海老ドリアと「プラチナ」
「いらっしゃいませ」
言ってから、今日は自分がお客さんだったことを思い出した。
自動ドアの向こうから、スーツ姿の二人が入ってくる。
私は受付の横から一歩下がった。
「紗季、今日も働くん?」
隣で千夏が口元を押さえている。
「癖。入口の音がしたら、出ちゃう」
「ちょっと頭も下げてたで」
「見なかったことにして」
カラオケ店パレット。
普段はここで注文を聞き、料理を運んでいる。
今日は、声優養成所の課題を練習するために来た。
平日の夕方。私のシフトは入っていない。
同じ養成所に通う千夏を誘って、社員割引で部屋を使わせてもらうことにした。
「藤本さん、ご利用ですね」
受付でわざと丁寧に言われ、私はバッグを持ち直した。
「はい。今日はお客さんです」
「ごゆっくりどうぞ」
部屋番号を受け取り、千夏を案内する。
「こっち」
「なんか、頼もしいな」
「ここではね」
言ってから、少し余計だったと思った。
千夏は気にした様子もなく、廊下に貼られた料理の写真を見ている。
「ほんまに、こんなん出てくるん?」
「出るよ」
「写真だけ立派なやつちゃう?」
「私が運んでるんやから」
「それは信用できる」
部屋に入り、バッグを置いた。
千夏が台本を出す。
私はリモコンとメニューを端へ寄せ、テーブルを広くした。
「飲み物、先に頼む?」
「あとで。忘れる前に一回やろ」
「忘れる前って、さっきまで授業やったやん」
「今なら、先生に言われたこと覚えてる」
千夏は台本を開き、書き込みを指で追った。
私は向かいに座る。
課題は、二人の人物が待ち合わせをする短い場面だった。
一人は引っ越しを決めている。
もう一人には、まだ伝えていない。
台詞は少ないのに、毎回どこかで止められる。
今日は役を交代して、両方読んでみることになっていた。
「じゃあ、私が待ってる方ね」
「うん」
千夏が一度、息を吐いた。
さっきまでの声から、少しだけ温度が変わる。
「遅かったね」
「ごめん。電車、一本逃して」
私も台本へ目を落とした。
「そう」
「……怒ってる?」
「別に。座れば?」
短い沈黙。
このあと、引っ越しの話を切り出す。
私は次の台詞を読もうとして、一瞬迷った。
千夏が顔を上げる。
「もう一回、そこからやろ」
「何か変やった?」
「まだ私、怒ってへんのに、紗季がもう謝ってる感じ」
「最初に、ごめんって言うやん」
「電車のことはね。引っ越すことまで、先に謝ってる」
私は台本を見た。
そんなつもりはなかった。
けれど、さっき自分が出した声を思い返すと、少しわかる。
「言わなあかん、って考えすぎてるんかな」
「かもしれん。まだ、普通に座ろうとしてみたら?」
「わかった」
もう一度、最初から。
今度は、電車に遅れたことだけ考える。
千夏の顔を見る。
座ればと言われて、少しほっとする。
それだけで、次の台詞がさっきより言いやすくなった。
「今の方が、私も聞きやすかった」
「ほんま?」
「うん。話しかけてくれた感じ」
嬉しかった。
同時に、千夏にはこういうことがわかるんだな、と思った。
千夏は在学中に、オーディションへ合格したことがある。
私たちは同じ教室で、同じ課題をもらっている。
それでも、千夏の話には、ときどき学校の外の仕事が出てくる。
収録の日にどうしたとか、現場で何を言われたとか。
聞きたい。
聞いておいた方がいいとも思う。
でも、帰り道で一人になると、自分は何をしているんだろうと考える日があった。
「次、交代しよ」
千夏が台本を持ち直した。
「私、待ってる方?」
「そう。今度は、私に帰らせんといて」
「引っ越しは決まってるやん」
「気持ちの話」
私は椅子へ座り直した。
「遅かったね」
「ごめん。電車、一本逃して」
千夏は、少し笑ってみせた。
私もつられそうになる。
でも、待っていた人は、たぶん笑いたくない。
「そう」
「怒ってる?」
「別に。座れば?」
千夏が次の台詞へ入る。
私は聞きながら、指先で台本の端を押さえた。
話が終わると、千夏がこちらを見た。
「私、最後ちょっと急いだ?」
「うん」
「どこ?」
「言い終わったら帰る、って決めてたみたい。私の返事、待ってなかった」
千夏が台本へ目を戻す。
「ああ。そうやな」
「ごめん、偉そうに」
「何で謝るん。聞いてくれてたんやろ」
「そうやけど」
「そこ、鉛筆で丸して。私、またやるから」
言われたところへ、小さく丸をつけた。
千夏の台本は、私のより書き込みが多い。
余白にも矢印にも、迷った跡が残っていた。
私は、そのページを少し長く見ていた。
「休憩しよか」
千夏が伸びをした。
「喉、渇いた」
「飲み物、頼むね」
「ご飯も食べたい」
「もう?」
「さっきから、おいしそうな匂いする」
そういえば、廊下の向こうから何か焼く匂いがしていた。
私もメニューを開く。
千夏が横へ移ってきて、同じページをのぞいた。
「おすすめは?」
「海老ドリア」
「海老、大きい?」
「大きい」
「ほな、それ」
返事が早かった。
内線を取って、ドリアを二つと飲み物を頼む。
電話を置くと、千夏が私を見ていた。
「何?」
「注文する声、さっきの課題より自然」
「練習してる回数が違う」
「お客さんの役やったら、いけるやん」
「そのオーディションあったら教えて」
千夏がバッグへ手を入れた。
「あるで」
「何が?」
「オーディション」
私はリモコンを置いた。
「お客さんの役?」
「それは知らんけど」
千夏がスマートフォンを出す。
画面を私の方へ向けた。
「学校に来てた募集。これ、見た?」
「ああ……見た」
募集要項を開いたことはある。
応募条件を読んで、締め切りを確認して。
そのまま閉じた。
「私、受けようと思ってるねん」
「そうなんや」
「紗季も受けへん?」
私は画面を見たまま、すぐには答えなかった。
受けてみたい。
募集を見たときも、そう思った。
でも、課題で何度も止められる自分の声を、知らない人に聞いてもらうのは怖かった。
「私、まだ課題でも――」
扉がノックされた。
「どうぞ」
入ってきた洋介さんは、二つのドリアを盆に載せていた。
パレットの店主で、夕方から厨房に入っている。
「お待たせ。熱いから、台本どけてな」
「あ、はい」
私は慌てて紙をまとめた。
千夏もスマートフォンを引っ込める。
白い皿が二つ、テーブルへ置かれた。
表面のチーズが、ところどころ茶色く焼けている。
その隙間で、ホワイトソースが小さく動いていた。
真ん中には、ちゃんと海老が見える。
「……ほんまに大きい」
「疑われてましたよ、洋介さん」
「写真詐欺や思われた?」
千夏が両手を振った。
「そこまでは言ってないです」
「ほな、食べて確かめて」
洋介さんがスプーンを置く。
「今日は練習?」
「学校の課題です」
「仕事休みの日も、ようやるなあ」
「家やと、こんな声出せないので」
私が答えると、洋介さんはテーブルの台本を見た。
「覚えること、いっぱいあるんやな」
「短い場面なんですけど、なかなか」
「短い方が、ごまかし利かへんか」
私は台本へ目をやった。
「そうかもしれないです」
「ご飯の間ぐらい、置いとき」
千夏が皿へ顔を近づける。
「いい匂い」
「最初の一口、気ぃつけて。皿も熱いから」
洋介さんが出ていくと、二人でスプーンを持った。
表面を割る。
チーズの下から湯気が上がり、海老が一つ転がった。
少しだけすくって、息を吹きかける。
口へ入れると、まだ熱かった。
でも、ソースとご飯がやわらかくなっていて、噛む前からおいしい。
海老は、噛むとちゃんと弾む。
千夏が目を丸くした。
「おいしい」
「でしょ」
「これ、カラオケ屋で出てくるんや」
「だから言ったやん」
「紗季、得意そう」
「ここではね」
さっきと同じことを言った。
今度は、嫌な感じがしなかった。
千夏も、二口目を冷ましている。
「それで、さっきの」
私はスプーンを皿の端へ置いた。
「オーディション?」
「うん」
千夏がスマートフォンを、もう一度こちらへ向ける。
「この役。紗季が読んだら、聞いてみたいねん」
役の説明を読んだ。
明るくて、少し意地っ張り。
人に頼るのが苦手で、頼まれたことは断れない。
「私、こんなに明るくないよ」
「明るい役ができへんとは、違うやろ」
「でも、千夏みたいに――」
「私みたいにせんでええよ」
千夏はチーズを切りながら言った。
「さっきの課題、私の返事待ってくれてたやん。ああいうとこ、ええと思う」
千夏の台本につけた、小さな丸を見る。
褒められても、すぐに信じていいのかわからない。
友達だから言ってくれているのかもしれない。
「今、友達やから褒めてると思った?」
「……ちょっと」
「友達やから、あかんとこも言うてるやん」
私は笑ってしまった。
さっきから何度も、やり直そうと言われている。
「そうやった」
「受かるかどうかは、私にはわからん。でも、聞いてみたいのは本当」
千夏は、それ以上言わなかった。
私もすぐに返事をしなくてよかった。
もう一口、ドリアを食べる。
さっきより冷めて、味がよくわかる。
皿の縁に近いところは、チーズが少し固く焼けていた。
スプーンで外して、ご飯と一緒に口へ入れた。
「千夏は、最初から受けるの怖くなかった?」
「怖かったよ」
「そうなん?」
「送ったあと、取り消したくなった」
「全然、そんな感じしない」
「今、ドリア食べてるからな」
千夏は平気そうに、海老を一つすくった。
「合格したら、怖くなくなると思ってたんやけど」
「ならへん?」
「次は、また別やし。前に受かったからって、今度も受かるわけちゃうもん」
千夏にも、わからないことがある。
頭では知っていたはずなのに、初めて聞いた気がした。
「私、ちょっと焦ってた」
「何に?」
「千夏が仕事の話してるとき」
スプーンの先で、ご飯を寄せた。
「嬉しいんやけど。帰ってから、自分は何してるんやろって」
千夏は少し黙った。
私は皿から目を上げられなかった。
「仕事の話、しない方がよかった?」
「違う。聞きたい」
すぐに首を振った。
「聞きたいし、応援してる。それとは別に、焦る」
「……そっか」
千夏は自分の皿を見た。
「私、紗季のバイトの話、好きやで」
「え?」
「お客さんが何食べてたとか。忙しかったとか。自分の知らんことやから」
「でも、声優の話ちゃうやん」
「紗季の話やん」
私は返す言葉を探した。
千夏はまたスプーンを持つ。
「私の仕事の話も、それぐらいで聞いてくれたらええよ。わからんことだらけやし」
皿の上で、チーズが細く伸びた。
千夏が途中で切ろうとして、うまくいかない。
「何これ、ずっとついてくる」
「海老ごと持ち上げたら?」
「重い」
私もスプーンを持ち直した。
同じ教室で、同じ課題をもらっている。
それは、何も変わっていなかった。
「受けてみる」
千夏が顔を上げた。
「うん」
「録音、付き合ってくれる?」
「もちろん。私のも聞いて」
「それは、ちゃんと言うよ」
「言って。さっきみたいに」
食べ終わると、まず学校の課題をもう一度読んだ。
役を交代して、互いに気になったところを伝える。
そのあと、応募用の台詞を開いた。
声を録る前に、私はスマートフォンの時計を見る。
「部屋、もうちょっと使いたい」
「延長できる?」
「聞いてくる」
受付で確認して戻ると、千夏は台詞を小さく読んでいた。
「大丈夫やって」
「ほな、録ろか」
最初の私は、役の説明にあった「明るい」を頑張りすぎていた。
「全部、元気に言おうとしてる」
「明るい子やから」
「明るい子も、困るやろ」
「ああ……」
もう一度読む。
今度は、誰へ話しているのか考えた。
聞いてほしいことと、聞かれたくないこと。
同じ短い台詞なのに、読み方が変わる。
千夏の録音には、私が口を挟んだ。
「そこ、先に泣こうとしてない?」
「してるかも」
「まだ我慢した方が、私は聞きたい」
「わかった。もう一回」
録り直して、聞いて、また録る。
途中で笑ってしまったものも、外の音が入ったものもあった。
最後に選んだ音声を、二人で黙って聞いた。
「私、これにする」
「うん」
応募画面を開く。
名前を入力し、必要な項目を埋めた。
添付したファイルを確かめる。
それでも、最後のボタンだけが押せない。
画面を閉じて、もう一度開いた。
「紗季」
千夏が手元をのぞく。
「今、何を確認してるん?」
「……間違ってないか」
「間違ってる?」
「たぶん、間違ってない」
「ほな、聞いてもらお」
千夏は私のスマートフォンに触らなかった。
私は自分の指で、送信を押した。
画面が切り替わる。
たったそれだけなのに、肩が急に疲れた。
「送った」
「うん」
「取り消したくなったの、ちょっとわかる」
「わかったやろ」
千夏も応募を終えて、スマートフォンを伏せた。
窓の外は、もう暗くなり始めている。
「一曲、歌ってから帰る?」
千夏がリモコンを取った。
「何歌う?」
「プラチナ」
「いいね。二人で?」
「うん」
マイクを一本ずつ持った。
課題の声でも、応募用の声でもない。
いつもの声で歌う。
千夏が途中から入ってきて、私も少し声を大きくした。
どちらかが前へ出ても、もう一人が聞こえなくなるわけではなかった。
歌い終わると、台本をバッグへしまった。
扉を開けたところで、盆を持った洋介さんと会う。
「練習、終わった?」
「今日は、オーディションに応募しました」
洋介さんが足を止めた。
「二人とも?」
「はい」
「ほな、お疲れさん。返事来るまで、ちゃんとご飯食べや」
「食べます」
「その返事は信用できるな」
千夏が隣でうなずく。
「ドリア、全部食べてましたから」
「私だけじゃないやん」
「また二人でおいで」
「はい」
店を出てからも、千夏とどうでもいい話をした。
次の課題。
帰りの電車。
隣の部屋から聞こえていた歌。
駅へ向かう途中、私は一度だけバッグを開けた。
「もう返事、来たと思った?」
「違う。ちゃんと送れたかなって」
「完了の画面、二人で見たやん」
「そうやけど」
スマートフォンをしまう。
「帰ったら、また見そう」
「送り直さんようにな」
「そこまではしない」
「ほんまかな」
千夏の肩を軽く押すと、押し返された。
パレットの看板が、少しずつ遠くなる。
結果は、まだわからない。
受かったあとのことを考えるには早いし、落ちたと決める理由もなかった。
「誘ってくれてありがとう」
「ドリア?」
「そっちも」
「ほな、また行こ」
「うん」
駅の改札で別れた。
電車に乗ってから、送信済みの画面をもう一度だけ確認した。
ちゃんと、自分の名前がある。
それを見て、ようやくスマートフォンをバッグへ戻した。
*
一週間後の金曜日。
「紗季ちゃん、三番にこれお願い」
洋介さんの声で、私は厨房へ向かった。
夕方からのお客さんが増え始めていた。
受付の電話が鳴り、廊下では、部屋を探している人が番号を見上げている。
今日はエプロンをつけて、料理を運ぶ側だ。
「海老ドリア。熱いから気ぃつけて」
「はい」
洋介さんが盆へ皿を置いた。
焼けたチーズの匂い。
真ん中には、大きな海老。
千夏が目を丸くしていたのを思い出した。
「スプーンも確認してな」
「あります」
「ほな、お願い」
三番の扉をノックする。
「失礼します。海老ドリア、お持ちしました」
歌っていたお客さんがマイクを下げ、テーブルを空けてくれた。
料理を置いて、扉を閉める。
少し歩いたところで、また歌が聞こえてきた。
応募してからも、課題は増えた。
バイトも、いつもどおりにある。
家では、ついスマートフォンを見てしまう。
学校から帰る電車でも、通知を確かめる。
でも、料理を運んでいる間は、目の前のことをしていればよかった。
飲み物の数。
熱い皿の置き場所。
通路の曲がり角と、開きかけた扉。
考えることは、ちゃんとある。
「紗季ちゃん、ちょっと休憩入ってええよ」
ひと区切りついたところで、洋介さんが言った。
「今、大丈夫ですか?」
「今のうち。水飲んでき」
スタッフ用のスペースへ戻り、椅子に座った。
足の裏が少しじんとする。
水を一口飲んだ、そのときだった。
バッグの中で、スマートフォンが震えた。
千夏かな、と思った。
今日は授業で一緒にならなかったから、課題のことかもしれない。
画面を見て、コップを置いた。
応募先の名前が出ていた。
通知を開く。
藤本紗季様。
その下の文章を読む。
途中で止まって、最初へ戻る。
もう一度読む。
膝の上で、片方の足に力が入った。
「……合格?」
小さく声に出した。
画面は変わらない。
ちゃんと、そう書いてある。
念のため、差出人をもう一度見た。
宛先も確認した。
私の名前だった。
「紗季ちゃん?」
入口から、洋介さんの声がした。
「大丈夫?」
「はい」
返事をしたのに、洋介さんはそのまま立っている。
「えらい顔してるけど」
「今、メールが来て」
スマートフォンを持ち直す。
「この前、送った……オーディションの」
「ああ。千夏ちゃんと練習してたやつ?」
「はい」
私はもう一度、画面を見た。
「合格って、来ました」
洋介さんの目が少し大きくなった。
「ほんまに?」
「書いてあります」
「ほな、受かったんやな」
そう言われて、ようやく息が出た。
自分で何度も読んだのに、誰かの声で聞くと違った。
私はうなずく。
「……受かりました」
「おめでとう」
洋介さんは、いつもの声で言ってくれた。
料理ができたときや、仕事を頼むときと、そんなに変わらない声。
それが、嬉しかった。
「ありがとうございます」
「千夏ちゃんに言うた?」
「まだです」
「先に知らせたげて。休憩、まだあるから」
洋介さんが厨房へ戻り、私は水を一口飲んだ。
千夏とのメッセージを開く。
『通知来た』
そこまで打って、指が止まった。
もう一度、合格通知へ戻ってしまう。
読んでから、続きを送った。
『合格って書いてある』
すぐに既読がついた。
『紗季』
短いメッセージのあとに、もう一つ。
『やったやん!』
私はスマートフォンを握った。
今ここにいたら、きっと腕をつかまれていたと思う。
『おめでとう!』
文字を見ていたら、口元が勝手に緩んだ。
『千夏のおかげ』
送ると、少し間があいた。
『送ったんは紗季やで』
応募画面を閉じて、また開いた日のことを思い出す。
千夏は、私のスマートフォンに触らなかった。
自分で押すまで、隣で待っていてくれた。
『うん。ありがとう』
今度は、画面を閉じても大丈夫だった。
水を飲み終えて、立ち上がる。
厨房へ戻ると、洋介さんが注文票を見ていた。
「伝えた?」
「はい」
「喜んでた?」
「私より、ちゃんと喜んでました」
「本人は、まだわからんか」
「ちょっと」
洋介さんが盆を一つ、こちらへ寄せた。
「ほな、いつもどおりでええよ。五番、飲み物お願い」
「はい」
グラスの数を確認した。
ストローと、コースター。
盆を持つと、いつもの重さだった。
「紗季ちゃん、落とさんようにな」
「落としません」
「今日は信用してええかな」
「仕事は、ちゃんとします」
「頼むで」
五番の前で立ち止まり、ノックした。
「失礼します」
自分の声が、少し明るかった。
飲み物を置いて、空いたグラスを引き取る。
「ありがとうございます」
お客さんに言われ、頭を下げた。
扉を閉めると、胸の中に、また嬉しさが戻ってくる。
通知には、このあとの案内も書いてあった。
帰ったら落ち着いて読み直して、必要な返事をしよう。
今日はまず、ちゃんと働く。
そう思ったら、次の部屋へ向かう足が軽くなった。
仕事がひと段落したころ、千夏からもう一通届いた。
『またパレット行こ。ドリア食べて、歌お』
私は返信した。
『プラチナ?』
『もちろん』
スマートフォンをしまう前に、合格通知をもう一度だけ開いた。
何度見ても、自分の名前がある。
課題を読んで、聞き直して、やり直して。
怖いまま、自分の声を送った。
千夏が誘ってくれなかったら、まだ募集の画面を閉じたままだったかもしれない。
でも、最後に送信を押したのは、自分だった。
今度あの曲を歌うときは、今日のことを思い出すと思う。
先週より少しだけ、自分にも聞かせられる声で。
「信じるだけで越えられないものはない。」




