あるやろ。ええねん、それは」
お父さんは画面から目を離し、空になった肉の皿を見た。
「ちゃんとなくなったな」
「結衣ちゃんも人数に入ってたから」
美玲さんがこちらを向く。
「最初、食べられるか心配してたやろ」
「食べられました」
「よう知ってる」
菜穂さんが、肉の皿を重ねた。
私も立とうとすると、美玲さんが手で止める。
「もうちょっと座っとき。運ぶとき持ってもらうから」
「じゃあ、お皿を運びます」
「うん。今は休憩」
ソファへ座り直すと、少し眠くなった。
今度は、お腹が温かい。
受付で椅子を探したときとは、違う眠さだった。
「千鶴さんも、この打ち上げに?」
「おったで。準備する方やったけど」
「一緒に食べてたんですか?」
「食べてた。わしより早かった」
「しゃべりながらでも、食べるん速かったな」
和也さんが言う。
「お父さんは、しゃべると箸止まるから」
洋介さんが空いた取り皿を指した。
「今日も止まってたやろ」
「聞きたいって言われたんや」
「お肉、冷めてましたね」
私が言うと、お父さんは目を細めた。
「昔もよう言われたわ。先に食べ、って」
店のご飯を作っていた人が、今はいない。
でも、洋介さんたちは、今日もその人の話をしている。
お父さんが食べていないと気づく人も、お皿へ肉を置く人もいる。
私は、自分の前を見た。
卵の器と、空いた茶碗。
ちゃんと、ここで食べた人の場所になっていた。
「さっきの話な」
お父さんが湯飲みを置いた。
「はい」
「飯より、あんたがええ、やなかったわ」
洋介さんが顔を上げる。
「思い出したん?」
「今の歌、聞いてたらな。ああ、そんな言い方やったなって」
「お母さん、関西弁やろ」
「そのときだけ、妙な言い方してん。女優さんみたいに」
お父さんは少し背筋を伸ばした。
私たちは、その顔を見ていた。
「わしが食べへんから、こっち向かせようとしたんやろな。顔のぞいて、わざわざ言い直して」
「お父さん、何て返したん?」
和也さんが聞く。
「肉、口に入れられて、何も言えんかった」
洋介さんが肩を揺らした。
菜穂さんは、重ねた皿をテーブルへ戻す。
私も口元を押さえた。
「お母さん、そんな顔してた?」
洋介さんが聞くと、お父さんは首を振った。
「もっと、得意そうな顔や」
それから、隣に誰かが座っているみたいに、少しだけ顔を向けた。
「三度の飯よりあんたがいいのよ」




