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18/30

ロールキャベツと「メリッサ」

 午前二時を過ぎると、大学生でも少しだけ大人しくなる。


 少なくとも、俺たち三人はそうだった。


「で、ほんまに来年も摂大おるん?」


 西野亮介が聞いた。


「おるよ」


「五回生?」


「言うな」


「事実やん」


「五年目の四回生や」


「一緒やろ」


 向かいで森川智也が笑った。


「肩書きにこだわるなって」


「お前らは卒業するから言えるねん」


 言ってから、少しだけ空気が止まった。


 まずいと思った。


 亮介も智也も悪くない。


 俺が卒業できないのも、二人のせいではない。


 分かっている。


「あー、もうこの話終わり」


 俺はメニューを開いた。


「腹減った。何食う?」


 摂陽大学から歩いて十分ほど。


 パレットの一番奥の部屋。


 壁の時計は、午前二時十一分を指していた。


 今日――正確には昨日、摂大で卒業予定者の最終確認があった。


 亮介の名前はあった。


 智也の名前もあった。


 俺の名前はなかった。


 知っていた。


 一か月前には、大学から連絡も来ていた。


 卒業要件の必修を一つ落とした。


 再試も駄目だった。


 どう計算しても、春には卒業できない。


 それでも掲示された一覧に自分の学籍番号がないのを見ると、胸の奥に小さな穴が開いた。


 そんな俺を二人は夕飯に誘った。


 そこからゲームセンターへ行って、ボウリングへ行って、ファミレスでコーヒーを飲んだ。


 帰ればいいのに、


「最後にパレット行かへん?」


 と言い出したのは智也だった。


「最後って何やねん」


 俺が言うと、


「今日の最後」


 と返された。


 午前一時四十八分。


 今日の最後どころか、もう翌日だった。


 それでも三人とも帰らなかった。


 四年前、大学に入ったころからそうだった。


 帰ればいい時間に帰らない。


 それが大学生だと思っていた。


「これ、ええんちゃう?」


 亮介がメニューを指した。


 ロールキャベツ。


「カラオケで?」


「今さらそこ?」


 智也が言う。


 確かに。


 パレットでその疑問を持つのは、もう遅い。


 俺たちは一年のころからこの店へ来ていた。


 最初は歌うため。


 そのうち、飯を食うため。


 三回生のころには、誰かが「腹減った」と言えば、自然にここへ向かうようになっていた。


「三つ頼む?」


 俺が聞く。


「俺、二個いける」


 亮介が言った。


「一皿何個?」


「二個って書いてある」


「じゃあ三皿」


「六個やぞ」


「三人やから二個ずつ」


「お前、頭ええな」


「それ言われると今、めっちゃ腹立つ」


「あ」


 亮介が口を押さえる。


 智也が笑った。


「地雷原みたいやな、今日の悠真」


「神谷悠真、二十二歳。取り扱い注意です」


「二十三になるやろ」


「それも言うな」


 内線を取った。


 ロールキャベツ三皿。


 フライドポテト一皿。


 飲み物を三つ。


 注文を済ませると、亮介が端末を手に取った。


「歌う?」


「まだ歌うん?」


「カラオケ屋やぞ」


「さっきまで三時間ボウリングしてた人間とは思われへん」


「腕と喉は別」


 適当な曲を入れる。


 亮介が歌った。


 智也が途中から入った。


 俺は聴いていた。


 二人の顔を見る。


 亮介は四月から東京へ行く。


 広告関係の会社に決まっている。


 本人は「東京いうても電車で帰れる」と言っているけれど、今までみたいに講義終わりに呼び出すことはできない。


 智也は大阪に残る。


 地元のメーカーに就職する。


 会社は摂大から電車で四十分くらい。


 近い。


 でも大学には、もう来ない。


 俺だけが来る。


 四月になっても学生証を出して、同じ門をくぐる。


 新入生が入ってくる。


 俺は五年目。


 笑える。


 いや、笑うしかない。


「悠真」


 呼ばれて顔を上げた。


「何」


「全然聞いてへんやん」


「聞いてる」


「今、俺めっちゃ外したで」


「それはいつも」


「聞いてるやん」


 ドアがノックされた。


「失礼します」


 入ってきたのは田中結衣だった。


 パレットでよく見る大学生のバイトだ。


 大きな盆に皿が三枚。


「ロールキャベツ、お待たせしました」


「うわ」


 亮介がマイクを置いた。


「めっちゃちゃんとしてるやん」


「ちゃんとしてないと思って頼んだんですか?」


「いや、そういう意味じゃ」


「店長に言っときますね」


「やめて」


 結衣が笑った。


 白い深皿に、ロールキャベツが二つ。


 スープは透明に近い琥珀色だった。


 人参、玉ねぎ、小さく切ったベーコン。


 表面には刻んだパセリ。


 トマト煮込みを想像していたので、少し意外だった。


「これ、洋介さん?」


 智也が聞く。


「はい。店長です」


「フレンチの人やったよな」


「元ですけどね。ロールキャベツはコンソメです。夜中なんで、こっちのほうが食べやすいって」


「夜中二時に六個頼んだ俺らは?」


「知りません」


 結衣は即答した。


「ごゆっくり」


 出ていく。


 俺はスプーンを取った。


 まずスープを飲む。


 熱い。


 思ったより軽い。


 玉ねぎの甘さと、ベーコンの塩気が先に来る。


「うま」


 智也も飲んだ。


「これ夜中にええな」


「六個頼んだ人間が健康気にすんな」


 亮介はもうロールキャベツにナイフを入れていた。


 柔らかく煮えたキャベツが、抵抗なく切れる。


 中から肉が見えた。


「待って」


 亮介が言う。


「何」


「これ絶対うまいやつ」


「食ってから言え」


 一口。


 亮介の顔が止まる。


「……うま」


「語彙」


「お前もさっき言ったやろ」


 俺も切る。


 何枚も重なったキャベツの内側に、ひき肉が詰まっている。


 フォークを入れると、包んでいた葉が少しほどけた。


 肉だけを食べる。


 粗すぎず、細かすぎない。


 次にキャベツと一緒に食べる。


 こっちのほうがうまかった。


 肉の脂を、柔らかい葉が受け止めている。


 スープも染みている。


「俺さ」


 智也が言った。


「一年のとき、悠真絶対四年で辞めると思ってた」


「何で?」


「大学向いてなかったやん」


「失礼やな」


「最初の講義、三日でサボった」


「履修登録ミスってたからや」


「新歓も全然来んかったし」


「人多いの嫌いやねん」


 亮介が笑う。


「なのに俺らとは四年おったな」


「お前らが勝手についてきたんやろ」


「逆や。最初に話しかけてきたん悠真」


「そうやった?」


「オリエンテーション」


 智也が言った。


「教室分からんから、『経営学部これで合ってる?』って」


「ああ」


 思い出した。


 三人とも同じ場所を探していた。


 結局、教室は違った。


 それなのに三人で座っていた。


 係員に指摘されて移動した。


「最初から間違えてたな、俺ら」


 亮介が言う。


「お前と一緒にすんな。卒業するやん」


 また言った。


 今度は空気が止まらなかった。


 智也がロールキャベツを切りながら言った。


「そんな気になる?」


「なるよ」


「一年やん」


「卒業するやつは簡単に言うねん」


「怒んなって」


「怒ってへん」


「怒ってるやん」


「……ちょっとな」


 スープを飲んだ。


 喉に熱が通る。


「別に、一年大学行くことが嫌なんちゃうねん」


 二人は黙っていた。


「授業受けたらええし、バイトも続ける。学費は親に頭下げた。自分でも出す。そこはもう話ついてる」


「うん」


「でも」


 何を言いたいのか、自分でも分からなかった。


 ナイフをロールキャベツへ入れる。


 葉が一枚、皿の上でほどける。


「置いていかれる感じがすんねん」


 言ってしまった。


 情けない。


 二十二歳にもなって。


 二人とも何も言わない。


 俺は続けた。


「お前ら、四月から会社員やろ。給料もらって、名刺持って、東京行ったりして」


「名刺は大阪でも持つぞ」


「そういう話ちゃう」


「はい」


「俺は大学で、来年の一回生と同じ食堂おるんやで」


「食堂は教授もおる」


「だからそういう話ちゃう!」


 笑った。


 二人も笑った。


 言葉にしたら、少し馬鹿らしくなった。


 でも消えたわけではない。


「今日、掲示見たときさ」


 俺は言った。


「分かってたのに、探したんよ。自分の番号」


「うん」


「ないって分かってるのに」


 智也がフォークを置いた。


「俺、何て言えばええか分からんかった」


「何も言わんでええよ」


「でも、普通に『残念やったな』も違うやろ」


「違うな」


「『来年頑張れ』も腹立つ?」


「ちょっと」


「めんどくさ」


「今日の俺はめんどくさいぞ」


「知ってる」


 亮介が二個目のロールキャベツを取った。


「じゃあ俺らに何してほしいん」


「知らん」


「最低やな」


「飯食って」


「食ってる」


「歌って」


「歌う」


「それでええわ」


 亮介がうなずいた。


「じゃあ、それする」


 それで話は終わった。


 無理に励まされなかった。


 大丈夫とも言われなかった。


 そのほうが楽だった。


 三人で残りを食べた。


 俺は一個目より二個目のほうをゆっくり食べた。


 キャベツを切る。


 肉と一緒に取る。


 スープを絡ませる。


 途中でマスタードを少しつける。


 味が変わる。


 同じ料理なのに、最後まで飽きない。


「これさ」


 亮介が言った。


「留年祝いにちょうどよくない?」


「殺すぞ」


「ロールキャベツやで」


「だから何」


「一枚多く巻かれてるみたいな」


「うまいこと言った顔すんな」


 智也が吹き出した。


「一年余計に巻いとけって?」


「そうそう」


「剥がしたろか」


「何を?」


「お前の皮」


「怖っ」


 笑った。


 久しぶりに、留年のことで笑えた気がした。


     *


 皿が空になるころ、三時を過ぎていた。


 ポテトもなくなった。


 亮介が端末を持つ。


「次、悠真入れろ」


「何で」


「さっきから歌ってない」


「食ってた」


「俺らも食ってた」


「何歌うん」


「卒業っぽいやつ」


「俺卒業せえへん言うてるやろ」


「じゃあ卒業じゃないやつ」


「雑」


 端末を受け取った。


 検索する。


 何となく目に入った曲名で手が止まった。


 ポルノグラフィティ。


『メリッサ』


「懐かし」


 智也が言った。


「知ってる?」


「知ってるやろ」


「俺ら生まれたころちゃう?」


「そこまで古くない」


「アニメのやつやんな」


「そう」


 予約した。


 前奏が流れる。


 マイクを持つ。


 歌い出す。


 昔から知っている曲だった。


 でも歌詞をちゃんと考えたことはなかった。


 歌いながら、妙に引っかかる。


 欲しかったもの。


 手放すもの。


 終わらせるもの。


 前へ行くために切り離すもの。


 俺は、卒業できなかった四年目にしがみついているのかもしれない。


 楽しかった。


 三人で講義をサボった。


 試験前だけ図書館へ行った。


 学祭で朝まで飲んだ。


 亮介が失恋して、パレットで五時間歌った。


 智也が内定をもらった日に、三人で焼肉を食べた。


 俺だけ留年した。


 その事実を、四年間全部が失敗だったみたいに感じていた。


 違う。


 俺が失敗したのは単位だ。


 四年間じゃない。


 歌いながら、そこまで考えて、少し恥ずかしくなった。


 歌一曲で人生を理解したみたいな顔はしたくない。


 だから最後まで普通に歌った。


 途中で声が裏返った。


 亮介が笑った。


「そこ外す?」


「うるさい」


 智也も勝手に二本目のマイクを取って入ってきた。


「お前歌えるん?」


「だいたい」


「一番危ないやつ」


 亮介まで三本目を探した。


「二本しかないやん!」


「貸せ」


「嫌や」


「サビだけ!」


 三人で一本を奪い合った。


 もう何を歌っているのか分からなくなった。


 最後は全員笑っていた。


 曲が終わる。


 点数は見なかった。


「悠真」


 智也が言った。


「ん?」


「俺ら卒業するけど」


「うん」


「お前まで大学生活終わったみたいな顔すんなよ」


 さっきまでなら腹が立ったかもしれない。


 今は少し違った。


「せやな」


「来年、卒業式呼べよ」


 亮介も言う。


「来年で済む保証ないぞ」


「再来年でも呼べ」


「三年後は?」


「さすがに怒る」


「何でお前に」


「祝儀みたいなん増えるやろ」


「卒業式に祝儀ないわ」


 三人で笑った。


「じゃあ、先行っとけ」


 俺が言う。


 亮介が少しだけ黙った。


「おう」


 智也もうなずく。


「待ってはやらんぞ」


「待たんでええ」


「追いつけよ」


「会社員と大学生で何に追いつくねん」


「知らん」


「雑やな」


 でも、それでよかった。


     *


 会計をしたのは午前四時過ぎだった。


 受付には結衣がいた。


「こんな時間まで元気ですね」


「最後の大学生やから」


 亮介が言う。


「俺ら二人は」


「僕は?」


 俺が聞く。


「来年も大学生」


「やかましい」


 結衣が笑った。


「じゃあ来年もよろしくお願いします」


「それ、今めっちゃ刺さるから」


「え?」


「何でもない」


 外へ出る。


 まだ暗かった。


 朝には少し早い。


 空の端だけが、ほんの少し薄くなっている。


 三人で摂大とは反対方向へ歩いた。


 途中の交差点で、亮介が右へ。


 智也がその先で左へ。


 俺はまっすぐ。


 いつもの帰り道だった。


 でも、こうして三人で帰るのは、あと何回あるだろう。


「じゃあな」


 亮介が手を上げた。


「東京行く前また来いよ」


「行く」


 智也も言う。


「卒業式の日も飯行こう」


「俺行ってええの?」


「写真係」


「殺すぞ」


 笑って別れた。


 智也とも次の角で別れた。


 一人になる。


 不思議と、さっきまでより足が軽かった。


 置いていかれるんじゃない。


 あいつらが先へ行く。


 俺は俺で、もう一年ここにいる。


 ただそれだけだ。


 アパートへ着く。


 玄関を開ける。


 靴を脱ぐ。


 部屋は出たときと何も変わっていない。


 机の上には、大学から届いた卒業不可の通知。


 昨日までは、見るたびに裏返していた。


 今日はそのままにした。


 四年目は終わった。


 消えない。


 失敗も消えない。


 楽しかったことも消えない。


 なら、もう抱えてなくていい。


 俺は上着を脱いで、玄関のドアを閉めた。


 鍵を回す。


 小さな音がした。


 ――さあ、錠の落ちる音で終わらせて。

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