油淋鶏と「唱」
摂陽大学の正門が閉まる十分前、三回生の桐谷澪は野外ステージの袖でしゃがみ込んだ。
「もう無理」
言ったところで、誰も助けてくれない。
明日は摂大祭初日。
三日前から「もう無理」は使い切っている。
ステージには養生テープが転がり、客席側では音響班がケーブルを巻いていた。大学祭実行委員の黄色い腕章は、汗と埃で少し灰色になっている。
「澪、帰るで」
佐伯杏奈が舞台の上から顔を出した。
同じ三回生。実行委員をやりながら、ダンスサークルにも所属している。
さっきまで最終リハーサルで踊っていたせいか、前髪が額に張りついていた。
「帰られへん」
「門閉まる」
「タイムテーブル、まだ直ってない」
「大学から追い出されてから直したらええやん」
「どこで」
「パレット」
杏奈は当然みたいに言った。
その後ろから、宮原日菜が段ボールを抱えて出てくる。
「私も行く」
「日菜は帰って寝たほうがええやろ」
「寝られると思う?」
段ボールの側面には、赤いマジックで、
『案内パンフ・差し替え』
と書かれている。
今日の夕方、五百部刷った案内パンフレットのステージ開始時間が一か所間違っていることが分かった。
広報担当の日菜の仕事だった。
「これ、三人でシール貼ったら一時間で終わる」
「五百枚を?」
「四百八十六。十四枚はもう貼った」
「誤差やん」
「十四枚やった人間に言う?」
日菜の目が笑っていなかった。
澪は立ち上がった。
朝六時半集合。
ステージ開始は九時半。
ゲストの入り時間が変更になり、ダンスサークルの持ち時間を三分削った。SNSの告知は修正済み。でも紙のパンフレットだけは、まだ四百八十六部残っている。
帰って寝るのが正しい。
でも三人とも、たぶん家に帰っても寝ない。
「……油淋鶏食べたい」
澪が言った。
杏奈が即答した。
「行こ」
日菜も段ボールを持ち直した。
「私、大盛りご飯つける」
それで決まった。
摂陽大学からパレットまでは、歩いて十分もかからない。
学生はみんな、大学を「摂大」と呼ぶ。
大学の近くには安い定食屋も、ラーメン屋も、ファミレスもある。
それでも夜が深くなるほど、最後に残るのはパレットだった。
講義の空き時間。
サークル終わり。
レポートが終わらない夜。
失恋した日。
試験が終わった昼。
誰が最初に見つけたのかは知らない。
ただ摂大生の間では、
「パレットはカラオケ屋やけど、腹減ってるときに行く店」
という妙な説明が普通に通じた。
午後十時二十八分。
三人が店へ入ると、受付にいた小川結衣が顔を上げた。
「あ、摂大祭の人ら」
黄色い腕章を見て、すぐ分かったらしい。
結衣自身も大学生で、摂大の学生たちが団体で来る夜には、顔を覚えていることが多い。
「明日ですよね?」
「うん」
「楽しみですね」
澪と杏奈と日菜は黙った。
結衣が首を傾げる。
「……楽しみ、ですよね?」
「今その言葉、ちょっと刺さる」
澪が言うと、結衣は笑った。
「修羅場ですか」
「だいぶ」
日菜が段ボールを床へ置く。
「これ、部屋に持って入っていい?」
「何です?」
「罪」
「重そうですね」
「四百八十六枚ある」
「具体的すぎる」
結衣は段ボールをのぞき、それから三人の顔を見た。
「何したんですか」
「時間、間違えた」
日菜が答える。
「全部?」
「全部」
「うわあ」
「その反応やめて」
「でも、うわあですよ」
「正直やな」
結衣は一番奥の少し広い部屋を取ってくれた。
「二時間?」
「三時間」
杏奈が言った。
「明日六時半集合やで」
「知ってる」
「寝る気ないやん」
「今寝ても起きられる自信ない」
それも一理ある気がして、澪は止めなかった。
部屋へ入るなり、日菜はテーブルの半分にパンフレットを積んだ。
杏奈がカラオケ端末を遠くへ避ける。
「歌うために来たんちゃうん?」
「まず貼る」
「飯は?」
「貼りながら食べる」
「油淋鶏に失礼やろ」
「じゃあ食べてから貼る」
結局、飯が最優先になった。
内線で油淋鶏を二皿、白ご飯を三つ。杏奈は烏龍茶、澪と日菜はジンジャーエールを頼んだ。
「二皿いる?」
澪が聞くと、杏奈が睨んだ。
「今日うちら何時間大学おったと思ってんの」
「十三時間」
「踊った私は十五時間分減ってる」
「時間の単位で腹減るん?」
「減る」
電話の向こうで誰かが笑った。
しばらくして、ドアが開いた。
「はい、お待たせ」
料理を運んできたのは、小川洋介の妻・美玲だった。
九州出身で、中華料理の厨房にいた人だ。
盆の上に、白い大皿が二枚。
油淋鶏が載っている。
鶏もも肉は大きく切られ、表面には細かな凹凸ができていた。
そこへ刻んだ白ねぎが山ほど載り、醤油色のたれが皿の底まで流れている。
湯気と一緒に、生姜と酢の匂いが立った。
「うわ」
日菜がパンフレットを押しのけた。
「そっち寄せて。油飛ぶよ」
美玲が言う。
三人で慌てて紙の山をテーブルの端へ移した。
「学祭?」
「はい」
「明日?」
「はい」
「その顔で大丈夫?」
今日二回目だった。
「大丈夫じゃないです」
澪が答える。
「じゃあ、まず食べ」
美玲はそれ以上聞かなかった。
「たれ足りなかったら言ってね。あと、ねぎ嫌いな子いる?」
三人とも首を振った。
「よし。いっぱい食べ」
ドアが閉まる。
十秒ほど、誰も箸を取らなかった。
「写真」
日菜が言った。
「今?」
「今やろ」
「さっきまで死にそうやったのに」
「死にそうでも写真は撮れる」
杏奈が照明の位置を気にし始めた。
「こっちから撮ったほうがねぎ光る」
「何で分かるん」
「映え担当やから」
「ダンスやろ」
一枚撮った。
二枚撮った。
日菜が三枚目を撮ろうとしたところで、澪が箸を伸ばした。
「もう無理」
「あっ」
一切れ取る。
衣の角から、たれが一滴落ちた。
口へ入れた瞬間、最初に酸味が来る。
すぐあとに、熱い肉と油の甘さが追いついた。
表面はざくっとしているのに、たれが染みたところだけ少し柔らかい。
「熱っ」
「そら熱いやろ」
杏奈が笑いながら自分も取った。
「……うま」
日菜も写真を諦めた。
「待って、これ白飯いる」
「もうある」
「日菜、自分で頼んだやん」
「今の私は、さっきの私と違う」
白いご飯へ鶏を一切れ載せる。
ねぎも、たれも一緒に。
三人とも、しばらく喋らなかった。
十三時間とか。
十五時間とか。
四百八十六枚とか。
朝六時半とか。
頭の中を埋めていた数字が、少しずつ遠くなる。
「……人間に戻る」
杏奈が言った。
「分かる」
澪は二切れ目を取った。
「私、今日ずっと怒ってたやん」
「うん」
日菜が答えた。
「否定せえや」
「怒ってたし」
「杏奈も怒ってたやろ」
「私は澪に怒ってた」
「知ってる」
ダンスサークルの持ち時間を三分削ったのは澪だった。
ゲストのリハーサル開始が遅れ、全体を組み直す必要があった。
どこかを削らなければならない。
実行委員として判断した。
相手が友達のサークルだったから、余計に嫌だった。
「ごめんな」
澪が言う。
杏奈は油淋鶏を噛んでいる。
「それ、今日何回目?」
「四回目くらい」
「もうええって」
「でも」
「私も分かってるから腹立つねん」
杏奈がご飯を食べる。
「誰か削らなあかんかったんやろ」
「うん」
「じゃあ明日、三分短くても一番盛り上げる」
「……うん」
「その代わり、転換絶対ミスんなよ」
「それは任せて」
「今の顔、信用ない」
「何でやねん」
日菜が笑った。
すぐに澪と杏奈がそちらを見る。
「何」
「いや」
「日菜もやぞ」
「何が」
「パンフ」
日菜の箸が止まった。
「……すみませんでした」
「今日何回目?」
今度は杏奈が聞いた。
「数えてない」
「もうええって」
「でも四百八十六」
「だから貼るんやろ、三人で」
澪が言うと、日菜が小さく息を吐いた。
「一人でやるつもりやった」
「何時まで?」
「終わるまで」
「アホやん」
「知ってる」
「知ってるなら最初から言え」
日菜は少しだけ笑った。
「言ったら怒られると思った」
「もう怒ってるから一緒や」
三人で笑った。
笑ったら、油淋鶏が少し冷めた。
でも冷めると、今度はたれの味がはっきりして、それもうまかった。
二皿目の最後の一切れを誰が食べるかで、じゃんけんをした。
日菜が勝った。
「ミスした人が食うん?」
「反省したからゼロ」
「便利な制度やな」
皿が空になる。
杏奈が深く背もたれへ沈んだ。
「あと三時間いける気する」
「三時間で済むと思ってんの?」
日菜が言う。
「言うな」
そこへドアが開いた。
「空いた皿、下げますね」
結衣だった。
大皿を重ねようとして、テーブルの端に積まれたパンフレットを見る。
「……これ、全部やるんですか?」
「やる」
日菜が答える。
「今から?」
「今から」
結衣が壁の時計を見る。
十時五十分。
「大学祭って、もっとキラキラしたもんやと思ってました」
「表側だけな」
澪が言う。
「裏側、シール貼りなんですね」
「しかも四百八十六枚」
「夢ないなあ」
「店員に言われたくない」
杏奈が笑う。
結衣は皿を片手に持ったまま、正しい開始時間を印刷した小さなシールを一枚つまんだ。
「これ貼るんです?」
「そう」
「十一時十三分」
「そう」
「三分だけ?」
杏奈が澪を指す。
「この人に聞いて」
「やめて」
結衣はパンフレットを一枚取った。
「一枚やってみていいです?」
「ええけど、真っ直ぐな」
日菜が急に真剣になる。
「こう?」
結衣が貼る。
三人がのぞき込む。
少し右に傾いていた。
「あ」
結衣が言った。
「あ、じゃない!」
日菜が叫ぶ。
「ごめんなさい!」
「四百八十六枚あるのに一枚増えた!」
「増えてないやろ」
澪が笑う。
「もう手伝わん!」
結衣が皿を抱えて立ち上がる。
「一枚しかやってへんやん」
「その一枚で怒られたからです!」
ドアへ向かいながら、振り返る。
「十一時十三分ですよね?」
「そう」
杏奈が答える。
「覚えたん?」
「あんだけ三分三分言われたら覚えますよ」
「明日来てよ」
「起きられたら」
「そこ頑張って」
「こっちも仕事ありますから」
結衣は笑って出ていった。
ドアが閉まる。
三人で、結衣の貼った少し曲がったシールを見る。
「これどうする?」
澪が聞く。
日菜はしばらく見ていた。
「……そのままでええ」
「ええん?」
「一枚ぐらい」
「さっき怒ってたやん」
「記念」
日菜はそのパンフレットだけ別の場所へ置いた。
「はい、始めよ」
三人でシール貼りを始めた。
正しい開始時間を、間違った数字の上へ一枚ずつ。
最初の十枚は丁寧だった。
二十枚目から会話が増えた。
五十枚目で杏奈が一枚曲げた。
百枚目で日菜が数えるのをやめた。
「一曲歌お」
杏奈が突然言った。
「まだ半分も終わってへん」
「食後すぐ働いたら身体に悪い」
「今、一番健康気にする?」
「休憩大事」
端末を取る。
迷いなく曲を入れた。
画面に出た文字を見て、澪は笑った。
「『唱』?」
「明日の練習」
「ダンスの?」
「違う。精神の」
「何それ」
イントロが始まった。
杏奈は立った。
さっきまで疲れたと言っていた人間とは思えない。
マイクを持ち、狭い部屋の真ん中へ出る。
肩が動く。
膝が曲がる。
最初は冗談みたいだったのに、数秒後には本気で踊っていた。
「ちょ、パンフ!」
日菜が紙の山を守る。
「踊るならそっち!」
杏奈は聞いていない。
澪も二本目のマイクを取った。
「歌えるん?」
「たぶん!」
「一番信用ないやつ!」
入れるところだけ入る。
分からないところは勢いでいく。
日菜まで立った。
「私、サビだけ!」
「それでええ!」
誰が言ったのか分からない。
三人の声が重なる。
音程なんて途中からどうでもよくなった。
杏奈が振りを間違え、澪にぶつかった。
澪が笑って歌えなくなる。
日菜も笑う。
明日――いや、もう数時間後。
何千人来るか分からない。
雨が降るかもしれない。
音響が止まるかもしれない。
パンフレットの時間を見て怒る人がいるかもしれない。
ダンスの三分は戻らない。
ゲストが予定どおり来る保証もない。
全部、怖い。
でも今は、三人とも声を出していた。
曲が終わった。
息が切れている。
「……アホや」
澪が言った。
「誰が」
「全員」
「知ってる」
三人でソファへ倒れた。
廊下の向こうから、
「めっちゃ聞こえてましたよー」
結衣の声が飛んできた。
「恥ず!」
日菜が顔を隠す。
「店員に筒抜けやん」
「カラオケ屋やから当たり前やろ」
杏奈が笑う。
「はい、現実戻るで」
澪がパンフレットを引き寄せた。
「嫌や」
「歌ったやろ」
「歌ったから終わりでよくない?」
「よくない」
また三人でシールを貼る。
二百枚。
三百枚。
店の外を、終電後の静かな車が通る。
四百枚を超えたころには、さっきまでの険悪さが嘘みたいに、誰も明日の失敗を口にしなくなっていた。
最後の一枚。
日菜がシールを貼る。
三人で見る。
「終わった」
「ほんま?」
「四百八十六」
「数えたん?」
「途中から数え直した」
「怖」
時計は午前零時十一分。
朝の集合まで、六時間十九分。
「帰ろ」
澪が言った。
誰も反対しなかった。
段ボールへパンフレットを戻す。
結衣が貼った一枚だけ、日菜が別に持った。
「それどうすんの?」
杏奈が聞く。
「私の分」
「曲がってるで」
「知ってる」
「記念?」
「失敗の?」
「それも含めて」
会計へ向かうと、受付には結衣がいた。
「終わりました?」
「終わった」
「四百八十六?」
「全部」
「すご」
日菜が例の一枚を見せる。
「これ、もらうから」
結衣が見る。
「あ、私の曲がったやつ」
「そう」
「捨てていいですよ」
「捨てへん」
「何で?」
「なんとなく」
結衣は少し笑った。
「明日、十一時十三分」
杏奈が念を押す。
「覚えてます」
「来てな」
「起きられたら」
「またそれ」
「でも、時間は絶対間違えませんよ」
日菜が苦笑いした。
「それ私に刺さってる?」
「そんなつもりは」
「絶対あるやろ」
結衣は笑って会計を続けた。
「頑張ってください、摂大祭」
三人が今度は黙らなかった。
「うん」
澪が答える。
「ありがとう」
店を出る。
夜風が思ったより冷たかった。
摂大の方向を見る。
校舎はほとんど暗い。
朝になれば、あそこにテントが並ぶ。
音が出る。
人が走る。
客が来る。
そして、たぶん何か失敗する。
「澪」
杏奈が言った。
「今日、失敗しても怒んなよ」
「内容による」
「そこは怒らんって言えや」
「日菜は?」
「私はもう昨日の分怒られた」
「私はまだ三分の件忘れてないから」
「しつこ」
三人で歩き出す。
今日が楽しみかと聞かれたら、まだ即答はできない。
怖い。
しんどい。
逃げたい。
でも、この夜をあとで思い出す気はした。
摂大祭そのものより、もしかしたら。
油淋鶏のねぎの匂い。
四百八十六枚のシール。
少し曲がった一枚。
狭い部屋で三人して息を切らしたこと。
そういう夜が一つくらいあってもいい。
――なにはともあれ、ご唱和あれ。




