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苺のミルフィーユと「青春病」

 高瀬栞は、卒業式が終わって三日も経つのに、まだ摂陽大学にいた。


 三月の午後だった。正門脇の桜はまだ咲ききっていない。枝の先に薄い桃色がところどころ滲んでいるだけで、風が吹いても花びらは落ちなかった。その代わり、掲示板の中身だけがもう春へ向かっていた。


 新入生健康診断。

 履修登録ガイダンス。

 サークル合同説明会。

 図書館オリエンテーション。


 四年前には全部、自分のための文字だった。


 今は一枚も関係がない。


 正門を通るとき、栞は鞄の中へ手を入れかけた。学生証を出そうとして、自分で笑った。誰も求めていない。そもそもこの大学は正門で学生証を見せる必要なんてない。それでも四年間、何かにつけて使っていた小さなカードは、卒業式が終わっただけではまだ生活の外へ出ていかなかった。


「先輩、もう学生ちゃいますよ」


 広告研究会の部室で、後輩の山科が言った。


「三月いっぱいは学生や」


「卒業証書もらいましたやん」


「学生証まだ生きてる」


「ゾンビみたいに言わんといてください」


 栞は棚の前にしゃがみ込んだまま、山科を睨んだ。


「学食の学割も使える」


「そこまでして学生でいたいん?」


「使えるもんは使う」


 山科が笑った。


 摂陽大学広告研究会。略して摂大広告研。


 栞は一回生の春、大学祭のポスターに釣られて入った。広告業界を目指していたわけではない。デザインに詳しかったわけでもない。新歓の教室にいた先輩たちが、妙に楽しそうだった。それだけだった。


 最初の半年は、パソコンで文字の位置を変えるだけで一時間悩んだ。画像を切り抜けば輪郭がガタガタになり、色を三色使えば必ず安っぽくなった。


 二回生になると、後輩へ教える側になった。


 三回生には「そこ、あと三ミリ空けよ」と、誰に習ったのかも分からない言葉を平気で使うようになった。


 四回生になるころには、気づけば就職先まで広告制作会社になっていた。


 東京。

 第一志望。

 春から企画職。


 何度考えても嬉しい。


 それなのに、今日の栞は部室の棚から離れられなかった。


「これ捨てますよ」


 山科が透明ファイルを持ち上げた。


「待って」


「また?」


「見るだけ」


「先輩、それで一時間経ってます」


「うるさいな」


 受け取る。


 二年前の摂大祭の企画書だった。


 表紙の隅に油性ペンで、


〈絶対間に合う!!〉


 と書かれている。


「これ誰書いたん」


「先輩ちゃいます?」


「私?」


「筆跡それっぽい」


 記憶が戻る。


 締切前夜。


 広告研六人でパレットの大部屋を借りて、朝まで修正した。誰かが頼んだポテトは冷めきり、午前三時には全員が黙った。プリンターの音だけがしていた。


 小川洋介が部屋へ入ってきて、


「お前ら、もう何か食え。頭止まってるぞ」


 と焼きそばを置いていった。


 そのときは世界で一番重大な仕事をしているつもりだった。翌日の大学祭を成功させることが、人生の中心だった。


 今見ると、企画書は驚くほど普通だ。


「捨てます?」


「……残す」


「それやから終わらへんねん」


「持って帰る」


「東京まで?」


「実家の押し入れ」


「捨ててるのとあんま変わらん」


「気持ちや」


 段ボールへ入れた。


「東京行くん、水曜でしたっけ」


「うん」


「あと五日」


「まだ五日」


「荷造りは?」


「八割」


 山科が黙る。


「何」


「三割の顔してます」


「顔で分かるん?」


「先輩やから」


 当たっていた。


 段ボール五箱。閉じたのは二箱。本棚は未着手。冬服はタンス。台所用品に至っては父から「向こうで買え」と言われて放置している。


「お父さん寂しいやろな」


「全然」


「娘一人やのに?」


「早よ行け言うてる」


 十年前に母が亡くなった。それから父・修司と二人暮らし。


 仲が悪いわけではない。むしろ、よく話すほうだと思う。ただし、父は大事なことほど簡単に言う。


 東京の会社に内定した日。栞は少し緊張しながら言った。


「東京行くことになるで」


「行ったらええやん」


「一人になるで」


「楽でええわ」


 即答だった。


 その日の夕飯には、普段買わない少し高い寿司が並んでいた。


 父は何も言わなかった。


 栞も何も言わなかった。


「もうええ」


 栞は立ち上がった。


「何が?」


「片づけ。腹減った」


「逃げた」


「パレット行こ」


「今日バイトです」


「薄情」


「卒業した先輩についていく義務ないんで」


「先輩を敬え」


「卒業した時点で契約終了です」


 栞は笑った。


 部室を出る。


 廊下の窓からグラウンドが見えた。知らない学生二人がキャッチボールをしている。たった三日前まで、自分もここの人間だった。なのに少し遠い。


 一階へ下りる途中、掲示板に一枚だけ自分たちの作ったポスターが残っていた。卒業制作展の案内。栞が最後にレイアウトを見たものだ。


 もう会期は終わっている。


「剥がされる前に撮っとこ」


 スマホを向ける。


「先輩、何でも写真撮りますね」


「東京行ったら見たくなるかもしれんやろ」


「見ます?」


「知らん」


 山科は笑った。


 栞は写真を撮った。


 来年の今ごろ、自分は何をしているだろう。


 東京の電車に慣れているか。


 仕事が楽しいか。


 辞めたいと思っているか。


 大阪へ戻りたいと思っているか。


 何も分からない。


 その分からなさが嫌で東京へ行くわけではない。むしろ、分からないところへ行きたかった。


 それなのに今は、後ろばかり見ている。


 校舎を出ると、山科とはそこで別れた。


「先輩」


「ん?」


「東京行っても、広告研のグループ抜けんといてくださいね」


「抜けへんよ」


「既読つけるだけでも」


「何その老後の見守りみたいなん」


「先輩、返信遅いし」


「仕事始まったらもっと遅なるで」


「じゃあ、たまに写真送ってください」


「東京の?」


「何でも。コンビニでも」


 栞は笑った。


「そっちも送って。部室どうなったか」


「片づいた部室の写真?」


「私がおらんくなって、どれだけ綺麗になったか見たる」


「めっちゃ綺麗にします」


「腹立つな」


 山科は手を振って、反対方向へ歩いていった。


 栞は一人でキャンパスを横切った。


 途中、自動販売機の前を通る。二回生の冬、航に温かい缶コーヒーを奢ってもらった場所だった。プレゼンに失敗して落ち込んでいた栞へ、航は何も励まさず、


「甘いやつしか残ってへんけど、いる?」


 とだけ聞いた。


 あのときは「もっと何か言うてよ」と思った。


 今なら、あれくらいがちょうどよかったと分かる。


 学生食堂の横を通る。


 昼の営業は終わり、椅子が机の上へ上げられている。ガラス越しに見る食堂は、舞台が終わったあとの客席みたいだった。


 一回生の春、どこに座ればいいか分からず一人でうどんを食べた。


 四回生の冬には、同じ場所で後輩五人に囲まれ、卒論の愚痴を聞いていた。


 四年間で、場所はほとんど変わっていない。


 変わったのは、そこにいる自分のほうだった。


 正門を出る前に、一度だけ振り返る。


「また来るし」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


 卒業したからといって、門が閉まるわけではない。


 それでも、その日は正門を出る一歩がいつもより少しだけ重かった。


     *


 午後三時十六分。


 パレットの扉を開ける。


 春休みの平日は静かだった。夕方の学生客にはまだ早く、深夜の常連にはもちろん早い。受付の奥から、皿を重ねる乾いた音がした。


「いらっしゃ……あれ」


 受付にいた小川菜穂が顔を上げる。


「また来たん?」


「何その言い方」


「卒業したんちゃうの」


「卒業したら出禁?」


「売上落ちるから歓迎」


「現金やな」


 菜穂は和也の妻で、パレットのデザート担当。


 二回生のころ、友人が頼んだショートケーキを一口もらって、「何でカラオケ屋でこんな本気なん」と言ったら、厨房から菜穂が顔を出して「悪い?」と返してきた。


 それ以来、甘いものを食べたい日はここへ来るようになった。


「一人?」


「うん」


「珍しい」


「みんな忙しいねん」


「東京の準備せんでええの?」


「今日そればっかり」


「してへん顔してる」


「顔で分かんの?」


「分かる」


 今日二人目。


「一時間」


「歌う?」


「たぶん」


「曖昧やなあ」


 鍵を受け取る。


 歩き出したところで菜穂が呼んだ。


「栞ちゃん」


「何?」


「今日、苺あるで」


「苺?」


「ミルフィーユ」


 栞は振り返った。


「食べる」


「即答」


「菜穂さんの?」


「誰のやと思ったん」


「一個」


「一人で?」


「食べる」


「コーヒー?」


「ホット」


「はいはい」


 部屋へ入った。


 一人で座ると、いつもの部屋が少し広く感じる。


 パレットには何十回来たか分からない。でも一人は少ない。


 学生になったばかりのころは、一人でカラオケへ来るなんて無理だった。


 四年間でできるようになったことは多い。


 一人飯。


 一人旅。


 終電を逃しても慌てない。


 初対面の社会人へ電話する。


 面接で、自分を「御社に必要な人材」みたいに話す。


 恋人と別れても翌日の講義へ行く。


 できなくなったこともある。


 徹夜は無理になった。


「二十二で歳とか言ったら怒られるな」


 ひとりごと。


 スマホが震える。


 父。


〈晩飯いる?〉


 栞は笑った。


〈いる〉


 少し考える。


〈たぶん最後の家飯〉


 すぐ返る。


〈明日も明後日も食うやろ〉


〈そうやった〉


〈大げさやねん〉


 最近、何でも「最後」にしている。


 最後の大学。


 最後の部室。


 最後のパレット。


 最後の家飯。


 最後の大阪。


 本当は全部また来られる。


 なのに最後と呼びたくなる。


 そうしないと、次へ進めない気がするから。


 ドアが開いた。


「お待たせ」


「うわ」


 菜穂が皿を置く前に、栞はスマホを出した。


「写真」


「置いてから撮り」


 白い皿。


 薄いパイが何層も重なる。


 カスタード。


 軽いクリーム。


 苺。


 粉砂糖。


 パイの側面は刃物で切ったみたいに揃っていて、その間から白と赤が覗いている。


「これどうやって食べんの」


「好きに」


「絶対崩れるやん」


「崩れる」


「パティシエが認める?」


「作るときは綺麗にする。食べるほうは諦め」


「雑」


「ミルフィーユ綺麗に食べようと思わんほうがええよ」


 正面。


 斜め。


 上。


 写真を撮る。


「撮りすぎ」


「記念」


「また最後にしてる」


「何で分かんの」


「顔」


「今日そればっかりや」


 フォークを入れた。


 ぱりっ。


 上のパイが割れる。


 クリームが横から逃げる。


「あっ」


「ほら」


「笑わんといて」


 二回目。


 さらに崩れた。


「もうええわ」


 諦める。


 パイ。


 クリーム。


 苺。


 一緒に口へ。


 香ばしさ。


 冷たいクリーム。


 苺の酸味。


 パイのバター。


「……うま」


「知ってる」


「自分で言う?」


「仕事やし」


 二口目。


「甘いけど軽いな」


「一個食べても嫌ならんようにしてる」


「普通一人で一個食べる?」


「シェア多い」


「やっぱり」


「栞ちゃんならいける」


「何の評価」


 菜穂が椅子へ少し腰掛けた。


「東京楽しみ?」


「楽しみ」


「即答」


「行きたかった会社やし」


「寂しい?」


 今度は少し遅れた。


「……ちょっと」


「そらそうやろ」


「止めへんの?」


「何を?」


「大阪残ったら、とか」


「行きたいんやろ」


「うん」


「ほな行ったらええやん」


「みんな簡単に言うなあ」


「止めてほしいん?」


 答えが出ない。


 菜穂は少し笑う。


「寂しいんと、行きたいん、両方でええやろ」


「そういうもん?」


「知らん」


「知らんの?」


「私は栞ちゃんちゃうし」


 栞は笑った。


 誰かに答えを出してもらいたかったわけではない。


 ただ寂しいと言いたかっただけかもしれない。


「大学、めっちゃ楽しかった」


「知ってる」


「何で」


「摂大の子、卒業前なったらみんな来るから」


「そんな?」


「卒論終わった。就職決まった。院行く。地元戻る。東京行く。別れた。毎年」


「私もその一人なんや」


「そう」


 特別じゃない。


 少し寂しい。


 でも、少し安心した。


「四年間って、終わったらこんなもんなんかな」


「四年分を私にまとめさせんな」


「冷た」


「でも」


 菜穂はすでに崩れたミルフィーユを見る。


「崩れたからって、食べたことまでなくならへんやろ」


 栞が顔を上げた。


「今ちょっといいこと言った?」


「言ってない」


「言ったで」


「忘れて」


 菜穂は立った。


「ごゆっくり」


     *


 一人になってから、栞はゆっくり食べた。


 綺麗に食べるのをやめると、急に楽だった。


 パイを倒す。


 クリームをすくう。


 苺を切る。


 皿の上は、最初の写真とは全然違う。


 それでも味は変わらない。


 四年間も、きっとそうだ。


 一回生。


 二回生。


 三回生。


 四回生。


 そんな順番より、雨の日に全員で傘を忘れたこと。学祭前夜。恋人と別れた夜。父と就職の話で少し揉めたこと。パレットで始発まで喋ったこと。


 全部混ざっている。


 広告研の古いグループを開く。


 写真を送る。


〈卒業三日後、またパレット〉


〈怖〉


〈東京行く気ある?〉


〈うまそう〉


 少し遅れて。


 相沢航。


 二つ上の先輩。


 一回生だった栞に、「正解ないから、何でも言ってみ」と会議で最初に話を振ってくれた人。


 栞が初めて出した案は、思い返すとかなりひどかった。


 それでも航は笑わず、


「それ、もうちょい広げたら使えるかも」


 と言った。


 あの一言がなければ、自分は広告研を一年で辞めていたかもしれない。


 卒業後、航は東京の広告会社へ行った。


〈その店まだあるんや〉


〈失礼。めちゃくちゃ元気です〉


〈東京いつ来るん?〉


〈来週〉


〈来たら飯行こ〉


〈先輩おごり?〉


〈社会人二年目やぞ〉


 栞は笑う。


 東京にも知っている人がいる。


 それだけで少し安心する。


〈お願いします〉


 送信。


 まだ知らない。


 航が、その東京をすでに離れていることを。


     *


 食べ終わる。


 コーヒーを飲む。


 カップの底に少しだけ苦さが残った。


「一曲だけ」


 端末。


 藤井風。


『青春病』


 曲名を見て笑った。


「今の私やん」


 予約。


 前奏。


 最初は、何となく入れただけだった。


 歌い始めると、大学の景色が勝手に浮かんだ。


 春の正門。


 食堂。


 広告研。


 真夏の学祭。


 冬の就活。


 パレット。


 父の車で来た入学式。


 母がいない入学式を、父は妙に張り切って写真を撮った。


「もうええって」


 栞が何度も言った。


 卒業式では逆だった。


「撮らんでええの?」


 栞が聞くと、


「自分で撮るやろ」


 と言った。


 でも帰宅すると、玄関に小さな花束が置いてあった。


 そういう父だ。


 そして、


「行ってこい」


 と言われた内定の日。


 終わらせたくない。


 まだ学生でいたい。


 でも、本当にもう一年やれと言われたら嫌だ。


 東京へ行きたい。


 仕事をしたい。


 自分で決めた。


 なのに振り返っている。


「めんどくさ」


 歌いながら笑った。


 青春に区切りなんてないのかもしれない。


 四月一日になって、全部消えるわけじゃない。


 でも「ここまで」と言わなければ、ずっと部室の棚の前に座ってしまいそうだった。


 曲が終わる。


 採点はしない。


「よし」


 小さく言った。


     *


 会計。


 菜穂が紙袋を渡す。


「何?」


「フィナンシェ。焼き色悪いやつ」


「味は?」


「一緒」


「もらっていいん?」


「荷造りしながら食べ」


「三割しか終わってないの何で知ってんの」


「顔」


「また!」


 紙袋を受け取る。


 袋の底から、焼いたバターの匂いが少しする。


「菜穂さん」


「ん?」


「帰ってきたらミルフィーユ作って」


「苺の季節なら」


「春に帰る」


「東京行く前から帰省決めんな」


 二人で笑う。


 外へ出る。


 三月の風は冷たい。


 大学へは戻らない。


 家へ帰る。


 荷造りする。


 父と晩飯。


 明日も。


 明後日も。


 そのあと東京。


 寂しい。


 楽しみ。


 不安。


 嬉しい。


 全部持ったままでいい。


 東京へ持っていく荷物の中には、母の写真も一枚だけ入れるつもりだった。


 仏壇にあるものではなく、家族三人で海へ行ったときの写真。まだ小学生だった栞が、日焼けした顔でアイスを持っている。母は笑っていて、父はなぜか半分しか写っていない。


 写真を選んでいると父が後ろから見て、


「それ持っていくん?」


「うん」


「俺ほぼ切れてるやん」


「ちょうどええやろ」


「何がや」


 二人で笑った。


 母を亡くしたことまで、大学生活の外にあるわけではない。父と二人だった十年も、東京へ持っていくものの一つなのだと思った。


 駅へ向かう途中、スマホが震えた。


 父。


〈刺身買った〉


 栞は立ち止まって笑った。


〈最後の晩餐?〉


〈明日も飯食うやろ〉


〈そうでした〉


〈早よ帰って荷造りせえ〉


 またそれだ。


 栞は、


〈はいはい〉


 と返した。


 少し歩いて、振り返る。


 パレットの看板。


 大学生活を綺麗な形のまま持っていくことなんてできない。


 崩れて。


 混ざって。


 順番を忘れて。


 それでも味は残る。


 栞は紙袋を持ち直し、前を向いた。


 ――青春にサヨナラを。


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