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19/30

カツ丼と「SUNEO-ISM」

 午前三時十七分。


 滑骨武士は、パレットのガラス戸に映った自分の顔を見て、舌打ちした。


 左の頬が腫れている。


 唇の端が切れている。


 白いシャツの襟には、乾きかけた血が少しついていた。


 スーツだけは高かった。


 黒地に薄いストライプ。靴も、時計も、財布も、それなりのものを持っている。


 なのに今夜は、何を着ていても負けた男にしか見えなかった。


「……だっさ」


 自分で言った。


 もう一度ガラスを見る。


 やっぱりださい。


 店へ入った。


「いらっしゃいませ」


 受付にいた男が顔を上げた。


 名札には、小川洋介。


 何度か来たことがあるので、向こうも武士の顔は覚えているらしい。


「お一人ですか」


「悪いか」


「人数聞いただけです」


「……一人や」


 洋介が部屋の空きを確認する。


 視線が一瞬だけ、武士の腫れた頬へ動いた。


 何も言わなかった。


 それが気に障った。


「何や」


「何がです?」


「顔」


「顔?」


「見たやろ」


「見ました」


「何も聞かへんのか」


「聞いてほしいんです?」


 武士は黙った。


 洋介も黙った。


「……いらん」


「ほな、一時間で?」


「二時間」


「はい」


 鍵を受け取る。


 歩き出したところで洋介が言った。


「血、まだ出てます?」


 武士は唇へ指を当てた。


 赤くはならなかった。


「止まってる」


「気分悪なったり、頭痛ひどなったら、カラオケしてる場合ちゃうんで病院行ってくださいね」


「分かっとる」


「ならいいです」


 何やねん。


 妙に普通に扱われる。


 それが今夜はありがたいような、腹立たしいような気がした。


     *


 部屋へ入って、ソファへ沈んだ。


 身体中が痛い。


 右の脇腹。


 左肩。


 顎。


 一番痛いのは、たぶんそこではない。


 スマホが鳴った。


 画面には、


『村田』


 と出ている。


 出たくなかった。


 切れるまで待つ。


 すぐにもう一度鳴った。


「しつこいねん」


 通話を取る。


『兄貴、大丈夫っすか』


「何が」


『いや、さっきの』


「何ともない」


『相手どうしました?』


「どうもしてへん」


『でも兄貴、タイマンやったんでしょ』


 武士は舌打ちした。


「お前、どこおんねん」


『事務所です』


「今日はもう帰れ」


『いや、みんな兄貴待ってますよ』


「待たんでええ」


『勝ったんすよね?』


 一秒。


 二秒。


 武士は答えた。


「当たり前やろ」


『っすよね!』


 電話の向こうで、誰かの笑う声がした。


『あいつ最近調子乗ってましたもんね。兄貴に勝てるわけ――』


「もうええ」


『え?』


「寝ろ」


 切った。


 スマホをテーブルへ放る。


 画面が伏せられる。


「……勝ってへんわ」


 誰もいない部屋で言った。


 きれいに負けた。


 言い訳の余地がないくらい。


     *


 相手は二十七歳だった。


 武士より十五歳若い。


 酒の入った席で口論になった。


 最初はどうでもいい話だった。


 誰がどこの席に座る。


 誰が先に挨拶した。


 あいつの態度が気に入らない。


 そんなものだ。


 武士は四十二歳になっても、そういうものに腹を立てる世界にいた。


 周りが止めた。


 だから余計に引けなくなった。


「滑骨さん、今日はやめときましょう」


 若い衆に言われた瞬間、頭に血が上った。


 やめる。


 その言葉が、怖がったみたいに聞こえた。


「一人でええ」


 そう言ってしまった。


 相手も引かなかった。


 結果。


 負けた。


 最初の一発をもらった時点で、嫌な予感はした。


 若い。


 速い。


 何より、相手は武士を怖がっていなかった。


 最後には地面を見ていた。


 アスファルト。


 誰かの靴。


 自分の血。


 立とうとして、膝が言うことを聞かなかった。


 相手は追い打ちをしなかった。


「もうええでしょ」


 その一言が、殴られたことより腹立たしかった。


 まるで許されたみたいだった。


     *


 内線を取る。


「飯」


『はい』


 洋介の声だった。


「カツ丼あるか」


 一瞬、向こうが黙った。


『ありますよ』


「何や」


『いや。今日カツ丼なんやと思って』


「悪いか」


『料理に勝ち負けないんで』


「……何が言いたい」


『別に。普通盛りで?』


「大盛り」


『食える?』


「食えるわ」


『じゃあ大盛り一つ』


 切れる。


「何やねん、あいつ」


 自分で注文したくせに、少し腹が立った。


 カツ丼。


 勝つ。


 縁起物。


 昔から、試合や受験の前に食うようなもの。


 今夜の自分には一番似合わない飯だった。


 だから頼んだのかもしれない。


     *


 滑骨武士。


 ナベリボネ・タケシ。


 初めて名刺を渡した相手は、たいてい一度止まる。


「これ、なんて読むんですか」


「ナベリボネ」


「珍しいですね」


 子どものころは、それだけでよく笑われた。


 名字も。


 細い身体も。


 尖った顔も。


 口だけは達者だったことも。


「スネ夫みたいやな」


 そう言われたことがあった。


 小学校のころ。


 誰が最初に言ったのかは覚えていない。


 ただ、それからしばらく、武士を見ると頬を尖らせる真似をするやつがいた。


 嫌だった。


 弱そうに見られるのが嫌だった。


 金持ちでもないのに金持ちぶるのも。


 強いやつの後ろに隠れるのも。


 何より、自分がそういう人間だと思われるのが嫌だった。


 だから中学生になって身体を鍛えた。


 喧嘩を覚えた。


 高校は途中で辞めた。


 怖がられる人間のそばにいれば、自分も怖がられることを知った。


 そのうち、誰かの後ろではなく、自分の後ろに人が立つようになった。


 いい服を買った。


 いい時計を買った。


 いい車に乗った。


「滑骨さん、さすがっすね」


 そう言われるのが好きだった。


「兄貴には敵わないっすよ」


 もっと好きだった。


 だから、負けられなくなった。


 たった一回の喧嘩すら。


 ドアが開いた。


「お待たせしました」


 料理を運んできたのは、洋介ではなかった。


 弟の慎吾だった。


 和食を担当している。


「カツ丼、大盛りです」


 蓋つきの丼が置かれる。


「味噌汁と漬物」


「おう」


 慎吾が蓋へ手をかける。


「自分でやる」


「どうぞ」


 武士が蓋を取った。


 湯気が上がる。


 卵でとじられた豚カツ。


 玉ねぎ。


 三つ葉。


 つゆを吸ったところと、まだ衣の形が残ったところがある。


「……ええ匂いやな」


 思わず言った。


「ありがとうございます」


 慎吾が出ていこうとする。


「なあ」


「はい?」


「カツ丼て、負けた日に食ったらあかんのか」


 慎吾の動きが止まった。


 こちらを見る。


「何に負けたんです?」


「喧嘩」


「はあ」


「俺が」


「はい」


「負けてん」


「そうですか」


「……それだけ?」


「何て言うたらええんですか」


「いや」


 確かにそうだ。


 慎吾は少し考える。


「腹減ってるんでしょ?」


「減ってる」


「じゃあ、食べたらええんちゃいます?」


「勝ってへんのに?」


「カツは豚肉ですから」


 武士は慎吾を見る。


「お前、たまに腹立つって言われへん?」


「兄貴には言われます」


「やろな」


「冷めるんで、先に食べてください」


 出ていった。


 武士はしばらく閉まったドアを見ていた。


「豚肉て」


 箸を割る。


 一切れ取った。


 厚い。


 口へ入れる。


「熱っ」


 思った以上に熱かった。


 口を開けたまま息をする。


 誰も見ていない。


 やっと噛む。


 衣は全部がさくさくではない。


 煮汁を吸った部分は柔らかい。


 端だけ、まだ少し歯に当たる。


 肉は厚いのに硬くない。


 卵が甘い。


 玉ねぎも甘い。


 つゆが染みたご飯を口へ入れる。


 またカツ。


 味噌汁。


 漬物。


 腹が減っていた。


 本当に。


 殴られて。


 見栄を張って。


 若い衆を先に帰して。


 一人で歩いて。


 腹だけは普通に減っていた。


「うまいな……」


 今度は誰にも聞かせるつもりなく言った。


 カツを一切れ。


 ご飯。


 また一切れ。


 食べているあいだは、負けたことを考えなくて済んだ。


 いや。


 違う。


 考えていた。


 でも、さっきより少しだけ小さくなっていた。


     *


 半分ほど食べたところで、スマホがまた鳴った。


 村田。


 武士は箸を置いた。


「何や」


『すんません。もう一個だけ』


「何」


『明日、あいつらどうします?』


 意味は分かった。


 今夜の続きをどうするか。


 武士が負けた。


 ならば人数を集めるのか。


 落とし前をつけるのか。


 少なくとも村田たちは、そういう話をしている。


「何もすんな」


『え?』


「聞こえへんかったか」


『いや、でも兄貴やられて――』


「一対一や」


『けど』


「俺が喧嘩売って、俺が負けた」


 電話の向こうが静かになった。


 口に出した。


 負けた。


 たった三文字。


 こんなに言いにくいものだとは思わなかった。


『……兄貴?』


「何や」


『さっき、勝ったって』


「嘘ついた」


 また沈黙。


 武士は思わず笑った。


「何やねん。そんな黙ることか」


『いや……兄貴が、そういうこと言うの初めて聞いたんで』


「俺かて嘘ぐらいつくわ」


『そっちじゃなくて』


「何」


『負けたって』


 武士はカツ丼を見る。


「負けたわ」


 もう一度言う。


 今度は少し楽だった。


「ボコボコや。見たら笑うぞ」


『笑わないっすよ』


「笑えや。めっちゃおもろい顔してるぞ」


 村田が少し笑った。


 電話越しに。


 その笑い方を聞いて、武士も笑った。


 唇の傷が痛んだ。


「いてて」


『大丈夫っすか』


「大丈夫ちゃうわ」


『病院行ってくださいよ』


「明日行く」


『ほんまに?』


「お前、俺の母ちゃんか」


『兄貴すぐ行かんから』


「分かった。行く」


『じゃあ、何もしなくていいんすね』


「ええ」


『分かりました』


「あと」


『はい』


「みんなに言っとけ」


『何て』


「俺、負けたって」


『……いいんすか』


「ええわ」


 言ってから、少し間を置いた。


「その代わり、めっちゃええ勝負やったことにしとけ」


『そこ盛るんすか』


「全部正直に言う必要ないやろ」


 村田が今度は声を出して笑った。


『分かりました』


「何笑っとんねん」


『いや、兄貴やなと思って』


 電話が切れた。


 武士はスマホを置いた。


 少しだけ、肩が軽くなった。


     *


 カツ丼を食べ切った。


 大盛りだった。


 最後は少し苦しかった。


 でも米粒まで全部食った。


 味噌汁も空。


 漬物もない。


 丼の底だけが見えている。


 腹がいっぱいになると、急に眠くなった。


「帰るか」


 時計を見る。


 まだ四時前。


 二時間で取った部屋は、まだ時間が残っている。


 端末に手を伸ばした。


 せっかくカラオケ屋へ来た。


 一曲くらい歌うか。


 ランキングを眺める。


 新しい曲はほとんど分からない。


 途中で指が止まった。


『SUNEO-ISM』


「……スネオイズム?」


 嫌な名前だ。


 昔の記憶が戻る。


 尖った口。


 弱そう。


 見栄っ張り。


 誰かの後ろ。


「誰がスネ夫やねん」


 誰も言っていない。


 それでも曲を入れた。


 前奏。


 聞いたことがあった。


「あ」


 村田の車だ。


 少し前に流れていた。


 武士が、


「何やこの曲」


 と言ったら、


「今めっちゃ流行ってるんすよ」


 と教えられた。


 そのときは興味がなかった。


 今夜は、妙に耳に入る。


 マイクを持つ。


 歌い始める。


 全部は知らない。


 画面を追う。


 ところどころ遅れる。


 英語なんかほとんど雰囲気だ。


 それでも歌う。


 格好つけること。


 褒められたがること。


 人にどう見られるか。


 誰かより上にいること。


 武士は途中で笑いそうになった。


「俺やんけ」


 歌が一瞬遅れた。


 慌てて戻る。


 自分が一番嫌っていた人間に似ないように生きてきた。


 弱そうに見られたくない。


 貧乏に見られたくない。


 下に見られたくない。


 誰かに笑われたくない。


 その結果、ずっと他人の目ばかり見ていた。


 高いスーツも。


 車も。


 時計も。


 喧嘩も。


 別に好きでやっていたことばかりではない。


 負けるより、負けたと思われることが怖かった。


「しょうもな」


 曲の途中で呟いた。


 それでもマイクは置かなかった。


 最後まで歌った。


 上手くはなかった。


 点数は七十三点。


「低っ」


 今夜二度目の敗北だった。


 今度は笑えた。


     *


 会計へ行く。


 洋介がレジに立っていた。


「カツ丼どうでした?」


「うまかった」


「よかった」


「弟にも言っといて」


「自分で言えばいいのに」


「帰った?」


「厨房おるで」


「ほな言うとく」


 財布を出す。


 洋介が金額を告げる。


 払う。


「なあ、店長」


「はい」


「人間って、一回負けたくらいで終わらんよな」


 洋介はレシートを切りながら、武士を見る。


「何の話です?」


「何でもええ」


「じゃあ、終わらんのちゃいます?」


「軽いな」


「重い答え欲しいんです?」


「いや」


「じゃあ、それで」


 レシートを渡される。


 武士は受け取った。


「お前、客商売向いてへんぞ」


「二代目までやってますけどね」


「そうか」


 笑った。


 入口へ向かう。


「滑骨さん」


 振り返る。


「病院、忘れんといてくださいね」


「分かっとる」


「ほんまに」


「お前も母ちゃんか」


 外へ出た。


 夜と朝の間だった。


 まだ暗い。


 でも空の端が少し薄くなっている。


 スマホを見る。


 村田からメッセージ。


〈みんな帰しました。明日病院絶対行ってください〉


 武士は、


〈分かった〉


 と返した。


 一度送ってから、追加する。


〈あと今日のこと笑ったやつはシバく〉


 すぐ既読。


〈結局それっすか笑〉


 武士も笑った。


 負けた。


 顔も腫れた。


 格好も悪い。


 明日になれば、知っているやつも増える。


 それでいい。


 どうせ負けるなら、もっと大きなものに挑んで負けたい。


 自分より若いやつに殴られたことを一生隠すために、残りを生きるのは馬鹿らしい。


 スーツの襟を直す。


 血の跡は取れない。


 そのままでいい。


 武士は明け方の道を歩き出した。


 ――白旗さすなら あの山頂がいい。

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