生姜焼き定食と「ヒカリアレ」
午後二時を過ぎていた。
摂陽大学の陸上競技場からパレットまで歩くと、腹が減るには十分だった。
「俺、米大盛り」
店の扉を開ける前から、瀬尾晃が言った。
「聞いてへん」
「宣言」
「誰に」
「世界に」
「世界、お前の昼飯に興味ないで」
榊原亮がガラス戸を開ける。
暖房の空気と一緒に、醤油の焦げる匂いが流れてきた。
「うわ」
晃が止まる。
「生姜焼きちゃう?」
「まだ何も見てへんやろ」
「匂いで分かる」
「犬か」
受付には小川奈央がいた。
パレットでは昼間によく見る人で、デザートを作っているのも彼女だと聞いたことがある。
「あら、摂大陸上部」
ユニフォームではない。
二人ともジャージ姿だった。
それでも覚えられていた。
「そんな来てます?」
亮が聞く。
「だいぶ」
「俺ら、歌いに来てますよね?」
「半分くらいはご飯じゃない?」
否定できなかった。
「二人?」
「はい。一時間で」
奈央が部屋を確認する。
「お昼まだ?」
「まだです」
「もう二時やで」
晃が腹を押さえた。
「朝から競技場片づけてて」
「何か食べる?」
「生姜焼き」
「決まってるん?」
「匂いしました」
「ああ」
奈央が笑う。
「美玲さん、今焼いてるわ」
「じゃあ二つ」
亮が言う。
晃がすぐ付け足す。
「俺、大盛り」
「俺も」
「お前も世界に宣言しろよ」
「うるさい」
奈央が伝票に書く。
「味噌汁、今日豚汁やけどいい?」
二人同時に答えた。
「最高です」
*
部屋へ入る。
二人とも、いつものようにソファの奥へ鞄を置いた。
カラオケの端末には触らない。
まず水。
晃が一杯飲み切った。
「腹減った」
「さっきからそれしか言うてへん」
「朝七時から動いてんねんぞ」
「俺もや」
「俺のほうが荷物運んだ」
「お前、途中で後輩に任せてたやん」
「あれは指導」
「座って指さしてただけやろ」
大学四年間、こんな会話を何度したか分からない。
二人とも、摂陽大学陸上競技部の短距離。
専門は100メートル。
一回生の春に同じ組で走った。
最初に勝ったのは亮だった。
次は晃。
そこから四年間、勝ったり負けたりを繰り返した。
自己ベストは亮が10秒61。
晃が10秒58。
三百分の三秒。
普段の生活なら誤差にもならない。
陸上では、それで順位が変わる。
「今日でほんまに最後やな」
晃が言った。
「何が?」
「大学の競技場で練習するの」
「卒業まで使えるやろ」
「もう部活引退したやん」
「自主練なら行ける」
「お前は行くやろな」
その一言で、少しだけ会話の温度が変わった。
亮は水を飲んだ。
「たぶん」
「スポンサー様やもんな」
「その言い方やめろ」
「契約選手様」
「一年契約や」
「でも金もらって走るんやろ」
「交通費と活動費中心な。会社員みたいに給料出るわけちゃう」
「知ってる」
「ほな言うな」
亮には、卒業後も競技を続ける道が決まっていた。
大阪のスポーツ用品会社が一年間スポンサーについてくれる。
練習場所と遠征費の一部を出してもらい、大会では会社の名前を背負って走る。
大きな契約ではない。
結果が出なければ、一年で終わる可能性もある。
それでも亮にとっては、ずっと望んでいた道だった。
一方、晃は春から機械部品メーカーへ就職する。
陸上部のない会社だ。
競技は大学で終わる。
「羨ましいわ」
晃が言った。
「何が」
「まだ走れるやん」
「走ろう思ったらお前も走れるやろ」
「市民大会とか?」
「実業団じゃなくても大会は出れる」
「そういう話ちゃうねん」
分かっている。
亮にも。
「晃も内定ちゃんと決まってるやん」
「そういう話でもない」
「じゃあ何やねん」
「知らん」
「お前が言い出したんやろ」
ドアが開いた。
「はい、お待たせ」
小川美玲が、大きな盆を抱えて入ってきた。
白い皿に、生姜焼き。
千切りキャベツ。
ポテトサラダ。
大盛りの白飯。
そして、少し大きめの椀に豚汁。
晃が身体を起こした。
「来た」
「顔変わったなあ」
美玲が笑う。
「さっき受付の前通ったとき死にそうやったのに」
「生姜焼きで復活します」
「単純でよろしい」
皿が置かれる。
豚肉は薄すぎず、厚すぎない。
玉ねぎと一緒に焼かれて、表面に醤油色のたれが絡んでいる。
生姜の匂いが強い。
「これ美玲さん?」
亮が聞く。
「そう」
「中華の人やのに?」
「生姜焼きくらい作るわ」
「いや、そういう意味じゃ」
「火力は中華のほうが強いけどね」
美玲が笑う。
「豚汁は朝からお父さんが作ってたやつ。味濃かったら言って」
「いただきます」
「早いな」
晃はもう箸を持っている。
美玲が部屋を出る前に、一切れ口へ入れた。
「熱っ」
「そら今焼いたし」
「でも、うま」
「よかった」
ドアが閉まる。
二人とも、しばらく話さなかった。
亮も肉を取る。
豚の脂。
醤油。
生姜。
玉ねぎの甘さ。
たれが濃い。
だから白飯がうまい。
「これ米進むな」
「大盛り正解やろ」
「世界に宣言しただけあるな」
「せやろ」
キャベツを肉のたれに少し絡ませる。
それも食べる。
次に豚汁。
大根。
人参。
ごぼう。
こんにゃく。
豚肉。
味噌の汁を飲むと、生姜焼きとは違う温かさが腹へ落ちた。
「……うま」
亮が言った。
「さっき俺の語彙笑ってたやん」
「うまいもんはうまい」
「名言や」
「違う」
晃は肉を二枚まとめてご飯へ載せた。
「それ反則」
「何が」
「一枚ずつ食え」
「何ルールやねん」
「配分考えろよ。最後米だけになるぞ」
「俺には豚汁がある」
「計算してるな」
「四年間短距離やってきたからな」
「関係ない」
二人で笑った。
*
「俺さ」
ご飯が半分くらいになったところで、晃が言った。
「競技辞めるん、納得してんねん」
亮は箸を止めなかった。
「うん」
「別に親に辞めろ言われたわけでもないし、会社に無理やり入れられたわけでもない」
「うん」
「自分で就活して、自分でそこ受けて、自分で決めた」
「知ってる」
「給料も悪くないし。会社もちゃんとしてるし」
「うん」
「でも」
亮は肉を食べる。
待つ。
「今日、後輩がスタブロ片づけてんの見てたら、めっちゃ嫌になった」
「何が?」
「終わるん」
亮は箸を置いた。
晃は豚汁を見ている。
「俺、もう春から朝起きて、スーツ着て、会社行くんやろ」
「たぶんな」
「夕方仕事終わっても、練習行かんでええ」
「うん」
「明日のメニュー考えんでええ。体重も、試合の日程も、風速も気にせんでええ」
「楽やん」
「そう。めっちゃ楽」
晃が笑った。
「だから嫌やねん」
「何やそれ」
「知らんわ」
亮も少し笑った。
「辞めたいと思ったこと、何百回もあるで」
「俺も」
「冬練とか毎年死ねと思ってた」
「坂ダッシュ考えたやつ、今でも許してへん」
「夏は夏で暑いし」
「短距離なんか十秒で終わるくせに、練習長すぎんねん」
「ほんまそれ」
「なのに終わるってなったら、惜しいねん」
「勝手やな」
「人間そんなもんやろ」
晃がご飯を食べる。
「亮はええな」
「またそれ?」
「だって続くやん」
「続くけど」
今度は亮が豚汁を見た。
「怖いで」
「何が?」
「全部」
晃が顔を上げる。
「スポンサー付いたんやろ」
「付いたから怖いねん」
「何で」
「大学までは、負けても次があったやろ」
「まあ」
「調子悪くても、来年とか次の大会とか言えた」
「うん」
「今度、一年契約や」
亮は箸で豚汁の大根を割った。
「結果出えへんかったら、終わるかもしれん」
「でも走れるやん」
「走れるから、言い訳できへん」
口に出すと、思っていた以上に本音だった。
「ずっと欲しかったやつやねん。競技続けたいって」
「知ってる」
「叶ったのに、めっちゃ怖い」
「贅沢やな」
「せやろ」
「腹立つわ」
「俺も思う」
二人で笑った。
不思議だった。
晃は競技を辞めるのが怖い。
亮は競技を続けるのが怖い。
四年間、同じゴールを見て走ってきた。
今度は別々の方向へ行く。
なのに、どっちも少し迷っている。
「何や」
晃が言った。
「どっち行っても怖いやん」
「ほんまやな」
「進路選ぶ意味ある?」
「ないな」
「大学四年間返せ」
「そこまで?」
また笑った。
*
定食は、ほとんど同時になくなった。
晃の皿には生姜焼きのたれが少しだけ残っている。
そこへ最後のご飯を一口分入れて、箸で集めた。
「汚い食い方」
「一番うまいとこや」
「分からんでもない」
亮も真似した。
「お前もやってるやん」
「見てたら食いたなった」
豚汁も空になった。
腹いっぱいになる。
大学の競技場で朝から荷物を運び続けた疲れが、一気に出てきた。
晃がソファへ沈む。
「寝れる」
「一時間で部屋取ってんねんぞ」
「飯食ったしええやろ」
「カラオケ屋や」
「一曲歌う?」
「寝るよりは」
晃が端末を取った。
「何歌う」
「任せる」
「後悔すんなよ」
「演歌以外」
「お前演歌馬鹿にすんな」
「お前も歌わんやろ」
晃が検索する。
少しして、予約。
画面に曲名が出る。
『ヒカリアレ』
亮が笑った。
「ハイキューやん」
「知ってる?」
「そら知ってる」
「陸上ちゃうけど」
「スポーツならええん?」
「気持ち」
イントロが始まる。
晃がマイクを持った。
最初はソファに座ったままだった。
歌い始める。
亮は水を飲む。
何度か聞いたことがある曲。
体育会系の部活なら、一度は誰かが流していた。
大会前。
合宿。
筋トレ中。
気合を入れるときに、こういう曲が鳴る。
でも今日の晃の声は、試合前とは少し違った。
もうこいつは、大きな大会へ向かって歌っているわけではない。
自分の競技は終わる。
その晃が歌っている。
亮は途中から、歌詞を見ていた。
気づく。
これ、俺に歌ってるんちゃうか。
そう思った。
すぐ打ち消した。
自意識過剰だ。
晃はただ歌いたかっただけかもしれない。
案の定、サビに入る前に一度音を外した。
「外した」
亮が言う。
「うるさい!」
歌いながら返してくる。
「集中せえや」
「お前が話しかけるからやろ」
亮は笑った。
晃も笑いながら歌う。
格好なんてつかない。
四年間ずっとそうだった。
大会前に真面目な話をしても、どちらかがしょうもないことを言って終わる。
引退の日だって変わらない。
曲の途中で、晃がマイクを亮へ向けた。
「歌え」
「知らんとこある」
「雰囲気でいけ」
「雑」
マイクを受け取る。
二人で歌った。
どちらが上手いとかはない。
最後のほうは声が大きくなった。
部屋の外に聞こえているかもしれない。
別にいい。
走るときは十秒しかない。
声くらい長く出してもいい。
曲が終わった。
晃がマイクを置く。
「……しんど」
「短距離選手の肺活量どうなってんねん」
「歌は専門外」
「言い訳すんな」
二人で水を飲んだ。
少し静かになる。
晃が天井を見る。
「亮」
「ん?」
「俺、会社行っても走りたなったら走るわ」
「走ったらええやん」
「大会も出るかも」
「出たらええ」
「お前と同じ大会出れるかな」
「記録出せたらな」
「腹立つ」
「スポンサー選手なんで」
「さっき怖い言うてたくせに」
「それはそれ」
晃が笑う。
「亮もさ」
「ん?」
「一年で契約切られたら、就職したらええやん」
「簡単に言うな」
「俺の会社紹介したろか」
「絶対嫌」
「何で」
「お前が先輩になる」
「最高やん」
「地獄や」
笑う。
未来の話をしているのに、さっきより怖くなかった。
競技を辞めても、走ってはいけないわけではない。
スポンサーが終わっても、人生が終わるわけではない。
そんな簡単なことを、二人とも忘れていた。
*
会計を済ませて外へ出たのは、午後三時を少し過ぎたころだった。
昼の明るさがまだ残っている。
朝から曇っていた空の隙間から、光が差していた。
「うわ、眩し」
晃が目を細める。
「ヒカリアレや」
亮が言った。
「ダサ」
「お前が歌ったんやろ」
「歌と現実混ぜんな」
「お前もさっき歌いながらめっちゃ感情入ってたで」
「入ってへん」
「入ってた」
「黙れスポンサー」
「何その悪口」
二人で大学の方向へ歩く。
競技場へ戻る必要はない。
荷物は全部片づけた。
今日はもう解散。
それでも足は自然と摂大のほうへ向かっていた。
「なあ」
亮が言う。
「何」
「お前、ほんまにもう走らんの?」
晃は少し考えた。
「分からん」
「さっき大会出る言うてたやん」
「出るかもしれん」
「どっちやねん」
「今決めんでええやろ」
亮は笑った。
「せやな」
「亮も来年どうなるか分からんやろ」
「分からん」
「ほな一緒や」
「全然ちゃうけどな」
「細かい」
横断歩道の手前で止まる。
信号は赤。
向かい側に、摂陽大学の建物が見える。
四年間、毎日のように見てきた景色。
春からは、二人とも毎日は見ない。
一人は会社へ行く。
一人は競技場へ行く。
違う朝が始まる。
「亮」
「ん?」
「自己ベスト出せよ」
「おう」
「スポンサーに切られんなよ」
「余計や」
「俺の10秒58、抜けよ」
「今年抜く」
「言ったな」
「お前も走るなら、もう一回勝負したる」
「上からやな」
信号が青になる。
二人で歩き出す。
これから先、どちらが正しかったかなんて分からない。
就職した晃が、競技を辞めたことを後悔するかもしれない。
走り続ける亮が、一年後に別の道を選ぶかもしれない。
それでも今日まで、隣のレーンにいた。
明日から別の場所へ行っても、それは変わらない。
どちらかが迷ったとき。
今日みたいに飯を食って、くだらないことを言って、少しくらい背中を押せればいい。
それくらいなら、できる。
――迷える友の明日を照らすよ。




