ハニートーストが「好きすぎて滅」
ハニートーストが「好きすぎて滅」
パレットの前で、千夏が足を止めた。「ここ?」聞かれると思っていた。だから駅から歩いてくる間に、もう少し先の角やで、とか、外は古いけど中は普通らしいで、とか、いくつか言い方を考えていたのに、実際に店を指さされると「うん」しか出てこない。
看板の角が欠けている。窓に貼られたビールのポスターは、端っこだけ日焼けして白い。駅前のカラオケ屋には大きな画面があって、入口で好きなアイドルの映像が流れていた。ここで動いているのは、室外機の上に置かれた鉢植えの葉っぱだけだ。
「……めっちゃ、おじいちゃん来そう」「来てるって言うたやん」先に笑っておいた。千夏も笑ったので、たぶん悪口ではない。莉子はガラス戸の向こうをのぞき、「開いてる?」と言った。私はドアに掛かった営業中の札を確かめてから、取っ手を引いた。
昨日で中間テストが終わった。最後の答案用紙が集められているときから、斜め前の席の千夏は、私に向けて小さくマイクを握るまねをしていた。教室を出るなり「明日、行こ」と言われ、莉子と三人、親なしで初めてカラオケに行くことになった。家族となら何度か行っている。ただ、あれはお母さんが受付をして、お父さんが飲み物を頼み、私は最後の十分になってから慌てて曲を入れるものだ。自分たちで店を選んで、好きな順番で歌うのとは全然違う。
ところが、お母さんに話したら、まず「誰と?」、次に「何時まで?」、それから「どこの店?」と聞かれた。千夏たちと駅前の、と答えたところで、洗濯物を畳んでいた手が止まる。
「カラオケやったら、おじいちゃんが行ってるパレットにしとき。迎えに行くときも場所わかるし」「そこ、ちゃんと今の曲あるん?」「それはあるやろ」あるやろ、では困る。でも、じゃあ行かんでええやん、と言われるほうがもっと困る。私はスマホを開いて、三人のグループに〈明日いける。お店もあるで〉と送った。駅前があかんかった、とは書かなかった。
今朝はおじいちゃんからも電話が来た。「あそこはケーキがうまいぞ」と、歌いに行く人への助言とは思えないことを言う。知ってる、と答えると「食べたことないやろ」と返され、話に聞いて知ってる、という説明をしなければならなかった。おじいちゃんは、朝の散歩の途中でショートケーキを食べる。うちでは朝にケーキを食べようとしたら止められるのに、おじいちゃんは止められない。「店の人にも言うといたからな」「何を?」「孫が友達連れて行くって」言わんでよかったのに、という言葉を飲み込んで、私はありがとうと答えた。
店内には、外から見たときより明るい照明がついていた。靴の裏が床にくっつく感じもない。受付の向こうから、髪を後ろで一つに結んだ女の人が顔を出した。「いらっしゃいませ。三名様?」「あ、はい。予約はしてなくて」「大丈夫よ。二時間でいい?」
隣の厨房から、紺色のエプロンをした、もう一人の女の人が出てきた。片手に持っていた白い布巾を畳んでから、私の顔を見る。「もしかして、おじいちゃんに紹介してもらって来た?」「……はい」「聞いてるよ。来てくれてありがとう」ほら、と思った。隣で千夏が私の顔を見ている。小さいころの話でもされたらどうしようと身構えたけれど、女の人はそれ以上何も聞かず、受付の横に並んだメニューをそろえた。
「昼は二時間、お一人六百六十円。飲み物一杯つきで、税込みです。食べ物は別になるけど、注文は部屋からできるからね」受付の人が料金表を指で示す。私たちは三人とも同じところを見た。六百六十円。それなら、持ってきた千五百円から引いても、まだ残る。「終了の十分前に電話します。延長する場合も料金が変わるから、そのときに確認してね」「延長は、しないです」迎えが来るから、と言いかけてやめた。受付の人は「はい、二時間ね」とだけ答えた。
通された部屋のソファは深緑色で、入口に近いところに小さな補修の跡があった。けれどテーブルはきれいだし、マイクの袋も新しい。千夏は座るより先に端末を取り上げ、ものすごい速さで文字を打ち込んだ。「あった!」画面には『好きすぎて滅』。私がのぞくと、千夏はもう予約を押していた。
「これ一曲目な。二人とも歌えるやろ?」「サビは」と莉子が言う。「私も、そこは」「じゃあ、いける」どういう計算なのかわからない。でも、千夏がマイクを二本、当然みたいに私たちの前へ並べたので、とりあえず座った。
最初の音が鳴った瞬間、千夏の肩が跳ねた。スマホで何度も見た振りを、小さな部屋いっぱいに使おうとして、さっそく莉子の肘にぶつかる。「近いって」と言われても笑ったまま歌い始めた。知っている部分が来れば私たちも声を出せる。来るまでは、画面を真剣に読む。三人そろって急に声が大きくなるところがあって、そこでお互いの顔を見ると、もう続きが歌えなくなった。曲が終わるころには、千夏が片方の靴を脱ぎかけていた。「暑っ。結衣、冷房下げて」「まず靴履いて」莉子が端末を奪い、次の曲を入れる。私は壁のリモコンを見つけ、温度を一つ下げた。少なくとも、曲が古いと言われる心配はなくなった。
飲み物が来たあと、莉子がメニューを開いた。最初は、何があるか見るだけの顔をしていたのに、ページの途中で手が止まった。「なあ。これ、三人で頼まへん?」指の先には、四角いパンの上にアイスが載った写真。周りにはちみつが光っていて、横に九百九十円と書いてある。ハニートースト。名前は知っているけれど、食べたことはない。「九百九十って、一人?」と千夏が身を乗り出した。「一個やろ。三人で割ったら三百三十円」莉子がスマホで計算してから、画面を私たちへ向ける。私は頭の中で、六百六十に三百三十を足した。九百九十円。千円で十円戻ってくる。
「でも、三人で一個って、ええんかな」聞くと、千夏がメニューの端を見た。莉子も裏返す。どこにも一人一個とは書いていないけれど、三人で一個でもいいとも書いていない。「一人ずつ飲み物はあるし、ええんちゃう?」「それ、ついてるやつやん」
「じゃあ聞こ」千夏が内線の受話器を取ろうとして、私に差し出した。「結衣、お店知ってるし」「私も初めてやって」初めてやけど、と続けながら受け取ってしまう。中学二年にもなって、注文の電話くらいで手が汗ばむ。何を言うか決めてから、注文と書かれたボタンを押した。
「あの、三番の部屋なんですけど。ハニートーストって、三人で一個でもいいですか」「もちろん。取り皿、三枚ね」紺色のエプロンの人の声だった。あまりにも普通に返ってきて、さっきまでメニューの隅を調べていたのが恥ずかしくなった。「あ、じゃあ、それを一つお願いします」「はい。焼くのに少しお時間いただきます」受話器を戻すと、二人が待っていた。私はうなずいてから、何となく店の人と同じ調子で「焼くから、ちょっとかかるって」と伝えた。千夏が「ちゃんと焼くんや」と感心し、莉子に「トーストやからな」と言われていた。
莉子の選んだ二曲をみんなで歌ったあと、千夏が次の予約を入れた。始まった曲は、私にはほとんどわからなかった。本人も途中から怪しくなって、画面を見ながら急に適当な音で乗り切ろうとする。莉子が笑いをこらえたせいで、ストローの中のソーダが上下した。「笑うなって。今、初めてここ聴いた」「入れる前に聴いといてよ」「短いやつには、ここなかったん」
私にも心当たりがある。いつも聴いているところだけなら一緒に歌えるのに、一曲全部になると、知らない歌みたいになる。千夏はとうとう私のマイクまで持って、一本ずつ交互に口へ運び始めた。増やしても歌詞はわからないままなのに、なぜかちょっと上手そうに見えた。
その曲の途中で、ドアが二度鳴った。女の人が「失礼します」と顔を出したとき、千夏はちょうど、二本のマイクを握ったまま立ち上がっていた。「お待たせしました」ドアが開いたところから、バターの匂いが入ってきた。女の人の両手に白い皿。その上に、メニューで見たパンがある。あるけれど、写真を見たときには考えなかった高さまである。「え、待って」千夏の声がマイクを通った。画面では曲が進んでいるのに、もう誰も見ていない。「写真より、でかない?」「近くで見るとね」女の人は笑い、空いている場所を確かめてから、皿をテーブルの真ん中へ置いた。
パンの耳でできた四角い箱に、こんがり焼けたパンが詰め直されていた。上には丸いバニラアイス。はちみつはその丸みに沿って細く流れ、焼き色のついた角で止まっている。皿の端には、角の立った白いクリーム。いちごやチョコレートは載っていない。それなのに、何をどこから見ればいいのか、目が忙しい。
「取り皿と、フォーク三つね。外側も食べられるから」大きなスプーンとナイフも添えられた。莉子がスマホを構え、千夏が慌ててテーブルの端末をどかす。「切り分けていこうか?」「あ、写真……」「じゃあ、ごゆっくり。アイスは待ってくれへんけど」ドアが閉まった途端、三人とも前のめりになった。
「待って。ここ、当たりやん」千夏が言った。「……やろ」自分でもびっくりするくらい、すぐに返事が出た。莉子がスマホ越しに私を見る。「結衣、食べたことあるん?」「ないけど」「ないんかい」三人で笑った拍子に、千夏がテーブルへ膝をぶつけた。アイスがわずかに傾く。莉子の声が一段高くなった。
「動かさんといて。今、撮ってる」「私、何もしてへん」「テーブルごとしてる」私は皿を押さえた。画面の中には、パンとアイスと私の指が入っている。「結衣の手、どけて」「どけたら千夏が揺らすやん」「揺らさんって。早く食べたい」
ようやく撮れた写真を確かめているあいだにも、アイスの下のほうが柔らかくなっていく。まずアイスを分けようということになり、私が大きなスプーンを持った。丸いものを三等分するのは難しい。少しずつ取ったつもりなのに、最後の一皿に多く残る。「それ千夏でええよ。めっちゃ動いてたし」と莉子が言う。「運動したら増えるん?」「今日だけ」千夏は素直に皿を受け取り、パンを一切れ取った。私も、切れ目へフォークを入れる。表面は固く、押すと薄いところがぱりっと割れた。持ち上がった中は白ではなく、バターの染みた黄色をしている。
アイスを少しつけて、口へ入れた。先に、焼けた表面が歯に当たる。その奥は柔らかくて、温かい。冷たいアイスを噛んだつもりなのに、噛むたびにパンの熱が出てくる。はちみつだけの甘さではなかった。バターのしょっぱいところに当たると、もう一度そこを食べたくなる。
千夏がフォークをくわえたまま止まっていた。莉子は自分の皿を見て、パンの残ったほうを見て、また口を動かした。「……え、おいし」最初に言ったのは私だった。「な」千夏の返事が短い。さっきまで二本も使っていたマイクが、ソファの端で転がっている。
「これ、下にもバターある」莉子がパンを裏返す。底のほうにも焼き色がついていた。千夏がアイスを多めにつけ、慌てて口へ運んで、すぐに頬を押さえた。「冷たっ」「パンは熱いで」「わかってる。両方くる」それが変におかしくて、フォークを持ったまま笑った。私の取り皿では、溶けたアイスにはちみつが混ざり始めている。パンでぬぐって食べてみると、さっきより甘かった。次は何もつけずに食べる。端っこだけ、ほろ苦くて香ばしい。どれが一番好きか決める前に、最初の一切れがなくなった。
誰も次の曲を入れていなかった。画面では知らない人が新曲を紹介している。カラオケに来ているのに、曲が途切れていることが気にならない。千夏が小さな声で「次、取ってええ?」と聞き、莉子が「順番制なん?」と答えた。私たちは切れ目を確かめ、残りをそれぞれの皿へ移した。莉子が撮った写真がグループに届く。千夏はすぐ保存したけれど、私は画面を一瞬見ただけでスマホを伏せた。写真よりも、目の前のパンを早く食べたかった。
「うち、家でもやってみよかな」と千夏が言った。「この厚さ、うちのトースター入らんわ」「ほな薄いやつで」「それ、アイス載せた食パンちゃう?」「一緒やん」莉子が自分の皿を指して「これと一緒にするのは、まだ早いやろ」と言った。千夏もパンを見て、考えたあと「まあ、初回は練習か」と納得する。
家で作ったら、今日の話をお母さんに説明しないといけない。おいしかった、とだけ言っても、たぶんこの大きさまでは伝わらない。私はもう一度スマホを取り、写真を保存した。
パンの中身がなくなると、四角い耳が残った。莉子がナイフを持ち、角のところへ刃を当てる。硬そうなのに、ゆっくり動かすと細かな音を立てて切れた。「ここ、誰かいる?」「いる」と私と千夏が同時に答える。「みんないるやん」
外側は手でつまむほうが食べやすかった。私は指先で細長い一片を持ち、皿に残ったアイスをつける。さっきよりずっと歯ごたえがある。おじいちゃんも、ここまで全部食べるんやろか。いつもケーキの話ばかりするけれど、今度は私が先にこれを教えよう。
「結衣、まだ一曲も入れてなくない?」千夏に端末を渡された。食べ終わるのを待っていたみたいなタイミングで、逃げ道がない。「二人のやつ、一緒に歌ってたし」「一人でも歌ってよ。さっき、普通に声出てたやん」
画面を開く。入れたい曲は、家を出る前から決まっていた。自分の部屋なら最後まで歌える。ただ、二人が知らなかったらどうしようとか、長いと思われたら嫌だとか、余計なことを考えて、ずっと予約できずにいた。「それ、私も好き」と、隣から莉子が言った。まだ曲名を検索しただけだった。それでも私は、背中を押されたみたいに予約のボタンを押した。
始まりの音が流れる。手の中でマイクが滑り、握り直した。最初は画面の文字を追うので精いっぱいで、自分の声が大きいのか小さいのかもわからない。けれど家で何度も聴いたところへ来ると、次の言葉を待たずに息が吸えた。千夏の手が動いていないことに、途中で気づいた。さっきまで何の曲でも勝手に振りをつけていたのに、膝の上に両手を置いている。変なところがあったのかと思い、目が合う前に画面へ戻した。
最後まで歌い終わって、マイクを下ろす。千夏が私の腕をつかんだ。「ちょっと。結衣、先に言うといてよ」「何を?」「歌えるやん!」
「ずっと歌ってたやん」「そういう意味ちゃうって」千夏が笑いながら腕を揺らすので、私はマイクをテーブルへ置いた。莉子が「もう一曲いける?」と端末を差し出す。上手だったか、変ではなかったか、自分ではまだよくわからない。でも、次も聴いてくれるらしい。「あとで。次、莉子の番」そう言うと、莉子は「ほな先に」と迷わず予約した。千夏も隣からのぞき込む。私は飲み物を一口飲んで、次に歌いたい曲を考えた。
それからは、順番が来るより先に予約を入れた。千夏が曲の途中で飲み物をこぼしかけ、莉子が歌いながらグラスを救った。私が知らない曲では二人の手拍子についていき、莉子が歌えなくなったところは千夏が引き受ける。誰か一人が最後まで全部歌えなくても、何とかなった。トイレから戻ると、自分が入れた曲がもう始まっていて、「早く早く」と二人に呼ばれた。ドアを閉め、差し出されたマイクを受け取った。
残り十分の電話が鳴ったとき、千夏が「嘘やろ」と声を上げた。テーブルにはもう、パンの細かなかけらしか残っていない。二人が次の曲を相談している間に、私は取り皿を重ねた。フォークをそろえて置いてから、莉子がまだ自分の皿を持っているのに気づく。「そこ、何か残ってる?」「ここのカリカリ」小さいかけらを一つ食べて、満足そうに皿を渡してきた。「最後、もう一回これな」千夏が入れたのは、一曲目と同じ『好きすぎて滅』だった。
「また?」と莉子が言いながら、マイクを取った。「最初、二人とも全然歌ってへんかったし」「知らんとこは、今も知らんで」「そこ私が歌うから」
今度は最初から三人とも立った。ソファに膝をぶつけない場所を確かめて、私は莉子と一本のマイクを分ける。知っているところが来る前に、千夏がこっちを向いた。私たちは同時に息を吸い、さっきより大きな声を出した。音程が合ったかどうかより、三人の声が一緒になったことが面白くて、また途中で笑ってしまった。
受付へ戻ると、厨房の奥で中華鍋のぶつかる音がした。髪を結んだ人がそちらで動いていて、紺色のエプロンの人が会計に出てきた。私たちは千円札を一枚ずつ出す。「三名様の二時間と、ハニートースト一つで、二千九百七十円。三十円のお返しです」
十円玉が三枚、トレーに並んだ。私は一枚ずつ二人へ渡す。自分の分を財布に入れようとしたとき、千夏が受付から少し身を乗り出した。「あの。ハニートースト、めっちゃおいしかったです」「耳も」と莉子が付け足した。女の人の目が細くなる。「耳まで食べてくれた?」「全部」と私が言った。「ありがとう。また焼くね」
受付の脇には、小さな冷蔵ケースがあった。白いクリームをきれいに塗ったショートケーキが並んでいる。今朝までは、おじいちゃんが散歩の途中で食べるもの、というだけだった。
「次、あれもよくない?」千夏が私の耳元で言う。莉子ものぞき込んだけれど、「ハニトー食べられへんくなるやん」と真剣に返した。「じゃあ、別の日」まだ今日の店を出てもいないのに、二人は次に食べるものを相談している。私はレシートを受け取り、折らずに財布の札を入れるところへしまった。
外に出ると、思っていたより空が明るかった。お母さんから〈あと五分くらいで着く〉と連絡が入っている。入口の横で待つことにして、私は返信を打った。「次もここでよくない?」千夏の声に顔を上げる。莉子が「テスト終わったらな」と答えた。「え、そんな先?」「お金、貯めなあかんし」私も財布の中身を思い出して、うなずく。次は三人で先に日を決めて、それからお母さんに話そう。どこの店、と聞かれても、今度はすぐに答えられる。
莉子が送ってくれた写真を、おじいちゃんとのトークに貼り付けた。何と書こうか考えていると、千夏が肩越しにのぞいてきた。「それ、今日の三人の写真も送っといて。お店教えてくれてありがとうって」「三人の、撮ってないやん」「あ、ほんまや」
私たちは看板の下に寄った。莉子がスマホを持ち、画面をこちらへ向ける。顔を近づけると、千夏の髪が頬に当たってくすぐったい。「看板、入ってる?」と私は聞いた。「入ってる。結衣、もうちょいこっち」欠けた端っこまで画面に収まったところで、三人で笑った。




