肉じゃがと「裸の心」
久保田美和は、弟から送られてきた焼きカレーの写真を三日間、既読のまま放置していた。
正確には、写真には反応した。
〈うまそう〉
と返した。
そのあと弟の直人が送ってきた、
〈今度行け〉
〈店ここ〉
という位置情報には、何も返さなかった。
「何で弟にカラオケ屋すすめられなあかんねん」
そう言いながら、地図は保存していた。
三十五歳。
住宅設備メーカーのショールーム勤務。
勤続十三年。
キッチン。
浴室。
洗面。
トイレ。
毎日、人の新しい暮らしを提案する仕事をしている。
「こちらのキッチンでしたら、ご夫婦で並んでも余裕があります」
「お子様が大きくなっても収納は十分です」
「将来を考えると、手すりはこちらにも」
将来。
家族。
暮らし。
口にするのは慣れている。
自分の話になると、途端に面倒だった。
*
「久保田さん」
午後六時半。
閉館後のショールーム。
後輩の佐藤亮太がカタログを抱えて近づいてきた。
「これ、明日の朝でいいです?」
「何が」
「見積もり」
「今日中」
「やっぱり」
「聞く意味あった?」
「もしかしたら優しい日かなと」
「十三年働いて、その日はまだ来てません」
「俺まだ五年目です」
「じゃああと八年待って」
亮太が肩を落とす。
二十八歳。
営業企画からショールームへ異動して二年。
仕事はできる。
ただ、何でも仕事にしすぎる。
休憩中も数字。
飲み会でも昇進。
休日には資格の勉強。
昔の自分を少し見ているようで、美和はたまに腹が立つ。
「久保田さん今日、何かあります?」
「何で」
「帰るの早そう」
「いつも帰ってるわ」
「七時前に鞄持ってるの珍しい」
「監視すんな」
鞄の中でスマホが震えた。
画面。
篠原岳。
〈土曜、昼どうですか? 前言ってた店、予約取れそうです〉
美和は画面を消した。
「誰です?」
「殺すで」
「すみません」
亮太が笑う。
美和は鞄を肩へ掛けた。
「見積もり送ったら帰りや」
「久保田さんは?」
「帰る」
「デート?」
「残業増やす?」
「お疲れさまでした」
即座に頭を下げる。
「よろしい」
ショールームを出た。
*
篠原岳とは、仕事で知り合った。
三十六歳。
リフォーム会社の営業。
最初は、ただ取引先の人だった。
書類が正確。
時間を守る。
無理な値引きを言わない。
美和が客との打ち合わせで一度、大きなミスをしたときも、
「こっちで吸収できるところあります」
と、黙って調整してくれた。
別に格好いい男ではない。
失礼だが、本当にそう思う。
身長も普通。
髪型も普通。
服も普通。
でも話すと楽だった。
半年前。
現場の帰りに二人でラーメンを食べた。
三か月前。
休日に映画へ行った。
一か月前。
篠原から、
「これ、俺だけデートやと思ってたら恥ずかしいんですけど」
と言われた。
美和は笑って逃げた。
「知らん」
それ以降も会っている。
だから余計に面倒だった。
*
美和は恋愛が嫌いなわけではない。
二十三歳から三十二歳まで、付き合った男がいた。
九年。
長かった。
結婚の話も出た。
家具も見た。
式場の資料も取り寄せた。
でも、結婚しなかった。
誰かが浮気したわけでもない。
大喧嘩したわけでもない。
少しずつ、二人の未来が違ってきた。
相手は地元へ戻りたかった。
美和は仕事を辞めたくなかった。
「どっちかが合わせなあかんのかな」
彼が言った。
「それが嫌なんちゃう」
美和が言った。
最後は、どちらからともなく別れた。
九年間付き合って、別れるときは一時間もかからなかった。
泣いた。
でも翌日は仕事へ行った。
三十三歳。
三十四歳。
三十五歳。
一人の生活は思った以上に快適だった。
好きな時間に寝る。
好きなものを食べる。
休みの日は誰にも合わせない。
「もう一人でええわ」
友達に言う。
母にも言う。
直人にも言った。
直人は、
「誰も聞いてへん」
と返した。
腹が立った。
*
美和が「一人でええ」と言うようになったのは、別れてすぐではなかった。
最初の半年は、むしろ逆だった。
友達に誘われれば飲みに行った。
紹介された男とも会った。
三十三歳。
周りは急に結婚の話ばかりになっていた。
「次はちゃんと結婚考えてる人がいいで」
友達に言われる。
「ちゃんとって何」
「遊びじゃないってこと」
「九年付き合って別れたんやで。期間で分からんやろ」
そう言うと、相手は黙った。
美和自身も、答えは持っていなかった。
一人目。
公務員。
二人目。
メーカー勤務。
三人目。
友達の夫の同僚。
いい人だった。
だから続かなかった。
相手に問題があるわけではない。
会うたびに、自分が面接をしているような気分になった。
年収。
休日。
住む場所。
子ども。
まだ好きでもない相手と、先の条件ばかり確認する。
「何してんねやろ」
三人目と別れた帰り道、美和は婚活アプリを消した。
それから二年。
一人の生活を整えた。
小さな観葉植物。
少し高いコーヒーメーカー。
休みの日に一人で映画。
自分の機嫌を自分で取れるようになった。
それが嬉しかった。
だから、篠原といるときに楽しいと思ってしまったことが、少し怖かった。
*
篠原から初めて誘われたのは、仕事の帰りだった。
「久保田さん、甘いもの食べます?」
「何です急に」
「近くに新しい喫茶店できたらしいんで」
「仕事の打ち合わせ?」
「いや」
篠原が少し笑った。
「普通に誘ってます」
美和はその場で断ろうとした。
でも、
「一時間だけなら」
と言っていた。
喫茶店で食べたプリンは、少し固かった。
「こういうの好きです?」
「好き」
「何で知ってたん」
「前、現場の差し入れでプリンだけ先に取ってたから」
「見てたん?」
「たまたま」
そういうところだった。
大げさではない。
でも、見ている。
美和はそこが好きなのかもしれない。
認めると、何かが始まってしまいそうで言葉にしなかった。
*
駅へ向かいながら、またスマホを見る。
〈土曜、昼どうですか?〉
返信はまだしていない。
行きたい。
それが一番面倒だった。
行きたくなければ断ればいい。
会いたい。
でも、会えば次がある。
次があれば、その次を考える。
付き合う。
結婚。
別れる。
「何で最後まで行くねん」
自分で呟いた。
交差点で止まる。
スマホの地図。
弟が送ってきた場所が、ここから歩いて十分ほどだった。
「……行ってみるか」
デートに返事をする代わりに、カラオケ屋へ向かった。
我ながら逃げ方が雑だった。
*
午後七時四十二分。
パレット。
思っていたより古い。
「ほんまにここ?」
写真を確認する。
看板は同じ。
入る。
「いらっしゃいませ」
受付には若い男。
名札は相沢航。
「一人です」
「何時間にします?」
「一時間」
「お食事されます?」
美和は少し考える。
「弟が、ここ飯うまいって」
「弟さん?」
「三日前くらいに焼きカレー食べたらしい」
航が「ああ」と声を出した。
「スーツの人ですかね。一人でめっちゃ歌ってた」
「めっちゃ?」
「延長してました」
美和は笑った。
「何してんねん、あいつ」
「歌うまかったですよ」
「昔バンドやってたんで」
「やっぱり」
なぜか姉が少し誇らしい。
「何食べよう」
「和食なら今日、肉じゃがありますよ」
「カラオケ屋で?」
「それ、うちでは言わんほうがいいかもです」
「何で」
「作ってる人が本気なんで」
航が小声で言う。
「じゃあ肉じゃが」
「ご飯つけます?」
「……つける」
「味噌汁も?」
「つける」
「定食ですね」
「カラオケ来たんやけどな」
「皆さんそうなります」
*
部屋へ入って十分。
ドアが開く。
「肉じゃが定食お待たせ」
四十歳前後の男が盆を持っている。
名札。
小川和也。
「これ作った人?」
「そうですけど」
「本気って聞いた」
「誰が言うたん」
美和は受付の方向を見る。
和也がため息。
「新人、余計なこと言うなあ」
「新人?」
「あいつ最近入ったんで」
盆が置かれる。
肉じゃが。
白飯。
味噌汁。
漬物。
肉じゃがは、少し濃い色をしていた。
牛肉。
じゃがいも。
玉ねぎ。
人参。
糸こんにゃく。
絹さやが上に二枚。
「うわ、普通」
美和が言う。
「悪かったですね」
「褒めてる」
「一番難しい褒め方やな」
和也が笑う。
「いただきます」
じゃがいもへ箸を入れる。
崩れすぎない。
でも中まで味が入っている。
一口。
「あ」
「何」
「おいしい」
「ありがとうございます」
「ほんまに普通においしい」
「普通いらん」
「いや、何か変なことしてない味」
「肉じゃがに変なことせんでしょ」
「そうなんやけど」
美和はもう一口。
牛肉と玉ねぎ。
ご飯。
味噌汁。
家で誰かが作ったような味ではない。
ちゃんと店の料理だ。
でも、気取っていない。
和也が出ようとする。
「これ、誰の味なん?」
「誰の?」
「店の昔から?」
「母親ですね」
和也が言った。
「俺ら兄弟が子どものころ食ってたやつ。ちょっと店用に変えてますけど」
「そうなんや」
「何か?」
「いや。いいなと思って」
「何が」
「残ってるの」
和也は少しだけ黙った。
「まあ、料理は残しやすいですから」
そう言って出ていった。
*
肉じゃがを半分ほど食べたところで、部屋の電話が鳴った。
「はい」
『すみません、フロントです。ご注文の追加ではなくて、お時間の確認で』
航の声。
「まだ三十分くらいありますよね?」
『あります。さっき弟さんから電話がありまして』
「は?」
『久保田さん来てますかって』
「個人情報!」
『言ってないです。たぶん位置情報見てるんじゃ』
美和はスマホを見る。
直人とのトーク画面に、さっき肉じゃがの写真を送っている。
位置情報までは送っていない。
「何て?」
『姉ちゃんいたら、焼きカレー食えって』
「もう肉じゃが食べてるって言っといて」
『伝言係なんですか俺』
「弟が悪い」
電話が切れる。
美和は笑った。
直人は昔から、変なところで世話を焼く。
母が心配性だったぶん、直人は逆に放っておくタイプだった。
それでも、美和が九年付き合った男と別れた夜。
夜十一時。
突然インターホンが鳴った。
「何」
「母さんが行けって」
「帰れ」
「コンビニでプリン買った」
「いらん」
「俺が食う」
「何しに来たん」
「知らん」
二人でプリンを食べた。
直人は一度も、
「大丈夫?」
と聞かなかった。
それがありがたかった。
今回も、たぶん何も知らない。
ただ自分が気に入った店を送ってきただけ。
でも、その雑さに少し救われる。
*
美和はゆっくり食べた。
肉じゃがを食べるのは久しぶりだった。
一人暮らしで作らない料理の一つ。
作ろうと思えば作れる。
でも一人分は難しい。
じゃがいも一個。
玉ねぎ半分。
牛肉少し。
結局、二日分になる。
昔、九年付き合った彼が肉じゃがを好きだった。
「ベタやな」
初めて作ったとき、美和は言った。
「好きなもんはしゃあないやろ」
彼は翌日も食べた。
別れてから一度も作っていない。
「これか」
美和は少し笑った。
肉じゃがが嫌いになったわけではない。
作らなくなっただけ。
恋愛も同じなのかもしれない。
嫌いになったわけじゃない。
やらなくなった。
それを、
「もういらん」
と言っていただけ。
スマホが震える。
篠原。
〈無理そうなら全然また今度で。急にすみません〉
「謝るなや」
美和が小さく言う。
優しい人だ。
だから怖い。
ひどい人なら簡単に嫌いになれる。
また信じてもいいと思える相手のほうが困る。
返信欄を開く。
〈土曜行けます〉
打つ。
送れない。
閉じる。
「面倒くさ」
ご飯を食べる。
*
和也が空いた皿を下げに来た。
「きれいに食べましたね」
「おいしかったから」
「ありがとうございます」
「これ、家で作ろかな」
「作ればいいやん」
「一人分って難しくない?」
「二日食べたらええ」
「そうなんやけど」
和也が皿を重ねる。
「一人やと作らん料理、ありますよね」
「あるある」
「うちの兄貴も、一人暮らしのころ全然煮物せえへんかったって」
「フレンチやってた人やろ?」
「よう知ってますね」
「弟が焼きカレー食べたとき聞いたらしい」
「あいつ喋るなあ」
「でも今はいろいろ作る?」
「何でも作りますよ。客が言うから」
和也が笑う。
「料理って、自分のためだけやと面倒なときあるけど、人がおったら作る理由できるから」
「……それ、料理の話?」
「料理の話です」
「ほんま?」
「知りませんけど」
和也は盆を持つ。
「ごゆっくり」
ドアが閉まる。
美和は少しむっとした。
勝手に意味を感じた自分に。
「人がおったら、か」
篠原の顔が浮かぶ。
誰かのために料理する生活が欲しいわけではない。
結婚が欲しいわけでもない。
でも、誰かと食べるご飯を嫌いになったわけでもない。
それくらいなら認めてもいいと思った。
*
食べ終わる。
せっかくカラオケへ来た。
弟に、
〈肉じゃがうまかった〉
写真を送る。
すぐ既読。
〈行ったんかい〉
〈行け言うたやろ〉
〈歌えよ〉
〈何で〉
〈カラオケ屋やから〉
「姉弟やなあ」
自分で笑った。
端末を取る。
何を歌う。
昔からカラオケは好きだった。
直人ほどではないが。
あいみょん。
『裸の心』
曲名を見て、少し嫌になる。
「今これ歌う?」
誰も答えない。
予約。
イントロ。
マイクを持つ。
歌い始める。
自分の声が部屋に返る。
歌詞を追う。
一人。
恋。
怖さ。
また誰かを好きになること。
美和は途中で笑った。
「めっちゃ今やん」
歌は止めない。
九年前の恋を思い出す。
幸せだった時間まで、別れたことで失敗にしていた。
それは違う。
一緒に旅行した。
喧嘩した。
夜中まで電話した。
肉じゃがを作った。
別れた。
全部あった。
次も別れるかもしれない。
結婚しないかもしれない。
篠原と何も始まらないかもしれない。
そんなこと、今決められない。
歌い終わる。
採点。
八十六点。
「弟よりうまいんちゃう」
直人の点数は知らない。
スマホ。
篠原との画面。
もう一度打つ。
〈土曜、行けます〉
今度は送った。
十秒。
〈よかった。12時でどうですか?〉
早い。
〈大丈夫です〉
送る。
もう一つ。
〈楽しみにしてます〉
来た。
美和はスマホを伏せた。
胸が少しうるさい。
「三十五にもなって」
言ってから、年齢は関係ないと思い直した。
*
会計。
航がレジにいる。
「肉じゃがどうでした?」
「本気でした」
「でしょ」
「弟にも言っとく」
「弟さん、また来てくださいって」
「本人に言って」
店を出る。
夜九時を少し過ぎた。
外は冷えていた。
駅までの道。
亮太からメッセージ。
〈見積もり送りました!褒めてください〉
〈明日見る〉
〈今見てくださいよ〉
〈帰れ〉
〈もう帰ってます〉
〈よろしい〉
少しして。
〈久保田さん今日なんか機嫌よくないです?〉
美和は足を止めた。
〈気のせい〉
送る。
すぐに直人から、
〈歌った?〉
〈歌った〉
〈何〉
〈秘密〉
〈キモ〉
〈姉にキモ言うな〉
歩きながら笑った。
土曜に会う。
それだけ。
何も決まっていない。
未来を決める必要もない。
一人で生きられることと、誰かを好きにならないことは同じではない。
美和はコートのポケットへスマホをしまった。
帰りの電車を待つホームで、美和は篠原とのやり取りをもう一度開いた。
〈土曜、12時で〉
たったそれだけの約束。
なのに、昔なら服まで決めてから寝たかもしれない。
今はそこまでしない。
土曜になったら、いつもの自分で行く。
気に入られようとしすぎない。
将来を先に決めない。
失敗しないように構えない。
また傷つくかもしれない。
でも、傷つかないように何も始めないことを、強さとは呼びたくなくなった。
電車が入ってくる。
窓に映った自分は、思っていたより普通の顔をしていた。
「まあ、こんなもんか」
美和は小さく笑った。
――裸の心、抱えて。




