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牛すじ煮込みと「LOSER」

 午後三時過ぎ、現場の休憩所に置かれた小さなテレビで、その顔を見た。


「……あれ?」


 脚立に座って缶コーヒーを飲んでいた黒田誠司は、思わず声を出した。


 画面の中では、若いボクサーが汗だくのままインタビューを受けている。先週、国内タイトルを獲ったらしい。二十三歳。十一戦無敗。次は東洋太平洋を狙う、と字幕が出ていた。


 その選手の隣に立っていた男を、誠司は知っていた。


 髪は短くなった。

 頬も昔より少し落ちた。

 首は相変わらず太い。


 城戸達也。


 画面の下に、


〈恩師・城戸達也トレーナー〉


 と出る。


「黒田さん、知ってる人っすか」


 床に座って弁当を食べていた後輩の村瀬が聞いた。


 誠司は一瞬だけ迷った。


「昔のジム仲間」


「マジっすか。すご」


「まあな」


「有名な人なん?」


「最近ちょこちょこ出てる」


 知っていた。


 SNSでも何度か見た。


 城戸が育てた選手が新人王を取ったときも。

 初めて日本ランカーになったときも。

 今回、ベルトを巻いたときも。


 わざわざ検索したわけではない、と自分には言い聞かせていた。


 ボクシングの記事を見ていたら出てきただけ。

 おすすめに流れてきただけ。

 たまたま。


 そういうことにしていた。


 テレビの中で若い選手が笑う。


『城戸さんがずっと、自分より自分のこと信じてくれたんで』


 城戸が照れたように頭を掻いた。


 昔と同じ仕草だった。


「黒田さんもボクシングやってたんすよね」


「やってたで」


「その人と一緒?」


「同じジム」


「へえ。強かったんすか?」


「俺?」


「はい」


 誠司は缶コーヒーを飲んだ。


「プロまでは行った」


「え、マジで? すごいやん」


「四回戦からやけどな」


「その城戸って人と、どっち強かったん?」


 村瀬は何の悪意もなく聞いた。


 誠司は画面を見る。


 城戸が若い王者の肩を叩いていた。


「昔は俺のほうが強かったで」


「ほんまっすか」


「スパーでも勝ち越してた」


「じゃあ黒田さんのほうが才能あったんちゃいます?」


「さあな」


 そこで終わればよかった。


 村瀬は弁当の唐揚げを口に放り込みながら、何気なく続けた。


「でも向こうは今テレビ出てるんすね」


 誠司は笑った。


「せやな」


 村瀬も笑っている。


 本当に、それだけの会話だった。


 休憩が終われば忘れる程度の。


 なのに、その一言だけが夕方まで残った。


     *


 午後七時十八分。


 現場を出るころには、空はすっかり暗くなっていた。


 内装の仕事は嫌いではない。


 今年で十四年目になる。


 床を剥がす。

 壁を起こす。

 クロスを貼る。

 傷んだところを直す。


 形が残る仕事は性に合っていた。


「黒田さん、お疲れっす」


「おう。明日八時な」


「了解っす」


 村瀬たちと駅前で別れた。


 いつもなら、そのまま電車に乗って家へ帰る。


 妻の美沙から、朝のうちに、


〈今日は鮭。帰り何時?〉


 と来ていた。


〈九時前〉


 そう返してある。


 小学五年の息子、悠真はたぶんリビングでゲームをしている。


 風呂に入って。

 飯を食って。

 テレビを見て。

 少し酒を飲んで。

 寝る。


 それで何も問題はない。


 誠司は改札の電光掲示板を見上げた。


 次の電車まで四分。


 ホームへ向かいかけて、足を止めた。


 反対側のホームに、昔よく使った路線の電車が入ってきた。


 別に、何かを決めたわけではなかった。


 気づけばそちらへ向かっていた。


〈ちょい遅なる。十時ぐらい〉


 美沙へ送る。


 すぐ返る。


〈了解。鮭残しとく〉


 理由は聞かれなかった。


 結婚して十二年になると、こういうところが楽だった。


     *


 摂陽大学前の駅で降りたのは、何年ぶりだろう。


 十五年。

 いや、もっとかもしれない。


 階段を上がる。


 駅前はずいぶん変わっていた。


 昔あった古本屋はドラッグストアになっている。

 安い焼肉屋はマンション。

 コンビニだけは場所を少し移して、まだ残っていた。


 大学生らしい男女が、自転車を押しながら笑って通り過ぎる。


 誠司は作業着のポケットに手を入れて歩いた。


 二十歳のころ、自分も同じ道を歩いていた。


 大学生ではなかった。


 高校を出て働きながら、夜はボクシングジムへ通った。


 駅から十分ほど。


 商店街を抜けた先。


 雑居ビルの二階。


 拳星ボクシングジム。


 古い建物だった。


 夏は暑く、冬は寒い。


 サンドバッグは補修テープだらけ。

 リングのロープは少し緩い。

 会長は声がでかかった。


 それでも、誠司にとっては世界の中心だった。


 曲がり角を一つ。


 記憶の中なら、もう看板が見える。


 今そこにあったのは、コインランドリーだった。


「……ほんまにないんやな」


 知っていた。


 六年前、会長が体を悪くしてジムを閉めた。


 城戸からも連絡が来ていた。


〈会長、ジム閉めるって。最後の日来れる?〉


 誠司は仕事だった。


 いや。


 仕事を理由にした。


〈無理やわ〉


 それだけ返した。


 本当は、行こうと思えば行けた。


 でも、昔の連中に会うのが嫌だった。


「今何してんの」

「まだボクシング見てる?」

「城戸、トレーナーで頑張ってるで」


 そんな話になる気がした。


 だから行かなかった。


 ガラス越しに、乾燥機が何台も回っている。


 昔リングがあった場所かどうかも分からない。


 誠司はしばらく見てから歩き出した。


 もう帰ろう。


 そう思ったところで、少し先の看板が目に入った。


 カラオケ パレット。


「……まだあんのかよ」


 思わず笑った。


     *


 パレットは、昔から少し古かった。


 当時から最新のカラオケ店ではなかった。


 その代わり、飯がうまかった。


 拳星ジムの連中は、試合が終わるとよくここへ来た。


 勝った日も。

 負けた日も。

 減量が終わった日も。


「とりあえずパレット」


 誰が言い始めたのか知らない。


 誠司のプロ初勝利の夜もここだった。


 城戸が新人王予選で負けた夜も。


 誠司が最後の試合で負けた夜も。


 そして、城戸と大喧嘩したのも。


 午後八時四十七分。


 ガラス戸の前で一度止まる。


 帰ろうと思えば帰れた。


 でも誠司は扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


 受付に立っていた男が顔を上げた。


 四十前後。


 見覚えはない。


「お一人ですか?」


「はい」


「ご利用時間は?」


「……一時間で」


 口にしてから、自分で少し笑いそうになる。


 何をしに来たのか。


 歌いたいわけではない。


「部屋、どこでもいいですか?」


 受付の男――名札には小川慎吾とある――が聞いた。


「一番奥、空いてます?」


「奥?」


「昔、よう使ってて」


 慎吾が端末を確認する。


「八番なら空いてますよ」


「じゃ、それで」


「飲食ご注文されます?」


 メニューを受け取る。


 昔とは当然変わっている。


 ピザ。

 オムライス。

 ラーメン。

 パフェ。


 ページをめくる。


 指が止まった。


「牛すじ、まだあるんや」


「ありますよ」


 慎吾が言った。


「昔から?」


「だいぶ前からですね。親父のころから」


「味噌のやつ?」


「そうです。大根とこんにゃく入ってる」


 誠司は笑った。


「それ。あと白飯」


「サイズどうします?」


「大」


「飲み物は?」


 一瞬迷う。


「瓶ビール一本」


「はい」


 伝票へ書き込む慎吾を見ながら、誠司は聞いた。


「あんた、昔ここおった?」


「いましたよ。高校くらいから手伝ってたんで」


「じゃ、見たことあるかもな」


「そうかもしれませんね」


 慎吾はそれ以上聞かなかった。


 鍵を受け取る。


 廊下へ入る。


 壁紙は変わっている。

 床も昔よりきれいだ。

 厨房から流れる匂いだけが、妙に記憶に近かった。


 八番。


 扉を開ける。


 昔と同じ部屋ではない。


 テーブルもソファも新しい。


 テレビは当然、大きな薄型になっている。


 それでも、部屋の狭さだけは変わらなかった。


「懐かし」


 鞄を置く。


 作業着のまま、ソファへ深く座った。


     *


 二十一歳の誠司は、負けることに慣れていなかった。


 高校時代は喧嘩が強かった。


 友人に誘われて拳星ジムへ行き、初めて会長に殴られた。


 正確には、スパーリングで高校生に殴られた。


 何もできなかった。


 悔しかった。


 だから翌日も行った。


 一年後にはプロテストへ受かった。


 城戸は誠司より半年あとに入ってきた。


 最初は弱かった。


 構えが固い。

 足が遅い。

 パンチも見える。


 スパーでは、ほとんど誠司が勝った。


「お前、ほんまセンスないな」


 誠司が笑うと、


「うるさい。次やったら倒す」


 城戸は本気で言った。


 翌日も来た。


 その翌日も。


 誠司が仕事で練習を休んだ日も、城戸はいた。


 誠司が彼女と遊びに行った日も。


 風邪の日以外、ほとんど休まなかった。


 プロになってから、少しずつ差がなくなった。


 誠司の戦績は、八勝五敗三KO。


 城戸は六勝四敗。


 どちらも大したところまでは行かなかった。


 ただ。


 城戸は引退しても、ジムを離れなかった。


 トレーナーになった。


 誠司は離れた。


     *


 ノック。


「お待たせしました」


 慎吾が盆を運んできた。


 牛すじ煮込み。


 白飯。


 瓶ビール。


 グラス。


 誠司は煮込みを見る。


 赤茶色の味噌。


 その中に牛すじ、大根、こんにゃく。


 青ねぎ。


 横に七味。


「……これや」


「覚えてます?」


「めっちゃ食った」


「レシピ、細かいところは変わってますけどね」


「親父さん?」


「元は親父です。味噌の配合はほぼそのまま」


「親父さん元気?」


「元気ですよ。朝とか店います」


「そっか」


 誠司は少し迷って、


「昔、この辺にボクシングジムあったやろ」


「ああ、拳星?」


 慎吾がすぐ言った。


「知ってる?」


「うち、よう来てましたからね。ジムの人」


「俺もその一人」


「ああ」


 慎吾が誠司の顔を少し見る。


「もしかして、黒田さん?」


 誠司が眉を上げた。


「覚えてんの?」


「名前までは今思い出しました。城戸さんとよう来てた人?」


 胸の奥を小さく突かれた。


「……そう」


「懐かしいなあ」


 慎吾はそれ以上、城戸の話を続けなかった。


「ごゆっくり」


 扉が閉まる。


 誠司はビールを注いだ。


 一口。


 仕事終わりのビールが喉を落ちる。


 次に牛すじ。


 箸でつまむ。


 柔らかい。


 噛む前にほどけるほどではない。

 少しだけ筋の弾力を残している。


 味噌は濃い。


 甘い。


 あとから生姜。


「うま」


 誰もいないのに声が出た。


 白飯。


 大根。


 味が中まで染みている。


 こんにゃくには細かく切れ目が入っていて、そこへ味噌が絡む。


 七味を振る。


 昔も、城戸はかけすぎるくらい七味をかけた。


「辛いほうが飯進む」


 そう言って。


 誠司は小瓶を見た。


 少しだけ振った。


     *


 最後に城戸とここへ来た夜も、牛すじを食べた。


 誠司は六回戦で判定負けした。


 二連敗。


 その日、城戸は別の興行で勝っていた。


 同じジムの仲間数人でパレットへ来た。


 周りは気を遣っていた。


 誠司だけが、異様に喋った。


「次、絶対倒すわ」


「今日の相手、逃げすぎやねん」


「判定おかしいやろ」


 誰も否定しなかった。


 城戸だけが言った。


「今日は普通に負けたやろ」


 誠司は箸を止めた。


「何?」


「二、三ラウンド取られてたやん」


「見てたん?」


「見てたよ」


「ほな分かるやろ。あいつ全然打ち合わへん」


「それ捕まえられへんかったん、誠司やん」


 今思い出しても、腹が立つくらい正論だった。


「勝った奴はええな」


「何やそれ」


「今日勝ったから、偉そうに言えるもんな」


「そんなんちゃうやろ」


「お前に言われたないわ」


 部屋が静かになった。


 誰かが止めた。


 城戸は少し黙ってから、


「まだ次あるやろ」


 と言った。


 その一言が、一番腹が立った。


「勝った奴に言われたない言うてんねん」


「じゃあ誰が言えばええねん」


「知らんわ」


 誠司は立った。


 テーブルの瓶を倒した。


 ビールが少しこぼれた。


 店員が入ってきた。


 城戸が謝った。


 なぜか城戸が。


 誠司はそのまま店を出た。


 次の試合も負けた。


 それで引退した。


 会長には、


「もうちょいやれる」


 と言われた。


 でも二十四歳だった。


 仕事も忙しくなっていた。


 当時付き合っていた美沙との結婚も考え始めた。


 金にもならない。


 怪我も増えた。


 辞める理由はいくらでもあった。


 誠司は全部正しいと思っている。


 今でも。


 ただ。


 城戸が「まだ次あるやろ」と言ったとき、本当は自分もそう思いたかった。


 それだけは、今なら分かる。


     *


 スマホを出す。


 検索窓へ城戸達也と入れる。


 公式のジムサイト。


 今日テレビに出ていた若い王者との写真。


 記事。


〈選手に寄り添う兄貴分トレーナー〉


「兄貴分て」


 誠司は笑った。


 昔は一番面倒くさい男だった。


 練習後もシャドー。

 飲みに行ってもボクシング。

 女に振られても翌日ジム。


 記事を読む。


 城戸自身は二十六歳で引退。


 その後トレーナーへ。


 十年以上かけて、初めて日本王者を育てた。


 十年以上。


 誠司は画面を閉じた。


 村瀬の言葉が戻る。


「でも向こうは今テレビ出てるんすね」


「……せやな」


 今度は誰もいない部屋で言う。


 羨ましい。


 それを認めるまで、ずいぶん時間がかかった。


 城戸が有名になったことが嫌なのではない。


 テレビに出たことが羨ましいわけでもない。


 あいつには、ボクシングの続きを生きた時間がある。


 自分にはない。


 そこが悔しい。


 でも。


 誠司にも別の続きはある。


 内装屋で十四年。


 妻。


 息子。


 住宅ローン。


 日曜日の少年野球。


 学校公開。


 夏休みの家族旅行。


 それを負けとは思わない。


 思わないのに。


 城戸を見ると、二十一歳の自分が出てくる。


「俺のほうが強かった」


 そう言いたくなる。


 情けない。


 でも、本当でもある。


     *


 牛すじは半分ほどになっていた。


 誠司は白飯を食べる。


 昔の自分なら、大盛りでも足りなかった。


 減量明けには二杯食べた。


 今は大盛り一杯で十分重い。


「歳やな」


 腹を触る。


 息子の悠真が最近、


「お父さん、昔ほんまにボクサーやったん?」


 と聞いた。


「ほんまや」


「強かった?」


「強かったで」


「チャンピオン?」


「そこまでは行ってない」


「じゃあ普通?」


「普通言うな」


 息子は笑った。


 悔しくはなかった。


 むしろ、自分も笑った。


 なのに、村瀬の前では「俺のほうが強かった」と言った。


 相手によって、自分の過去の形が変わる。


 息子の前では笑える。


 昔の仲間の話になると意地を張る。


 人間なんてそんなものなのかもしれない。


 誠司はビールを飲み切った。


 時計。


 二十一時三十四分。


 美沙へ、


〈十時ちょい過ぎる〉


 と送る。


〈了解。悠真もう風呂入った〉


 少しして、


〈鮭レンチンしたらええから〉


 と来た。


〈牛すじ食ってる〉


 送る。


〈どこで?〉


〈昔行ってたカラオケ〉


〈一人で?笑〉


〈一人〉


〈何してんの笑〉


 誠司も笑った。


〈知らん〉


 送った。


     *


 せっかくカラオケへ来た。


 端末を取る。


 昔よく歌った曲を探す。


 長渕。

 ミスチル。

 ウルフルズ。


 どれも違う気がした。


 ランキングを眺める。


 米津玄師。


『LOSER』


 指が止まった。


「これかよ」


 自分で笑う。


 十年前くらい、車の中でよく聞いた。


 美沙が米津玄師を好きで、アルバムを流していた。


「この曲、あんた好きそう」


 と言われたことがある。


「何でやねん」


「負けず嫌いやから」


 そのときは意味が分からなかった。


 予約。


 前奏。


 誠司はマイクを持つ。


 最初は小さく歌った。


 久しぶりの一人カラオケ。


 自分の声だけが部屋へ返ってくる。


 歌っているうちに、少しずつ声が大きくなった。


 リング。


 汗。


 ロープ。


 会長の怒鳴り声。


 城戸。


 負けた夜。


 倒した夜。


 パレット。


 二十一歳の自分。


 全部、今さら戻らない。


 戻りたいとも思わない。


 あのころには妻もいない。

 息子もいない。


 今の仕事もない。


 それを捨ててまで戻る場所ではない。


 でも。


 あのころの自分を、なかったことにする必要もない。


 強かった。


 負けた。


 嫉妬した。


 逃げた。


 全部、自分だ。


 曲が終わった。


 採点画面。


 八十一点。


「微妙やな」


 昔の城戸なら、


「歌まで中途半端やな」


 くらい言っただろう。


「うるさいわ」


 誰もいない部屋で返した。


 それがおかしくて、少し笑った。


     *


 スマホを開く。


 連絡先。


「城戸」


 まだあった。


 最後のやり取りは六年前。


〈会長、ジム閉めるって。最後の日来れる?〉


〈無理やわ〉


 その下に、城戸からもう一件あった。


〈そっか。また飲も〉


 誠司は返していない。


「……俺やん」


 自分で言った。


 距離ができた。


 城戸から連絡が来なくなった。


 そう思っていた。


 最後に止めたのは、自分だった。


 文字を打つ。


〈テレビ見たわ。おめでとう〉


 違う。


 消す。


〈チャンピオン育てるとかやるやん〉


 これも違う。


 消す。


 しばらく考える。


 結局、


〈今度飲もや〉


 と打った。


 短い。


 長い空白を埋めるには、あまりにも短い。


 でも、長くすると言い訳になりそうだった。


 送信。


 続けて、


〈パレット、牛すじまだあったぞ〉


 送った。


 既読はつかない。


 それでいい。


 今すぐ返事がほしいわけではない。


 誠司は残った大根を食べた。


 冷めても味噌は濃かった。


     *


 二十一時五十八分。


 会計へ向かう。


 慎吾がレジに立っていた。


「牛すじ、どうでした?」


「うまかった」


「よかったです」


「昔よりうまなってるんちゃう」


「それ、親父に言っときます」


「いや、昔がまずかったみたいになるからやめて」


 慎吾が笑う。


「また来てください」


「今度は一人じゃないかも」


「城戸さん?」


 誠司は少しだけ驚いた。


「分からん」


「来たら牛すじ二つ用意しますよ」


「白飯もな」


「大盛り?」


 誠司は腹を見る。


「俺は普通でええわ」


 二人で笑った。


 店を出る。


 夜の空気。


 駅へ向かう。


 昔ジムがあったコインランドリーの前は、もう通らなかった。


 スマホはポケットの中。


 まだ震えない。


 明日は朝八時から現場。


 家へ帰れば鮭が残っている。


 悠真はもう寝る時間かもしれない。


 美沙には、カラオケで一人で牛すじを食べていた理由を聞かれるだろう。


 たぶん、


「昔の知り合いテレビ出ててん」


 くらいしか言わない。


 それでいい。


 全部きれいに説明できるほど、自分の中でも整理はついていない。


 城戸が羨ましい。


 昔は自分のほうが強かった。


 今さら何を言っているんだとも思う。


 それでも、そう思う自分まで格好よく直す必要はない。


 駅前の信号が青に変わる。


 誠司は作業着のポケットに手を入れ、そのまま歩き出した。


 ――遠吠えだっていいだろう。

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