↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/30

餃子と「愛を知るまでは」

 佐藤亮太は、二十八歳になってから「順調」という言葉が少し嫌いになった。


「佐藤くんは順調やね。このまま行けば次の主任候補やな」


 上司にそう言われれば、もちろん嬉しい。住宅設備メーカーに新卒で入り、営業を三年。そのあとショールームへ異動して二年。同期の中では早いほうだった。資格も取った。社内表彰も一度。給料も少しずつ上がっている。


「ありがとうございます」


 笑って頭を下げる。嘘ではない。本当にありがたい。


 それなのに、誰かに「順調」と言われるたび、亮太の中では必ず次の言葉が出てきた。


 その次は。


 主任。その次は係長。課長。その次は。


 どこまで行けば「着いた」ことになるのか、自分でも分からない。


     *


 土曜日の午後三時。自宅のローテーブルに会社のノートパソコンを広げていると、弟の悠から電話が来た。


「何」


『亮太、お前また仕事してんの?』


「仕事中やから切るぞ」


『今日休みやろ』


「資料作ってる」


『家で?』


「そう」


『それ休みちゃうやん』


「月曜楽になるから」


『毎週言うてるやん』


「何の用」


『母さんが晩飯来るかって』


「行かん」


『了解』


「それだけ?」


『それだけ』


 切れた。


 悠は三つ下、二十五歳。摂陽大学を卒業して物流会社で働いている。


 昔から、兄弟なのに全然違った。


 亮太は計画を立てる。悠は締切の前日にやる。亮太は貯金。悠は旅行。亮太は資格試験の予定を半年先まで入れる。悠は金曜の夜に「明日空いてる?」と友達を誘う。


「お前はもうちょい考えろ」


 何度言ったか分からない。


 悠は決まって、


「兄貴は考えすぎ」


 と返す。


 どちらも直らない。


 電話を切って、亮太は画面へ戻った。月曜朝の会議資料。来月の来館予測と成約率。表の数字を一つ直したところで、今度はメッセージが届いた。


 村上大地。


 大学時代の友人だった。


〈今日暇?〉


〈仕事〉


 すぐ返す。


〈土曜やぞ〉


〈知ってる〉


〈夜飯行こ〉


〈何時〉


〈8時くらい〉


 亮太は画面右下の時計を見る。


 午後三時十三分。


 資料は八割。いや、七割半。


〈9時なら〉


〈仕事終われや〉


 腹が立った。


〈8時半〉


〈了解〉


 パソコンへ戻る。


 十五分後。


 亮太は画面を閉じた。


「何してんねん、俺」


 閉じたところで月曜日が壊れるわけではない。


 分かっているのに、それを実行するまで十五分かかった。


     *


 大地とは大学のゼミが同じだった。


 就職先も偶然、同じ住宅関連の業界。大地は建材商社、亮太は住宅設備メーカー。


 新卒のころはよく飲んだ。


「今月数字やばい」

「上司がうざい」

「ボーナス何買う?」


 会えば会社の話ばかりだった。


 三年前、大地が会社を辞めた。


「何するん」


「自転車屋」


「は?」


 亮太は本気で聞き返した。


「叔父さんの店手伝う」


「給料下がるやろ」


「下がる」


「休みは?」


「減るかも」


「何で行くん」


「やりたいから」


 意味が分からなかった。


 大地が自転車好きなのは知っていた。大学時代、自転車で四国を一周し、そのまま九州まで行ったこともある。卒業旅行も一人でしまなみ海道を走っていた。


 でも、「好き」と「仕事」は別だと思っていた。


「もったいな」


 亮太は言った。


 大地は怒らず笑った。


「お前はそう言うと思った」


 その言い方だけが、三年経っても残っていた。


     *


 亮太が「順調」に執着するようになったのは、たぶん父の影響だった。


 父は何でも早かった。


 二十二で就職。二十五で結婚。二十七で亮太が生まれ、三十で家を買った。


 亮太が大学へ入るころには、住宅ローンと老後資金の話をしていた。


「人生、早めに決めといたほうが楽やぞ」


 父はよく言った。


 悪い父親ではない。むしろ家族思いで、亮太も尊敬している。だから、その言葉を疑わなかった。


 二十二で就職。

 二十五までに一人前。

 三十までに主任。

 三十五までに結婚。


 誰にも提出しない工程表が、いつの間にか頭の中にできていた。


 二十五のとき、三年付き合った恋人と別れた。


「亮太って、ずっと先の話してるよな」


 最後に言われた。


「悪い?」


「悪くない。でも、今の話がない」


 当時は意味が分からなかった。


 旅行へ行く話をすれば予算。欲しい家具の話をすれば耐用年数。同棲の話をすれば家賃。結婚の話をすれば収入と転勤。


 間違ったことは言っていない。


 でも彼女が聞きたかったのは、たぶん、


「行きたい」

「一緒に住みたい」

「好き」


 そんな答えだったのだろう。


 別れて三年。


 亮太は相変わらず、今を次のために使っていた。


     *


 午後八時二十八分。


 大地はパレットの前に立っていた。


「何でカラオケ?」


 亮太が聞く。


「近くで飯食えるとこ探したら出てきた」


「普通の店行こうや」


「ここ飯うまいらしいで」


「誰情報」


「悠」


「何でお前が弟と繋がってんねん」


「前フットサルで会った」


「聞いてへん」


「兄貴に全部報告せなあかんの?」


「お前は弟ちゃうやろ」


「じゃあええやん」


 大地が先に店へ入る。


 亮太も続いた。


「いらっしゃいませ」


 受付にいたのは田中結衣だった。


「二名様ですか?」


「はい。二時間で」


 大地が答える。


「あと、飯食いたいんですけど」


「どうぞ。今日は餃子おすすめですよ」


「餃子?」


「団体予約が多くて、美玲さんが珍しく夜まで残ってるんです。せっかくなんで」


「誰?」


「厨房の人です」


 亮太がメニューを見る。焼き餃子、一人前六個。


「二人前」


「三人前」


 大地が訂正した。


「多いやろ」


「十八個やで」


「分かってる」


「九個ずつ」


「最初から割るな」


「お前が食う数計算してるだけ」


「そういうとこやぞ」


 大地が笑う。


「ご飯もつけます?」


 結衣が聞く。


「二つ」


「ビール?」


 大地が亮太を見る。


「俺いらん」


「じゃあ俺だけ」


 注文を終え、部屋へ入る。


「カラオケ来たん何年ぶりやろ」


 大地がソファへ沈む。


「俺は会社の二次会で来る」


「それカラオケちゃうやん」


「何が」


「上司の歌聞く会やろ」


「まあ」


 大地が笑った。


 テーブルに水を二つ置き、亮太の顔を見る。


「仕事楽しい?」


「何や急に」


「顔」


「誰やねん」


「疲れてる」


「土曜も仕事してたから」


「それを言うてんねん」


 亮太は水を飲んだ。


「お前は?」


「楽しいで」


 即答だった。


「自転車屋」


「うん」


「儲かってる?」


「前より金ない」


「ほら」


「何がほらや」


「給料下がって、休みも少ないんやろ」


「うん」


「それで楽しいん?」


「楽しい」


「何で」


 大地は少し考えた。


「今日直した自転車で、明日その人がどっか行くと思ったら、ちょっと嬉しい」


「それだけ?」


「それだけで十分な日もある」


 亮太には、まだよく分からなかった。


「金ないの嫌やろ」


「嫌やで」


「休み少ないのも」


「嫌」


「じゃあ何がええねん」


「全部良くないとあかんの?」


 大地が笑う。


 亮太は返せなかった。


     *


「お待たせ」


 ドアが開いた。


 小川美玲が、大きな皿を持って入ってきた。


 羽根つきではない。


 小ぶりな餃子が十八個、円を描くように並んでいる。焼き面はしっかり茶色く、皮の端は少し透けていた。


「酢醤油と、こっちは辛子味噌。うちのやつやから、入れすぎ注意」


「辛い?」


 大地が聞く。


「入れすぎたら」


「じゃあ入れよ」


「話聞いてた?」


 美玲が笑う。


「今日これ美玲さんが作ったんですか?」


 亮太が聞く。


「包んだんは昼から。夜まで残る予定なかったんやけど、団体さん入ったからね」


「本格的やな」


「一応、中華やってたんで」


「カラオケ屋ですよね?」


「よう言われる」


 美玲は笑って皿を置いた。


「熱いから気ぃつけて」


「いただきます」


 亮太は一つ取った。


 酢醤油。


 大地は最初から辛子味噌を多めに載せる。


 一口。


 皮の焼き面がぱりっと割れ、内側はもちっとしている。豚肉。白菜。ニラ。生姜。にんにくは思ったより控えめで、噛んだあとに肉汁が出た。


「熱っ」


 大地が口を開ける。


「言われたやろ」


「でも、うま」


 亮太も頷いた。


「うまいな」


「やろ」


「お前が作ったみたいに言うな」


 白飯。


 餃子。


 辛子味噌。


 また白飯。


 三人前は多いと思っていた。


 五分で六個消えた。


 亮太は無意識に残りを数えた。


 十二。


 大地が一つ取る。


 十一。


「お前、今数えたやろ」


「数えてへん」


「顔が十一って言うてる」


「何やその顔」


「そういうとこやぞ」


「餃子くらい均等に食え」


「誰も奪わんて」


 大地は笑いながら、もう一つ取った。


「それ俺の分やろ」


「だから数えてるやん」


 亮太も笑った。


     *


「仕事の話戻すけど」


 大地が言った。


「戻さんでええ」


「お前、何になりたいん?」


「主任」


「そのあと」


「係長」


「そのあと」


「課長」


「そのあと」


「……知らん」


「ほら」


「何がほらや」


「肩書きしか出てこん」


 亮太は餃子を一つ取る。


「仕事なんてそんなもんやろ」


「別に悪い言うてへん」


「じゃあ何」


「お前が欲しいならええやんって話」


「欲しいよ」


「ほんまに?」


 また答えに詰まった。


 主任にはなりたい。


 評価されたい。


 給料も上げたい。


 それは本当だ。


 でも、主任になった自分を想像すると、会社の席しか浮かばない。


 何を食べているのか。


 誰と休日を過ごしているのか。


 どこに住んでいるのか。


 そういう生活が抜け落ちている。


     *


「俺な」


 大地がビールを一口飲んだ。


「会社辞める前、お前めっちゃ羨ましかってん」


「俺?」


「そう」


「何が」


「営業うまいし、上司にも評価されてたし。同期の中でも早かったやろ」


「お前も普通にやれてたやん」


「やれてたけど、俺あかんかった」


「何が」


「日曜の夜、ずっと月曜のこと考えてた」


 亮太は少し黙る。


「会社が悪いとかちゃうで。向いてへんかっただけ」


「辞めて正解やった?」


「知らん」


「は?」


「正解とか、まだ分からんやろ」


「三年経ってんぞ」


「死ぬまで分からんかも」


 大地は餃子を取る。


「でも今の仕事、明日行くの嫌ちゃうねん」


「それだけ?」


「俺にはでかい」


 大地は餃子を口に入れる。


 亮太は残りを見る。


 八個。


 自分が何個食べたか、もう分からない。


     *


 数日前。


 ショールームの休憩室で、久保田美和が弁当を食べていた。


 亮太はノートパソコンを開いたまま、コンビニのパンをかじる。


「佐藤くん」


「はい」


「それ閉じたら」


「これだけ終わったら」


「休憩何分?」


「四十五分」


「今何分目?」


「十五分」


「あと三十分休めるやん」


「逆ですよ。あと三十分しかない」


 美和が箸を止めた。


「何でそんな生き急いでんの」


「生き急いでないです」


「昼飯食いながら来月の売上見てる二十八歳、まあまあ急いでるで」


「久保田さん余裕ありますもんね」


 言ってから、少し嫌な言い方だったと思った。


 美和は怒らなかった。


「ないよ」


「あるように見えます」


「あるようにしてるだけ」


 美和は卵焼きを食べる。


「余裕って、残った時間ちゃうで。先に取らな永遠に残らんから」


「それ名言ですか?」


「今考えた」


「怪しいな」


「ええから閉じろ」


 その日は、美和自身もいつもより早く鞄を持っていた。


「久保田さん、今日何かあるんですか」


「何で」


「帰る気満々やから」


「帰ったらあかんの?」


「いや」


「佐藤くんも見積もり送ったら帰りや」


「まだ資料が」


「明日世界終わる?」


「終わらないです」


「ほな帰れ」


 亮太は結局、五分後にパソコンを閉じた。


 その五分が惜しいと思った。


 今思えば、美和も「先に取る」を練習していたのかもしれない。


 余裕があるから休めるのではなく、休むから余裕ができる。


 今日、大地と餃子を食べながら、その会話を思い出した。


     *


「お前、彼女は?」


 大地が聞いた。


「いない」


「何年」


「三年」


「欲しくない?」


「今忙しい」


「また仕事」


「お前、今日何なん」


「別に」


 大地が笑う。


「俺、結婚する」


「は?」


 亮太の箸が止まった。


「来年」


「誰と」


「知佳」


「大学んときの?」


「うん」


「復縁したん?」


「二年前」


「聞いてへん!」


「聞かれへんかったし」


「普通言うやろ」


「お前、仕事の話しかせえへんもん」


 刺さる。


「……おめでとう」


「ありがとう」


「先に言えや」


「今言った」


「そういう意味ちゃう」


 二人で笑う。


 亮太は急にいろいろ聞きたくなった。


「いつ決めたん」


「夏くらい」


「プロポーズした?」


「した」


「店?」


「家」


「指輪は?」


「一緒に買った」


「親には?」


「挨拶した」


「式は?」


「まだ」


「何人呼ぶ」


「お前、面接官?」


 大地が笑った。


「いや、確認してるだけ」


「また工程表作ってるやん」


「何が」


「俺が会社辞める言うたときも、給料、休み、保険、全部聞いた」


「大事やろ」


「大事やけど」


 大地はビールのグラスを置く。


「最後に『やりたいん?』って聞いたん、一番最後やった」


 亮太は黙った。


「悪いって言うてへんで」


「分かってる」


「お前、心配すると数字になるねん」


「何やそれ」


「金とか日付とか条件とか。分かるもんに変えたがる」


「そら分からんよりええやろ」


「じゃあ、今楽しい?」


 また、その質問。


 亮太は餃子の皿を見る。


 残り五個。


「楽しいこともある」


「何」


「契約決まったとき」


「仕事以外」


「……」


「ほら」


「うるさいな」


 二人で笑う。


 でも、答えは出なかった。


 最後に仕事以外で楽しみにしたものは何だ。


 新しいゲームを買ったのは一年前。


 旅行は二年前。


 映画館は半年行っていない。


 休みの日も、気づけば仕事のことを考えている。


 仕事が好きなのか。


 仕事以外を忘れただけなのか。


 自分でも分からない。


「悠には言った?」


 亮太が話を変えた。


「まだ」


「何で弟とはフットサルするくせに」


「今日言うつもりやった」


「俺から言うぞ」


「やめろ」


 亮太はスマホを出した。


〈大地結婚するらしい〉


「お前!」


 大地が叫ぶ。


 すぐ既読。


〈まじ?〉


〈本人横おる〉


〈おめでとうって言っといて〉


 亮太は画面を見せる。


「ほら」


「軽い兄弟やな」


「お前が言うな」


     *


 餃子は最後の一個になった。


 亮太と大地が同時に箸を伸ばす。


「あ」


「どうぞ」


「いや、食えよ」


「お前九個食ってるやろ」


「数えてへん言うてたやん」


「途中から分からん」


「じゃあ半分」


「餃子半分にする?」


「平和やろ」


 大地が箸で割ろうとして、皮から肉汁がこぼれた。


「あー」


「何してんねん」


「これやから餃子は数えんほうがええ」


「関係あるか」


 結局、大地が大きいほうを亮太の皿へ置いた。


「何で俺が大きいねん」


「主任候補やから」


「意味分からん」


 笑いながら食べた。


 十八個。


 何個食べたかは、もうどうでもよかった。


     *


「歌う?」


 大地が端末を取る。


「せっかくカラオケ来たし」


「何でもええよ」


「お前入れろ」


「何で」


「今日のお前に合いそうなやつ」


「それお前が選ぶんちゃうん」


「じゃあこれ」


 検索。


 あいみょん。


『愛を知るまでは』


「タイトル重」


「結婚する奴が選ぶな」


「だからお前歌え」


「俺?」


「歌詞見たら分かる」


「押しつけるな」


 でも曲は始まった。


 亮太がマイクを持つ。


 詳しく知っている曲ではない。サビだけは聞いたことがある。


 画面の言葉を追う。


 走る。


 迷う。


 生きる。


 愛。


「大げさやなあ」


 亮太は少し笑った。


 でも、歌いながら思う。


 自分は何を急いでいるのだろう。


 主任になるまで。


 給料が上がるまで。


 結婚するまで。


 何かを達成するまで。


 その途中を全部、「まだ途中だから」と準備期間みたいに扱っていた。


 二十八歳。


 自分では、まだ何者でもないと思っている。


 でも今日も一日だった。


 土曜の午後に仕事をして。


 途中でパソコンを閉じて。


 友達と餃子を食べて。


 友達の結婚を知った。


 笑った。


 それを次の目標までの空白にするのは、少し違う気がした。


 歌が終わる。


「どう?」


 大地が聞く。


「何が」


「愛知った?」


「一曲で知るか」


「まだ死ねんな」


「お前、歌に引っ張られすぎ」


 二人で笑った。


     *


 会計を済ませ、パレットを出たのは午後十時十五分だった。


「次いつ会う?」


 大地が聞く。


「結婚式」


「それまで会わん気?」


「忙しい」


「はいはい」


 亮太は少し歩いてから言った。


「……来月」


「お」


「お前の店行くわ」


「自転車買う?」


「いらん」


「修理?」


「持ってへん」


「何しに来るん」


「知らん。店見に行く」


 大地が笑った。


「待ってるわ」


 駅で別れた。


 電車に乗り、亮太は反射的に会社のメールを開きかけた。


 指を止める。


 閉じる。


 代わりに社内の休暇申請画面を開いた。


 来月の金曜日。


 一日。


 有給。


 理由欄。


 私用。


 申請。


「これだけか」


 誰に言うでもなく呟いた。


 すぐ人生が変わるわけではない。


 仕事を辞めるつもりもない。


 主任にもなりたい。


 でも、主任になるまで生きるのを待つ必要はない。


 悠へメッセージを送る。


〈来月どっか飯行くか〉


 すぐ返る。


〈何の風の吹き回し〉


〈たまには〉


〈パレットでええ?〉


〈またあそこか〉


〈友達も呼ぶ〉


〈誰〉


〈哲平と綾〉


 亮太は名前を知らない。


〈好きにしろ〉


 送る。


 窓の外へ街の灯りが流れる。


 明日は日曜日。


 資料は開かない。


 たぶん。


 電車が一駅進んだところで、美和から社内チャットが届いた。


〈月曜朝の会議、資料こっちでも見とくから今日は触らんでええよ〉


 亮太は画面を見る。


 土曜に仕事をしていたことが、たぶんばれている。


〈ありがとうございます〉


 送る。


 少し迷って、


〈久保田さんも休日は仕事しないんですか〉


〈する時ある〉


〈説得力ないですね〉


〈せやから言ってる。癖なる前にやめろ〉


 亮太は笑った。


〈了解です〉


 今度は素直に送る。


 スマホをしまう。


 窓ガラスに映る自分は、別に何も変わっていない。


 昇進が決まったわけでもない。


 恋人ができたわけでもない。


 人生の目的が見つかったわけでもない。


 ただ、明日を次の目標までの空白にはしない。


 それだけだった。


 次の駅で仕事帰りらしい人たちが乗ってくる。


 亮太は席を詰めた。


 月曜になれば、また数字を見る。


 数字が嫌いになったわけではない。


 目標だって必要だ。


 でも、数えなくていい餃子があったように、全部を予定表へ入れなくてもいい。


 日曜は、日曜として使おう。


 たぶん、そういう一日も必要だった。


 ――今日も明日も、生きて行こう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。