カツ丼と「SUNEO-ISM」
午前三時十七分。
滑骨武士は、パレットのガラス戸に映った自分の顔を見て、舌打ちした。
左の頬が腫れている。
唇の端が切れている。
白いシャツの襟には、乾きかけた血が少しついていた。
スーツだけは高かった。
黒地に薄いストライプ。靴も、時計も、財布も、それなりのものを持っている。
なのに今夜は、何を着ていても負けた男にしか見えなかった。
「……だっさ」
自分で言った。
もう一度ガラスを見る。
やっぱりださい。
店へ入った。
「いらっしゃいませ」
受付にいた男が顔を上げた。
名札には、小川洋介。
何度か来たことがあるので、向こうも武士の顔は覚えているらしい。
「お一人ですか」
「悪いか」
「人数聞いただけです」
「……一人や」
洋介が部屋の空きを確認する。
視線が一瞬だけ、武士の腫れた頬へ動いた。
何も言わなかった。
それが気に障った。
「何や」
「何がです?」
「顔」
「顔?」
「見たやろ」
「見ました」
「何も聞かへんのか」
「聞いてほしいんです?」
武士は黙った。
洋介も黙った。
「……いらん」
「ほな、一時間で?」
「二時間」
「はい」
鍵を受け取る。
歩き出したところで洋介が言った。
「血、まだ出てます?」
武士は唇へ指を当てた。
赤くはならなかった。
「止まってる」
「気分悪なったり、頭痛ひどなったら、カラオケしてる場合ちゃうんで病院行ってくださいね」
「分かっとる」
「ならいいです」
何やねん。
妙に普通に扱われる。
それが今夜はありがたいような、腹立たしいような気がした。
*
部屋へ入って、ソファへ沈んだ。
身体中が痛い。
右の脇腹。
左肩。
顎。
一番痛いのは、たぶんそこではない。
スマホが鳴った。
画面には、
『村田』
と出ている。
出たくなかった。
切れるまで待つ。
すぐにもう一度鳴った。
「しつこいねん」
通話を取る。
『兄貴、大丈夫っすか』
「何が」
『いや、さっきの』
「何ともない」
『相手どうしました?』
「どうもしてへん」
『でも兄貴、タイマンやったんでしょ』
武士は舌打ちした。
「お前、どこおんねん」
『事務所です』
「今日はもう帰れ」
『いや、みんな兄貴待ってますよ』
「待たんでええ」
『勝ったんすよね?』
一秒。
二秒。
武士は答えた。
「当たり前やろ」
『っすよね!』
電話の向こうで、誰かの笑う声がした。
『あいつ最近調子乗ってましたもんね。兄貴に勝てるわけ――』
「もうええ」
『え?』
「寝ろ」
切った。
スマホをテーブルへ放る。
画面が伏せられる。
「……勝ってへんわ」
誰もいない部屋で言った。
きれいに負けた。
言い訳の余地がないくらい。
*
相手は二十七歳だった。
武士より十五歳若い。
酒の入った席で口論になった。
最初はどうでもいい話だった。
誰がどこの席に座る。
誰が先に挨拶した。
あいつの態度が気に入らない。
そんなものだ。
武士は四十二歳になっても、そういうものに腹を立てる世界にいた。
周りが止めた。
だから余計に引けなくなった。
「滑骨さん、今日はやめときましょう」
若い衆に言われた瞬間、頭に血が上った。
やめる。
その言葉が、怖がったみたいに聞こえた。
「一人でええ」
そう言ってしまった。
相手も引かなかった。
結果。
負けた。
最初の一発をもらった時点で、嫌な予感はした。
若い。
速い。
何より、相手は武士を怖がっていなかった。
最後には地面を見ていた。
アスファルト。
誰かの靴。
自分の血。
立とうとして、膝が言うことを聞かなかった。
相手は追い打ちをしなかった。
「もうええでしょ」
その一言が、殴られたことより腹立たしかった。
まるで許されたみたいだった。
*
内線を取る。
「飯」
『はい』
洋介の声だった。
「カツ丼あるか」
一瞬、向こうが黙った。
『ありますよ』
「何や」
『いや。今日カツ丼なんやと思って』
「悪いか」
『料理に勝ち負けないんで』
「……何が言いたい」
『別に。普通盛りで?』
「大盛り」
『食える?』
「食えるわ」
『じゃあ大盛り一つ』
切れる。
「何やねん、あいつ」
自分で注文したくせに、少し腹が立った。
カツ丼。
勝つ。
縁起物。
昔から、試合や受験の前に食うようなもの。
今夜の自分には一番似合わない飯だった。
だから頼んだのかもしれない。
*
滑骨武士。
ナベリボネ・タケシ。
初めて名刺を渡した相手は、たいてい一度止まる。
「これ、なんて読むんですか」
「ナベリボネ」
「珍しいですね」
子どものころは、それだけでよく笑われた。
名字も。
細い身体も。
尖った顔も。
口だけは達者だったことも。
「スネ夫みたいやな」
そう言われたことがあった。
小学校のころ。
誰が最初に言ったのかは覚えていない。
ただ、それからしばらく、武士を見ると頬を尖らせる真似をするやつがいた。
嫌だった。
弱そうに見られるのが嫌だった。
金持ちでもないのに金持ちぶるのも。
強いやつの後ろに隠れるのも。
何より、自分がそういう人間だと思われるのが嫌だった。
だから中学生になって身体を鍛えた。
喧嘩を覚えた。
高校は途中で辞めた。
怖がられる人間のそばにいれば、自分も怖がられることを知った。
そのうち、誰かの後ろではなく、自分の後ろに人が立つようになった。
いい服を買った。
いい時計を買った。
いい車に乗った。
「滑骨さん、さすがっすね」
そう言われるのが好きだった。
「兄貴には敵わないっすよ」
もっと好きだった。
だから、負けられなくなった。
たった一回の喧嘩すら。
ドアが開いた。
「お待たせしました」
料理を運んできたのは、洋介ではなかった。
弟の慎吾だった。
和食を担当している。
「カツ丼、大盛りです」
蓋つきの丼が置かれる。
「味噌汁と漬物」
「おう」
慎吾が蓋へ手をかける。
「自分でやる」
「どうぞ」
武士が蓋を取った。
湯気が上がる。
卵でとじられた豚カツ。
玉ねぎ。
三つ葉。
つゆを吸ったところと、まだ衣の形が残ったところがある。
「……ええ匂いやな」
思わず言った。
「ありがとうございます」
慎吾が出ていこうとする。
「なあ」
「はい?」
「カツ丼て、負けた日に食ったらあかんのか」
慎吾の動きが止まった。
こちらを見る。
「何に負けたんです?」
「喧嘩」
「はあ」
「俺が」
「はい」
「負けてん」
「そうですか」
「……それだけ?」
「何て言うたらええんですか」
「いや」
確かにそうだ。
慎吾は少し考える。
「腹減ってるんでしょ?」
「減ってる」
「じゃあ、食べたらええんちゃいます?」
「勝ってへんのに?」
「カツは豚肉ですから」
武士は慎吾を見る。
「お前、たまに腹立つって言われへん?」
「兄貴には言われます」
「やろな」
「冷めるんで、先に食べてください」
出ていった。
武士はしばらく閉まったドアを見ていた。
「豚肉て」
箸を割る。
一切れ取った。
厚い。
口へ入れる。
「熱っ」
思った以上に熱かった。
口を開けたまま息をする。
誰も見ていない。
やっと噛む。
衣は全部がさくさくではない。
煮汁を吸った部分は柔らかい。
端だけ、まだ少し歯に当たる。
肉は厚いのに硬くない。
卵が甘い。
玉ねぎも甘い。
つゆが染みたご飯を口へ入れる。
またカツ。
味噌汁。
漬物。
腹が減っていた。
本当に。
殴られて。
見栄を張って。
若い衆を先に帰して。
一人で歩いて。
腹だけは普通に減っていた。
「うまいな……」
今度は誰にも聞かせるつもりなく言った。
カツを一切れ。
ご飯。
また一切れ。
食べているあいだは、負けたことを考えなくて済んだ。
いや。
違う。
考えていた。
でも、さっきより少しだけ小さくなっていた。
*
半分ほど食べたところで、スマホがまた鳴った。
村田。
武士は箸を置いた。
「何や」
『すんません。もう一個だけ』
「何」
『明日、あいつらどうします?』
意味は分かった。
今夜の続きをどうするか。
武士が負けた。
ならば人数を集めるのか。
落とし前をつけるのか。
少なくとも村田たちは、そういう話をしている。
「何もすんな」
『え?』
「聞こえへんかったか」
『いや、でも兄貴やられて――』
「一対一や」
『けど』
「俺が喧嘩売って、俺が負けた」
電話の向こうが静かになった。
口に出した。
負けた。
たった三文字。
こんなに言いにくいものだとは思わなかった。
『……兄貴?』
「何や」
『さっき、勝ったって』
「嘘ついた」
また沈黙。
武士は思わず笑った。
「何やねん。そんな黙ることか」
『いや……兄貴が、そういうこと言うの初めて聞いたんで』
「俺かて嘘ぐらいつくわ」
『そっちじゃなくて』
「何」
『負けたって』
武士はカツ丼を見る。
「負けたわ」
もう一度言う。
今度は少し楽だった。
「ボコボコや。見たら笑うぞ」
『笑わないっすよ』
「笑えや。めっちゃおもろい顔してるぞ」
村田が少し笑った。
電話越しに。
その笑い方を聞いて、武士も笑った。
唇の傷が痛んだ。
「いてて」
『大丈夫っすか』
「大丈夫ちゃうわ」
『病院行ってくださいよ』
「明日行く」
『ほんまに?』
「お前、俺の母ちゃんか」
『兄貴すぐ行かんから』
「分かった。行く」
『じゃあ、何もしなくていいんすね』
「ええ」
『分かりました』
「あと」
『はい』
「みんなに言っとけ」
『何て』
「俺、負けたって」
『……いいんすか』
「ええわ」
言ってから、少し間を置いた。
「その代わり、めっちゃええ勝負やったことにしとけ」
『そこ盛るんすか』
「全部正直に言う必要ないやろ」
村田が今度は声を出して笑った。
『分かりました』
「何笑っとんねん」
『いや、兄貴やなと思って』
電話が切れた。
武士はスマホを置いた。
少しだけ、肩が軽くなった。
*
カツ丼を食べ切った。
大盛りだった。
最後は少し苦しかった。
でも米粒まで全部食った。
味噌汁も空。
漬物もない。
丼の底だけが見えている。
腹がいっぱいになると、急に眠くなった。
「帰るか」
時計を見る。
まだ四時前。
二時間で取った部屋は、まだ時間が残っている。
端末に手を伸ばした。
せっかくカラオケ屋へ来た。
一曲くらい歌うか。
ランキングを眺める。
新しい曲はほとんど分からない。
途中で指が止まった。
『SUNEO-ISM』
「……スネオイズム?」
嫌な名前だ。
昔の記憶が戻る。
尖った口。
弱そう。
見栄っ張り。
誰かの後ろ。
「誰がスネ夫やねん」
誰も言っていない。
それでも曲を入れた。
前奏。
聞いたことがあった。
「あ」
村田の車だ。
少し前に流れていた。
武士が、
「何やこの曲」
と言ったら、
「今めっちゃ流行ってるんすよ」
と教えられた。
そのときは興味がなかった。
今夜は、妙に耳に入る。
マイクを持つ。
歌い始める。
全部は知らない。
画面を追う。
ところどころ遅れる。
英語なんかほとんど雰囲気だ。
それでも歌う。
格好つけること。
褒められたがること。
人にどう見られるか。
誰かより上にいること。
武士は途中で笑いそうになった。
「俺やんけ」
歌が一瞬遅れた。
慌てて戻る。
自分が一番嫌っていた人間に似ないように生きてきた。
弱そうに見られたくない。
貧乏に見られたくない。
下に見られたくない。
誰かに笑われたくない。
その結果、ずっと他人の目ばかり見ていた。
高いスーツも。
車も。
時計も。
喧嘩も。
別に好きでやっていたことばかりではない。
負けるより、負けたと思われることが怖かった。
「しょうもな」
曲の途中で呟いた。
それでもマイクは置かなかった。
最後まで歌った。
上手くはなかった。
点数は七十三点。
「低っ」
今夜二度目の敗北だった。
今度は笑えた。
*
会計へ行く。
洋介がレジに立っていた。
「カツ丼どうでした?」
「うまかった」
「よかった」
「弟にも言っといて」
「自分で言えばいいのに」
「帰った?」
「厨房おるで」
「ほな言うとく」
財布を出す。
洋介が金額を告げる。
払う。
「なあ、店長」
「はい」
「人間って、一回負けたくらいで終わらんよな」
洋介はレシートを切りながら、武士を見る。
「何の話です?」
「何でもええ」
「じゃあ、終わらんのちゃいます?」
「軽いな」
「重い答え欲しいんです?」
「いや」
「じゃあ、それで」
レシートを渡される。
武士は受け取った。
「お前、客商売向いてへんぞ」
「二代目までやってますけどね」
「そうか」
笑った。
入口へ向かう。
「滑骨さん」
振り返る。
「病院、忘れんといてくださいね」
「分かっとる」
「ほんまに」
「お前も母ちゃんか」
外へ出た。
夜と朝の間だった。
まだ暗い。
でも空の端が少し薄くなっている。
スマホを見る。
村田からメッセージ。
〈みんな帰しました。明日病院絶対行ってください〉
武士は、
〈分かった〉
と返した。
一度送ってから、追加する。
〈あと今日のこと笑ったやつはシバく〉
すぐ既読。
〈結局それっすか笑〉
武士も笑った。
負けた。
顔も腫れた。
格好も悪い。
明日になれば、知っているやつも増える。
それでいい。
どうせ負けるなら、もっと大きなものに挑んで負けたい。
自分より若いやつに殴られたことを一生隠すために、残りを生きるのは馬鹿らしい。
スーツの襟を直す。
血の跡は取れない。
そのままでいい。
武士は明け方の道を歩き出した。
――白旗さすなら あの山頂がいい。




