バスクチーズケーキと「満ちてゆく」
娘が東京へ行って四か月。
高瀬修司は、ようやく一人分の生活に慣れ始めていた。
一合の米を炊く。
半分食べる。
半分冷凍。
冷凍庫には四角い保存容器。
冷蔵庫には、娘がいなくなってから減らないドレッシング。
ヨーグルト。
瓶入りジャム。
修司はどれもほとんど食べない。
賞味期限だけ、ときどき見る。
娘の部屋もそのままだ。
東京へ持っていかなかった本。
高校時代の制服。
摂大祭のキーホルダー。
何度、「片づけろ」と言ったか分からない。
いなくなってからは、触れられなくなった。
五十六歳。
妻を亡くして十年。
栞が十二歳のときだった。
そこから父娘二人。
「娘を一人で育てた」
人に言えば、そうなる。
実際は少し違う。
妻が亡くなった最初の一年は、娘のほうが修司を見ていた。
「お父さん、ご飯」
「洗濯回した?」
「明日学校やで」
十二歳の娘に言われた。
情けなかった。
でも助かった。
高校生になれば喧嘩した。
大学へ行けば帰りが遅くなった。
玄関には靴。
洗面台には化粧品。
冷蔵庫には、自分が買わない飲み物。
風呂場には妙な香りのシャンプー。
全部、うるさいと思っていた。
今年の春。
一気に減った。
「快適や」
最初の一週間は本気だった。
二週間目も。
一か月。
快適すぎた。
朝、目覚ましが一つしか鳴らない。
洗面所で順番を待たなくていい。
帰宅しても玄関に靴がない。
テレビの音量も好きにできる。
冷蔵庫のプリンを勝手に食べて怒られることもない。
自由になった。
なのに、その自由を使う相手がいない。
土曜の午後など特にそうだった。
若いころなら、昼まで寝て、好きなものを食べて、どこかへ出かけたかもしれない。
今はテレビをつけたまま、ソファでスマホを触る。
それだけで半日が終わる。
栞が東京へ出た最初の週、修司は二度だけ二人分の味噌汁を作った。
一度目は完全に癖だった。
二度目は、鍋に水を入れてから気づいた。
「アホやな」
自分で言って、一杯分を保存容器へ移した。
翌朝、その味噌汁を温めて飲んだ。
味は同じだった。
誰かと食べるか、一人で食べるかで料理の味が変わるなんて、若いころは大げさだと思っていた。実際、味噌汁そのものは変わらない。ただ、食卓に向かいの箸がないと、食べ終わるのがやたら早い。
栞からは毎日のように連絡が来た。
〈電車間違えた〉
〈スーパー高い〉
〈会社の近くのパン屋うまい〉
〈洗濯機の使い方これで合ってる?〉
修司は、
〈知らん〉
〈説明書読め〉
〈東京価格や〉
〈食いすぎんな〉
そんな返事ばかりした。
電話はあまりしなかった。
一度だけ、栞から夜十一時を過ぎて電話が来たことがある。
「何」
『別に』
「別にで電話すんな」
『今日、ちょっと失敗してん』
「仕事?」
『うん』
「怒られた?」
『まあ』
「クビ?」
『そこまでちゃうわ』
「ほな寝ろ」
『それだけ?』
「明日行くんやろ」
『行く』
「ほな寝ろ」
しばらく無言。
それから栞は笑った。
『お父さんって、ほんま雑やな』
「今さらか」
『おやすみ』
「おう」
電話を切ったあと、修司はしばらくスマホをテーブルに置けなかった。
心配だった。
でも、すぐ大阪へ帰ってこいとは思わなかった。
しんどいなら帰ればいい。
まだ行けるなら行けばいい。
それを決めるのは自分ではない。
妻が生きていたら、もっと上手に言葉をかけただろうか。
たぶんそうだ。
けれど自分には、自分のやり方しかなかった。
*
その土曜日も、午後一時を過ぎたころだった。
テレビをつけたままソファに座る。
内容はほとんど頭に入っていない。
スマホが鳴った。
栞。
〈今日何してる?〉
〈何も〉
〈暇やん〉
〈休みや〉
〈パレット行ってみ〉
〈何やそれ〉
〈大学近くのカラオケ〉
〈一人で?〉
〈飯だけでもいける〉
〈何でわざわざ〉
〈菜穂さんのケーキ食べて〉
〈お前帰ってきたら一緒に行けばええやろ〉
〈それはそれ〉
〈何やねん〉
〈暇なんやろ〉
図星。
修司はスマホを置いた。
テレビでは芸人が何かを食べて笑っている。
冷蔵庫には昨夜の煮物が残っている。
別に出かけなくてもいい。
二十分。
もう一度スマホを取る。
〈場所〉
即座に地図。
「最初から行かせる気やったな」
上着を着る。
車の鍵を持って玄関へ出る。
そこで一度、娘のスニーカーがない空いた場所に目が止まった。
四か月経っても、そこだけ妙に広い。
「行ってくるわ」
誰もいない家に言った。
昔なら妻か娘のどちらかが、
「どこへ?」
と聞いた。
当然、返事はない。
修司は自分で少し笑って扉を閉めた。
*
車で二十分。
摂陽大学の近く。
娘が四年間通った街。
修司は入学式と卒業式くらいしか来たことがない。
大学生だらけの街は、五十六歳には少し居心地が悪い。
コンビニの前に自転車。
安い定食の看板。
美容室。
不動産屋の窓には「学生向け」の文字。
栞は毎日こういう場所を歩いていたのかと思う。
父親が知っているのは、朝家を出る娘と、夜帰ってくる娘だけだった。
その間の時間を、自分はほとんど知らない。
パレット。
古い看板。
「ほんまにカラオケやん」
入る。
「いらっしゃいませ」
若い男。
名札。
相沢 航。
「一人なんやけど」
「はい」
「飯だけでもええって聞いた」
「もちろんです」
「歌わんでも?」
「大丈夫ですよ」
「娘がここよう来てたみたいで」
「摂大ですか?」
「そう」
「今年卒業?」
「そう」
「名前聞いても?」
「高瀬栞」
「あ」
航の顔が変わる。
「知ってる?」
「広告研の後輩です」
「ほんまに?」
「俺、二個上」
「世間狭いな」
「摂大の近くなんで」
「栞と仲良かった?」
「サークルの先輩後輩です。東京行ってからも、たまに連絡します」
「東京?」
「俺も東京おったんで」
「今ここおるやん」
「帰ってきました」
「転勤?」
「いや」
少し間がある。
「会社辞めて」
「ああ」
謝るみたいな言い方だった。
「帰ってきたらあかんの?」
航が顔を上げる。
「え?」
「何か、悪いことしたみたいに言うから」
「……最初は、そんな感じでした」
「帰る家あるなら帰ったらええやん」
「簡単に言いますね」
「他人やからな」
航が笑う。
「娘にもそんな感じですか」
「もっと雑」
「想像つく」
「何で」
二人で笑う。
「娘に菜穂さんのケーキ食えって言われた」
「ああ」
航が納得する。
「呼びます」
*
小川菜穂は、修司を見るなり言った。
「栞ちゃんのお父さん?」
「もう伝わってるん」
「航くん聞いた」
「情報早いな」
顔を見る。
「似てる」
「どこ」
「口」
「あいつ眉毛言うてたぞ」
「両方」
「適当やな」
案内された部屋へ。
一人のカラオケルーム。
妙に落ち着かない。
若いころは会社の飲み会でよく来た。
自分から歌うほうではなかったが、酔えば一曲くらいは歌った。
妻と結婚する前、二人でカラオケへ行ったこともある。
妻のほうが歌がうまかった。
何を歌ったのかはもう覚えていない。
そんなことを、店に入ってから思い出した。
「甘いのいけます?」
菜穂がメニューを置く。
「普通」
「コーヒー?」
「ブラック」
「じゃ、バスク」
「バスク?」
「チーズケーキ」
「何でもええよ」
菜穂が止まる。
「その言い方、作る側一番困る」
「すまん」
「まあ、バスクにする」
出ていく。
修司はソファへ座る。
娘も、この店のどこかに何度も座った。
友達。
先輩。
後輩。
父親の知らない顔で。
大学の話は家で聞いた。
広告研。
学祭。
ゼミ。
就活。
でも、全部ではない。
当たり前だ。
全部知る必要はない。
頭では分かっている。
それでも、今さら少しだけ見てみたくなる。
大学生だった娘が、どんな顔でこの部屋にいたのか。
スマホ。
〈着いた〉
〈ほんまに行ったん笑〉
〈お前が行け言うた〉
〈菜穂さんおる?〉
〈今ケーキ〉
〈何頼んだ?〉
〈バスクなんとか〉
〈当たり〉
「何が当たりやねん」
ドアが開く。
「お待たせ」
皿。
修司は眉を寄せた。
「……焦げてへん?」
「絶対言うと思った」
濃い茶色。
一部は黒い。
「これ正解?」
「正解」
「失礼やけど」
「失礼やな」
断面を見る。
淡いクリーム色。
中心は柔らかい。
「外しっかり焼いて、中柔らかく残す」
「へえ」
「食べて」
フォーク。
表面に少し抵抗。
中は滑らか。
一口。
「……濃いな」
「嫌?」
「いや」
もう一口。
「うまい」
「よかった」
甘さ控えめ。
チーズの酸味。
焦げのほろ苦さ。
コーヒー。
また食べたくなる。
「娘もこれ食った?」
「バスクは知らんな」
「知らんの?」
「毎回私が見てるわけちゃうし」
「そらそうか」
「卒業前は苺のミルフィーユ食べてた」
修司のフォークが止まる。
「一人で?」
「一人」
「珍しい」
「私も言った」
菜穂は笑う。
「東京行く前。寂しいけど楽しみ、みたいな顔してた」
「そんな顔ある?」
「ある」
「俺には見せへんかったな」
「家族には見せにくいんちゃう」
出発前。
家では、「荷造り」「役所」「保険証」「忘れ物」。
そんな話ばかり。
修司も言わなかった。
寂しい。
行くな。
そんなことを言えば、娘が気にすると思った。
出発の朝も、
「忘れ物ないか」
としか言わなかった。
新大阪駅で、栞が改札へ入る前に振り返った。
「ほな」
「おう」
「行ってくるわ」
「行ってこい」
それだけだった。
電車が出てから、帰りの車でやたら信号が長く感じた。
娘も同じだったのかもしれない。
「菜穂さん」
「ん?」
「栞、ここで楽しそうやった?」
「うん」
即答。
「よう笑ってた」
「そう」
「友達いっぱい連れてきたし」
「それならええわ」
胸の奥が、少しほどける。
自分が知らない娘の時間。
以前なら少し寂しかったかもしれない。
今は嬉しい。
父親のいないところで、ちゃんと笑っていた。
そのほうがいい。
妻が生きていたころ、甘いものを買うのはいつも妻だった。
修司は自分ではケーキ屋へ入らない。誕生日もクリスマスも、妻が箱を持って帰ってきて、栞が一番大きい苺を選んだ。
「お父さん甘いのいらんやろ」
小学生の栞が勝手に決める。
「いるわ」
「ブラックコーヒー飲む人はケーキいらんねん」
「誰が決めた」
そんなくだらないやり取りを思い出した。
今、自分からケーキを食べにカラオケ屋まで来ている。
妻が見たら笑うだろう。
「歳取ったら甘いもん好きなるんやな」
たぶん、そんなことを言う。
*
半分食べたころ、ノック。
「コーヒーおかわりいります?」
航。
「もらう」
新しいカップ。
「お前、栞と東京で会ったん?」
「会えてないです」
「何で」
「入れ違い」
「入れ違い?」
「栞が東京行く直前に、俺大阪戻ってきたんで」
「何やそれ」
「東京来たら飯行こって約束してたんですけどね」
「そのうち行ったらええやん」
「俺が東京?」
「どっちでもええ。お前が行っても、栞が帰ってきても」
「ほんま簡単に言いますね」
「他人やから」
「またそれ」
航が笑う。
「東京、しんどかった?」
少し止まる。
「しんどかったです」
「そうか」
「辞めてよかったかは、まだ分からん」
「うん」
「でも大阪戻ってきてよかったとは思ってます」
「ほな今はそれでええやん」
「高瀬さん、娘さんにもそんな感じ?」
「何が」
「答え出そうとせえへん」
修司はコーヒーを飲む。
「俺が答え出してどうすんねん」
「親なら、何か言うもんかなって」
「親なんか、金出して飯食わせて、死なんようにしといたら半分仕事終わりや」
「半分?」
「あと半分は知らん」
「雑」
「せやろ」
航が笑う。
「でも、栞が東京行けた理由、ちょっと分かる気します」
「俺何もしてへんぞ」
「それがいいんちゃいます?」
「褒めてんの?」
「たぶん」
「曖昧」
航が戻ろうとする。
「相沢」
「はい」
「お前まだ二十四やろ」
「そうです」
「何か終わったみたいな顔すんな」
航が止まる。
それから笑った。
「親子ですね」
「何が」
「栞にも似たようなこと言われた」
「そっか」
航が出ていく。
修司は新しいコーヒーを一口飲んだ。
自分は他人だから簡単に言える。
分かっている。
もし栞が仕事を辞めて帰ってきたら、自分は同じように「帰ってきたらええ」と言えるだろうか。
たぶん言う。
そのあと、
「次どうすんねん」
くらいは聞くかもしれない。
父親だから。
航に言ったほど格好よくはできないだろう。
それでも、帰ってくる場所くらいは残しておきたいと思った。
*
スマホが震える。
栞。
〈どう?〉
ケーキを撮る。
〈焦げてた〉
〈それで正解や〉
〈知ってる〉
〈菜穂さん元気?〉
〈元気〉
〈航先輩おる?〉
〈おる〉
〈元気?〉
〈本人に聞け〉
〈冷た〉
少し考えて。
〈大学のとき楽しそうやったらしいな〉
既読。
返事が少し遅い。
〈菜穂さん何言うたん〉
〈よう笑ってたって〉
また少し。
〈楽しかったよ〉
修司は、その一文を二度読んだ。
四年間。
自分の知らない時間。
楽しかった。
それだけでいい。
〈そうか〉
返す。
それだけで十分だった。
*
残りのバスクを食べる。
焦げた表面。
柔らかい中。
同じ一切れ。
人生も、そういうものなのかもしれない。
妻が死んだ十年前。
あの一年を消したいと思ったことは何度もある。
病院。
薬。
細くなっていく腕。
妻がいなくなった家。
葬式のあと、栞と二人で食べたコンビニ弁当。
思い出したくない。
でも、そこだけ切り取って消せば、それ以前の妻との時間まで薄くなりそうだった。
初めて会った日。
結婚式。
栞が生まれた日。
家族三人で出かけた海。
妻が怒った顔。
笑った顔。
全部つながっている。
娘が家を出た。
寂しい。
でも、家へ残せばよかったとは思わない。
減ることと、失敗することは違う。
「せっかくやし」
カラオケ端末。
ランキング。
藤井風。
『満ちてゆく』
「ああ、これ」
娘が家でよく流していた。
予約。
歌う。
分からないところは画面を追う。
上手くない。
音を外す。
それでも歌う。
減る。
離れる。
手放す。
普通なら、空っぽになる言葉ばかり。
妻がいなくなった。
でも妻との二十年は消えない。
娘が家を出た。
でも二十二年間は残っている。
むしろ今の静けさこそ、そこに誰かがいた証拠なのだ。
朝の声。
喧嘩。
飯。
洗濯物。
遅い帰宅。
妻の笑い方。
冷蔵庫に残るジャム。
なくなったものばかり数えていた。
残っているものは、目に見えにくいだけだった。
歌いながら、少し笑う。
「歳取ったな」
曲終了。
採点。
六十八点。
「低っ」
思わず声が出た。
廊下から航の声。
「大丈夫ですかー?」
「点数や!」
「びっくりした!」
修司も笑った。
*
会計。
菜穂が小さな箱を出す。
「何?」
「バスク一切れ」
「何で」
「持って帰る?」
「栞用?」
「いつ帰ってくるか分からんやろ」
「冷凍できる」
「そこまでせんでええ」
「じゃ、お父さん用」
「また食わせるんか」
「嫌?」
少し考える。
「もらう」
箱を受け取る。
「また来てね」
「娘おらんのに?」
「お父さんが来たらええやん」
「一人でカラオケ?」
「今日やったやろ」
「……せやな」
航が横から、「飯もありますよ」と言う。
「カラオケ屋やろ、ここ」
「その反応、みんなします」
修司は笑う。
外へ出る。
夕方。
摂大の学生たちが歩いている。
サークル帰りらしい三人が、自転車を押しながら笑っている。
コンビニの前では学生が肉まんを食べている。
娘も四年間、この景色の中にいた。
今は東京。
航は東京から戻って、この店にいる。
行く人。
帰る人。
送り出す人。
誰が正しいわけでもない。
それぞれが、自分の場所へ進む。
車へ向かう。
手には菜穂の小さな箱。
ポケットにはスマホ。
そこには娘とのくだらないやり取りが残っている。
家へ帰れば一人だ。
夕飯も一人。
テレビを見るのも一人。
でも、それを空っぽと呼ばなくてもいい。
車に乗る前、修司はスマホを出した。
〈今度帰ってきたら一緒に行くか〉
栞へ送る。
少しして、
〈もちろん。次はミルフィーユな〉
と返ってきた。
〈俺はバスクでええ〉
〈気に入ってるやん笑〉
修司は笑った。
娘は東京。
自分は大阪。
距離はある。
でも関係まで遠くなったわけではない。
車の鍵を開ける。
家に着いたら、一合だけ米を炊こうと思った。
冷凍する分も含めて。
明日の分まで。
――手を放す、軽くなる、満ちてゆく。




