焼きカレーと「怪獣の花唄」
久保田直人がライブハウスへ入ったのは、五年ぶりだった。
十月の金曜日。午後八時四十分。
仕事帰りのスーツ姿のまま、地下へ続く階段を下りる。
壁には知らないバンドのフライヤーが何枚も重なって貼られていて、階段の途中から低音が腹に響いていた。
「こんな狭かったっけ」
独り言が音に消える。
二十九歳。
不動産管理会社の営業。
入社七年目。
高校二年から大学卒業まで、直人はバンドをやっていた。
名前は「メロウ」。
別に売れたわけではない。大学の軽音サークルと、近所のライブハウスを行き来していただけだ。
直人がボーカル。
瀬川俊がギター。
ベースとドラムは何度か入れ替わった。
メロウを始めたのは高校二年の夏だった。
文化祭へ出たい。
理由はそれだけ。
俊は同じクラスで、ギターを始めて半年。
直人は中学からカラオケだけは好きだった。
「お前、歌えるやろ」
「歌えるとバンドのボーカルはちゃうやろ」
「同じや」
「雑やな」
最初のスタジオでは、アンプの音量すら分からなかった。
ドラムに全部かき消され、直人は喉を潰した。
それでも、四人で音を出した瞬間だけは覚えている。
うまいとか下手とか以前に、部屋の空気が震えた。
自分の声が、誰かのギターやベースやドラムと一緒に一つの音になった。
「これ、めっちゃおもろいやん」
終わったあと直人が言うと、俊も同じ顔で笑っていた。
大学が別になっても続けた。
授業が終わってから電車で集まる。
金がないからスタジオ代を四人で細かく割る。
ライブのノルマが足りなければ、自分たちでチケットを買った。
売れたいと思った時期もある。
でも本気でプロを目指すと言えるほど、覚悟はなかった。
だから就職を選んだとき、諦めたつもりもなかった。
そこが一番厄介だった。
諦めていないつもりのものは、いつまでも終わったことにならない。
大学四回生の冬、最後のライブをした。
就職する直人と、音楽を続ける俊。
喧嘩別れではなかった。
「またそのうちやろうや」
そう言った。
「おう」
俊も言った。
その「そのうち」は一度も来なかった。
受付でチケット代を払う。
「久保田さんですよね?」
スタッフの女の子に言われ、直人は少し驚いた。
「え?」
「瀬川さんから聞いてます。来るかもって」
「ああ」
来るかも。
自分でも昨日まで決めていなかった。
会社の昼休み。
後輩の森田哲平がスマホを見ながら、
「久保田さん、昔バンドやってたってほんまですか?」
と聞いてきた。
「誰に聞いた」
「営業部長」
「何で部長が知ってんねん」
「忘年会で歌うまかったから、昔ボーカルやったらしいぞって」
「余計なこと言うなあ」
「動画とかないんすか?」
「あるわけないやろ」
ある。
実家の古いパソコンには残っている。
「今も歌うんです?」
「カラオケくらい」
「ライブとか行かないんすか」
「行かんな」
「もったいな」
「何が」
「好きやったんでしょ」
哲平は深く考えずに言った。
*
直人が最後に人前で歌ったのは、二十二歳の十二月だった。
大学近くの小さなライブハウス。
客は四十人ほど。
そのうち半分は知り合いだった。
「最後やから派手にいこ」
ドラムの亮が言い、俊は新しいエフェクターを二台つないだ。
直人だけは、
「別に最後ちゃうやろ」
と何度も言った。
就職してもできる。
土日に集まればいい。
月一回でもライブはできる。
そう信じていた。
社会人になった四月。
最初の三か月は本当に忙しかった。
朝七時半に家を出る。
帰宅は九時。
新しい名前。
新しい電話番号。
覚える取引先。
六月、俊から、
〈スタジオ入らへん?〉
と来た。
〈今週無理〉
七月。
〈来週どう?〉
〈土曜出勤〉
八月。
〈新曲できた〉
〈今度聞かせて〉
九月。
連絡は減った。
十一月に久しぶりに四人で集まった。
スタジオではなく居酒屋だった。
「来年くらいには」
直人が言った。
そのとき俊は、
「ええよ。無理せんで」
と笑った。
あの笑顔が、当時は腹立たしかった。
諦められたように感じた。
でも今なら分かる。
俊はただ、待つのをやめただけだった。
*
その夜、スマホに俊からメッセージが届いた。
〈明日ここ出る。暇なら来て〉
ライブの告知画像。
偶然なのか。
誰かが直人の話をしたのか。
聞かなかった。
そして今ここにいる。
*
俊は、昔より歌がうまくなっていた。
それが一番悔しかった。
直人は途中から、腕を組むのをやめた。
最初は評論家みたいに見ていた。
ギターの音。
歌い方。
客の反応。
でも三曲目には、ただ聞いていた。
俊が楽しそうだった。
それが一番まぶしかった。
自分も昔、あんな顔で歌っていたのだろうか。
思い出そうとしたが、客席から見た自分の顔なんて当然知らなかった。
メロウでは直人が歌っていた。
俊はギターだけだった。
「お前、歌は俺より下手やからコーラスだけな」
昔の直人は平気で言った。
「分かってるわ」
俊も笑っていた。
ステージの上。
俊はギターを弾きながら歌っている。
小さなライブハウス。
客は五十人もいない。
テレビに出ているわけでもない。
誰もが知っているミュージシャンでもない。
それでも、ちゃんと自分の客がいる。
歌が終わる。
拍手。
直人も拍手した。
手が少し痛くなるくらい。
俊の声は昔より太くなっていた。
高い音を無理に張らない。
客を見る余裕もある。
「うまなったなあ」
口に出したら、隣の知らない男が、
「ですよね」
と笑った。
「昔から知ってるんですか?」
「まあ」
「友達?」
「昔、一緒にバンドやってました」
「え、マジっすか」
少し誇らしかった。
そのことがまた悔しい。
*
ライブが終わった。
物販の横で俊を待つ。
十五分ほどして、首にタオルを掛けた俊が出てきた。
「ほんまに来た」
「来い言うたんお前やろ」
「来んと思ってた」
「失礼やな」
二人は握手も抱擁もしなかった。
昔と同じ。
「どうやった?」
俊が聞く。
「まあまあ」
「嘘つけ」
「うまなってた」
「やろ」
「腹立つわ」
「何でやねん」
俊が笑う。
「直人、歌ってる?」
「カラオケ」
「それ歌ってるに入るやろ」
「ライブは無理」
「誰もライブやれ言ってへん」
俊が水を飲む。
「俺さ」
「ん?」
「お前、音楽嫌いになったんかと思ってた」
「何で」
「バンド終わってから、ライブにも来んし。連絡しても仕事の話しかせえへんし」
「忙しかったんや」
「七年ずっと?」
「……まあ」
言葉に詰まる。
仕事が忙しかったのは本当。
でも七年間ずっと忙しかったわけではない。
音楽から離れたかった時期があった。
就職して最初の一年。
電車の中でバンドの曲を聞くと、少し苦しくなった。
俊が新しいバンドを始めたと聞いたときも、素直に喜べなかった。
自分が選ばなかった道を、誰かが歩き続けている。
それを見るのが嫌だった。
「今度さ」
俊が言う。
「また来いよ」
「おう」
「ほんまに?」
「たぶん」
「その返事、昔から信用ならん」
「お前もやろ」
俊のところへ客が来た。
「じゃ」
「おう」
直人は手を上げた。
階段を上る。
地上へ出ると、耳の奥にまだ低音が残っていた。
*
午後十時二十二分。
腹が減っていた。
家へ帰れば何かある。
姉の美和と二人暮らしではない。
直人は一人暮らしだ。
美和は六つ上で、実家近くのマンションに住んでいる。
両親から、
〈たまには弟に連絡しろ〉
と言われるらしく、月に一度くらい、
〈生きてる?〉
と送ってくる。
直人は駅へ向かった。
スマホを開く。
俊から、
〈今日はありがとう〉
もう来ている。
〈歌うまなってて腹立った〉
送る。
〈お前も歌え〉
返ってくる。
「簡単に言うな」
独り言。
そのとき、目に入った看板があった。
カラオケ パレット。
摂陽大学の近く。
会社の管理物件を見に来たとき、何度か前を通ったことがある。
哲平も、
「ここの飯、変にうまいっすよ」
と言っていた。
「変にって何や」
「カラオケ屋のレベルじゃないって意味です」
思い出す。
直人は立ち止まった。
カラオケ。
ライブを見たあとに、一人。
「……何してんねやろ」
でも入った。
*
「いらっしゃいませ」
受付にいたのは、二十代半ばくらいの男だった。
名札には相沢航。
「一人です」
「何時間にします?」
「一時間」
「お部屋、禁煙でいいですか?」
「はい」
航が端末を操作する。
「お食事されます?」
「何か腹いっぱいになるやつあります?」
「結構ありますよ」
メニューを渡される。
唐揚げ。
ラーメン。
オムライス。
生姜焼き。
カレー。
「焼きカレー?」
「おすすめです」
「カラオケで?」
「よく言われます」
航が笑った。
「じゃあ、それ」
「卵ありで?」
「あり」
「辛さ普通?」
「普通」
部屋へ入る。
一人カラオケ。
久しぶりだった。
端末はテーブルの端へ置いた。
まだ歌う気はない。
*
焼きカレーを待つ間、直人は部屋のリモコンを眺めた。
新曲ランキング。
アニメ曲。
懐メロ。
七年間で、知っている曲と知らない曲の境目が大きくなっている。
昔は新曲が出れば、誰かがすぐ送ってきた。
〈このベースやばい〉
〈このコード進行好き〉
〈次これカバーしよ〉
今は音楽を聞く時間のほとんどが通勤中だ。
再生リストも、
「集中」
「作業用」
「睡眠」
そんな名前ばかりになった。
好きな曲を聞くためではなく、何かをするために音を使う。
「いつからやろ」
*
十分ほどして、ドアが開く。
「お待たせ」
店主らしい男が鍋敷きと一緒に小さな鉄鍋を置いた。
「熱いから気ぃつけて」
名札には小川洋介。
「ありがとうございます」
ぐつぐつ音がしている。
カレーの上にチーズ。
中央に卵。
表面には焼き色。
スプーンを入れる。
チーズが伸びる。
「熱っ」
分かっていたのに口に入れた。
洋介が笑う。
「言うたやろ」
「うまいです」
「これ、店で仕込んでるんですか?」
「カレー?」
「はい」
「うちで。昔フレンチやってたんで、カレーでも玉ねぎはちゃんと炒めたいんですよ」
「フレンチ?」
「今はカラオケ屋」
「だいぶ違いますね」
「料理は料理です」
直人は少しだけ、その言葉を反芻した。
歌は歌。
ライブじゃなくても。
客がいなくても。
金にならなくても。
「熱いうちにどうぞ」
ドアが閉まる。
カレーは、見た目ほど重くなかった。
玉ねぎがよく溶けている。
少し辛い。
卵を割ると黄身が混ざって丸くなる。
焼けたチーズの端が一番うまい。
直人は黙って食べた。
ライブのあと、昔は必ず飯を食べた。
ラーメン。
牛丼。
ファミレス。
メロウの四人で。
「今日あそこミスったやろ」
「お前も歌詞飛んでたやん」
「客少なかったな」
「次は呼ぼう」
次。
いつも次があった。
今はない。
なくしたのは誰だ。
自分だ。
でも、自分で選んだ。
焼きカレーを食べ終える。
腹がいっぱいになると、さっきまでの悔しさが少し馬鹿らしくなった。
「歌うか」
端末を取る。
履歴を見る。
知らない曲ばかり。
自分が最後にカラオケへ来たのはいつだったか。
検索。
Vaundy。
『怪獣の花唄』
会社の若い連中が歌っていた。
俊も今日、アンコール前に少し口ずさんでいた。
知っている。
予約。
イントロ。
「高いねんな、これ」
マイクを持つ。
最初の一声。
思ったより声が出ない。
「うわ」
喉が狭い。
腹から声を出す感覚も鈍っている。
二番まで行かず、一度停止した。
「何してんねん」
笑う。
昔なら絶対に止めなかった。
音を外しても押し切った。
*
二度目に『怪獣の花唄』を入れたとき、直人は昔の立ち方を思い出した。
左足を半歩前へ。
マイクは口に近づけすぎない。
高い音の前で肩を上げない。
「何や、覚えてるやん」
声に出す。
サビ前。
昔なら客席を見るところで、今日はテレビ画面を見る。
映像の向こうに誰もいない。
それでも胸の奥が熱くなった。
歌い終わって、今度は止めずに最後まで流した。
画面が次のおすすめ曲を出す。
直人はマイクを置かなかった。
「もう一曲」
昔よく歌った曲を入れる。
次。
さらに次。
一時間の予定だった。
時計を見る。
延長の電話が鳴る。
「お時間十分前です」
航の声。
「あの」
「はい」
「三十分延長できます?」
「大丈夫ですよ」
「お願いします」
自分で笑った。
歌いたくない人間が、延長している。
四曲目が終わったころには喉が少し痛かった。
でも嫌な痛みではない。
使っていなかったところを久しぶりに動かした感じ。
水を飲む。
俊へ、
〈今歌った〉
と送ったあと、直人は昔のメロウの音源を探した。
クラウドの奥に、一つだけ残っていた。
大学三回生。
ライブ音源。
再生。
若い声。
「下手やな」
思わず笑う。
今より声は高い。
勢いはある。
でもリズムが走っている。
それでも楽しそうだった。
歌い終わったあと、
『ありがとうございました!』
と自分が叫ぶ。
客席から拍手。
俊のギター。
ドラムのカウント。
それを最後まで聞いた。
削除しなくてよかった。
*
会計。
「焼きカレーどうでした?」
航が聞いた。
「うまかったです」
「よかった」
「ここ、飯だけでも来ていいん?」
「もちろん」
「カラオケ屋やのに?」
「それもよく言われます」
後ろから洋介が、
「歌も歌ってください」
と言った。
「今日は歌いました」
「ならよし」
何が「ならよし」なのか分からない。
店を出る前、航が会計をしている横で、直人は壁に貼られたスタッフ募集の紙を見た。
「バイト募集してるんですね」
「一応」
「音楽やってる人、多いんですか?」
「声優目指してる子はいます」
「へえ」
「俺は全然ですけど」
「店員さんも歌わないん?」
「たまに。仕事終わりに」
航が笑う。
「ここ、働いてると歌う気なくなる日もありますよ。ずっと人の歌聞いてるんで」
「そうなんや」
「でも、歌いたい日は歌います」
当たり前のように言った。
直人は財布をしまう。
歌いたい日は歌う。
その程度でよかったのかもしれない。
七年間、自分は「続ける」か「辞める」かでしか考えていなかった。
バンドを続けないなら、音楽をやめる。
ライブをしないなら、歌う意味がない。
勝手に二択にした。
誰もそんなことは言っていない。
店を出る。
午後十一時四十三分。
夜風が少し冷たい。
駅へ歩きながら、美和へ写真を送った。
焼きカレー。
〈何これ〉
すぐ返ってくる。
〈カラオケ屋〉
〈一人で?〉
〈一人〉
〈寂し〉
〈うるさい〉
少しして。
〈でもうまそう〉
〈今度行け〉
〈店どこ?〉
直人は位置情報を送った。
姉が本当に行くとは思っていなかった。
信号待ちで、直人は一度だけ振り返った。
パレットの看板はまだ光っている。
七年前の自分なら、こんな夜を「中途半端」と呼んだかもしれない。
今は、それでいいと思えた。
歌う場所がステージでなくても、歌った事実まで小さくなるわけじゃない。
それだけは、今夜ちゃんと分かった。
十分だった。
直人はイヤホンを耳に入れる。
俊の曲を再生した。
さっきまでなら、きっと悔しかった。
今も少し悔しい。
でも、もう飛ばさなかった。
歩きながら小さく口ずさむ。
歌手に戻りたいわけではない。
バンドを再結成したいわけでもない。
明日は普通に仕事だ。
月曜には会議もある。
それでも、歌まで仕事と一緒に辞める必要はなかった。
スマホには、さっき調べた俊の次のライブの日程が残っている。
一か月後。
まだチケットは取っていない。
でも、予定表には何も入っていなかった。
駅の階段を上る。
口元には、まださっきのメロディが残っていた。
――まだ消えない。




