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20/30

ミネストローネと「クリスマスソング」

 十九歳になって初めてのクリスマスイブは、思っていたより普通だった。


 摂陽大学の午後の講義が終わって、友達二人と駅前のカフェに寄った。限定のラテを飲んで、写真を撮って、クリスマスらしいことは一応した。


「ひより、このあとどうすんの?」


「帰る」


「クリスマスイブやで?」


「知ってる」


「彼氏作りや」


「二月の試験みたいに言わんといて」


 二人にはそれぞれ待ち合わせがあった。


 朝倉ひより、十九歳。摂大一年。彼氏はいない。


 別に欲しくないわけではない。ただ、十二月二十四日までに用意しなければならないものでもないと思っている。


 家へ帰れば母がチキンを焼いているはずだった。父は仕事、弟は友達と遊んでから帰ると言っていたから、全員そろうのは八時くらいだろう。


 駅を出ると、さっきまで暖房の中にいた頬が一気に冷えた。


 マフラーを口元まで上げる。


 横断歩道の向こうに、見覚えのある制服があった。


「あれ?」


 背が高い。


 一瞬、人違いかと思った。


 信号が変わり、こちらへ歩いてくる。


 向こうも気づいた。


「あ。ひより姉ちゃん」


「蓮?」


 藤井蓮、十六歳。


 家が三軒隣。


 ひよりの弟とは一つ違いで、小さいころから何度も家へ遊びに来ていた。


 昔は「ひよりちゃん」だった。中学生になったころから、なぜか「姉ちゃん」に変わった。


「何してんの」


「塾」


「クリスマスイブに?」


「受験生なんで」


「まだ二年やろ」


「もう二年」


「その言い方、高三みたいやな」


「ひより姉ちゃんも一人やん」


「私は大学帰り」


「俺も塾帰り」


「一緒にすんな」


 すれ違って終わるつもりだった。


 けれど蓮が止まった。


「なあ」


「何」


「俺、七時からまた講習やねん」


「一回終わったんちゃうの?」


「間に空きある。飯食ってこいって」


 時計を見る。


 午後五時四十二分。


「コンビニ行けば?」


「クリスマスイブにコンビニ飯?」


「高校生が何をロマン求めてんねん」


「十九歳が言う?」


「年上やぞ」


「三つだけやん」


 その言い方に、少し引っかかった。


 三つ。


 数字だけなら、その程度だ。


 でも十九歳と十六歳では、ひよりにはずいぶん離れて感じる。


 大学生と高校生。


 自分はもう制服を着ない。


 蓮はまだ毎朝それを着て学校へ行く。


「何食べたいん?」


「温かいの」


「雑」


「寒いし」


 確かに寒い。


 じっと立っていると、足先から冷えてくる。


 ひよりは少し考えた。


「パレット行く?」


「カラオケ?」


「飯うまいで」


「カラオケちゃうん?」


「その反応、何回聞いたやろ」


「歌う?」


「時間あったらな」


「じゃあ行く」


 あっさり決まった。


 パレットまでは歩いて十分ほどだった。


 摂大の学生なら大抵知っている。講義の空き時間に来るやつもいるし、サークル終わりに飯だけ食って帰るやつもいる。


「ひより姉ちゃん、よく行くん?」


「友達とたまに」


「男も?」


「何で」


「別に」


「女の子も男の子もおるよ」


「ふうん」


「何その反応」


「別に」


 二回目。


 昔から蓮は、都合が悪くなると「別に」と言う。


 そこは変わっていない。


 でも歩幅は変わっていた。


 昔はひよりのほうが速かった。今はぼんやり歩くと、蓮が半歩先へ出る。


「ちょ、待って」


「遅い」


「誰が案内してると思ってんの」


「三つ上」


「その言い方やめ」


 蓮が笑った。


 低い声だった。


 声変わりなんて何年も前に終わっているはずなのに、改めて聞くと少し変な感じがした。


 パレットへ入ると、暖房の空気が顔へ当たった。


「あー、生き返る」


 蓮がマフラーを外す。


 受付にいた店主の小川洋介が顔を上げた。


「いらっしゃい。二人?」


「はい。一時間で」


「一時間?」


 蓮がひよりを見る。


「七時から塾やろ」


「歌う時間ないやん」


「飯食べに来たんちゃうの?」


「せっかくカラオケ来たし」


 洋介が二人を見比べた。


「姉弟?」


「違います」


 蓮が先に答えた。


 思ったより強い否定だった。


「近所の子です」


 ひよりが続ける。


 蓮は一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。


 洋介も「はいはい」とだけ答え、部屋の鍵を渡した。


 廊下を歩きながら蓮が言う。


「何で近所の子なん」


「近所の子やん」


「名前あるし」


「藤井蓮くん?」


「何で急にフルネーム」


「知らん」


「変なの」


 部屋へ入る。


 蓮がブレザーを脱いだ。


 制服姿で見るより肩幅が広く見える。


 何となく見ていると、目が合った。


「何?」


「背、伸びたなと思って」


「今さら?」


「何センチ?」


「百七十五」


「嘘」


「何で嘘つくねん」


「抜かれてるやん」


「去年から抜いてるで」


「知らんかった」


「見てへんからやろ」


 その一言だけ、妙に残った。


 確かに見ていなかった。


 大学へ入ってから生活が変わった。帰りは遅くなったし、家の近所をうろうろすることも減った。


 たまに蓮とすれ違っても、「おかえり」「ただいま」くらい。


 いつの間にか大きくなった。


 自分が見ていない間に。


「何食べる?」


 ひよりはメニューを開いた。


「ラーメン」


「一時間で?」


「余裕」


「塾で豚骨臭させんの?」


「じゃあやめる」


「素直やな」


 ページをめくった蓮の指が止まった。


「これ」


「ミネストローネ?」


「温かいやん」


「足りる?」


「パンある」


「育ち盛りやなあ」


「おばちゃんみたいなこと言うな」


「誰がおばちゃん」


 ミネストローネを二つ。バゲットも二人分。


 飲み物を選ぼうとすると、蓮が、


「スープ飲んでジュース飲むん変ちゃう?」


 と言った。


「何そのこだわり」


「腹ちゃぷちゃぷなるやん」


「じゃあ水でええか」


「うん」


 妙なところだけ細かい。


 注文を終えると、蓮はすぐカラオケ端末を触り始めた。


「塾ちゃんと行ってんねんな」


「行ってるよ」


「大学どこ行きたいん?」


「まだ決めてない」


「摂大は?」


「どうやろ」


「来たらええやん」


「何学部あるん」


「いっぱい」


「雑」


「自分で調べ」


「先輩やのに」


「私、文学部やし。理系は知らん」


「役立たんな」


「三つ上に向かって何や」


 笑う。


 昔と同じだった。


 でも全部が同じではない。


「ひより姉ちゃん、大学楽しい?」


「楽しいよ」


「何が?」


「何がって言われると難しいな。友達増えたし、授業も高校より好きなの選べるし」


「彼氏は?」


「何でそこ行くん」


「大学といえば」


「偏見」


「おらんの?」


「おらん」


「ほんま?」


「何で疑うん」


 蓮は端末を見たまま言った。


「モテそうやから」


「……何そのフォロー」


「フォローちゃう」


「じゃあ何」


「普通に」


 こっちは見ない。


「高校生に言われてもな」


 ひよりが笑って流すと、蓮の指が止まった。


「またそれ」


「何」


「高校生扱い」


「高校生やん」


「分かってるけど」


「じゃあええやん」


「……まあええけど」


 小さく返した。


 空気がほんの少しだけ変わった気がした。


 何が変わったのかは分からない。


 考える前に、ドアが開いた。


「お待たせ」


 洋介が白い深皿を二つ運んできた。


 赤いスープから湯気が立っている。


 小さく切られた人参、玉ねぎ、キャベツ、じゃがいも。白いんげん豆とベーコン。最後に粉チーズとパセリ。


 バゲットは表面だけ軽く焼かれていた。


「熱いから気ぃつけて」


「ありがとうございます」


「いただきます」


 蓮がすぐスプーンを取る。


「吹きや」


「子どもちゃうし」


 そのまま口へ入れた。


「熱っ」


「ほら!」


「思ったより熱い」


「言われたやん」


 まだドアのところにいた洋介が笑った。


「高校生?」


「はい」


「若いなあ」


 蓮が嫌そうな顔をする。


「店長まで言う」


「何が?」


「何でもないです」


 洋介が首を傾げて出ていった。


「ほら。高校生やん」


「十九歳も若いやろ」


「三つ上です」


「三つだけです」


「しつこい」


 ひよりもスープを飲む。


 少し吹いてから。


「……うま」


「うまい」


 同時だった。


 二人で笑った。


 トマトの酸味は思ったより柔らかい。玉ねぎとキャベツの甘みが出ていて、ベーコンの塩気があとから来る。


 じゃがいもは角が少し崩れ、スープに溶けていた。


 一口ごとに入ってくる具が違う。


 蓮が白い豆をスプーンに載せた。


「これいる?」


「いるやろ」


「豆あんま好きちゃう」


「まだそんなん言ってんの?」


「何が」


「小さいころ、グリーンピース全部私の皿に入れてたやん」


 蓮が顔を上げた。


「覚えてんの?」


「覚えてるよ」


 何度か、ひよりの家で晩ご飯を食べた。


 カレーの日に、蓮は豆だけを器用によけていた。


 仕方なく食べてやった。


「今は食べれるし」


 蓮が白い豆を口へ入れる。


「どう?」


「普通」


「成長したなあ」


「やめろって」


「何で」


「子ども扱い」


「だって昔ちっちゃかったやん」


「ひより姉ちゃんもやろ」


「私はそのときから年上」


「三つだけ」


「また言った」


 バゲットをスープにつける。


 表面に赤い色が染みる。


「これうま」


 蓮が二切れ目を取ろうとした。


「一個私のやで」


「二人で四つやろ」


「一人二つ」


「まだ食べてへんやん」


「予約してんねん」


「パン予約する人初めて見た」


 蓮は笑いながら戻した。


「はいはい」


 何でもない。


 本当に何でもない。


 でも昔なら、勝手に食べていた気がする。


 ひよりが怒って、蓮が逃げて、それで終わりだった。


 今は一度こちらの顔を見る。


 ひよりも、昔と同じようには扱えない。


 ただそれだけのことなのに、少し気になった。


「クリスマス、毎年何してたっけ」


 ひよりが聞いた。


「知らん」


「小さいころ」


「ひより姉ちゃんちでケーキ食ったことある」


「あったな」


「おばちゃんがサンタの砂糖菓子俺にくれた」


「弟と取り合いしてたやつ?」


「俺勝った」


「あれ、お母さんもう一個持ってたで」


「え」


「喧嘩させたくないから途中で出した」


「知らんかった」


「子どもやったからな」


「またそれ」


「ごめんごめん」


 でも、思い出している蓮の顔は確かに昔とつながっていた。


 そのことに少し安心した。


 時計を見る。


 午後六時二十七分。


「あと三十分」


「一曲歌お」


 蓮が言った。


「塾遅れるで」


「一曲なら間に合う」


「何歌うん」


「クリスマスやから」


「ベタやな」


「今日くらいええやろ」


 端末を操作する。


 back number。


『クリスマスソング』


「歌えるん?」


「知ってる」


「知ってると歌えるは別やで」


「大丈夫」


「自信だけはあるな」


 予約。


 前奏が流れる。


 蓮がマイクを持った。


 歌い始める。


 ひよりは最初、残ったミネストローネを飲んでいた。


 途中で、スプーンを置いた。


 こんな声だったっけ。


 昔、ゲームに負けて怒鳴っていた声でもない。


 玄関先から弟を呼んでいた声でもない。


 少し低くなった声で、恋の歌を歌っている。


 上手いわけではない。


 一度歌詞を間違えたし、高いところは少し苦しそうだった。


 なのに、何となく聞いてしまう。


 蓮がこっちを見た。


「何」


 歌の途中なのに言う。


「歌い」


「見すぎ」


「見てへん」


「見てた」


「画面見ろ」


 蓮が笑って戻る。


 ひよりはバゲットの最後の一口を食べた。


 何がおかしいのか分からない。


 ただ、少しだけ落ち着かない。


 昔から知っている曲なのに、知っている子が歌っているだけなのに。


 曲が終わった。


「どう?」


「七十二点」


「採点入れてへんやん」


「体感」


「厳し」


「歌詞間違えてた」


「バレた?」


「めっちゃ」


 蓮がマイクを置いた。


「でも」


「何」


「声変わったな」


 蓮が黙った。


「いつの話してんの」


「久しぶりにちゃんと聞いたから」


「去年からこんなんやで」


「そうなん」


「だから見てへんって言うたやん」


 さっきと同じ言葉。


 今度は少し違って聞こえた。


「ごめん」


「謝らんでええけど」


「じゃあ何」


「知らん」


 蓮が時計を見る。


「あ、やば」


「ほら!」


「六時三十八分」


「走り」


「会計!」


 二人で慌てて荷物を持った。


 受付で洋介が会計をする。


「もう帰るん?」


「塾なんです」


「クリスマスに大変やな」


「みんな言う」


「頑張りや」


「ありがとうございます」


 蓮が財布を出そうとした。


「いいよ」


 ひよりが止める。


「何で」


「高校生から取られへん」


「それやめろって」


「じゃあ次払って」


「次あるん?」


 ひよりは一瞬だけ止まった。


「近所やねんから、またあるやろ」


「……まあな」


 蓮が財布を戻す。


 洋介は何も言わず、レシートを渡した。


     *


 外へ出る。


 午後六時四十四分。


 空気がまた冷たい。


 ミネストローネで温まった身体から、少しずつ熱が逃げていく。


「走ったら間に合う?」


「余裕」


「自転車どこ?」


「駅前」


「じゃあ何でここ歩いてきたん」


 蓮はマフラーを巻きながら言った。


「ひより姉ちゃんおったから」


 さらっとしていた。


 ひよりの返事だけ、一拍遅れた。


「……飯食いたかったんちゃうの」


「それも」


「それもって何」


「じゃあ行くわ」


 蓮が歩き出す。


「待って」


 鞄を探る。


 朝、母が二つ入れてくれたカイロが一つ残っていた。


「これ」


 投げる。


 蓮が受け取る。


「何」


「寒いやろ」


「子ども扱い?」


「いらんなら返せ」


「いる」


 すぐポケットへ入れた。


「ありがと」


 笑う。


 その顔だけは、昔と変わらなかった。


「塾頑張り」


「うん」


「大学ちゃんと考えや」


「分かってる」


「摂大も候補入れて」


「何で」


「近いし」


「それだけ?」


「それだけ」


 蓮が少し笑う。


「じゃあ、考えとく」


「何その言い方」


「行ってほしいん?」


「別に」


「俺の真似すんな」


 信号が青になる。


 蓮が横断歩道を渡っていく。


 向こう側へ着いてから、一度だけ振り返った。


 手を上げる。


 ひよりも上げた。


 それだけだった。


 家へ帰れば、母のチキンが待っている。


 弟がいて、父もそのうち帰る。


 明日になれば、自分は大学生で、蓮は高校生。


 三つ違う。


 ちゃんと知っている。


 今夜だって、何かが始まったわけではない。


 三軒隣に住む年下の男の子と、偶然クリスマスイブに会って、ミネストローネを食べただけ。


 一曲、歌を聞いただけ。


 それなのに。


 背が伸びていたことも。


 歩くのが速くなっていたことも。


 低くなった声も。


 自分が見ていなかった一年のことも。


 さっきから、妙に頭に残っている。


 気にするようなことじゃない。


 そんなことは――。


 ――いいよ、そんなこと自分でわかってるよ。

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