ビーフシチューと「白日」
日曜日の午前八時十二分。
最後の客が帰った。
「ありがとうございましたー」
小川洋介は自動ドアの向こうへ消えていく四人組に頭を下げた。
大学生らしい男三人と女一人。
朝まで歌って、最後にラーメンを二杯追加した。
外へ出た途端、
「まぶし!」
という声がガラス越しにも聞こえた。
洋介は少し笑った。
「若いなあ」
「兄貴も昔やってたやん」
後ろから和也が言った。
「朝までカラオケ?」
「朝まで飲んで、そのまま仕事」
「それは若いんやなくてアホや」
「自分のことやろ」
「お前もや」
二人で笑う。
パレットは日曜が定休日だ。
土曜の夜から続いた営業も、これで終わり。
入口の鍵を閉める。
自動ドアの電源を落とす。
外の看板も消す。
さっきまで何部屋もの歌声が混ざっていた店内が、一気に静かになった。
厨房から換気扇の低い音だけが聞こえている。
「俺、冷蔵庫見たら帰るわ」
和也が言った。
「おう」
「兄貴は?」
「ちょっと残る」
「何すんの」
「仕込み」
和也が眉を寄せる。
「休みやで?」
「分かってる」
「明日の分?」
「まあ」
「まあって何やねん」
「ええから帰れ」
「はいはい」
和也は厨房へ戻った。
洋介は受付に一人残った。
パソコンの画面を落とす。
伝票をまとめる。
レジを確認する。
いつもの日曜朝。
特別なことは何もない。
ポケットのスマートフォンが震えた。
見る。
メッセージではない。
ニュースアプリの通知だった。
料理雑誌の記事。
名前が目に入った。
久世祐介。
「……うわ」
思わず声が出た。
開く。
写真。
白いコックコート。
腕を組み、少し笑っている。
昔より額が広くなった。
でも、顔はほとんど変わっていない。
見出しには、
大阪のフレンチを牽引する料理人。
そんな言葉が並んでいた。
「偉なったなあ」
洋介は呟いた。
久世とは、二十代のころ同じ厨房にいた。
大阪市内のフレンチレストラン。
今ほどフランス料理が身近ではなかったころ。
洋介は下っ端。
久世も下っ端。
二人とも毎朝早く厨房へ入り、野菜を剥き、フォンを取り、掃除をし、先輩に怒鳴られた。
いつか自分の店を持つ。
酔うと二人とも同じことを言った。
記事を読む。
久世は三年前に独立。
今年、店を拡張。
予約は二か月先まで埋まっている。
写真の料理は美しかった。
鴨。
根菜。
赤ワインのソース。
皿の余白まで計算されている。
「すげえな」
本当にそう思った。
悔しいより先に、感心した。
そのはずだった。
「兄貴」
「うわ」
和也が横に立っていた。
「何ビビってんねん」
「急に来るな」
「声かけたわ」
「聞こえんかった」
和也が画面を覗く。
「誰?」
「昔の同僚」
「フレンチ?」
「そう」
「有名なん?」
「俺よりはな」
「比較対象おかしいやろ」
「うるさい」
和也が記事を見る。
「格好ええ店やな」
「せやろ」
「兄貴もこういうとこおったんや」
「一応な」
「想像つかん」
「何でやねん」
「今、唐揚げ揚げながら客に延長時間叫んでるし」
「仕事や」
「昨日なんかオムライスのケチャップでハート書いてたやん」
「あれは客に頼まれたんや」
「フレンチ料理人の末路」
「帰れ」
和也が笑う。
「ほな帰るわ。親父にも昼まで寝ろ言うといて」
「おう」
裏口の扉が閉まった。
また静かになる。
洋介はスマホを伏せた。
レジ締めの続きをする。
小銭を数える。
一万円札。
五千円札。
千円札。
いつもと同じ。
なのに、さっきの記事が頭から消えなかった。
*
二十三歳の洋介は、毎日玉ねぎを切っていた。
一日何十個。
涙なんて出なくなった。
「遅い」
シェフに言われる。
「はい」
「大きさバラバラ」
「はい」
「やり直し」
「はい」
厨房で「すみません」は禁止だった。
謝る暇があるなら手を動かせ。
失敗したら、
「はい」
だけ言え。
そんな店だった。
「今日も怒られてたな」
休憩時間、久世が言った。
「お前もやろ」
「俺は三回」
「俺二回」
「勝った」
「何の勝負や」
店の裏で缶コーヒーを飲む。
十五分。
それが休憩だった。
「なあ」
久世が言った。
「三十までにはスーシェフなりたいわ」
「早いやろ」
「言うだけタダや」
「ほな俺、三十で店持つ」
「それは無理」
「何でお前が決めんねん」
二人で笑った。
夢なんて、口に出すだけなら簡単だった。
自分の店。
十席くらい。
カウンター。
厨房が客から見える。
メニューは毎月変える。
ワインは分からないから、そのうち勉強する。
店名まで考えたことがある。
ただ、誰にも言わなかった。
久世にも。
そこまで具体的に言えば、本当にやらなければいけなくなる気がした。
料理は好きだった。
朝早い。
帰りは遅い。
給料は安い。
手は切り傷だらけ。
冬でも厨房は暑い。
それでも、料理は好きだった。
一つ覚えるたび、昨日の自分より少し上手くなる。
ソースを一口舐めて、
「これや」
と思えた瞬間が好きだった。
自分が作った皿が客席へ運ばれていくとき、見えないところから戻ってくる皿を待った。
綺麗に空になっている。
それだけで嬉しかった。
ずっと料理人でいる。
そう思っていた。
*
母が死んだ。
突然ではなかった。
病気だった。
だから覚悟する時間はあった。
覚悟なんて、何の役にも立たなかった。
葬式が終わったあと、洋介は一週間仕事を休んだ。
父は、
「仕事戻れ」
と言った。
パレットは母がいなくなっても営業していた。
父が一人で無理をしていた。
和也はまだ若かった。
洋介は厨房へ戻った。
一か月。
二か月。
三か月。
そのころから、実家から電話が増えた。
父が倒れた。
夜中。
救急車。
幸い大事には至らなかった。
病院の椅子で、父は洋介に言った。
「店は閉めへん」
「閉めろや」
「嫌や」
「死ぬぞ」
「死なん」
「倒れたやんけ」
父は黙った。
母がいた店だった。
父にとって、パレットはただの商売ではなかった。
洋介にも分かっていた。
分かるから腹が立った。
仕事へ戻った翌日。
シェフに呼ばれた。
「家、大変なんか」
「はい」
「どうする」
「……分かりません」
シェフは煙草を吸わない人だったが、なぜか厨房裏の喫煙所へ洋介を連れていった。
「料理人はどこでもできる」
そう言った。
洋介は、その言葉をずっと覚えている。
「でも、今お前が行かなあかん場所は一個かもしれん」
優しい言葉だった。
当時の洋介には、優しく聞こえなかった。
辞めろ。
そう言われた気がした。
三週間後。
洋介は店を辞めた。
久世は、
「戻ってこいよ」
と言った。
「すぐ戻る」
洋介も言った。
本気だった。
半年。
長くても一年。
父が回復して、パレットが落ち着いたら戻る。
戻れると思っていた。
半年が過ぎた。
一年。
二年。
戻らなかった。
戻れなかったのか。
戻らなかったのか。
今でもよく分からない。
パレットの厨房は、思ったより面白かった。
フレンチとは全然違う。
オムライス。
唐揚げ。
焼きそば。
ラーメン。
夜中の三時に、
「胃に優しいやつ」
と言われる。
朝六時に、
「ビールに合うやつ」
と言われる。
決まったコースなんてない。
客の注文は好き勝手だ。
最初は馬鹿にしていた。
正直に言えば。
俺はフレンチをやっていた。
こんな料理を作るために修行したんじゃない。
そう思ったこともある。
でも、
「このオムライス、うまっ」
と大学生が言う。
夜勤明けの看護師が、黙って唐揚げを食べる。
子どもがハニートーストを写真に撮る。
それを見るうちに、考えなくなった。
料理は料理だ。
皿が空になる。
それでいい。
気づいたときには、洋介は二代目店主になっていた。
*
午前九時。
洋介は厨房に立っていた。
休みなのに。
「何してんねやろ」
自分で言う。
冷蔵庫を開ける。
牛肩肉。
昨日仕入れたもの。
本来は別の料理に使う予定だった。
取り出す。
塩。
胡椒。
大きめに切る。
フライパンを火にかける。
油。
肉を置く。
じゅっ。
音がする。
全面に焼き色をつける。
触りすぎない。
昔、何度も怒られた。
「焼くときは待て」
シェフの声を思い出す。
玉ねぎ。
人参。
セロリ。
刻む。
包丁がまな板を叩く音。
速さは、若いころより落ちている。
でも迷いは少ない。
鍋。
バター。
野菜。
ゆっくり炒める。
色がつく。
香りが変わる。
トマトペースト。
少し焦がす。
赤ワイン。
鍋底の旨味をこそげる。
蒸気が立つ。
「まだやれるやん」
誰もいない厨房で言った。
言ってから、少し恥ずかしくなる。
フォンを入れる。
肉を戻す。
ローリエ。
黒胡椒。
蓋。
煮込む。
ビーフシチュー。
パレットでも出せない料理ではない。
ただし時間がかかる。
原価もかかる。
カラオケ屋のメニューとしては面倒だ。
だからほとんど作らない。
昔は何度も作った。
見習いのころ。
初めてシェフに、
「今日のはええな」
と言われた料理もビーフシチューだった。
たったそれだけで、その日は帰り道まで嬉しかった。
洋介は鍋を見た。
赤黒い表面が静かに揺れている。
スマホを取る。
もう一度、久世の記事を開いた。
写真。
読まなければよかったと思う。
いや。
違う。
読めてよかった。
でも羨ましい。
それくらい認めてもいい。
「ええなあ」
小さく言った。
客から予約される店。
自分の名前が表に出る料理。
料理雑誌。
評価。
賞。
若いころ欲しかったものが、久世の手元にはある。
もしあのとき戻っていたら。
母が死ななかったら。
父が倒れなかったら。
パレットがなかったら。
俺も。
そこまで考えて、洋介は火を弱めた。
「何考えてんねん」
自分で自分に言う。
父も。
母も。
パレットも。
邪魔をしたわけではない。
最後に決めたのは自分だ。
それでも「もし」は消えない。
後悔していない人生にも、未練はある。
そのことを、四十を過ぎてからようやく認められるようになった。
*
「何してんの?」
声がして、洋介が振り返った。
美玲がいた。
「いつ来たん」
「今」
「今日休みやで」
「知ってる。忘れもん取りに来た」
「何」
「スマホの充電器」
「家にあるやろ」
「ここに置いてるやつのほうが長い」
「知らんがな」
美玲が厨房へ入ってくる。
鍋を見る。
「何これ」
「見たら分かるやろ」
「ビーフシチュー?」
「そう」
「店で出すん?」
「出さん」
「じゃあ何で作ってんの」
洋介は一秒だけ黙った。
「……作りたなっただけ」
美玲の眉が少し動く。
何も言わない。
冷蔵庫から水を出す。
「食う?」
「今?」
「昼前にはできる」
「まだ二時間くらいあるやん」
「帰れ」
「食べてから帰る」
「どっちやねん」
美玲が笑った。
「珍しいな」
「何が」
「あんたが理由なく料理するん」
「毎日してるわ」
「店の料理やん。これは違う」
洋介は鍋を見る。
「昔の同僚、雑誌載っててん」
「ああ」
「知ってる?」
「久世さん?」
洋介が振り返る。
「何で知ってんの」
「あんた昔何回も名前出してたやん」
「そうやった?」
「酔ったら出てくる」
「俺そんな酔わんやろ」
「酔わんから覚えてないだけ」
「どっちや」
美玲がスマホの記事を見る。
「すごいやん」
「せやろ」
「予約二か月待ちやって」
「せやろ」
「行ってみたい」
「俺に言う?」
「客としてやで」
「俺のビーフシチュー食え」
「食べるって」
美玲は画面を返した。
「羨ましい?」
直球だった。
「……まあな」
洋介は笑った。
言ったら少し楽になった。
「そら羨ましいやろ」
美玲が言う。
「何で」
「同じとこから始めてんねんもん」
「でも俺、パレットあるし」
「それとこれ別やろ」
洋介が顔を上げる。
「パレット選んだこと後悔してへんのと、久世さん羨ましいんは別やん」
「……お前、たまにまともなこと言うな」
「たまに余計」
「いつも中華鍋振り回してるだけやのに」
「火傷させたろか」
「やめて」
二人で笑った。
美玲は鍋の蓋を少し開ける。
「まだやな」
「勝手に触るな」
「料理人やぞ」
「中華やろ」
「火入れるのは一緒」
「フレンチ舐めんな」
「カラオケ屋の店主が何言うてんの」
刺さった。
「……お前な」
美玲が笑う。
「冗談やん」
「分かってるわ」
でも。
昔なら腹が立ったかもしれない。
今は笑えた。
*
煮込み始めて二時間。
肉に串を刺す。
まだ少し固い。
もう三十分。
鍋から肉を取り出す。
ソースを漉す。
野菜は十分仕事をした。
漉したソースを鍋へ戻し、少し煮詰める。
艶が出る。
バターを少し。
塩。
味を見る。
美玲も横からスプーンを伸ばす。
「勝手に」
「味見」
一口。
黙る。
「何」
「もうちょい塩」
「分かってる」
「じゃあ聞くな」
「聞いてへん」
塩を足す。
もう一度。
「うん」
洋介が頷く。
皿を出す。
白い深皿。
牛肉。
人参。
小玉ねぎ。
マッシュルームは別で焼いて最後に合わせる。
ソース。
上からパセリ。
美玲が見る。
「パレットらしくない」
「悪い?」
「褒めてる」
パンを焼く。
二皿。
厨房ではなく、一番近い部屋へ持っていった。
「何で部屋?」
「せっかくカラオケ屋なんやから」
「意味分からん」
日曜。
誰もいないパレット。
二人だけでソファに座る。
午前十一時四十八分。
「いただきます」
美玲が肉を切る。
スプーンでも崩れるくらい柔らかい。
一口。
洋介は横目で見る。
「何」
「別に」
「感想待ってる顔」
「待ってへん」
「昔からそう」
「昔から?」
「私が初めてあんたの料理食べたときも」
洋介は少し考える。
「何作ったっけ」
「ビーフシチュー」
「嘘やろ」
「ほんま」
「覚えてへん」
「最低」
美玲がパンをちぎる。
「付き合う前」
「店?」
「ちゃう。あんたの部屋」
「ああ」
少し思い出した。
鍋一つしかない狭い部屋。
料理人のくせに、冷蔵庫はほとんど空。
美玲が遊びに来る日に、なぜか張り切って作った。
「めっちゃ塩辛かったやつ」
「覚えてるやん」
「あれ失敗や」
「うん」
「うん言うな」
美玲が笑う。
もう一口。
「今のほうがおいしい」
洋介は止まった。
「そらそうやろ」
「何で?」
「何年経ってる思てんねん」
「フレンチ辞めたのに?」
洋介は返事をしなかった。
美玲は続ける。
「昔より色んなもん作ってるからちゃう?」
オムライス。
唐揚げ。
鯛茶漬け。
豚骨ラーメン。
ハンバーグ。
客に言われるまま作った料理。
和也から教わったこと。
美玲から教わったこと。
菜穂のデザートを食べて気づいたこと。
父の昔の味。
母の味。
フレンチだけを続けていたら、知らなかったもの。
「まあ」
洋介はシチューを食べる。
「歳食ったからな」
「それだけ?」
「それだけでええやろ」
ソースをパンにつける。
うまい。
自分で作ったものにそう思うのは、少し照れる。
美玲が、
「これ店で出したら?」
と言った。
「嫌や」
「何で」
「手間かかる」
「数量限定」
「嫌や」
「じゃあ賄い」
「それならええ」
「誰の賄い?」
「俺ら」
「贅沢」
「たまにはええやろ」
二人で食べた。
*
食べ終わっても、美玲は帰らなかった。
「一曲歌う?」
「何で」
「カラオケ屋やし」
「休みやぞ」
「店主やろ」
「無料ちゃうぞ」
「嫁から金取る?」
「取る」
「ケチ」
美玲が端末を取る。
「何歌う?」
「お前歌えよ」
「今日は洋介」
「嫌や」
「何で」
「今そんな気分ちゃう」
「今一番歌う気分の顔してる」
「また顔か」
美玲が勝手に曲を探す。
「これ」
画面。
King Gnu。
『白日』
「無理や」
「何が」
「高い」
「知らん」
「歌えん」
「知らん」
「お前歌え」
「男の歌やろ」
「関係あるか」
「ほな一緒」
「もっと嫌や」
イントロが始まった。
「もう入れたん?」
「うん」
「お前なあ」
マイクを渡される。
仕方なく持つ。
歌う。
最初から高い。
「これ無理やって!」
「まだ始まったとこやで」
美玲が笑う。
「笑うな」
「ちゃんと歌え」
歌う。
音を外す。
美玲がさらに笑う。
腹が立つ。
でも、途中からどうでもよくなった。
画面に流れる言葉を追う。
戻れない。
過去。
後悔。
今。
洋介は少しだけ、久世の顔を思い出した。
二十三歳。
缶コーヒー。
「三十で店持つ」
言った自分。
叶わなかった。
いや。
違う。
思っていた形では叶わなかった。
パレット。
自分の店。
厨房。
客。
料理。
家族。
今も毎日、料理を作っている。
夢は叶った。
なんて綺麗にまとめるつもりはない。
フレンチの店を持ちたかった。
今だって少し思う。
久世が羨ましい。
雑誌に載りたいかと聞かれれば、少し載りたい。
評価されたいかと聞かれれば、されたい。
料理人として名前を残したかった気持ちは、まだある。
それでいい。
なくす必要はない。
選ばなかった道を惜しみながら、選んだ道を歩けばいい。
曲が終わる。
採点。
七十一点。
美玲が吹き出した。
「下手」
「うるさい」
「七十一」
「見たら分かる」
「料理は上手いのに」
「関係あるか」
「もう一回?」
「絶対嫌」
二人で笑った。
*
美玲が帰ったあと。
洋介は厨房へ戻った。
鍋に少し残ったビーフシチューを保存容器へ移す。
明日、和也に食わせよう。
父にも。
菜穂にも。
たぶん、
「急に何?」
と聞かれる。
適当に答えればいい。
スマホを見る。
久世の記事。
洋介はメッセージアプリを開いた。
連絡先は残っていた。
最後のやり取りは六年前。
〈店移転した〉
〈おめでとう〉
それだけ。
入力欄。
〈記事見た。おめでとう〉
打つ。
少し考える。
送る。
スマホを置く。
三秒。
震えた。
「早っ」
〈ありがとう。久しぶりやな〉
続く。
〈お前まだ料理してる?〉
洋介は笑った。
〈毎日してるわ〉
送る。
〈そらよかった〉
それだけだった。
そらよかった。
「何がやねん」
声に出す。
でも笑っていた。
久世はたぶん、何も深く考えていない。
それでいい。
洋介は厨房を見渡した。
業務用冷蔵庫。
中華鍋。
和包丁。
フライパン。
大鍋。
菜穂が使う製菓用の道具。
それぞれ違う料理のための道具が、同じ厨房に並んでいる。
昔、自分が夢見た厨房とはまるで違う。
ずっと面白い。
「帰るか」
照明を落とす。
最後に厨房だけ振り返る。
明日になれば、またオムライスを作る。
ハンバーグも。
ラーメンも。
注文が入れば、フレンチで覚えたソースだって使う。
別の人生を選んでいたら。
そんなことは、これからも考えるのだろう。
久世の記事を見れば、また羨ましくなるかもしれない。
それでも。
昔の自分と今の自分は、別人ではない。
包丁の握り方も。
ソースを見る目も。
客の空いた皿を見て嬉しくなるところも。
ずっと続いている。
洋介は厨房の灯りを消した。
――地続きの今を歩いているんだ。




