レモンケーキと「旅路」
四月の大阪は、東京にいたころより空が近く見えた。
相沢航は、そんなことを考えながらパレットの裏口から入った。
午後四時四十八分。
新しい制服のポロシャツはまだ生地が硬く、肩のあたりが妙に落ち着かなかった。
胸には名札。
相沢 航。
二十四歳。
摂陽大学を卒業して二年。
東京の広告会社を辞めて一か月。
今日からカラオケ店の新人アルバイト。
文章にすると、自分でも少し笑える。
「おはようございます」
「おはよう……あ、新人さん」
受付にいた田中結衣が顔を上げた。
航の名札を見る。
「二十四歳なんですね」
「そうやけど」
「もっと上かと思いました」
「初対面でそれ言う?」
「あ」
「もう遅い」
「すみません」
「思ってへんやろ」
「ちょっとだけ」
「正直やな」
結衣は二十歳。摂大の二回生。四つ下。でも今日から職場では先輩だった。
「まず受付」
レジ画面を指す。
「料金ここ。入室ここ。終了ここ」
「はい」
「延長ここ」
「はい」
「料理は内線」
「はい」
「酔っ払い寝たら?」
「起こす?」
「一回は」
「起きへんかったら?」
「店長」
「正解」
「テストなん?」
「大事です」
奥から店主の小川洋介が顔を出す。
「航くん、分からんかったら全部結衣に聞いて」
「店長は?」
「俺忙しい」
「私も忙しいです!」
「お前もう慣れてるやろ」
「扱い雑!」
航は笑った。
自然に。
笑ってから、そのことに自分で少し驚いた。
東京にいたころも、笑わなかったわけではない。
同期と飲んだ。
上司の冗談にも笑った。
客先では、むしろよく笑った。
ただ、いつからか笑う前に周りを見る癖がついていた。
今は笑っていいのか。
ここは真面目な顔をするべきか。
この冗談に乗っていいのか。
そんなことを考えてから表情を作る。
それが社会人だと思っていた。
*
摂陽大学経営学部。
広告研究会。
大学時代、航は企画を考えるのが好きだった。
まだ世の中にないものを作るというより、すでにあるものをどう見せれば誰かが振り向くか。
それを考えるのが好きだった。
大学祭のポスター。
地域商店街とのコラボ。
学内イベント。
徹夜もした。
大変だった。
でも楽しかった。
だから広告会社を選んだ。
東京。
大きな会社。
聞いたことのあるクライアント。
内定した日は、母親が近所の人に話した。
航自身も嬉しかった。
最初の半年は本当に楽しかった。
自分の作った企画書が会議に出る。
先輩に直される。
また作る。
終電近くになっても、「仕事してる」という実感があった。
一年を過ぎたころから、日曜日の夕方が嫌になった。
月曜が近づく。
胸の奥が重くなる。
眠れない。
朝。
会社。
別に誰かにひどいことをされたわけではない。
上司も普通。
同期も普通。
だから、自分が弱いだけに思えた。
ある月曜の朝。
駅まで行った。
電車が来た。
扉が開いた。
乗れなかった。
一台。
二台。
三台。
ホームのベンチに一時間座った。
「何してんねん」
自分で思った。
でも足が動かなかった。
会社へ、「体調悪いので休みます」と電話した。
その夜、母へ電話した。
「帰ろかな」
母は、「帰ってきたら」とだけ言った。
理由を聞かなかった。
次どうする、とも。
航は退職届を出した。
部屋を引き払い、大阪へ戻った。
新大阪駅で母が待っていた。
「おかえり」
嬉しかった。
それと同じくらい情けなかった。
三週間休んだ。
一週目は寝た。
二週目は友達に会った。
三週目になると、何もしていない自分に耐えられなくなった。
求人サイトを開く。
パレット。
大学時代、何度も来た店。
「ここなら」
と思った。
何が「ここなら」なのかは、自分でも分からなかった。
面接の電話。
洋介が、「摂大の子?」と聞いた。
「卒業生です」
「店知ってる?」
「めっちゃ」
「ほな一回来て」
それだけだった。
面接の日、航は店の前で一度だけ立ち止まった。
大学時代の知り合いに見つかったらどうしよう、と本気で考えた。
「相沢、今パレットでバイトしてんの?」
そう聞かれたとき、自分はどんな顔をするのだろう。
「ちょっと繋ぎで」
たぶん、そんな言い訳をする。
本当は、何につなぐのかも決まっていないのに。
扉の前で二分ほど立っていると、中から洋介が出てきた。
「相沢くん?」
「はい」
「何してんの」
「いや、ちょっと」
「入らへんの?」
「入ります」
それで逃げる暇がなくなった。
面接で洋介は履歴書を見て、「東京の広告会社」とだけ口にした。
航は身構えた。
「何で辞めたん?」
来ると思った。
でも洋介が聞いたのは、
「金曜の夜いける?」
だった。
「……はい」
「土曜は?」
「いけます」
「接客経験ある?」
「居酒屋で三年」
「ほな大丈夫そうやな」
航のほうから聞いた。
「会社辞めた理由とか、聞かないんですか」
洋介は履歴書から顔を上げた。
「聞いてほしい?」
「いや」
「ならええやん」
その答えが妙に残った。
帰宅すると母が、
「どうやった?」
と聞いた。
「受かったっぽい」
「よかったやん」
「カラオケ屋やで」
「知ってる」
「俺、大学出て東京まで行って、戻ってカラオケ屋でバイトやで」
母は夕飯のみそ汁をよそいながら、
「それが何なん」
と言った。
「いや……何でもない」
「ちゃんと働くんやったらええやろ。次決まったら辞めたらええし、気に入ったら続けたらええし」
「簡単に言うなあ」
「難しく言う必要ある?」
母は味噌汁を置いた。
航はそれ以上何も言えなかった。
東京では、自分がどこへ向かっているかを説明できないと不安だった。
大阪へ戻ってからは、母も洋介も、その説明を求めなかった。
それが楽で、同時に少し悔しかった。
実家へ戻ってから、母は航の生活にほとんど口を出さなかった。
昼まで寝ても起こさない。転職サイトを開いていても覗かない。ただ夕飯の量だけ、東京へ行く前と同じように多かった。
「太るで」
「東京で痩せた分戻したらええやん」
「そういう問題?」
「知らん」
母もまた、答えをくれない人だった。
以前の航なら、それを無責任だと思ったかもしれない。今は、答えを決めつけられないことのほうがありがたかった。
パレットへ出勤する直前も、母は玄関から、
「行ってらっしゃい」
とだけ言った。
アルバイト初日の二十四歳に、まるで高校生のころと同じ調子で。
*
「航くん」
厨房から小川菜穂。
「はい」
「五番、これ」
ショートケーキ二つ。
「向き気をつけて」
「向き?」
「苺が客側」
「ケーキに正面あるん?」
菜穂が真顔になる。
「ある」
「すみません」
「パティシエ舐めんな」
「舐めてへん」
「ならよし」
盆を持つ。
五番。
「お待たせしました」
大学生らしい女の子二人が、「かわいい!」と声を上げた。
航が客だったころ、料理が来れば「うまそう」しか思わなかった。
裏では、誰かが苺の向きまで決めていた。
戻る。
ドリンク。
皿。
受付。
「航さん」
結衣が伝票を渡す。
「八番ポテト追加」
「はい」
「十二番グラス」
「はい」
「七番あと十分」
「了解」
「慣れるの早いですね」
「大学のとき居酒屋バイトしてたから」
「摂大?」
「そう」
「何学部?」
「経営」
「広告研?」
航の手が止まる。
「何で知ってんの」
「摂大祭の人ら来たとき話してました」
「ああ」
「学祭とかやってた?」
「めっちゃ」
「パレットも?」
「めっちゃ」
「まさか働くとは?」
「一ミリも」
結衣が笑う。
「人生分からんもんですね」
二十歳に言われる。
「ほんまや」
その直後、二番の内線が鳴った。
結衣が取る。
「はい、フロントです。……はい。烏龍茶二つと、たこ焼き一つ。かしこまりました」
電話を切る。
「航さん、烏龍茶作ってみます?」
「烏龍茶に作るも何もある?」
「氷の量」
「そこ?」
「そこです」
言われるままグラスを出す。
「多い」
「これで?」
「多い」
「カラオケ屋、細かいな」
「原価も見た目も大事です」
「二十歳に経営教えられてる」
「経営学部卒なんですよね?」
「今日一番刺さった」
結衣が声を上げて笑った。
航も笑った。
忙しい。
でも、目の前の仕事が一つずつ終わる。
グラスを運ぶ。
皿を下げる。
テーブルを拭く。
レジを打つ。
会社では、一日中作った資料が夕方の一言で全部やり直しになることもあった。
ここでは、空いた皿を片づければ一つ仕事が終わる。
単純だから楽、というわけではない。
ただ、自分が今どこにいるのかが分かる。
それが久しぶりだった。
*
午後九時半。
「休憩行ってき」
洋介に言われる。
スタッフルーム。
小さな机。
丸椅子。
航はスマホを見る。
母。
〈晩飯いる?〉
転職サイト。
おすすめ求人。
そして。
高瀬栞。
〈東京の電車意味わからん〉
駅の案内板の写真。
航は笑った。
栞。
広告研の二つ下。
一回生のころから知っている。
何でも言いそうな顔をして、最初の会議では一言も喋らなかった。
「正解ないから、とりあえず言ってみ」
航が振った。
栞の出した案は、今思い返してもかなりひどかった。
それでも航は、「それ、もうちょい広げたら使えるかも」と返した。
翌週、栞は本当に案を作り直してきた。
そこからだった。
卒業後もグループチャットでたまに話した。
今年の春、栞が東京へ就職すると聞いた。
卒業前、栞がパレットのミルフィーユを送ってきたとき、航は書いた。
〈東京来たら飯行こ〉
その時点で、航はもう退職届を出していた。
言えなかった。
東京へ行く後輩に、「俺はもう帰る」と書くのが格好悪かった。
〈それ乗ったら逆〉
返信。
すぐ既読。
〈先に言って〉
〈知らんがな〉
〈東京の先輩やろ〉
指が止まった。
東京の先輩。
もう違う。
航はしばらく画面を見た。
〈俺、大阪戻ってん〉
送信。
〈え〉
〈いつ〉
〈先月〉
〈会社は?〉
〈辞めた〉
既読。
返事がない。
「そら困るわな」
スマホを伏せかける。
震える。
〈そっか〉
続けて。
〈おかえり〉
航は、その四文字をしばらく見ていた。
なぜ辞めた。
もったいない。
次どうする。
一つもない。
母と同じ言葉だった。
〈今パレットでバイトしてる〉
〈嘘やん笑〉
〈ほんま〉
〈菜穂さんおる?〉
〈おる〉
〈ミルフィーユまた食べたいって言っといて〉
航は笑った。
そこへドアが開く。
「何笑ってんの」
菜穂。
「何でもない」
「ならええけど」
小さな皿。
黄色い焼き菓子。
「何これ」
「レモンケーキ」
「注文?」
「航くんの」
「俺?」
「休憩やろ」
白い糖衣。
小判型。
端が少しだけ歪んでいる。
「売り物?」
「売られへん」
「何で」
「形悪い」
「どこ」
「ここ」
菜穂が指さす。
わずかな膨らみ。
「……これ?」
「これ」
「味は?」
「一緒」
「じゃあ売ればいいのに」
「売らん」
「厳しい」
「仕事やから」
菜穂が出ようとする。
「菜穂さん」
「何」
「栞が、ミルフィーユまた食べたいって」
「東京行った栞ちゃん?」
「うん」
「元気?」
「駅で迷ってる」
「元気そうやな」
菜穂は笑って出ていった。
航はレモンケーキを取る。
一口。
薄い糖衣がぱりっと割れる。
中はしっとり。
バター。
甘さ。
そのあと、レモン。
「うま」
形が悪い。
だから売れない。
味は同じ。
人生もそうなら簡単だった。
会社を辞めた。
履歴書には二年にも満たない職歴。
同期はまだ東京で働いている。
SNSには新しい仕事。
新しい名刺。
飲み会。
自分だけ、規格から外れたみたいだった。
でも、「中身は同じ」なんて綺麗に言うほど、自信もない。
東京で削れたものはある。
変わった。
失った。
戻った。
それでも全部駄目になったわけではない。
スマホが震える。
〈東京来ることあったら今度こそ飯おごって〉
〈初任給まだやろ〉
〈来月〉
〈ほなそのあと〉
〈了解先輩〉
航は少し考える。
〈大阪帰ってきたらパレット来い。今度は俺が店員や〉
〈めっちゃ行きたい笑〉
レモンケーキを食べ切る。
皿には、糖衣の欠片だけ。
*
休憩から戻ると、店はさっきより騒がしくなっていた。
廊下の向こうから何曲もの低音が重なって聞こえる。
七番の大学生グループが延長。
十番から追加の唐揚げ。
入口には酔う前から声の大きい会社員三人。
航はレジを打ち間違えた。
「あ」
「戻る押して」
横から結衣。
「これ?」
「それ」
「助かった」
「先輩なんで」
「急に先輩面するやん」
「さっきからしてます」
客が来る。
航は頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
言葉がまだ少し自分のものではない。
でも、三時間前よりは馴染んでいる。
十時半ごろ、皿を下げに入った部屋で、大学生の男が就活の話をしていた。
「大阪残るか東京行くか迷ってんねん」
「東京行けって。一回くらい」
「お前適当やな」
聞き覚えのある会話だった。
航は空になったグラスを盆へ載せながら、何も言わず部屋を出た。
二年前なら、「東京行ったほうがええ」と迷わず言ったと思う。
今は分からない。
東京へ行くのもいい。
行かないのもいい。
行って戻ってくるのもある。
選んだ瞬間に、その道が正解になるわけではない。
でも間違いになるわけでもない。
廊下へ出ると、菜穂とすれ違った。
「初日どう?」
「忙しい」
「嫌?」
航は少し考えた。
「今んとこ、嫌じゃない」
「十分」
菜穂はそれだけ言って厨房へ戻った。
*
午後十一時。
初勤務終了。
「お疲れ」
洋介。
「どうやった?」
「思ったより忙しい」
「カラオケ屋舐めてた?」
「ちょっと」
「正直でよろしい」
結衣。
「明日も来ます?」
「シフト入ってるやろ」
「逃げんといてください」
「俺を何やと思ってんの」
「新人すぐ辞めたら困る」
「初日にプレッシャーかけんな」
制服を脱ぐ。
廊下の奥から歌声。
「うま」
「紗季ちゃん」
「誰?」
「藤本紗季。バイト。声優養成所」
「スタッフ?」
「はい」
「この店何なん」
「私もたまに分からん」
曲が終わる。
結衣が航を見る。
「一曲歌って帰ります?」
「店員が?」
「勤務終わったし。空いてれば」
受付から洋介。
「一曲だけな」
「聞いてたん?」
「店やから」
*
一人で部屋へ。
学生時代、何度も使ったカラオケ。
自分がさっき拭いたテーブル。
補充したおしぼり。
客のころとは違う。
端末。
藤井風。
『旅路』
「ベタ」
自分で言う。
予約。
歌う。
東京へ行った日。
新大阪。
スーツケース。
母。
期待。
東京駅。
社員証。
初任給。
同期。
仕事。
失敗。
日曜の夕方。
乗れなかった電車。
退職届。
帰りの新幹線。
母の、「おかえり」。
栞の、〈おかえり〉。
自分はずっと「戻った」と思っていた。
引き返した。
降参した。
失敗した。
でも。
東京へ行ったこと。
働いたこと。
辞めたこと。
大阪へ帰ったこと。
全部、一続きなのかもしれない。
道を間違えたのではなく。
そこまでの道だった。
なら、次を歩けばいい。
広告じゃなくても。
東京じゃなくても。
パレットが終点とも限らない。
明日が分からない。
昨日までは、それが怖かった。
今は。
分からないなら、まだ続いている。
そう思えた。
曲が終わる。
採点。
七十九点。
「微妙」
笑った。
*
夜十一時半。
店を出る。
家とは反対へ歩く。
四月の夜風は、昼よりまだ冷たい。昼間は暖かかったせいで薄い上着しか持ってこなかったことを少し後悔した。
摂陽大学。
正門前には、新入生向けの看板。
二年前、自分もここを卒業した。
大学はほとんど変わらない。
自分だけ変わったと思っていた。
でも大学にいたころも、毎年違った。
一回生の自分。
二回生の自分。
就活をしていた自分。
東京へ行くと決めた自分。
どれも同じ航で、同じではない。
スマホ。
栞。
〈家着いた〉
〈おつかれ〉
〈明日初出勤〉
〈俺も明日二日目〉
〈お互い新人やん〉
航は笑う。
東京へ出た後輩。
東京から戻った先輩。
同じ春。
また新人。
〈せやな〉
送ってから、少し考える。
〈無理すんなよ〉
打った。
でも送らず消した。
今の栞にそれを言うのは違う気がした。
代わりに、
〈電車はちゃんと調べろ〉
と送る。
すぐ返る。
〈うるさい笑〉
それでよかった。
スマホをしまう。
明日は昼に転職サイトを見る。
夕方、パレット。
来月は分からない。
半年後も。
一年後も。
今度は、その分からなさを悪いものだと思わなかった。
航は正門前を、そのまま通り過ぎた。
――もう大丈夫、旅路は続く。




