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17/30

油淋鶏と「唱」

 摂陽大学の正門が閉まる十分前、三回生の桐谷澪は野外ステージの袖でしゃがみ込んだ。


「もう無理」


 言ったところで、誰も助けてくれない。


 明日は摂大祭初日。


 三日前から「もう無理」は使い切っている。


 ステージには養生テープが転がり、客席側では音響班がケーブルを巻いていた。大学祭実行委員の黄色い腕章は、汗と埃で少し灰色になっている。


「澪、帰るで」


 佐伯杏奈が舞台の上から顔を出した。


 同じ三回生。実行委員をやりながら、ダンスサークルにも所属している。


 さっきまで最終リハーサルで踊っていたせいか、前髪が額に張りついていた。


「帰られへん」


「門閉まる」


「タイムテーブル、まだ直ってない」


「大学から追い出されてから直したらええやん」


「どこで」


「パレット」


 杏奈は当然みたいに言った。


 その後ろから、宮原日菜が段ボールを抱えて出てくる。


「私も行く」


「日菜は帰って寝たほうがええやろ」


「寝られると思う?」


 段ボールの側面には、赤いマジックで、


『案内パンフ・差し替え』


 と書かれている。


 今日の夕方、五百部刷った案内パンフレットのステージ開始時間が一か所間違っていることが分かった。


 広報担当の日菜の仕事だった。


「これ、三人でシール貼ったら一時間で終わる」


「五百枚を?」


「四百八十六。十四枚はもう貼った」


「誤差やん」


「十四枚やった人間に言う?」


 日菜の目が笑っていなかった。


 澪は立ち上がった。


 朝六時半集合。


 ステージ開始は九時半。


 ゲストの入り時間が変更になり、ダンスサークルの持ち時間を三分削った。SNSの告知は修正済み。でも紙のパンフレットだけは、まだ四百八十六部残っている。


 帰って寝るのが正しい。


 でも三人とも、たぶん家に帰っても寝ない。


「……油淋鶏食べたい」


 澪が言った。


 杏奈が即答した。


「行こ」


 日菜も段ボールを持ち直した。


「私、大盛りご飯つける」


 それで決まった。


 摂陽大学からパレットまでは、歩いて十分もかからない。


 学生はみんな、大学を「摂大」と呼ぶ。


 大学の近くには安い定食屋も、ラーメン屋も、ファミレスもある。


 それでも夜が深くなるほど、最後に残るのはパレットだった。


 講義の空き時間。


 サークル終わり。


 レポートが終わらない夜。


 失恋した日。


 試験が終わった昼。


 誰が最初に見つけたのかは知らない。


 ただ摂大生の間では、


「パレットはカラオケ屋やけど、腹減ってるときに行く店」


 という妙な説明が普通に通じた。


 午後十時二十八分。


 三人が店へ入ると、受付にいた小川結衣が顔を上げた。


「あ、摂大祭の人ら」


 黄色い腕章を見て、すぐ分かったらしい。


 結衣自身も大学生で、摂大の学生たちが団体で来る夜には、顔を覚えていることが多い。


「明日ですよね?」


「うん」


「楽しみですね」


 澪と杏奈と日菜は黙った。


 結衣が首を傾げる。


「……楽しみ、ですよね?」


「今その言葉、ちょっと刺さる」


 澪が言うと、結衣は笑った。


「修羅場ですか」


「だいぶ」


 日菜が段ボールを床へ置く。


「これ、部屋に持って入っていい?」


「何です?」


「罪」


「重そうですね」


「四百八十六枚ある」


「具体的すぎる」


 結衣は段ボールをのぞき、それから三人の顔を見た。


「何したんですか」


「時間、間違えた」


 日菜が答える。


「全部?」


「全部」


「うわあ」


「その反応やめて」


「でも、うわあですよ」


「正直やな」


 結衣は一番奥の少し広い部屋を取ってくれた。


「二時間?」


「三時間」


 杏奈が言った。


「明日六時半集合やで」


「知ってる」


「寝る気ないやん」


「今寝ても起きられる自信ない」


 それも一理ある気がして、澪は止めなかった。


 部屋へ入るなり、日菜はテーブルの半分にパンフレットを積んだ。


 杏奈がカラオケ端末を遠くへ避ける。


「歌うために来たんちゃうん?」


「まず貼る」


「飯は?」


「貼りながら食べる」


「油淋鶏に失礼やろ」


「じゃあ食べてから貼る」


 結局、飯が最優先になった。


 内線で油淋鶏を二皿、白ご飯を三つ。杏奈は烏龍茶、澪と日菜はジンジャーエールを頼んだ。


「二皿いる?」


 澪が聞くと、杏奈が睨んだ。


「今日うちら何時間大学おったと思ってんの」


「十三時間」


「踊った私は十五時間分減ってる」


「時間の単位で腹減るん?」


「減る」


 電話の向こうで誰かが笑った。


 しばらくして、ドアが開いた。


「はい、お待たせ」


 料理を運んできたのは、小川洋介の妻・美玲だった。


 九州出身で、中華料理の厨房にいた人だ。


 盆の上に、白い大皿が二枚。


 油淋鶏が載っている。


 鶏もも肉は大きく切られ、表面には細かな凹凸ができていた。


 そこへ刻んだ白ねぎが山ほど載り、醤油色のたれが皿の底まで流れている。


 湯気と一緒に、生姜と酢の匂いが立った。


「うわ」


 日菜がパンフレットを押しのけた。


「そっち寄せて。油飛ぶよ」


 美玲が言う。


 三人で慌てて紙の山をテーブルの端へ移した。


「学祭?」


「はい」


「明日?」


「はい」


「その顔で大丈夫?」


 今日二回目だった。


「大丈夫じゃないです」


 澪が答える。


「じゃあ、まず食べ」


 美玲はそれ以上聞かなかった。


「たれ足りなかったら言ってね。あと、ねぎ嫌いな子いる?」


 三人とも首を振った。


「よし。いっぱい食べ」


 ドアが閉まる。


 十秒ほど、誰も箸を取らなかった。


「写真」


 日菜が言った。


「今?」


「今やろ」


「さっきまで死にそうやったのに」


「死にそうでも写真は撮れる」


 杏奈が照明の位置を気にし始めた。


「こっちから撮ったほうがねぎ光る」


「何で分かるん」


「映え担当やから」


「ダンスやろ」


 一枚撮った。


 二枚撮った。


 日菜が三枚目を撮ろうとしたところで、澪が箸を伸ばした。


「もう無理」


「あっ」


 一切れ取る。


 衣の角から、たれが一滴落ちた。


 口へ入れた瞬間、最初に酸味が来る。


 すぐあとに、熱い肉と油の甘さが追いついた。


 表面はざくっとしているのに、たれが染みたところだけ少し柔らかい。


「熱っ」


「そら熱いやろ」


 杏奈が笑いながら自分も取った。


「……うま」


 日菜も写真を諦めた。


「待って、これ白飯いる」


「もうある」


「日菜、自分で頼んだやん」


「今の私は、さっきの私と違う」


 白いご飯へ鶏を一切れ載せる。


 ねぎも、たれも一緒に。


 三人とも、しばらく喋らなかった。


 十三時間とか。


 十五時間とか。


 四百八十六枚とか。


 朝六時半とか。


 頭の中を埋めていた数字が、少しずつ遠くなる。


「……人間に戻る」


 杏奈が言った。


「分かる」


 澪は二切れ目を取った。


「私、今日ずっと怒ってたやん」


「うん」


 日菜が答えた。


「否定せえや」


「怒ってたし」


「杏奈も怒ってたやろ」


「私は澪に怒ってた」


「知ってる」


 ダンスサークルの持ち時間を三分削ったのは澪だった。


 ゲストのリハーサル開始が遅れ、全体を組み直す必要があった。


 どこかを削らなければならない。


 実行委員として判断した。


 相手が友達のサークルだったから、余計に嫌だった。


「ごめんな」


 澪が言う。


 杏奈は油淋鶏を噛んでいる。


「それ、今日何回目?」


「四回目くらい」


「もうええって」


「でも」


「私も分かってるから腹立つねん」


 杏奈がご飯を食べる。


「誰か削らなあかんかったんやろ」


「うん」


「じゃあ明日、三分短くても一番盛り上げる」


「……うん」


「その代わり、転換絶対ミスんなよ」


「それは任せて」


「今の顔、信用ない」


「何でやねん」


 日菜が笑った。


 すぐに澪と杏奈がそちらを見る。


「何」


「いや」


「日菜もやぞ」


「何が」


「パンフ」


 日菜の箸が止まった。


「……すみませんでした」


「今日何回目?」


 今度は杏奈が聞いた。


「数えてない」


「もうええって」


「でも四百八十六」


「だから貼るんやろ、三人で」


 澪が言うと、日菜が小さく息を吐いた。


「一人でやるつもりやった」


「何時まで?」


「終わるまで」


「アホやん」


「知ってる」


「知ってるなら最初から言え」


 日菜は少しだけ笑った。


「言ったら怒られると思った」


「もう怒ってるから一緒や」


 三人で笑った。


 笑ったら、油淋鶏が少し冷めた。


 でも冷めると、今度はたれの味がはっきりして、それもうまかった。


 二皿目の最後の一切れを誰が食べるかで、じゃんけんをした。


 日菜が勝った。


「ミスした人が食うん?」


「反省したからゼロ」


「便利な制度やな」


 皿が空になる。


 杏奈が深く背もたれへ沈んだ。


「あと三時間いける気する」


「三時間で済むと思ってんの?」


 日菜が言う。


「言うな」


 そこへドアが開いた。


「空いた皿、下げますね」


 結衣だった。


 大皿を重ねようとして、テーブルの端に積まれたパンフレットを見る。


「……これ、全部やるんですか?」


「やる」


 日菜が答える。


「今から?」


「今から」


 結衣が壁の時計を見る。


 十時五十分。


「大学祭って、もっとキラキラしたもんやと思ってました」


「表側だけな」


 澪が言う。


「裏側、シール貼りなんですね」


「しかも四百八十六枚」


「夢ないなあ」


「店員に言われたくない」


 杏奈が笑う。


 結衣は皿を片手に持ったまま、正しい開始時間を印刷した小さなシールを一枚つまんだ。


「これ貼るんです?」


「そう」


「十一時十三分」


「そう」


「三分だけ?」


 杏奈が澪を指す。


「この人に聞いて」


「やめて」


 結衣はパンフレットを一枚取った。


「一枚やってみていいです?」


「ええけど、真っ直ぐな」


 日菜が急に真剣になる。


「こう?」


 結衣が貼る。


 三人がのぞき込む。


 少し右に傾いていた。


「あ」


 結衣が言った。


「あ、じゃない!」


 日菜が叫ぶ。


「ごめんなさい!」


「四百八十六枚あるのに一枚増えた!」


「増えてないやろ」


 澪が笑う。


「もう手伝わん!」


 結衣が皿を抱えて立ち上がる。


「一枚しかやってへんやん」


「その一枚で怒られたからです!」


 ドアへ向かいながら、振り返る。


「十一時十三分ですよね?」


「そう」


 杏奈が答える。


「覚えたん?」


「あんだけ三分三分言われたら覚えますよ」


「明日来てよ」


「起きられたら」


「そこ頑張って」


「こっちも仕事ありますから」


 結衣は笑って出ていった。


 ドアが閉まる。


 三人で、結衣の貼った少し曲がったシールを見る。


「これどうする?」


 澪が聞く。


 日菜はしばらく見ていた。


「……そのままでええ」


「ええん?」


「一枚ぐらい」


「さっき怒ってたやん」


「記念」


 日菜はそのパンフレットだけ別の場所へ置いた。


「はい、始めよ」


 三人でシール貼りを始めた。


 正しい開始時間を、間違った数字の上へ一枚ずつ。


 最初の十枚は丁寧だった。


 二十枚目から会話が増えた。


 五十枚目で杏奈が一枚曲げた。


 百枚目で日菜が数えるのをやめた。


「一曲歌お」


 杏奈が突然言った。


「まだ半分も終わってへん」


「食後すぐ働いたら身体に悪い」


「今、一番健康気にする?」


「休憩大事」


 端末を取る。


 迷いなく曲を入れた。


 画面に出た文字を見て、澪は笑った。


「『唱』?」


「明日の練習」


「ダンスの?」


「違う。精神の」


「何それ」


 イントロが始まった。


 杏奈は立った。


 さっきまで疲れたと言っていた人間とは思えない。


 マイクを持ち、狭い部屋の真ん中へ出る。


 肩が動く。


 膝が曲がる。


 最初は冗談みたいだったのに、数秒後には本気で踊っていた。


「ちょ、パンフ!」


 日菜が紙の山を守る。


「踊るならそっち!」


 杏奈は聞いていない。


 澪も二本目のマイクを取った。


「歌えるん?」


「たぶん!」


「一番信用ないやつ!」


 入れるところだけ入る。


 分からないところは勢いでいく。


 日菜まで立った。


「私、サビだけ!」


「それでええ!」


 誰が言ったのか分からない。


 三人の声が重なる。


 音程なんて途中からどうでもよくなった。


 杏奈が振りを間違え、澪にぶつかった。


 澪が笑って歌えなくなる。


 日菜も笑う。


 明日――いや、もう数時間後。


 何千人来るか分からない。


 雨が降るかもしれない。


 音響が止まるかもしれない。


 パンフレットの時間を見て怒る人がいるかもしれない。


 ダンスの三分は戻らない。


 ゲストが予定どおり来る保証もない。


 全部、怖い。


 でも今は、三人とも声を出していた。


 曲が終わった。


 息が切れている。


「……アホや」


 澪が言った。


「誰が」


「全員」


「知ってる」


 三人でソファへ倒れた。


 廊下の向こうから、


「めっちゃ聞こえてましたよー」


 結衣の声が飛んできた。


「恥ず!」


 日菜が顔を隠す。


「店員に筒抜けやん」


「カラオケ屋やから当たり前やろ」


 杏奈が笑う。


「はい、現実戻るで」


 澪がパンフレットを引き寄せた。


「嫌や」


「歌ったやろ」


「歌ったから終わりでよくない?」


「よくない」


 また三人でシールを貼る。


 二百枚。


 三百枚。


 店の外を、終電後の静かな車が通る。


 四百枚を超えたころには、さっきまでの険悪さが嘘みたいに、誰も明日の失敗を口にしなくなっていた。


 最後の一枚。


 日菜がシールを貼る。


 三人で見る。


「終わった」


「ほんま?」


「四百八十六」


「数えたん?」


「途中から数え直した」


「怖」


 時計は午前零時十一分。


 朝の集合まで、六時間十九分。


「帰ろ」


 澪が言った。


 誰も反対しなかった。


 段ボールへパンフレットを戻す。


 結衣が貼った一枚だけ、日菜が別に持った。


「それどうすんの?」


 杏奈が聞く。


「私の分」


「曲がってるで」


「知ってる」


「記念?」


「失敗の?」


「それも含めて」


 会計へ向かうと、受付には結衣がいた。


「終わりました?」


「終わった」


「四百八十六?」


「全部」


「すご」


 日菜が例の一枚を見せる。


「これ、もらうから」


 結衣が見る。


「あ、私の曲がったやつ」


「そう」


「捨てていいですよ」


「捨てへん」


「何で?」


「なんとなく」


 結衣は少し笑った。


「明日、十一時十三分」


 杏奈が念を押す。


「覚えてます」


「来てな」


「起きられたら」


「またそれ」


「でも、時間は絶対間違えませんよ」


 日菜が苦笑いした。


「それ私に刺さってる?」


「そんなつもりは」


「絶対あるやろ」


 結衣は笑って会計を続けた。


「頑張ってください、摂大祭」


 三人が今度は黙らなかった。


「うん」


 澪が答える。


「ありがとう」


 店を出る。


 夜風が思ったより冷たかった。


 摂大の方向を見る。


 校舎はほとんど暗い。


 朝になれば、あそこにテントが並ぶ。


 音が出る。


 人が走る。


 客が来る。


 そして、たぶん何か失敗する。


「澪」


 杏奈が言った。


「今日、失敗しても怒んなよ」


「内容による」


「そこは怒らんって言えや」


「日菜は?」


「私はもう昨日の分怒られた」


「私はまだ三分の件忘れてないから」


「しつこ」


 三人で歩き出す。


 今日が楽しみかと聞かれたら、まだ即答はできない。


 怖い。


 しんどい。


 逃げたい。


 でも、この夜をあとで思い出す気はした。


 摂大祭そのものより、もしかしたら。


 油淋鶏のねぎの匂い。


 四百八十六枚のシール。


 少し曲がった一枚。


 狭い部屋で三人して息を切らしたこと。


 そういう夜が一つくらいあってもいい。


 ――なにはともあれ、ご唱和あれ。

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