ロールキャベツと「メリッサ」
午前二時を過ぎると、大学生でも少しだけ大人しくなる。
少なくとも、俺たち三人はそうだった。
「で、ほんまに来年も摂大おるん?」
西野亮介が聞いた。
「おるよ」
「五回生?」
「言うな」
「事実やん」
「五年目の四回生や」
「一緒やろ」
向かいで森川智也が笑った。
「肩書きにこだわるなって」
「お前らは卒業するから言えるねん」
言ってから、少しだけ空気が止まった。
まずいと思った。
亮介も智也も悪くない。
俺が卒業できないのも、二人のせいではない。
分かっている。
「あー、もうこの話終わり」
俺はメニューを開いた。
「腹減った。何食う?」
摂陽大学から歩いて十分ほど。
パレットの一番奥の部屋。
壁の時計は、午前二時十一分を指していた。
今日――正確には昨日、摂大で卒業予定者の最終確認があった。
亮介の名前はあった。
智也の名前もあった。
俺の名前はなかった。
知っていた。
一か月前には、大学から連絡も来ていた。
卒業要件の必修を一つ落とした。
再試も駄目だった。
どう計算しても、春には卒業できない。
それでも掲示された一覧に自分の学籍番号がないのを見ると、胸の奥に小さな穴が開いた。
そんな俺を二人は夕飯に誘った。
そこからゲームセンターへ行って、ボウリングへ行って、ファミレスでコーヒーを飲んだ。
帰ればいいのに、
「最後にパレット行かへん?」
と言い出したのは智也だった。
「最後って何やねん」
俺が言うと、
「今日の最後」
と返された。
午前一時四十八分。
今日の最後どころか、もう翌日だった。
それでも三人とも帰らなかった。
四年前、大学に入ったころからそうだった。
帰ればいい時間に帰らない。
それが大学生だと思っていた。
「これ、ええんちゃう?」
亮介がメニューを指した。
ロールキャベツ。
「カラオケで?」
「今さらそこ?」
智也が言う。
確かに。
パレットでその疑問を持つのは、もう遅い。
俺たちは一年のころからこの店へ来ていた。
最初は歌うため。
そのうち、飯を食うため。
三回生のころには、誰かが「腹減った」と言えば、自然にここへ向かうようになっていた。
「三つ頼む?」
俺が聞く。
「俺、二個いける」
亮介が言った。
「一皿何個?」
「二個って書いてある」
「じゃあ三皿」
「六個やぞ」
「三人やから二個ずつ」
「お前、頭ええな」
「それ言われると今、めっちゃ腹立つ」
「あ」
亮介が口を押さえる。
智也が笑った。
「地雷原みたいやな、今日の悠真」
「神谷悠真、二十二歳。取り扱い注意です」
「二十三になるやろ」
「それも言うな」
内線を取った。
ロールキャベツ三皿。
フライドポテト一皿。
飲み物を三つ。
注文を済ませると、亮介が端末を手に取った。
「歌う?」
「まだ歌うん?」
「カラオケ屋やぞ」
「さっきまで三時間ボウリングしてた人間とは思われへん」
「腕と喉は別」
適当な曲を入れる。
亮介が歌った。
智也が途中から入った。
俺は聴いていた。
二人の顔を見る。
亮介は四月から東京へ行く。
広告関係の会社に決まっている。
本人は「東京いうても電車で帰れる」と言っているけれど、今までみたいに講義終わりに呼び出すことはできない。
智也は大阪に残る。
地元のメーカーに就職する。
会社は摂大から電車で四十分くらい。
近い。
でも大学には、もう来ない。
俺だけが来る。
四月になっても学生証を出して、同じ門をくぐる。
新入生が入ってくる。
俺は五年目。
笑える。
いや、笑うしかない。
「悠真」
呼ばれて顔を上げた。
「何」
「全然聞いてへんやん」
「聞いてる」
「今、俺めっちゃ外したで」
「それはいつも」
「聞いてるやん」
ドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは田中結衣だった。
パレットでよく見る大学生のバイトだ。
大きな盆に皿が三枚。
「ロールキャベツ、お待たせしました」
「うわ」
亮介がマイクを置いた。
「めっちゃちゃんとしてるやん」
「ちゃんとしてないと思って頼んだんですか?」
「いや、そういう意味じゃ」
「店長に言っときますね」
「やめて」
結衣が笑った。
白い深皿に、ロールキャベツが二つ。
スープは透明に近い琥珀色だった。
人参、玉ねぎ、小さく切ったベーコン。
表面には刻んだパセリ。
トマト煮込みを想像していたので、少し意外だった。
「これ、洋介さん?」
智也が聞く。
「はい。店長です」
「フレンチの人やったよな」
「元ですけどね。ロールキャベツはコンソメです。夜中なんで、こっちのほうが食べやすいって」
「夜中二時に六個頼んだ俺らは?」
「知りません」
結衣は即答した。
「ごゆっくり」
出ていく。
俺はスプーンを取った。
まずスープを飲む。
熱い。
思ったより軽い。
玉ねぎの甘さと、ベーコンの塩気が先に来る。
「うま」
智也も飲んだ。
「これ夜中にええな」
「六個頼んだ人間が健康気にすんな」
亮介はもうロールキャベツにナイフを入れていた。
柔らかく煮えたキャベツが、抵抗なく切れる。
中から肉が見えた。
「待って」
亮介が言う。
「何」
「これ絶対うまいやつ」
「食ってから言え」
一口。
亮介の顔が止まる。
「……うま」
「語彙」
「お前もさっき言ったやろ」
俺も切る。
何枚も重なったキャベツの内側に、ひき肉が詰まっている。
フォークを入れると、包んでいた葉が少しほどけた。
肉だけを食べる。
粗すぎず、細かすぎない。
次にキャベツと一緒に食べる。
こっちのほうがうまかった。
肉の脂を、柔らかい葉が受け止めている。
スープも染みている。
「俺さ」
智也が言った。
「一年のとき、悠真絶対四年で辞めると思ってた」
「何で?」
「大学向いてなかったやん」
「失礼やな」
「最初の講義、三日でサボった」
「履修登録ミスってたからや」
「新歓も全然来んかったし」
「人多いの嫌いやねん」
亮介が笑う。
「なのに俺らとは四年おったな」
「お前らが勝手についてきたんやろ」
「逆や。最初に話しかけてきたん悠真」
「そうやった?」
「オリエンテーション」
智也が言った。
「教室分からんから、『経営学部これで合ってる?』って」
「ああ」
思い出した。
三人とも同じ場所を探していた。
結局、教室は違った。
それなのに三人で座っていた。
係員に指摘されて移動した。
「最初から間違えてたな、俺ら」
亮介が言う。
「お前と一緒にすんな。卒業するやん」
また言った。
今度は空気が止まらなかった。
智也がロールキャベツを切りながら言った。
「そんな気になる?」
「なるよ」
「一年やん」
「卒業するやつは簡単に言うねん」
「怒んなって」
「怒ってへん」
「怒ってるやん」
「……ちょっとな」
スープを飲んだ。
喉に熱が通る。
「別に、一年大学行くことが嫌なんちゃうねん」
二人は黙っていた。
「授業受けたらええし、バイトも続ける。学費は親に頭下げた。自分でも出す。そこはもう話ついてる」
「うん」
「でも」
何を言いたいのか、自分でも分からなかった。
ナイフをロールキャベツへ入れる。
葉が一枚、皿の上でほどける。
「置いていかれる感じがすんねん」
言ってしまった。
情けない。
二十二歳にもなって。
二人とも何も言わない。
俺は続けた。
「お前ら、四月から会社員やろ。給料もらって、名刺持って、東京行ったりして」
「名刺は大阪でも持つぞ」
「そういう話ちゃう」
「はい」
「俺は大学で、来年の一回生と同じ食堂おるんやで」
「食堂は教授もおる」
「だからそういう話ちゃう!」
笑った。
二人も笑った。
言葉にしたら、少し馬鹿らしくなった。
でも消えたわけではない。
「今日、掲示見たときさ」
俺は言った。
「分かってたのに、探したんよ。自分の番号」
「うん」
「ないって分かってるのに」
智也がフォークを置いた。
「俺、何て言えばええか分からんかった」
「何も言わんでええよ」
「でも、普通に『残念やったな』も違うやろ」
「違うな」
「『来年頑張れ』も腹立つ?」
「ちょっと」
「めんどくさ」
「今日の俺はめんどくさいぞ」
「知ってる」
亮介が二個目のロールキャベツを取った。
「じゃあ俺らに何してほしいん」
「知らん」
「最低やな」
「飯食って」
「食ってる」
「歌って」
「歌う」
「それでええわ」
亮介がうなずいた。
「じゃあ、それする」
それで話は終わった。
無理に励まされなかった。
大丈夫とも言われなかった。
そのほうが楽だった。
三人で残りを食べた。
俺は一個目より二個目のほうをゆっくり食べた。
キャベツを切る。
肉と一緒に取る。
スープを絡ませる。
途中でマスタードを少しつける。
味が変わる。
同じ料理なのに、最後まで飽きない。
「これさ」
亮介が言った。
「留年祝いにちょうどよくない?」
「殺すぞ」
「ロールキャベツやで」
「だから何」
「一枚多く巻かれてるみたいな」
「うまいこと言った顔すんな」
智也が吹き出した。
「一年余計に巻いとけって?」
「そうそう」
「剥がしたろか」
「何を?」
「お前の皮」
「怖っ」
笑った。
久しぶりに、留年のことで笑えた気がした。
*
皿が空になるころ、三時を過ぎていた。
ポテトもなくなった。
亮介が端末を持つ。
「次、悠真入れろ」
「何で」
「さっきから歌ってない」
「食ってた」
「俺らも食ってた」
「何歌うん」
「卒業っぽいやつ」
「俺卒業せえへん言うてるやろ」
「じゃあ卒業じゃないやつ」
「雑」
端末を受け取った。
検索する。
何となく目に入った曲名で手が止まった。
ポルノグラフィティ。
『メリッサ』
「懐かし」
智也が言った。
「知ってる?」
「知ってるやろ」
「俺ら生まれたころちゃう?」
「そこまで古くない」
「アニメのやつやんな」
「そう」
予約した。
前奏が流れる。
マイクを持つ。
歌い出す。
昔から知っている曲だった。
でも歌詞をちゃんと考えたことはなかった。
歌いながら、妙に引っかかる。
欲しかったもの。
手放すもの。
終わらせるもの。
前へ行くために切り離すもの。
俺は、卒業できなかった四年目にしがみついているのかもしれない。
楽しかった。
三人で講義をサボった。
試験前だけ図書館へ行った。
学祭で朝まで飲んだ。
亮介が失恋して、パレットで五時間歌った。
智也が内定をもらった日に、三人で焼肉を食べた。
俺だけ留年した。
その事実を、四年間全部が失敗だったみたいに感じていた。
違う。
俺が失敗したのは単位だ。
四年間じゃない。
歌いながら、そこまで考えて、少し恥ずかしくなった。
歌一曲で人生を理解したみたいな顔はしたくない。
だから最後まで普通に歌った。
途中で声が裏返った。
亮介が笑った。
「そこ外す?」
「うるさい」
智也も勝手に二本目のマイクを取って入ってきた。
「お前歌えるん?」
「だいたい」
「一番危ないやつ」
亮介まで三本目を探した。
「二本しかないやん!」
「貸せ」
「嫌や」
「サビだけ!」
三人で一本を奪い合った。
もう何を歌っているのか分からなくなった。
最後は全員笑っていた。
曲が終わる。
点数は見なかった。
「悠真」
智也が言った。
「ん?」
「俺ら卒業するけど」
「うん」
「お前まで大学生活終わったみたいな顔すんなよ」
さっきまでなら腹が立ったかもしれない。
今は少し違った。
「せやな」
「来年、卒業式呼べよ」
亮介も言う。
「来年で済む保証ないぞ」
「再来年でも呼べ」
「三年後は?」
「さすがに怒る」
「何でお前に」
「祝儀みたいなん増えるやろ」
「卒業式に祝儀ないわ」
三人で笑った。
「じゃあ、先行っとけ」
俺が言う。
亮介が少しだけ黙った。
「おう」
智也もうなずく。
「待ってはやらんぞ」
「待たんでええ」
「追いつけよ」
「会社員と大学生で何に追いつくねん」
「知らん」
「雑やな」
でも、それでよかった。
*
会計をしたのは午前四時過ぎだった。
受付には結衣がいた。
「こんな時間まで元気ですね」
「最後の大学生やから」
亮介が言う。
「俺ら二人は」
「僕は?」
俺が聞く。
「来年も大学生」
「やかましい」
結衣が笑った。
「じゃあ来年もよろしくお願いします」
「それ、今めっちゃ刺さるから」
「え?」
「何でもない」
外へ出る。
まだ暗かった。
朝には少し早い。
空の端だけが、ほんの少し薄くなっている。
三人で摂大とは反対方向へ歩いた。
途中の交差点で、亮介が右へ。
智也がその先で左へ。
俺はまっすぐ。
いつもの帰り道だった。
でも、こうして三人で帰るのは、あと何回あるだろう。
「じゃあな」
亮介が手を上げた。
「東京行く前また来いよ」
「行く」
智也も言う。
「卒業式の日も飯行こう」
「俺行ってええの?」
「写真係」
「殺すぞ」
笑って別れた。
智也とも次の角で別れた。
一人になる。
不思議と、さっきまでより足が軽かった。
置いていかれるんじゃない。
あいつらが先へ行く。
俺は俺で、もう一年ここにいる。
ただそれだけだ。
アパートへ着く。
玄関を開ける。
靴を脱ぐ。
部屋は出たときと何も変わっていない。
机の上には、大学から届いた卒業不可の通知。
昨日までは、見るたびに裏返していた。
今日はそのままにした。
四年目は終わった。
消えない。
失敗も消えない。
楽しかったことも消えない。
なら、もう抱えてなくていい。
俺は上着を脱いで、玄関のドアを閉めた。
鍵を回す。
小さな音がした。
――さあ、錠の落ちる音で終わらせて。




