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ハニーマスカルポーネと「桜の時」

 合格通知が届いてから二週間。


 佐野湊は、まだ「摂陽大学の学生」という言葉に慣れていなかった。


 正確には、まだ学生ですらない。


 高校はもう卒業した。


 入学式は来週。


 学生証もまだない。


 だから今の自分が何者なのかと聞かれたら、たぶん「大学入学前」が一番近い。


「遅い」


 パレットの入口で待っていた高槻紗英は、湊の顔を見るなり言った。


「二分ですよ」


「二分は遅刻」


「電車一本逃したんです」


「それを遅刻って言うねん」


「すみません」


「よろしい」


 紗英が笑った。


 三つ上。


 二十一歳。


 摂陽大学三回生。


 来月から四回生になるはずだった人。


 湊が高校一年のとき、紗英は三年生だった。


 同じ写真部。


 最初に話したのは、入部して三日目だったと思う。


 湊が露出も分からず、真っ白な写真ばかり撮っていたとき、


「失敗した写真、すぐ消したらあかんで」


 と言われた。


「何でですか」


「何で失敗したか分からんくなるやろ」


 そのころの紗英は、今より髪が長かった。


 いつもカメラを右肩から下げ、廊下を少し速く歩いた。


 湊はよく、その後ろをついて歩いた。


 卒業してからも連絡は取っていた。


 頻繁ではない。


 誕生日。


 写真展。


 たまに送られてくる大学祭の写真。


 そして受験。


 摂陽大学に合格したと伝えた翌日、紗英からメッセージが来た。


〈合格祝いしたる〉


 場所はパレット。


 摂大の近くにある、飯のうまいカラオケ屋。


 紗英から何度も写真を送られてきた店だった。


「やっと来れた」


 湊が看板を見る。


「そんな楽しみにしてた?」


「先輩、めっちゃ送ってきたじゃないですか。ラーメンとか、ケーキとか」


「大学の写真より多かった?」


「たぶん」


「摂大選んだ理由、パレットちゃうやろな」


 湊は一瞬だけ黙った。


「……家から通いやすいからです」


「ほんま?」


「ほんまです」


 嘘ではない。


 家から通える。


 学びたい学部もあった。


 オープンキャンパスへ行ったとき、雰囲気も気に入った。


 ただ。


 紗英が通っている大学だった。


 それを全く考えなかったと言えば、そっちのほうが嘘になる。


     *


 午後四時すぎ。


 平日のパレットは、夜より静かだった。


 受付にいた店主の小川洋介が、紗英を見る。


「久しぶりやな」


「二週間ぶりです」


「十分久しぶりやろ」


「毎週来いって?」


「そこまでは言ってへん」


 洋介が湊を見る。


「弟?」


「後輩です」


 紗英が答えた。


「高校の」


「ああ」


 湊も頭を下げる。


「今日から摂大生です」


「まだです」


「細かい」


 紗英が笑う。


 洋介も笑った。


「合格したん?」


「はい」


「おめでとう」


「ありがとうございます」


「じゃあ今日は先輩のおごりやな」


「そのつもり」


「え」


 湊が紗英を見る。


「いいですよ。自分で払います」


「何のための合格祝い」


「でも」


「先輩に格好つけさせなさい」


「はい」


 言い方まで昔と変わらない。


 一時間で部屋を取った。


 紗英は歌うより先にメニューを開いた。


「これ食べよ」


「もう決めてるんですか」


「今日はこれって決めてた」


 指したところを見る。


 ハニーマスカルポーネ。


 写真では、小さく焼いたバゲットが籠に入り、その横に白いクリームがたっぷり盛られている。上から蜂蜜。砕いたナッツ。少しだけ黒胡椒。


「甘いやつ?」


「甘い」


「先輩、甘いもの好きでしたっけ」


「大学入って好きになった」


「人って変わるんですね」


「三年あったら変わるで」


 その言葉が、なぜか残った。


 三年。


 湊が高校を卒業するまでの時間。


 紗英が大学で過ごした時間。


 同じ三年なのに、自分の知らないことがずいぶん増えている。


「飲み物は?」


「コーヒー」


「僕も」


「ブラック?」


「はい」


「嘘つけ」


「飲めますよ」


「高校一年のとき、缶コーヒー苦い言うてたやん」


「いつの話ですか」


「三年前」


「三年あったら変わるんでしょ」


「言うようになったなあ」


 紗英が笑う。


 こういうやり取りを、大学に入ったらもっとできる。


 湊はそう思っていた。


 同じ大学。


 同じ駅。


 大学で会って、そのままパレットへ来ることだってあるかもしれない。


 写真部の先輩だったころより、少し近い場所に行ける気がしていた。


 今度は、自分も大学生として。


     *


「はい、お待たせ」


 洋介が皿を運んできた。


 ハニーマスカルポーネは、写真で見たより白かった。


 少し焼き色のついた薄いバゲット。


 その隣に、ふわっと盛られたマスカルポーネ。


 上から蜂蜜が細く流れている。


 砕いたくるみ。


 粉砂糖。


 黒胡椒はほんの少し。


「これ、店長が?」


「俺ちゃうよ。うちのパティシエ担当」


「ああ」


 紗英が納得する。


「蜂蜜、多めにしてるからな」


「最高」


「黒胡椒、嫌やったら避けて」


「絶対いるやつですよね」


「分かってるやん」


 洋介が笑って出ていく。


 紗英がスマホを出した。


「待って。写真」


「先輩、昔そんな人でした?」


「大学入ったら変わんねん」


「またそれ」


 数枚撮る。


「もういい?」


「ええよ」


 湊はバゲットを一枚取った。


 マスカルポーネを少し載せる。


 蜂蜜が糸を引く。


「結構載せるな」


「これくらい?」


「もっといける」


「先輩基準信用できんな」


 一口。


 最初にバゲットの香ばしさ。


 そのあと、冷たいマスカルポーネ。


 思ったほど甘くない。


 そこへ蜂蜜が来る。


「……うま」


「やろ」


「先輩が作ったみたいに言わんといてください」


「連れてきたん私やし」


 もう一口。


 今度は黒胡椒が少し当たる。


「これ、胡椒いるな」


「やろ?」


「甘いだけじゃなくなる」


「大学生みたいな感想やな」


「どういう意味ですか」


「知らん」


 紗英はたっぷりマスカルポーネを載せた。


「先輩、それ多すぎません?」


「今日は祝い」


「僕の?」


「そう」


「何で先輩が多く食べるんです」


「祝い事ってそういうもん」


「絶対違う」


 笑った。


 昔と同じように。


 でも、こうして二人で何かを食べるのは初めてだった。


 高校のころは、いつも部員がいた。


 卒業式の日ですら、最後はみんなで写真を撮った。


 二人だけになったことは、ほとんどない。


 だから今日は少し特別だった。


 湊にとっては。


「湊」


「はい」


「大学入ったら、何したい?」


 急に聞かれた。


「写真は続けたいです」


「摂大、写真サークルあるで」


「知ってます」


「調べた?」


「一応」


「えらい」


「先輩は入らなかったんですよね」


「うん」


「何で?」


「高校で一回、やりきった気して」


「写真、嫌いになった?」


「全然」


 紗英はスマホの写真を見せた。


 大学祭。


 旅行。


 知らない友人たち。


「今のほうが撮ってるかも」


「じゃあ入ればよかったのに」


「そういうのってあるやん。好きやけど、部活にするほどじゃないとか」


「分からん」


「これから分かる」


 また。


 少しだけ先にいる人の言葉。


 高校一年のころから、ずっとそうだった。


 湊がまだ知らないことを、紗英は少し先で知っている。


「先輩は?」


「何?」


「四回生になったら何するんですか」


 就活。


 卒論。


 旅行。


 そんな答えを予想していた。


 紗英はコーヒーを一口飲んだ。


「私、四回生ならへんねん」


「え?」


「休学する」


 一瞬、意味が分からなかった。


「何で?」


「留学」


 紗英が笑った。


「来月から一年、カナダ行く」


 湊は手に持っていたバゲットを皿へ戻した。


「……カナダ?」


「うん」


「一年?」


「たぶん。延ばす可能性もあるけど」


「いつ決まったんです?」


「去年の秋くらい」


「そんな前?」


「選考あったから」


「聞いてない」


 自分でも思ったより強い言い方になった。


 紗英が少し目を丸くする。


「言ってなかったっけ」


「聞いてないです」


「ごめん」


 そんなふうに謝られると、余計に困った。


 自分には知らせる義務があったみたいだ。


「何で言わなかったんですか」


「湊、受験中やったやん」


「関係ないでしょ」


「あるよ」


「ないです」


「あるって」


 少しだけ沈黙。


 紗英がコーヒーのカップを触る。


「受験前に余計なこと言いたくなかったんよ」


「余計なこと?」


「私が海外行くとか、湊の受験には関係ないやろ」


 関係ある。


 そう言いそうになった。


 飲み込んだ。


 紗英の言うことは正しい。


 大学は紗英に会うために行く場所ではない。


 自分のために受けた。


 そのはずだ。


「いつ出るんですか」


「入学式の三日前」


「……入学式、いない?」


「うん」


「大学案内してくれる言うてたやん」


「あれは去年の話やろ」


「覚えてます」


「帰ってきたら案内する」


「一年後?」


「大学、逃げへんし」


 そういう話ではない。


 でも、何の話なのか自分でも分からなかった。


     *


 湊は残りのハニーマスカルポーネを食べた。


 さっきと同じ味のはずなのに、少し違った。


 蜂蜜が甘い。


 マスカルポーネは思ったより軽い。


 黒胡椒が時々来る。


「おいしくなくなった?」


 紗英が聞く。


「おいしいです」


「顔」


「何です?」


「めっちゃ機嫌悪そう」


「悪くないです」


「昔から嘘下手やな」


 湊はコーヒーを飲んだ。


 苦い。


 ちゃんとブラックで飲める。


 三年前とは違う。


「先輩」


「ん?」


「僕が摂大受けた理由、聞きましたよね」


「聞いた」


「家から近いって」


「うん」


「学部もいいって」


「言ってた」


「もう一個あります」


 紗英がこちらを見る。


 言う。


 ここで言う。


 そう思った。


 ずっと好きでした。


 だから同じ大学に行きたかった。


 卒業してからも、追いつきたかった。


 高校生じゃなくなったら、もう少し近くに行けると思っていた。


 全部。


 言えるはずだった。


 でも、紗英は一か月後には海の向こうにいる。


 今ここで言えば、どうなる。


 返事をさせるのか。


 出発前の人間に。


 一年間、覚えていてほしいとでも言うのか。


「……先輩がいたから」


 そこまで言った。


 紗英の表情が少し変わった。


「摂大の話、ずっと聞いてたし」


「うん」


「楽しそうやったから」


 逃げた。


 分かっている。


 でも、それでいいと思った。


 今は。


 紗英がゆっくり笑う。


「そっか」


「それだけです」


「うん」


「何ですか」


「別に」


「その言い方腹立つ」


「何も言ってないやん」


「顔が言ってる」


「何を?」


「知らん」


 二人で少し笑った。


 湊は最後のバゲットを取った。


 マスカルポーネが少しだけ残っている。


 二人分には足りない。


「先輩どうぞ」


「ええよ。合格した人が食べ」


「カナダ行く人が食べてください」


「何祝い?」


「送別」


 紗英が笑う。


「じゃあ半分」


 バゲットを割った。


 きれいには割れなかった。


 大きいほうを湊へ渡す。


「何で僕が大きいんですか」


「後輩やから」


「普通逆でしょ」


「育ち盛り」


「十八ですよ」


「まだ育つ」


「先輩も三つしか違わんやん」


 言ってから。


 三つ。


 また同じ数字だと思った。


 十九と十六。


 十八と二十一。


 三年という距離は、近いようで遠い。


 でも、一年なら。


 待てる気もした。


 いや。


 待つという言葉も少し違う。


 自分にも大学生活が始まる。


 紗英が知らない一年を、自分も作る。


     *


「一曲歌う?」


 紗英が端末を取った。


「先輩歌うんですか」


「カラオケ来たし」


「何歌う?」


「春っぽいやつ」


「まだ三月ですよ」


「もう桜咲き始めてるやん」


 検索。


 aiko。


『桜の時』


「知ってます?」


「知ってるわ」


「僕も知ってます」


「ほんま?」


「母親が好きなんで」


「それはそれで複雑やな」


 紗英が笑って予約した。


「湊歌う?」


「先輩どうぞ」


「一緒に歌えば」


「知らんとこある」


「雰囲気で」


「雑」


 前奏が流れる。


 紗英が歌う。


 高校の文化祭でも聞いたことがある声だった。


 あのころより少し低くなった気がする。


 湊はマイクを持たなかった。


 ただ聞いた。


 春。


 桜。


 始まり。


 別れ。


 そういうものが全部同じ季節に来るのは、少しずるいと思った。


 大学に受かった。


 嬉しい。


 新しい生活が始まる。


 楽しみだ。


 そのはずなのに、今は少し寂しい。


 両方あっていいのかもしれない。


 歌っている紗英を見る。


 この人を追いかけてきた。


 高校でも。


 大学でも。


 でもこの先まで、ずっと後ろを歩く必要はないのかもしれない。


 一年後。


 帰ってきた紗英に、


「大学どう?」


 と聞かれたとき。


 自分の話をたくさんできるくらいにはなりたい。


 曲が終わった。


「拍手」


 紗英が自分で言う。


 湊は拍手した。


「何点?」


「八十八」


「微妙」


「もっと欲しい?」


「九十は欲しい」


「じゃあ九十一」


「適当」


「採点入れてないし」


 二人で笑った。


     *


 会計は本当に紗英が払った。


「半分出します」


「いらん」


「でも」


「大学入ったら後輩に同じことしたり」


「後輩できるまで一年ある」


「すぐやで」


 外へ出る。


 夕方。


 三月の風は、昼より少し冷たかった。


 摂大へ続く道沿いの桜は、まだ満開ではない。


 枝のところどころに、淡い色がついている。


「入学式にはちょうどいいかもな」


 紗英が見上げる。


「先輩いないけど」


「また言う」


「事実です」


「写真送って」


「何を?」


「桜」


「カナダにもあるんちゃいます?」


「摂大のが見たい」


「分かりました」


 少し歩く。


 駅への道。


「湊」


「はい」


「大学、楽しんでな」


「先輩に言われなくても」


「あと写真続け」


「続けます」


「失敗した写真も」


「消しません」


 紗英が笑った。


「覚えてた?」


「忘れるわけないでしょ」


 交差点。


 紗英は駅。


 湊は反対方向のバス停。


「じゃあ、ここで」


「はい」


「一年後な」


「一年って決めてください」


「努力します」


「絶対延長しそう」


「楽しかったらな」


「……それでもいいです」


「え?」


「何でもない」


 信号が青になる。


 紗英が歩き出した。


「先輩」


 呼ぶ。


 振り返る。


 今ならまだ言える。


 でも湊は、


「行ってらっしゃい」


 と言った。


 紗英が少し驚いて、それから笑う。


「行ってきます」


 手を振った。


 向こう側へ渡る。


 また歩き出す。


 右肩には、小さなカメラバッグ。


 高校のころより髪は短い。


 歩く速さは、あまり変わっていない。


 湊は追いかけなかった。


 もうすぐ、自分にも行く場所ができる。


 あの背中を目印に歩いてきた時間は、きっと無駄ではなかった。


 恋だったのか。


 憧れだったのか。


 今はまだ、きれいに分けなくていい。


 ただ、始まりの春に思い出すのは、きっとこれだ。


 ――憧れだった、その背中。

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