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鍋焼きうどんと「心凍らせて」

鍋焼きうどんと「心凍らせて」


飲み足りなかったわけではない。


歌いたかったわけでもない。


ただ、帰るには少し早かった。


午前零時を過ぎていたけれど。


十二月二十六日。


会社は今日で仕事納めだった。


一軒目は部署の忘年会だった。


駅前の居酒屋で二時間。部長の挨拶が長くて、若い連中が注文した唐揚げが三皿余って、最後に誰が食うかで押しつけ合った。


二軒目は七人。


忘年会の店を出たところで、


「もう一軒だけ行きません?」


と誰かが言った。


こういうときの「もう一軒だけ」は信用してはいけない。


知っている。


知っていて行った。


二軒目は焼き鳥屋だった。


そこで二人帰った。


三軒目は五人でスナック。


若いのが知らない歌を歌って、俺が知らない歌を歌って、それをお互い知らないまま拍手した。


十一時半を過ぎたころ、


「川村さん、そろそろ帰ります?」


と後輩に聞かれた。


「俺、もう一軒行くわ」


「元気っすねえ」


「年寄り舐めんな」


笑われた。


四人が駅へ向かった。


俺は反対へ歩いた。


別に行きたい店があったわけではない。


気づけば、一人だった。


*


川村隆志、五十六歳。


半年前に離婚した。


結婚生活、二十八年。


長かったのか短かったのかは分からない。


少なくとも、離婚届に書くには長すぎた。


紙一枚に名前を書いて、印を押して、それで終わるには長すぎた。


けれど、終わった。


理由を聞かれることがある。


浮気か。


金か。


女か。


喧嘩か。


性格の不一致か。


どれでもない。


どれでもあるのかもしれない。


二十八年も一緒にいたら、一個の理由で説明できる方が珍しいんじゃないかと思う。


子供が二人いる。


娘が二十七。


息子が二十四。


二人とも、もう家を出ている。


離婚すると話したとき、娘は母親の隣に座った。


息子はしばらく黙ってから、


「俺も母さんの方かな」


と言った。


何が「方」なのか。


選挙でもあるまいし。


そう思った。


口には出さなかった。


「そらそうや」


と言った。


それだけだった。


腹は立たなかった。


あいつらが母親を選ぶのは正しいと思った。


正しいと思えることと、寂しくないことは、別だった。


*


風が冷たかった。


酔っているから平気だと思っていたが、耳が痛い。


コートのポケットに手を突っ込んで歩いた。


駅とは反対。


家とも反対。


大学の近くまで来たところで、古い看板が見えた。


《KARAOKE HOUSE PALETTE》


「ああ」


声が出た。


知っている。


昔、来たことがある。


ずいぶん昔だ。


まだ子供が小さかったころ。


家族四人で来た。


娘が何を歌ったかは覚えていない。


息子がマイクを離さなかったことは覚えている。


妻は歌わなかった。


「私はええわ」


と言いながら、俺が歌うと採点画面だけは見ていた。


何年前だ。


十五年。


いや、もっとか。


看板はあのころから古かった気がする。


ということは、今は相当古い。


階段の下に黒板が出ていた。


《深夜も営業中》


その下に小さく、


《鍋焼きうどんあります》


と書いてあった。


カラオケ屋の看板で見る文字ではない。


少し笑った。


「鍋焼きうどんて」


四軒目で食うものでもない。


そう思いながら、階段を上がった。


*


「いらっしゃいませ」


受付にいたのは、黒い服を着た若い男だった。


三十前くらいだろうか。


愛想が悪いわけではない。


愛想を使っていない顔だった。


「一人やけど」


「はい」


それだけだった。


一人ですか、と聞き返さなかった。


「一時間で」


「お煙草は?」


「吸わん」


「では二〇一で。延長される場合は内線ください」


鍵と伝票を渡される。


俺は受け取った。


「……一人でもええんやな」


若い男が俺を見た。


「カラオケなんで」


「そらそうやな」


何を聞いているんだ、俺は。


部屋へ入った。


*


二〇一。


狭い部屋だった。


一人には十分。


四人なら少し狭い。


昔、家族で入ったのがこの部屋だったかどうかは分からない。


ソファに座る。


コートを脱ぐ。


急に静かになった。


三軒分の酒が身体に入っている。


ビール。


焼酎。


ウイスキー。


最後に何を飲んだか、少し怪しい。


テーブルの上にメニューがあった。


ドリンク。


料理。


デザート。


ページが多い。


「こんなんやったっけ」


昔のパレットは、もっと簡単なメニューだった気がする。


ポテト。


唐揚げ。


ピラフ。


焼きそば。


そのくらい。


今は中華丼まである。


オムライス。


鯛茶漬け。


麻婆豆腐。


ケーキ。


何屋やねん。


ページをめくる。


最後の方にあった。


《冬季限定 鍋焼きうどん》


写真もない。


小さく書いてあるだけ。


内線を取った。


「すみません」


『はい』


さっきの若い男。


「鍋焼きうどんって、まだできる?」


『確認します』


少し待つ。


遠くで声。


戻ってきた。


『できます』


「じゃあ一つ」


『かしこまりました』


切る。


一人前。


当たり前だ。


鍋焼きうどんなんだから。


*


曲を探した。


別に歌いたい曲はなかった。


ランキングを見る。


知らない曲ばかり。


歌手名を見ても読めないのがある。


最近の歌は言葉が多い。


会社の若い連中が歌っていたけれど、どこで息をしているのか分からない。


年代から探す。


九十年代。


知っている曲が並ぶ。


昔よく歌った曲。


会社の宴会。


取引先との二次会。


友人の結婚式のあと。


妻と付き合っていたころにも歌った。


そういえば、あいつの前でも歌った。


髙山厳。


「心凍らせて」。


昔から十八番だった。


理由は単純。


声が合った。


上手く聞こえた。


それだけ。


予約を入れた。


イントロが流れる。


マイクを持つ。


歌い始める。


「あれ」


途中で少し変な感じがした。


こんな歌だったか。


何百回とは言わない。


でも百回くらいは歌ったかもしれない。


歌詞だって覚えている。


なのに、初めて歌っているような気がした。


二十代で歌った。


三十代でも歌った。


四十代でも歌った。


五十代でも歌った。


同じ歌だったはずだ。


俺が変わったのか。


歌い終わった。


採点は入れていなかった。


画面が次の曲を勧めてくる。


俺はマイクをテーブルに置いた。


「……こんな歌やったんやな」


誰に言うでもなく、そう言った。


*


扉が開いた。


「失礼します」


料理を持ってきたのは、受付の若い男ではなかった。


四十前くらいの男。


土鍋を盆に乗せている。


蓋の隙間から湯気が出ていた。


「熱いんで気ぃつけてください」


「ありがとう」


テーブルに置かれる。


ぐつぐついっている。


本当にぐつぐついっている。


「すごいな」


男が少しだけ首を傾けた。


「何がです?」


「いや。カラオケ屋でこんなん出てくると思わんかった」


「よく言われます」


「ここ、昔からこんなんやった?」


「昔は違いますね」


「やっぱり」


男はそれ以上説明しなかった。


帰ろうとする。


「あの」


「はい」


「これ、あんたが作ったん?」


「はい」


「料理人?」


少し間。


「今はカラオケ屋です」


どこかで聞いたような言い方だと思った。


誰から聞いたのかは分からない。


「そう」


「ごゆっくり」


扉が閉まった。


土鍋を見る。


蓋を取った。


湯気で眼鏡が曇った。


「うわ」


何も見えない。


眼鏡を外す。


拭く。


もう一度見る。


うどん。


鶏肉。


椎茸。


ねぎ。


蒲鉾。


ちくわ。


卵。


特別なものは何もない。


普通の鍋焼きうどんだった。


七味を少しかける。


まず汁。


「熱っ」


本当に熱い。


さっき気をつけろと言われたのに。


もう一度。


熱い。


でもうまい。


酒を三軒飲んだ身体に、だしが入っていく。


腹が減っていたことに、そのとき初めて気づいた。


一軒目でも食った。


二軒目でも食った。


スナックでは乾き物もつまんだ。


なのに腹が減っていた。


うどんをすする。


熱い。


鼻水が出る。


ティッシュを取る。


「……寒かったからな」


誰に言い訳しているのか。


*


卵には、まだ触らなかった。


最後まで残す。


昔からそうだった。


黄身を崩すと汁の味が変わる。


だから最後。


妻は逆だった。


最初に潰す。


「何で最初に潰すねん」


「美味しいから」


「後半全部卵味になるやろ」


「それが美味しいんやん」


「分かってないな」


「何を偉そうに」


そんな話をした。


いつだ。


家だったか。


店だったか。


覚えていない。


どうでもいい会話だ。


二十八年の結婚生活で覚えていることが、卵をいつ潰すか。


もっと大事なことがあったはずだ。


娘が生まれた日。


息子が生まれた日。


家を買った日。


娘の成人式。


息子の就職。


家族旅行。


喧嘩。


仲直り。


離婚の話をした夜。


色々あった。


なのに今、鍋焼きうどんを前にして思い出したのは、


「卵いつ潰す?」


だった。


笑った。


「何やねん」


うどんを食べる。


鶏肉。


椎茸。


ちくわ。


まだ卵には触らない。


*


スマホが震えた。


娘だった。


《お父さん、仕事納め?》


短い。


《今日で終わり》


返す。


すぐ既読。


《飲みすぎんようにね》


もう遅い。


《もう飲んだ》


返す。


少しして、


《知ってた》


何を知っているんだ。


笑う。


その下に、


《正月、お母さんと翔太とおばあちゃんとこ行くから》


と来た。


翔太は息子だ。


知っている。


前にも聞いた。


《おう》


それだけ返した。


続けて何か打とうとした。


楽しんでこい。


気をつけて。


ばあちゃんによろしく。


どれも違う気がして、やめた。


《おう》


だけ。


娘からスタンプが来た。


昔から使っている、変な犬のスタンプ。


俺はスマホを伏せた。


腹は立たない。


母親と行けばいい。


離婚した父親まで一緒に妻の実家へ行く方がおかしい。


分かっている。


全部分かっている。


分かっていることと。


寂しくないことは。


やっぱり別だった。


*


卵を潰した。


黄身が流れる。


汁が濁る。


一口飲む。


「……これもええな」


妻の食べ方だった。


五十六になって初めて認めた。


誰も聞いていない。


だから認められた。


残ったうどんを食べる。


汁も飲む。


土鍋の底が見えた。


身体が熱い。


額に汗まで出ている。


コートを脱いでいてよかった。


真冬の深夜。


一人。


鍋焼きうどんを食って汗をかいている。


馬鹿みたいだ。


*


もう一曲歌った。


今度は明るい曲にした。


昔、息子が好きだった歌。


途中で分からなくなった。


サビしか知らなかった。


やめた。


次。


娘が小学生のころに歌っていた曲。


これも分からない。


やめた。


結局また、自分の歌に戻った。


「心凍らせて」。


同じ曲をもう一度入れた。


一回目より少し酔いが醒めていた。


腹が温かい。


二回目は、普通に歌えた。


上手い。


我ながら上手い。


昔から得意なのだ。


歌い終わる。


今度は採点を入れていた。


九十一点。


「おお」


思ったより高い。


少し嬉しい。


こういうところが我ながら情けない。


離婚して半年。


年末。


家族は元妻側。


深夜一時。


一人カラオケ。


心を凍らせる歌を歌って九十一点を取って喜んでいる。


「まあ、ええか」


誰も聞いていない。


*


延長はしなかった。


一時間で部屋を出た。


受付にはさっきの若い男がいた。


「ありがとうございました」


伝票を渡す。


会計。


「鍋焼きうどん、うまかったわ」


「ありがとうございます」


「作った人に言っといて」


「言っときます」


カードを出す。


支払う。


レシート。


コートを着る。


「兄ちゃん」


「はい」


「ここ、朝まで?」


「朝までです」


「大変やな」


「慣れてるんで」


「そうか」


階段へ向かう。


「あの」


後ろから呼ばれた。


振り返る。


若い男が俺のスマホを持っていた。


「忘れてます」


「あ」


受け取る。


「危な」


「気ぃつけてください」


「ありがとう」


本当に何をしに来たんだ。


階段を下りる。


*


外は、来たときより寒かった。


午前一時半。


酔いもだいぶ醒めた。


白い息。


ポケットに手を入れる。


スマホがある。


財布もある。


鍵もある。


帰る家もある。


誰もいないけれど。


駅の方へ歩く。


途中でコンビニが見えた。


明日の朝飯を買わないといけない。


食パン。


牛乳。


コーヒー。


卵。


一人になって半年。


そういうことは考えられるようになった。


最初のころは牛乳を二本買った。


二人分の癖が抜けなかった。


味噌汁を作りすぎたこともある。


洗濯物が少なすぎて、洗濯機を回すタイミングが分からなかった。


今は分かる。


一人分が分かるようになった。


それがいいことなのかは知らない。


コンビニに入る。


食パン。


牛乳。


コーヒー。


卵。


かごに入れる。


卵を見て、少し笑った。


「何笑てんねん」


誰も聞いていない。


会計を済ませる。


外へ出る。


また寒い。


でも、さっきまでとは少し違った。


コートの中に、まだ鍋焼きうどんの熱が残っていた。


家まで二十分。


歩ける。


今日は帰れそうだった。

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