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16/30

海老ドリアと「プラチナ」

「いらっしゃいませ」


 言ってから、今日は自分がお客さんだったことを思い出した。


 自動ドアの向こうから、スーツ姿の二人が入ってくる。


 私は受付の横から一歩下がった。


「紗季、今日も働くん?」


 隣で千夏が口元を押さえている。


「癖。入口の音がしたら、出ちゃう」


「ちょっと頭も下げてたで」


「見なかったことにして」


 カラオケ店パレット。


 普段はここで注文を聞き、料理を運んでいる。


 今日は、声優養成所の課題を練習するために来た。


 平日の夕方。私のシフトは入っていない。


 同じ養成所に通う千夏を誘って、社員割引で部屋を使わせてもらうことにした。


「藤本さん、ご利用ですね」


 受付でわざと丁寧に言われ、私はバッグを持ち直した。


「はい。今日はお客さんです」


「ごゆっくりどうぞ」


 部屋番号を受け取り、千夏を案内する。


「こっち」


「なんか、頼もしいな」


「ここではね」


 言ってから、少し余計だったと思った。


 千夏は気にした様子もなく、廊下に貼られた料理の写真を見ている。


「ほんまに、こんなん出てくるん?」


「出るよ」


「写真だけ立派なやつちゃう?」


「私が運んでるんやから」


「それは信用できる」


 部屋に入り、バッグを置いた。


 千夏が台本を出す。


 私はリモコンとメニューを端へ寄せ、テーブルを広くした。


「飲み物、先に頼む?」


「あとで。忘れる前に一回やろ」


「忘れる前って、さっきまで授業やったやん」


「今なら、先生に言われたこと覚えてる」


 千夏は台本を開き、書き込みを指で追った。


 私は向かいに座る。


 課題は、二人の人物が待ち合わせをする短い場面だった。


 一人は引っ越しを決めている。


 もう一人には、まだ伝えていない。


 台詞は少ないのに、毎回どこかで止められる。


 今日は役を交代して、両方読んでみることになっていた。


「じゃあ、私が待ってる方ね」


「うん」


 千夏が一度、息を吐いた。


 さっきまでの声から、少しだけ温度が変わる。


「遅かったね」


「ごめん。電車、一本逃して」


 私も台本へ目を落とした。


「そう」


「……怒ってる?」


「別に。座れば?」


 短い沈黙。


 このあと、引っ越しの話を切り出す。


 私は次の台詞を読もうとして、一瞬迷った。


 千夏が顔を上げる。


「もう一回、そこからやろ」


「何か変やった?」


「まだ私、怒ってへんのに、紗季がもう謝ってる感じ」


「最初に、ごめんって言うやん」


「電車のことはね。引っ越すことまで、先に謝ってる」


 私は台本を見た。


 そんなつもりはなかった。


 けれど、さっき自分が出した声を思い返すと、少しわかる。


「言わなあかん、って考えすぎてるんかな」


「かもしれん。まだ、普通に座ろうとしてみたら?」


「わかった」


 もう一度、最初から。


 今度は、電車に遅れたことだけ考える。


 千夏の顔を見る。


 座ればと言われて、少しほっとする。


 それだけで、次の台詞がさっきより言いやすくなった。


「今の方が、私も聞きやすかった」


「ほんま?」


「うん。話しかけてくれた感じ」


 嬉しかった。


 同時に、千夏にはこういうことがわかるんだな、と思った。


 千夏は在学中に、オーディションへ合格したことがある。


 私たちは同じ教室で、同じ課題をもらっている。


 それでも、千夏の話には、ときどき学校の外の仕事が出てくる。


 収録の日にどうしたとか、現場で何を言われたとか。


 聞きたい。


 聞いておいた方がいいとも思う。


 でも、帰り道で一人になると、自分は何をしているんだろうと考える日があった。


「次、交代しよ」


 千夏が台本を持ち直した。


「私、待ってる方?」


「そう。今度は、私に帰らせんといて」


「引っ越しは決まってるやん」


「気持ちの話」


 私は椅子へ座り直した。


「遅かったね」


「ごめん。電車、一本逃して」


 千夏は、少し笑ってみせた。


 私もつられそうになる。


 でも、待っていた人は、たぶん笑いたくない。


「そう」


「怒ってる?」


「別に。座れば?」


 千夏が次の台詞へ入る。


 私は聞きながら、指先で台本の端を押さえた。


 話が終わると、千夏がこちらを見た。


「私、最後ちょっと急いだ?」


「うん」


「どこ?」


「言い終わったら帰る、って決めてたみたい。私の返事、待ってなかった」


 千夏が台本へ目を戻す。


「ああ。そうやな」


「ごめん、偉そうに」


「何で謝るん。聞いてくれてたんやろ」


「そうやけど」


「そこ、鉛筆で丸して。私、またやるから」


 言われたところへ、小さく丸をつけた。


 千夏の台本は、私のより書き込みが多い。


 余白にも矢印にも、迷った跡が残っていた。


 私は、そのページを少し長く見ていた。


「休憩しよか」


 千夏が伸びをした。


「喉、渇いた」


「飲み物、頼むね」


「ご飯も食べたい」


「もう?」


「さっきから、おいしそうな匂いする」


 そういえば、廊下の向こうから何か焼く匂いがしていた。


 私もメニューを開く。


 千夏が横へ移ってきて、同じページをのぞいた。


「おすすめは?」


「海老ドリア」


「海老、大きい?」


「大きい」


「ほな、それ」


 返事が早かった。


 内線を取って、ドリアを二つと飲み物を頼む。


 電話を置くと、千夏が私を見ていた。


「何?」


「注文する声、さっきの課題より自然」


「練習してる回数が違う」


「お客さんの役やったら、いけるやん」


「そのオーディションあったら教えて」


 千夏がバッグへ手を入れた。


「あるで」


「何が?」


「オーディション」


 私はリモコンを置いた。


「お客さんの役?」


「それは知らんけど」


 千夏がスマートフォンを出す。


 画面を私の方へ向けた。


「学校に来てた募集。これ、見た?」


「ああ……見た」


 募集要項を開いたことはある。


 応募条件を読んで、締め切りを確認して。


 そのまま閉じた。


「私、受けようと思ってるねん」


「そうなんや」


「紗季も受けへん?」


 私は画面を見たまま、すぐには答えなかった。


 受けてみたい。


 募集を見たときも、そう思った。


 でも、課題で何度も止められる自分の声を、知らない人に聞いてもらうのは怖かった。


「私、まだ課題でも――」


 扉がノックされた。


「どうぞ」


 入ってきた洋介さんは、二つのドリアを盆に載せていた。


 パレットの店主で、夕方から厨房に入っている。


「お待たせ。熱いから、台本どけてな」


「あ、はい」


 私は慌てて紙をまとめた。


 千夏もスマートフォンを引っ込める。


 白い皿が二つ、テーブルへ置かれた。


 表面のチーズが、ところどころ茶色く焼けている。


 その隙間で、ホワイトソースが小さく動いていた。


 真ん中には、ちゃんと海老が見える。


「……ほんまに大きい」


「疑われてましたよ、洋介さん」


「写真詐欺や思われた?」


 千夏が両手を振った。


「そこまでは言ってないです」


「ほな、食べて確かめて」


 洋介さんがスプーンを置く。


「今日は練習?」


「学校の課題です」


「仕事休みの日も、ようやるなあ」


「家やと、こんな声出せないので」


 私が答えると、洋介さんはテーブルの台本を見た。


「覚えること、いっぱいあるんやな」


「短い場面なんですけど、なかなか」


「短い方が、ごまかし利かへんか」


 私は台本へ目をやった。


「そうかもしれないです」


「ご飯の間ぐらい、置いとき」


 千夏が皿へ顔を近づける。


「いい匂い」


「最初の一口、気ぃつけて。皿も熱いから」


 洋介さんが出ていくと、二人でスプーンを持った。


 表面を割る。


 チーズの下から湯気が上がり、海老が一つ転がった。


 少しだけすくって、息を吹きかける。


 口へ入れると、まだ熱かった。


 でも、ソースとご飯がやわらかくなっていて、噛む前からおいしい。


 海老は、噛むとちゃんと弾む。


 千夏が目を丸くした。


「おいしい」


「でしょ」


「これ、カラオケ屋で出てくるんや」


「だから言ったやん」


「紗季、得意そう」


「ここではね」


 さっきと同じことを言った。


 今度は、嫌な感じがしなかった。


 千夏も、二口目を冷ましている。


「それで、さっきの」


 私はスプーンを皿の端へ置いた。


「オーディション?」


「うん」


 千夏がスマートフォンを、もう一度こちらへ向ける。


「この役。紗季が読んだら、聞いてみたいねん」


 役の説明を読んだ。


 明るくて、少し意地っ張り。


 人に頼るのが苦手で、頼まれたことは断れない。


「私、こんなに明るくないよ」


「明るい役ができへんとは、違うやろ」


「でも、千夏みたいに――」


「私みたいにせんでええよ」


 千夏はチーズを切りながら言った。


「さっきの課題、私の返事待ってくれてたやん。ああいうとこ、ええと思う」


 千夏の台本につけた、小さな丸を見る。


 褒められても、すぐに信じていいのかわからない。


 友達だから言ってくれているのかもしれない。


「今、友達やから褒めてると思った?」


「……ちょっと」


「友達やから、あかんとこも言うてるやん」


 私は笑ってしまった。


 さっきから何度も、やり直そうと言われている。


「そうやった」


「受かるかどうかは、私にはわからん。でも、聞いてみたいのは本当」


 千夏は、それ以上言わなかった。


 私もすぐに返事をしなくてよかった。


 もう一口、ドリアを食べる。


 さっきより冷めて、味がよくわかる。


 皿の縁に近いところは、チーズが少し固く焼けていた。


 スプーンで外して、ご飯と一緒に口へ入れた。


「千夏は、最初から受けるの怖くなかった?」


「怖かったよ」


「そうなん?」


「送ったあと、取り消したくなった」


「全然、そんな感じしない」


「今、ドリア食べてるからな」


 千夏は平気そうに、海老を一つすくった。


「合格したら、怖くなくなると思ってたんやけど」


「ならへん?」


「次は、また別やし。前に受かったからって、今度も受かるわけちゃうもん」


 千夏にも、わからないことがある。


 頭では知っていたはずなのに、初めて聞いた気がした。


「私、ちょっと焦ってた」


「何に?」


「千夏が仕事の話してるとき」


 スプーンの先で、ご飯を寄せた。


「嬉しいんやけど。帰ってから、自分は何してるんやろって」


 千夏は少し黙った。


 私は皿から目を上げられなかった。


「仕事の話、しない方がよかった?」


「違う。聞きたい」


 すぐに首を振った。


「聞きたいし、応援してる。それとは別に、焦る」


「……そっか」


 千夏は自分の皿を見た。


「私、紗季のバイトの話、好きやで」


「え?」


「お客さんが何食べてたとか。忙しかったとか。自分の知らんことやから」


「でも、声優の話ちゃうやん」


「紗季の話やん」


 私は返す言葉を探した。


 千夏はまたスプーンを持つ。


「私の仕事の話も、それぐらいで聞いてくれたらええよ。わからんことだらけやし」


 皿の上で、チーズが細く伸びた。


 千夏が途中で切ろうとして、うまくいかない。


「何これ、ずっとついてくる」


「海老ごと持ち上げたら?」


「重い」


 私もスプーンを持ち直した。


 同じ教室で、同じ課題をもらっている。


 それは、何も変わっていなかった。


「受けてみる」


 千夏が顔を上げた。


「うん」


「録音、付き合ってくれる?」


「もちろん。私のも聞いて」


「それは、ちゃんと言うよ」


「言って。さっきみたいに」


 食べ終わると、まず学校の課題をもう一度読んだ。


 役を交代して、互いに気になったところを伝える。


 そのあと、応募用の台詞を開いた。


 声を録る前に、私はスマートフォンの時計を見る。


「部屋、もうちょっと使いたい」


「延長できる?」


「聞いてくる」


 受付で確認して戻ると、千夏は台詞を小さく読んでいた。


「大丈夫やって」


「ほな、録ろか」


 最初の私は、役の説明にあった「明るい」を頑張りすぎていた。


「全部、元気に言おうとしてる」


「明るい子やから」


「明るい子も、困るやろ」


「ああ……」


 もう一度読む。


 今度は、誰へ話しているのか考えた。


 聞いてほしいことと、聞かれたくないこと。


 同じ短い台詞なのに、読み方が変わる。


 千夏の録音には、私が口を挟んだ。


「そこ、先に泣こうとしてない?」


「してるかも」


「まだ我慢した方が、私は聞きたい」


「わかった。もう一回」


 録り直して、聞いて、また録る。


 途中で笑ってしまったものも、外の音が入ったものもあった。


 最後に選んだ音声を、二人で黙って聞いた。


「私、これにする」


「うん」


 応募画面を開く。


 名前を入力し、必要な項目を埋めた。


 添付したファイルを確かめる。


 それでも、最後のボタンだけが押せない。


 画面を閉じて、もう一度開いた。


「紗季」


 千夏が手元をのぞく。


「今、何を確認してるん?」


「……間違ってないか」


「間違ってる?」


「たぶん、間違ってない」


「ほな、聞いてもらお」


 千夏は私のスマートフォンに触らなかった。


 私は自分の指で、送信を押した。


 画面が切り替わる。


 たったそれだけなのに、肩が急に疲れた。


「送った」


「うん」


「取り消したくなったの、ちょっとわかる」


「わかったやろ」


 千夏も応募を終えて、スマートフォンを伏せた。


 窓の外は、もう暗くなり始めている。


「一曲、歌ってから帰る?」


 千夏がリモコンを取った。


「何歌う?」


「プラチナ」


「いいね。二人で?」


「うん」


 マイクを一本ずつ持った。


 課題の声でも、応募用の声でもない。


 いつもの声で歌う。


 千夏が途中から入ってきて、私も少し声を大きくした。


 どちらかが前へ出ても、もう一人が聞こえなくなるわけではなかった。


 歌い終わると、台本をバッグへしまった。


 扉を開けたところで、盆を持った洋介さんと会う。


「練習、終わった?」


「今日は、オーディションに応募しました」


 洋介さんが足を止めた。


「二人とも?」


「はい」


「ほな、お疲れさん。返事来るまで、ちゃんとご飯食べや」


「食べます」


「その返事は信用できるな」


 千夏が隣でうなずく。


「ドリア、全部食べてましたから」


「私だけじゃないやん」


「また二人でおいで」


「はい」


 店を出てからも、千夏とどうでもいい話をした。


 次の課題。


 帰りの電車。


 隣の部屋から聞こえていた歌。


 駅へ向かう途中、私は一度だけバッグを開けた。


「もう返事、来たと思った?」


「違う。ちゃんと送れたかなって」


「完了の画面、二人で見たやん」


「そうやけど」


 スマートフォンをしまう。


「帰ったら、また見そう」


「送り直さんようにな」


「そこまではしない」


「ほんまかな」


 千夏の肩を軽く押すと、押し返された。


 パレットの看板が、少しずつ遠くなる。


 結果は、まだわからない。


 受かったあとのことを考えるには早いし、落ちたと決める理由もなかった。


「誘ってくれてありがとう」


「ドリア?」


「そっちも」


「ほな、また行こ」


「うん」


 駅の改札で別れた。


 電車に乗ってから、送信済みの画面をもう一度だけ確認した。


 ちゃんと、自分の名前がある。


 それを見て、ようやくスマートフォンをバッグへ戻した。


     *


 一週間後の金曜日。


「紗季ちゃん、三番にこれお願い」


 洋介さんの声で、私は厨房へ向かった。


 夕方からのお客さんが増え始めていた。


 受付の電話が鳴り、廊下では、部屋を探している人が番号を見上げている。


 今日はエプロンをつけて、料理を運ぶ側だ。


「海老ドリア。熱いから気ぃつけて」


「はい」


 洋介さんが盆へ皿を置いた。


 焼けたチーズの匂い。


 真ん中には、大きな海老。


 千夏が目を丸くしていたのを思い出した。


「スプーンも確認してな」


「あります」


「ほな、お願い」


 三番の扉をノックする。


「失礼します。海老ドリア、お持ちしました」


 歌っていたお客さんがマイクを下げ、テーブルを空けてくれた。


 料理を置いて、扉を閉める。


 少し歩いたところで、また歌が聞こえてきた。


 応募してからも、課題は増えた。


 バイトも、いつもどおりにある。


 家では、ついスマートフォンを見てしまう。


 学校から帰る電車でも、通知を確かめる。


 でも、料理を運んでいる間は、目の前のことをしていればよかった。


 飲み物の数。


 熱い皿の置き場所。


 通路の曲がり角と、開きかけた扉。


 考えることは、ちゃんとある。


「紗季ちゃん、ちょっと休憩入ってええよ」


 ひと区切りついたところで、洋介さんが言った。


「今、大丈夫ですか?」


「今のうち。水飲んでき」


 スタッフ用のスペースへ戻り、椅子に座った。


 足の裏が少しじんとする。


 水を一口飲んだ、そのときだった。


 バッグの中で、スマートフォンが震えた。


 千夏かな、と思った。


 今日は授業で一緒にならなかったから、課題のことかもしれない。


 画面を見て、コップを置いた。


 応募先の名前が出ていた。


 通知を開く。


 藤本紗季様。


 その下の文章を読む。


 途中で止まって、最初へ戻る。


 もう一度読む。


 膝の上で、片方の足に力が入った。


「……合格?」


 小さく声に出した。


 画面は変わらない。


 ちゃんと、そう書いてある。


 念のため、差出人をもう一度見た。


 宛先も確認した。


 私の名前だった。


「紗季ちゃん?」


 入口から、洋介さんの声がした。


「大丈夫?」


「はい」


 返事をしたのに、洋介さんはそのまま立っている。


「えらい顔してるけど」


「今、メールが来て」


 スマートフォンを持ち直す。


「この前、送った……オーディションの」


「ああ。千夏ちゃんと練習してたやつ?」


「はい」


 私はもう一度、画面を見た。


「合格って、来ました」


 洋介さんの目が少し大きくなった。


「ほんまに?」


「書いてあります」


「ほな、受かったんやな」


 そう言われて、ようやく息が出た。


 自分で何度も読んだのに、誰かの声で聞くと違った。


 私はうなずく。


「……受かりました」


「おめでとう」


 洋介さんは、いつもの声で言ってくれた。


 料理ができたときや、仕事を頼むときと、そんなに変わらない声。


 それが、嬉しかった。


「ありがとうございます」


「千夏ちゃんに言うた?」


「まだです」


「先に知らせたげて。休憩、まだあるから」


 洋介さんが厨房へ戻り、私は水を一口飲んだ。


 千夏とのメッセージを開く。


『通知来た』


 そこまで打って、指が止まった。


 もう一度、合格通知へ戻ってしまう。


 読んでから、続きを送った。


『合格って書いてある』


 すぐに既読がついた。


『紗季』


 短いメッセージのあとに、もう一つ。


『やったやん!』


 私はスマートフォンを握った。


 今ここにいたら、きっと腕をつかまれていたと思う。


『おめでとう!』


 文字を見ていたら、口元が勝手に緩んだ。


『千夏のおかげ』


 送ると、少し間があいた。


『送ったんは紗季やで』


 応募画面を閉じて、また開いた日のことを思い出す。


 千夏は、私のスマートフォンに触らなかった。


 自分で押すまで、隣で待っていてくれた。


『うん。ありがとう』


 今度は、画面を閉じても大丈夫だった。


 水を飲み終えて、立ち上がる。


 厨房へ戻ると、洋介さんが注文票を見ていた。


「伝えた?」


「はい」


「喜んでた?」


「私より、ちゃんと喜んでました」


「本人は、まだわからんか」


「ちょっと」


 洋介さんが盆を一つ、こちらへ寄せた。


「ほな、いつもどおりでええよ。五番、飲み物お願い」


「はい」


 グラスの数を確認した。


 ストローと、コースター。


 盆を持つと、いつもの重さだった。


「紗季ちゃん、落とさんようにな」


「落としません」


「今日は信用してええかな」


「仕事は、ちゃんとします」


「頼むで」


 五番の前で立ち止まり、ノックした。


「失礼します」


 自分の声が、少し明るかった。


 飲み物を置いて、空いたグラスを引き取る。


「ありがとうございます」


 お客さんに言われ、頭を下げた。


 扉を閉めると、胸の中に、また嬉しさが戻ってくる。


 通知には、このあとの案内も書いてあった。


 帰ったら落ち着いて読み直して、必要な返事をしよう。


 今日はまず、ちゃんと働く。


 そう思ったら、次の部屋へ向かう足が軽くなった。


 仕事がひと段落したころ、千夏からもう一通届いた。


『またパレット行こ。ドリア食べて、歌お』


 私は返信した。


『プラチナ?』


『もちろん』


 スマートフォンをしまう前に、合格通知をもう一度だけ開いた。


 何度見ても、自分の名前がある。


 課題を読んで、聞き直して、やり直して。


 怖いまま、自分の声を送った。


 千夏が誘ってくれなかったら、まだ募集の画面を閉じたままだったかもしれない。


 でも、最後に送信を押したのは、自分だった。


 今度あの曲を歌うときは、今日のことを思い出すと思う。


 先週より少しだけ、自分にも聞かせられる声で。


「信じるだけで越えられないものはない。」

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