↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/30

生姜焼き定食と「ヒカリアレ」

 午後二時を過ぎていた。


 摂陽大学の陸上競技場からパレットまで歩くと、腹が減るには十分だった。


「俺、米大盛り」


 店の扉を開ける前から、瀬尾晃が言った。


「聞いてへん」


「宣言」


「誰に」


「世界に」


「世界、お前の昼飯に興味ないで」


 榊原亮がガラス戸を開ける。


 暖房の空気と一緒に、醤油の焦げる匂いが流れてきた。


「うわ」


 晃が止まる。


「生姜焼きちゃう?」


「まだ何も見てへんやろ」


「匂いで分かる」


「犬か」


 受付には小川奈央がいた。


 パレットでは昼間によく見る人で、デザートを作っているのも彼女だと聞いたことがある。


「あら、摂大陸上部」


 ユニフォームではない。


 二人ともジャージ姿だった。


 それでも覚えられていた。


「そんな来てます?」


 亮が聞く。


「だいぶ」


「俺ら、歌いに来てますよね?」


「半分くらいはご飯じゃない?」


 否定できなかった。


「二人?」


「はい。一時間で」


 奈央が部屋を確認する。


「お昼まだ?」


「まだです」


「もう二時やで」


 晃が腹を押さえた。


「朝から競技場片づけてて」


「何か食べる?」


「生姜焼き」


「決まってるん?」


「匂いしました」


「ああ」


 奈央が笑う。


「美玲さん、今焼いてるわ」


「じゃあ二つ」


 亮が言う。


 晃がすぐ付け足す。


「俺、大盛り」


「俺も」


「お前も世界に宣言しろよ」


「うるさい」


 奈央が伝票に書く。


「味噌汁、今日豚汁やけどいい?」


 二人同時に答えた。


「最高です」


     *


 部屋へ入る。


 二人とも、いつものようにソファの奥へ鞄を置いた。


 カラオケの端末には触らない。


 まず水。


 晃が一杯飲み切った。


「腹減った」


「さっきからそれしか言うてへん」


「朝七時から動いてんねんぞ」


「俺もや」


「俺のほうが荷物運んだ」


「お前、途中で後輩に任せてたやん」


「あれは指導」


「座って指さしてただけやろ」


 大学四年間、こんな会話を何度したか分からない。


 二人とも、摂陽大学陸上競技部の短距離。


 専門は100メートル。


 一回生の春に同じ組で走った。


 最初に勝ったのは亮だった。


 次は晃。


 そこから四年間、勝ったり負けたりを繰り返した。


 自己ベストは亮が10秒61。


 晃が10秒58。


 三百分の三秒。


 普段の生活なら誤差にもならない。


 陸上では、それで順位が変わる。


「今日でほんまに最後やな」


 晃が言った。


「何が?」


「大学の競技場で練習するの」


「卒業まで使えるやろ」


「もう部活引退したやん」


「自主練なら行ける」


「お前は行くやろな」


 その一言で、少しだけ会話の温度が変わった。


 亮は水を飲んだ。


「たぶん」


「スポンサー様やもんな」


「その言い方やめろ」


「契約選手様」


「一年契約や」


「でも金もらって走るんやろ」


「交通費と活動費中心な。会社員みたいに給料出るわけちゃう」


「知ってる」


「ほな言うな」


 亮には、卒業後も競技を続ける道が決まっていた。


 大阪のスポーツ用品会社が一年間スポンサーについてくれる。


 練習場所と遠征費の一部を出してもらい、大会では会社の名前を背負って走る。


 大きな契約ではない。


 結果が出なければ、一年で終わる可能性もある。


 それでも亮にとっては、ずっと望んでいた道だった。


 一方、晃は春から機械部品メーカーへ就職する。


 陸上部のない会社だ。


 競技は大学で終わる。


「羨ましいわ」


 晃が言った。


「何が」


「まだ走れるやん」


「走ろう思ったらお前も走れるやろ」


「市民大会とか?」


「実業団じゃなくても大会は出れる」


「そういう話ちゃうねん」


 分かっている。


 亮にも。


「晃も内定ちゃんと決まってるやん」


「そういう話でもない」


「じゃあ何やねん」


「知らん」


「お前が言い出したんやろ」


 ドアが開いた。


「はい、お待たせ」


 小川美玲が、大きな盆を抱えて入ってきた。


 白い皿に、生姜焼き。


 千切りキャベツ。


 ポテトサラダ。


 大盛りの白飯。


 そして、少し大きめの椀に豚汁。


 晃が身体を起こした。


「来た」


「顔変わったなあ」


 美玲が笑う。


「さっき受付の前通ったとき死にそうやったのに」


「生姜焼きで復活します」


「単純でよろしい」


 皿が置かれる。


 豚肉は薄すぎず、厚すぎない。


 玉ねぎと一緒に焼かれて、表面に醤油色のたれが絡んでいる。


 生姜の匂いが強い。


「これ美玲さん?」


 亮が聞く。


「そう」


「中華の人やのに?」


「生姜焼きくらい作るわ」


「いや、そういう意味じゃ」


「火力は中華のほうが強いけどね」


 美玲が笑う。


「豚汁は朝からお父さんが作ってたやつ。味濃かったら言って」


「いただきます」


「早いな」


 晃はもう箸を持っている。


 美玲が部屋を出る前に、一切れ口へ入れた。


「熱っ」


「そら今焼いたし」


「でも、うま」


「よかった」


 ドアが閉まる。


 二人とも、しばらく話さなかった。


 亮も肉を取る。


 豚の脂。


 醤油。


 生姜。


 玉ねぎの甘さ。


 たれが濃い。


 だから白飯がうまい。


「これ米進むな」


「大盛り正解やろ」


「世界に宣言しただけあるな」


「せやろ」


 キャベツを肉のたれに少し絡ませる。


 それも食べる。


 次に豚汁。


 大根。


 人参。


 ごぼう。


 こんにゃく。


 豚肉。


 味噌の汁を飲むと、生姜焼きとは違う温かさが腹へ落ちた。


「……うま」


 亮が言った。


「さっき俺の語彙笑ってたやん」


「うまいもんはうまい」


「名言や」


「違う」


 晃は肉を二枚まとめてご飯へ載せた。


「それ反則」


「何が」


「一枚ずつ食え」


「何ルールやねん」


「配分考えろよ。最後米だけになるぞ」


「俺には豚汁がある」


「計算してるな」


「四年間短距離やってきたからな」


「関係ない」


 二人で笑った。


     *


「俺さ」


 ご飯が半分くらいになったところで、晃が言った。


「競技辞めるん、納得してんねん」


 亮は箸を止めなかった。


「うん」


「別に親に辞めろ言われたわけでもないし、会社に無理やり入れられたわけでもない」


「うん」


「自分で就活して、自分でそこ受けて、自分で決めた」


「知ってる」


「給料も悪くないし。会社もちゃんとしてるし」


「うん」


「でも」


 亮は肉を食べる。


 待つ。


「今日、後輩がスタブロ片づけてんの見てたら、めっちゃ嫌になった」


「何が?」


「終わるん」


 亮は箸を置いた。


 晃は豚汁を見ている。


「俺、もう春から朝起きて、スーツ着て、会社行くんやろ」


「たぶんな」


「夕方仕事終わっても、練習行かんでええ」


「うん」


「明日のメニュー考えんでええ。体重も、試合の日程も、風速も気にせんでええ」


「楽やん」


「そう。めっちゃ楽」


 晃が笑った。


「だから嫌やねん」


「何やそれ」


「知らんわ」


 亮も少し笑った。


「辞めたいと思ったこと、何百回もあるで」


「俺も」


「冬練とか毎年死ねと思ってた」


「坂ダッシュ考えたやつ、今でも許してへん」


「夏は夏で暑いし」


「短距離なんか十秒で終わるくせに、練習長すぎんねん」


「ほんまそれ」


「なのに終わるってなったら、惜しいねん」


「勝手やな」


「人間そんなもんやろ」


 晃がご飯を食べる。


「亮はええな」


「またそれ?」


「だって続くやん」


「続くけど」


 今度は亮が豚汁を見た。


「怖いで」


「何が?」


「全部」


 晃が顔を上げる。


「スポンサー付いたんやろ」


「付いたから怖いねん」


「何で」


「大学までは、負けても次があったやろ」


「まあ」


「調子悪くても、来年とか次の大会とか言えた」


「うん」


「今度、一年契約や」


 亮は箸で豚汁の大根を割った。


「結果出えへんかったら、終わるかもしれん」


「でも走れるやん」


「走れるから、言い訳できへん」


 口に出すと、思っていた以上に本音だった。


「ずっと欲しかったやつやねん。競技続けたいって」


「知ってる」


「叶ったのに、めっちゃ怖い」


「贅沢やな」


「せやろ」


「腹立つわ」


「俺も思う」


 二人で笑った。


 不思議だった。


 晃は競技を辞めるのが怖い。


 亮は競技を続けるのが怖い。


 四年間、同じゴールを見て走ってきた。


 今度は別々の方向へ行く。


 なのに、どっちも少し迷っている。


「何や」


 晃が言った。


「どっち行っても怖いやん」


「ほんまやな」


「進路選ぶ意味ある?」


「ないな」


「大学四年間返せ」


「そこまで?」


 また笑った。


     *


 定食は、ほとんど同時になくなった。


 晃の皿には生姜焼きのたれが少しだけ残っている。


 そこへ最後のご飯を一口分入れて、箸で集めた。


「汚い食い方」


「一番うまいとこや」


「分からんでもない」


 亮も真似した。


「お前もやってるやん」


「見てたら食いたなった」


 豚汁も空になった。


 腹いっぱいになる。


 大学の競技場で朝から荷物を運び続けた疲れが、一気に出てきた。


 晃がソファへ沈む。


「寝れる」


「一時間で部屋取ってんねんぞ」


「飯食ったしええやろ」


「カラオケ屋や」


「一曲歌う?」


「寝るよりは」


 晃が端末を取った。


「何歌う」


「任せる」


「後悔すんなよ」


「演歌以外」


「お前演歌馬鹿にすんな」


「お前も歌わんやろ」


 晃が検索する。


 少しして、予約。


 画面に曲名が出る。


『ヒカリアレ』


 亮が笑った。


「ハイキューやん」


「知ってる?」


「そら知ってる」


「陸上ちゃうけど」


「スポーツならええん?」


「気持ち」


 イントロが始まる。


 晃がマイクを持った。


 最初はソファに座ったままだった。


 歌い始める。


 亮は水を飲む。


 何度か聞いたことがある曲。


 体育会系の部活なら、一度は誰かが流していた。


 大会前。


 合宿。


 筋トレ中。


 気合を入れるときに、こういう曲が鳴る。


 でも今日の晃の声は、試合前とは少し違った。


 もうこいつは、大きな大会へ向かって歌っているわけではない。


 自分の競技は終わる。


 その晃が歌っている。


 亮は途中から、歌詞を見ていた。


 気づく。


 これ、俺に歌ってるんちゃうか。


 そう思った。


 すぐ打ち消した。


 自意識過剰だ。


 晃はただ歌いたかっただけかもしれない。


 案の定、サビに入る前に一度音を外した。


「外した」


 亮が言う。


「うるさい!」


 歌いながら返してくる。


「集中せえや」


「お前が話しかけるからやろ」


 亮は笑った。


 晃も笑いながら歌う。


 格好なんてつかない。


 四年間ずっとそうだった。


 大会前に真面目な話をしても、どちらかがしょうもないことを言って終わる。


 引退の日だって変わらない。


 曲の途中で、晃がマイクを亮へ向けた。


「歌え」


「知らんとこある」


「雰囲気でいけ」


「雑」


 マイクを受け取る。


 二人で歌った。


 どちらが上手いとかはない。


 最後のほうは声が大きくなった。


 部屋の外に聞こえているかもしれない。


 別にいい。


 走るときは十秒しかない。


 声くらい長く出してもいい。


 曲が終わった。


 晃がマイクを置く。


「……しんど」


「短距離選手の肺活量どうなってんねん」


「歌は専門外」


「言い訳すんな」


 二人で水を飲んだ。


 少し静かになる。


 晃が天井を見る。


「亮」


「ん?」


「俺、会社行っても走りたなったら走るわ」


「走ったらええやん」


「大会も出るかも」


「出たらええ」


「お前と同じ大会出れるかな」


「記録出せたらな」


「腹立つ」


「スポンサー選手なんで」


「さっき怖い言うてたくせに」


「それはそれ」


 晃が笑う。


「亮もさ」


「ん?」


「一年で契約切られたら、就職したらええやん」


「簡単に言うな」


「俺の会社紹介したろか」


「絶対嫌」


「何で」


「お前が先輩になる」


「最高やん」


「地獄や」


 笑う。


 未来の話をしているのに、さっきより怖くなかった。


 競技を辞めても、走ってはいけないわけではない。


 スポンサーが終わっても、人生が終わるわけではない。


 そんな簡単なことを、二人とも忘れていた。


     *


 会計を済ませて外へ出たのは、午後三時を少し過ぎたころだった。


 昼の明るさがまだ残っている。


 朝から曇っていた空の隙間から、光が差していた。


「うわ、眩し」


 晃が目を細める。


「ヒカリアレや」


 亮が言った。


「ダサ」


「お前が歌ったんやろ」


「歌と現実混ぜんな」


「お前もさっき歌いながらめっちゃ感情入ってたで」


「入ってへん」


「入ってた」


「黙れスポンサー」


「何その悪口」


 二人で大学の方向へ歩く。


 競技場へ戻る必要はない。


 荷物は全部片づけた。


 今日はもう解散。


 それでも足は自然と摂大のほうへ向かっていた。


「なあ」


 亮が言う。


「何」


「お前、ほんまにもう走らんの?」


 晃は少し考えた。


「分からん」


「さっき大会出る言うてたやん」


「出るかもしれん」


「どっちやねん」


「今決めんでええやろ」


 亮は笑った。


「せやな」


「亮も来年どうなるか分からんやろ」


「分からん」


「ほな一緒や」


「全然ちゃうけどな」


「細かい」


 横断歩道の手前で止まる。


 信号は赤。


 向かい側に、摂陽大学の建物が見える。


 四年間、毎日のように見てきた景色。


 春からは、二人とも毎日は見ない。


 一人は会社へ行く。


 一人は競技場へ行く。


 違う朝が始まる。


「亮」


「ん?」


「自己ベスト出せよ」


「おう」


「スポンサーに切られんなよ」


「余計や」


「俺の10秒58、抜けよ」


「今年抜く」


「言ったな」


「お前も走るなら、もう一回勝負したる」


「上からやな」


 信号が青になる。


 二人で歩き出す。


 これから先、どちらが正しかったかなんて分からない。


 就職した晃が、競技を辞めたことを後悔するかもしれない。


 走り続ける亮が、一年後に別の道を選ぶかもしれない。


 それでも今日まで、隣のレーンにいた。


 明日から別の場所へ行っても、それは変わらない。


 どちらかが迷ったとき。


 今日みたいに飯を食って、くだらないことを言って、少しくらい背中を押せればいい。


 それくらいなら、できる。


 ――迷える友の明日を照らすよ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。