オードブルと『ultra soul』
オードブルと『ultra soul』
「今のうちトイレ行っとき」
土曜日の午後四時十二分。出勤して七分で田辺さんに言われた。
「え?」
「トイレ」
「いや、別に今は」
「行っとき」
「……はい」
言われるままトイレに行った。別に行きたくはなかった。
戻ってくると、森本さんが受付で予約表を見ていた。紙の予約表と、その横のタブレット。両方を見る。電話の横にはメモ。赤い字が多い。
「森本さん」
「ん?」
「田辺さんにトイレ行かされました」
「よかったな」
「何がですか」
「行けて」
「そんな忙しいんですか?」
森本さんが顔を上げた。私を見る。時計を見る。また私を見る。
「まだ始まってへんで」
その言い方が嫌だった。
*
パレットで働き始めて、まだそんなに経っていない。平日の夕方には何度か入った。大学帰りの学生、高校生、仕事帰りの人、たまに家族連れ。忙しい日はある。注文が重なることもある。部屋の片付けをしている間に電話が鳴って、受付へ戻ったら別のお客さんが待っている、くらいのことは経験した。
だから私は、少しくらい仕事が分かってきたつもりでいた。受付、ドリンク、部屋の清掃、簡単な料理の配膳、延長確認、マイクの電池交換、注文端末の説明。まだ一人ではできないこともあるけれど、初日みたいに全部が分からないわけではない。
今日は初めての土曜日だった。面接のときから《土曜勤務できる方歓迎》と書いてあった。採用されてからも何度か、「土曜入れる?」と聞かれた。だから、「入れます」と答えた。
大学生のアルバイトなんだから、土日が忙しいのは普通だと思っていた。カラオケ屋だし。忙しいといっても、カラオケ屋だ。歌うのはお客さんである。私が歌うわけではない。何とかなる。そう思っていた。
午後四時二十分。店内は、まだ静かだった。
*
「結衣ちゃん、土曜初めて?」
声をかけてきたのは、水野莉子さんだった。摂陽大学二年生。二十歳。私より一つ上の学年で、パレットでは一年以上働いている。初めて会ったときから話しやすかった。
「初めてです」
「そっか」
莉子さんが笑った。
「頑張って」
「何ですか、その言い方」
「普通に応援しただけ」
「絶対違う」
「違わへんよ」
笑っている。絶対違う。
その横を、背の高い男の人が通った。黒いTシャツ、黒いパンツ、髪も黒い。無言でマイクを六本くらい抱えている。
「おはようございます」
私が言うと、
「おはよう」
それだけ言って通り過ぎた。
長谷川直人さん。二十八歳。夜勤中心のアルバイトらしい。私はまだ二回しか会ったことがない。何をしている人なのかもよく知らない。大学生ではない。昼間にはほとんどいない。あまり喋らない。ちょっと怖い。
「長谷川さん今日もいるんですね」
「土曜やからね」
莉子さんが言った。
「機械壊れたら、あの人呼んだらええよ」
「店長じゃなくて?」
「長谷川さん」
「マイクとか?」
「マイクも」
「端末とか?」
「長谷川さん」
「スピーカー」
「長谷川さん」
「何者なんですか?」
「知らん」
知らないのか。
*
厨房では、もっと分からないことが起きていた。大きな銀色の皿が並んでいる。その上に料理が次々と置かれていく。唐揚げ、海老、ポテト、春巻き、だし巻き、小さなサンドイッチ、ローストビーフ、何かのおしゃれな小さいやつ。
「何ですか、これ」
私が聞くと、洋介さんが顔を上げた。
「オードブル」
「それは見たら分かります」
「じゃあ聞くなや」
「何でカラオケ屋でオードブル作ってるんですか」
「予約」
「宴会ですか?」
「サークル。十二人」
美玲さんが中華鍋を火にかけながら言った。
「もう一組十人入ってるで」
「二組?」
「あと八人が一組」
「三組?」
「今日オードブル五枚」
「五枚」
私は銀色の皿を見た。一枚でも結構大きい。
「誰が作るんですか?」
洋介さんが言った。
「みんな」
「みんな?」
その横で和也さんが、だし巻きを切っていた。均等。全部同じ幅。菜穂さんは小さなデザートを並べている。美玲さんの前では春巻きが揚がっている。洋介さんはローストビーフを切っている。
「これ、全部ここで作るんですか」
「せやで」
「買ってきたやつとか」
「ポテトは冷凍」
美玲さんが言った。
「そこは冷凍なんや」
思わず言ってしまった。美玲さんが振り返る。
「じゃがいもから剥こか?」
「すみませんでした」
忙しい日に余計なことを言ってはいけない。一つ学んだ。
*
午後四時五十分。正治さんが帰ろうとしていた。
「お疲れ」
「え?」
私は思わず時計を見た。
「正治さん、帰るんですか?」
「帰るで」
「今日、土曜ですよ?」
「知っとるわ」
「これから忙しいんですよね?」
「らしいな」
「らしいなって」
入口の方から、「じいちゃーん!」と子どもの声がした。男の子と女の子が一人ずつ。正治さんの顔が急に爺ちゃんになった。
「おう、来たか」
「お腹減った!」
「早いわ。まだ五時やぞ」
「何食べるん?」
「何でもええ。親に食わしてもらわれへんもん食え」
厨房から洋介さんが、「変な言い方すんな!」と叫んだ。
正治さんが笑う。
「毎日親の飯食っとんねんから、土曜くらい爺ちゃんが外連れてったるんや」
孫二人を連れて階段へ向かう。私はその背中を見た。
「……帰るんや」
森本さんが横を通った。
「帰るで」
「一番忙しくなるんですよね?」
「なるな」
「人、足りるんですか?」
「足りひん」
「じゃあ何で帰るんですか?」
森本さんが少し考えた。
「爺ちゃんやからちゃう?」
答えになっていない。
午後五時。パレットの創業者は孫二人を連れて帰った。そして、その十分後だった。電話が鳴った。
*
「はい、カラオケハウス・パレットです」
田辺さんが取る。
「はい、本日ですか? お時間は……七時。少々お待ちください」
紙を見る。タブレットを見る。
「申し訳ありません、七時は満室でして。八時半でしたら――」
入口が開く。
「予約してる山下です」
森本さんが出る。
「はい、山下様。二〇五です」
私は伝票を用意する。電話が鳴る。もう一本。
「結衣ちゃん、それ取って」
「はい!」
「はい、カラオケハウス・パレットです!」
「小川さん、三〇二ドリンク」
「はい!」
「結衣ちゃん、先こっち!」
「はい!」
どっち。
*
午後五時半。まだ大丈夫だった。忙しい。でも大丈夫。
予約のお客さんが増えた。料理の注文も増えた。でも走れば間に合う。
私は二〇一にウーロン茶とコーラを運んだ。戻る。二〇五の空いたグラスを下げる。戻る。電話。出る。
「はい、パレットです」
予約。今日。六人。七時。
「少々お待ちください」
田辺さんを見る。田辺さんは別の電話中。森本さんを見る。受付で会計中。莉子さんは料理を持って廊下を走っている。
「……少々お待ちください!」
保留。タブレットを見る。分からない。紙を見る。もっと分からない。
「七時六人?」
横から田辺さん。
「はい」
「無理。七時半なら三〇一」
「はい!」
電話を戻す。
「お待たせしました。七時半でしたら――」
予約成立。名前を聞く。電話番号。人数。書く。切る。
「できた……」
電話が鳴る。
「嘘やろ」
取る。
*
午後六時。大丈夫ではなくなった。
「結衣ちゃん二〇三!」
「はい!」
「三〇二、唐揚げ!」
「はい!」
「小川さん、一〇二空いたから片付け!」
「はい!」
「電話!」
「はい!」
「結衣ちゃん!」
「はい!」
誰に返事をしているのか分からない。とりあえず全部「はい」と言った。
廊下を走る。厨房へ入る。熱い。何これ。厨房ってこんな暑かった?
「二〇三のオムライス!」
洋介さん。
「はい!」
「二〇五、中華丼!」
美玲さん。
「はい!」
「三〇一、きつね」
和也さん。
「はい!」
「三〇二、チーズケーキ二つ!」
菜穂さん。
「はい!」
持てない。
「無理です!」
「一回で持たんでええ!」
怒られた。そりゃそうだ。
オムライスと中華丼を持つ。廊下へ。どっちが二〇三だっけ。
「右!」
後ろから森本さん。
「ありがとうございます!」
右。二〇三。
「お待たせしました!」
置く。二〇五。置く。戻る。厨房。きつねうどん。ケーキ。運ぶ。戻る。電話。
「はい、パレットです!」
「小川さん、それ内線」
「え?」
「客室から」
「はい!」
もう嫌だ。
*
どこかの部屋から歌が聞こえる。何の曲か分からない。別の部屋からも聞こえる。
廊下は音だらけだった。ドアを開けるたび、違う曲が飛び出してくる。笑い声。手拍子。マイク。
廊下へ出れば少し遠くなる。また別の扉が開く。別の歌。
私は空いた皿を持って受付へ戻った。森本さんが急に、
「来るで」
と言った。
「何がですか?」
直後。どこかの部屋から、大勢の声が響いた。
「――ヘイ!」
私は肩を跳ねさせた。
「何!?」
森本さんは普通に歩いていく。
「土曜やな」
「意味分からん!」
*
午後六時四十分。オードブルの予約客が来た。十二人。摂大のサークルらしい。受付が一気に学生で埋まる。
「予約した岡本です!」
「十二名様ですね」
「あと一人遅れてきます」
「十三?」
「いや十二です。今十一であと一人」
「分かりました」
私は何も分かっていなかった。森本さんは分かっていた。
部屋へ案内。その間に電話。別の予約客。さらに一般客。
田辺さんが言った。
「結衣ちゃん、オードブル三〇一!」
「はい!」
厨房へ行く。一枚完成していた。大きい。
「これ一人で持つんですか?」
「莉子ちゃんと二人で」
菜穂さん。
「莉子ちゃん!」
「はい!」
二人で持つ。重い。
唐揚げ、春巻き、だし巻き、ローストビーフ、ポテト、サンドイッチ、海老、小さなキッシュ。ケーキまである。
「すご」
「見るん後!」
「はい!」
三〇一へ。扉を開ける。歓声。
「うおー!」
「来た!」
「やば!」
自分が作ったわけでもないのに、少し嬉しい。
テーブルへ置く。
「ごゆっくりどうぞ」
廊下へ出る。莉子さんと顔を見合わせる。
「すごいですね」
「何が?」
「オードブル」
「毎週やで」
「毎週?」
「多いときもっとある」
「嘘」
「ほんま」
厨房へ戻る。二枚目がまだ途中だった。
洋介さんがローストビーフ。美玲さんが春巻き。和也さんがだし巻き。菜穂さんが盛り付け。四人が一枚の皿を囲んでいた。
変な光景だった。洋食。中華。和食。お菓子。
普段なら別々のものを作っている四人が、一枚の銀色の皿を作っている。
「美玲、そこ狭い」
「兄さんの肉が場所取りすぎやねん」
「見栄えや」
「だし巻き入らん」
和也さんが言う。
「肉ずらせ」
「嫌や」
「ずらせ」
「お前のだし巻き減らせ」
「嫌や」
菜穂さんが黙ってローストビーフを少し動かした。だし巻きを入れた。
「入った」
洋介さんと和也さんが黙った。
「菜穂ちゃん最強やな」
美玲さんが言った。
少し笑いそうになった。
その瞬間。
「洋介くん!」
田辺さんの声。全員が振り返る。
「二〇五オムライス一個キャンセル!」
「はい!」
「美玲ちゃん、中華丼追加!」
「はい!」
「和也くん、三〇二うどん先!」
「はい」
「菜穂ちゃん、ケーキ待ってもらってるから後でええ!」
「はい!」
私は田辺さんを見た。田辺さんは電話を肩に挟みながら予約表に何か書いている。そのまま別のお客さんに、
「山下さん、今日は灰皿いらんかったよね?」
「あ、もう吸わへんから」
「せやったね」
と言っている。
私は森本さんの袖を引いた。
「森本さん」
「ん?」
「田辺さんって何者なんですか?」
「パート」
「いや、そういう意味じゃなくて」
*
午後七時十分。やらかした。
三〇二の追加注文。焼きそば一つ。
端末から入った注文を確認して、厨房へ伝えた。つもりだった。伝えていなかった。
二十五分後。内線。
「すみません、焼きそばまだですか?」
血の気が引いた。厨房を見る。注文票がない。
「あ」
自分の手元。あった。
「……あ」
森本さんが私を見る。
「どうした?」
「焼きそば」
「何番?」
「三〇二」
「いつ?」
「……二十五分前」
「通してない?」
「……はい」
終わった。怒られる。絶対怒られる。
「すみません!」
森本さんに頭を下げた。
「謝るん後」
「え」
「まず出すで」
厨房へ。
「三〇二、焼きそば一、二十五分飛んでます!」
森本さんが言う。
美玲さんが振り返った。
「誰?」
「私です!」
「分かった。先やる」
それだけ。
洋介さんが鉄板を空ける。美玲さんが麺を出す。菜穂さんが皿を用意する。
「結衣ちゃん」
田辺さん。
「はい!」
「三〇二行って、遅れてますって謝ってきて」
「はい!」
「料理はこっちで何とかするから」
「……はい!」
走った。
三〇二。扉を開ける。
「申し訳ありません! 焼きそばの注文が通ってなくて、今すぐ作ってます!」
客は一瞬、「あー」という顔をした。怒られる。
「あと何分くらい?」
「すぐ確認します!」
「じゃあ先歌ってるわ」
「すみません!」
頭を下げる。
廊下へ。厨房へ戻る。もう中華鍋から音がしていた。火。キャベツ。肉。麺。ソースの匂い。
「あと二分!」
美玲さん。
「はい!」
誰も私を責めない。その方がつらかった。
二分後。焼きそばが出た。持っていく。謝る。
客は、「ええよええよ」と言った。
部屋を出る。私は少しだけ息を吐いた。
廊下に森本さんがいた。
「次気ぃつけたらええ」
「……はい」
「土曜はミスる」
「森本さんも?」
「するで」
「ほんとですか?」
「昔な」
「今は?」
「せえへん」
「腹立つ」
森本さんが笑った。
*
午後七時半。長谷川さんが初めて喋った。
「二〇一、マイク死んでる」
「え?」
受付にいた私が振り返る。
「行ってくる」
工具みたいなものを持って消えた。三十秒くらい。戻ってきた。
「直った」
「何が原因だったんですか?」
「ケーブル」
「直したんですか?」
「うん」
「三十秒で?」
「差し直しただけ」
「私でもできます?」
「できる」
「じゃあ今度教えてください」
「いいよ」
意外と普通だった。
五分後。三〇一から、
「すみませーん!」
と声がした。
私が行こうとしたら、森本さんに止められた。
「長谷川さんお願い」
「何でですか?」
「ちょっと酔ってる」
長谷川さんが行った。数分後、戻ってきた。
「大丈夫」
「何があったんですか?」
「ちょっと揉めてた」
「どうしたんですか?」
「話した」
「何を?」
「普通に」
何を話したら酔っ払いが数分で静かになるんだ。やっぱり少し怖い。
*
八時。忙しさのピークがどこなのか、もう分からなかった。ずっとピークだった。
電話。料理。会計。片付け。ドリンク。延長。新規客。電話。内線。料理。
私は厨房へ入った。
「二〇五、唐揚げ追加です!」
「はい!」
美玲さん。
「三〇一、ポテト二つ!」
「はい!」
洋介さん。
「一〇二、きつねうどん!」
「はい」
和也さん。
「二〇三、プリン二つ!」
「はい!」
菜穂さん。
誰が何担当なのか、もう分からない。
洋介さんがポテトを揚げている。美玲さんがオムライスの皿を出している。和也さんが洗い物をしている。菜穂さんが唐揚げを盛っている。
「皆さん、何でもするんですね!」
私が言った。
四人が一斉にこちらを見た。
「今それ言う?」
洋介さん。
「すみません!」
私は逃げた。
*
八時四十分。廊下を歩いていたら、また聞こえた。あの曲。同じ部屋かは分からない。
イントロ。歌声。私はもう覚えていた。
森本さんとすれ違う。
「またですね」
「またやな」
「今日何回目ですか?」
「知らん」
「人気なんですね」
「土曜やからな」
「それ何の説明にもなってませんよ」
曲が進む。
私は二〇五の空いた皿を持つ。森本さんがドリンクを運ぶ。莉子さんが階段を上がる。長谷川さんが受付へ戻る。厨房から中華鍋の音。
そして。
「――ヘイ!」
もう驚かなかった。
*
九時十五分。突然、静かになった。本当に突然だった。
もちろん客はいる。満室に近い。歌声も聞こえる。電話も鳴る。でも、さっきまでと違う。走らなくてもいい。
私は受付横の壁にもたれた。
「…………死んだ」
莉子さんが水を飲んでいる。
「まだ生きてる」
「足ないです」
「あるやん」
「感覚がない」
「最初みんなそう」
「毎週これなんですか?」
「だいたい」
「辞めよかな」
森本さんがシフト表を見た。
「来週も入ってるで」
「嘘」
見に行く。
《土 小川 16:00〜22:00》
本当に入っていた。
「誰が入れたんですか」
「店長」
厨房を見る。洋介さんと目が合った。笑っていた。
「鬼」
「聞こえとるぞ」
*
九時半。田辺さんが言った。
「食べ」
厨房の隅に皿があった。オードブルの残りというより、余ったものを一つずつ集めたような皿だった。
唐揚げ、だし巻き、春巻き、ローストビーフの端、ポテト、小さいケーキ、サンドイッチ。
私たちは順番に立ったまま食べた。椅子に座る気力もなかった。
私は唐揚げを取った。冷めている。食べる。
「……うま」
莉子さんが笑う。
「それ言うと思った」
「何で冷めてるのに美味しいんですか」
「知らん」
だし巻きを食べる。
「これ誰です?」
「和也さん」
「春巻きは?」
「美玲さん」
「ローストビーフ」
「洋介さん」
「このケーキ」
「菜穂さん」
私は皿を見た。四人の料理が一枚に乗っている。
「……オードブルって、この店そのものですね」
全員がこちらを見た。
「何言うてんの?」
莉子さん。
「いや、何か」
「疲れてるんちゃう?」
森本さん。
「そうかもしれません」
田辺さんが笑った。
厨房から洋介さんが、
「食ったら働けー」
と言った。
「今いいこと言ってたのに!」
「聞こえてへん!」
聞こえている。
*
十時。私は上がる時間になった。
「お疲れさまでした……」
声が死んでいた。
田辺さんも少しして上がるらしい。莉子さんも今日は十時半まで。でも店は閉まらない。
長谷川さんは残る。和也さんもいる。森本さんはもう少し。
厨房では、さっきまでの戦争みたいな料理が片付いていた。代わりに和也さんが鍋を見ている。静かな火。昼とも夕方とも違う厨房になっていた。
私は鞄を持った。
「これからどうなるんですか?」
森本さんに聞いた。
「何が?」
「店」
「普通に朝まで」
「朝まで」
「うん」
「……すご」
私が帰っても店は続く。当たり前のことなのに、今まで考えたことがなかった。
朝は正治さん。昼は美玲さんや菜穂さん。夕方から洋介さんたち。夜は和也さんや長谷川さん。そこに森本さんや田辺さんや莉子さんがいて、私もいる。
時間によって、人が入れ替わる。作る料理も変わる。客も変わる。でも、ずっとパレットだ。
階段へ向かう。そのとき電話が鳴った。
長谷川さんが取る。
「はい、パレットです」
厨房から火の音がした。入口の扉が開く。
「二人なんですけど、空いてます?」
新しい客。
森本さんが、
「いらっしゃいませ」
と立ち上がる。
私はその横を通った。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
「来週もよろしく」
「それ今言わんといてください」
笑われた。
階段を一段下りる。どこかの部屋からイントロが聞こえた。
まただ。今日、何回聞いたんだろう。
もう笑ってしまった。
私は階段を下りる。外へ出る。夜の道。振り返る。
古びた看板には、まだ明かりがついていた。二階のどこかから、歌声が漏れている。
土曜日は、まだ終わらない。
そして輝く。




