鯛茶漬けと『爪爪爪』
鯛茶漬けと『爪爪爪』
「…………違うな」
十七枚目のスライドを消した。
三秒待った。
戻した。
「……やっぱり要るな」
午前零時四十七分。
摂陽大学理工学部、応用化学科。
真壁研究室には俺しかいなかった。
正確には、隣の実験室で恒温槽が動いているし、ドラフトのファンも回っている。冷蔵庫も低い音を出している。機械まで数えるなら、俺は一人ではない。
人間は一人だった。
大学院生は十一時前に帰した。
四年の卒研生はもっと早い。
「先生は?」
と聞かれたので、
「もう少しやって帰る」
と答えた。
あれから二時間近く経っている。
俺はノートパソコンの画面を見た。
十七枚目。
金属酸化物触媒の反応効率を示したグラフ。
必要だ。
間違いなく必要だ。
ただ、ここに置くべきなのかが分からない。
十八枚目を先に見せてから十七枚目へ戻る方が話の流れはいい気もする。
入れ替える。
最初からスライドショーを再生する。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
「……長いな」
五枚目を削る。
七枚目と統合する。
十二枚目の文字が多い。
減らす。
十五枚目。
「これ、初見で分かるか?」
分からない気がする。
図を大きくする。
説明文を減らす。
十七枚目。
「…………違うな」
消す。
三秒。
戻す。
自分でも馬鹿だと思う。
発表は三日後だった。
共同研究先も来る材料化学のシンポジウム。
持ち時間は二十分。
研究内容そのものに問題があるわけではない。
データは揃っている。
追加実験も終わった。
共同研究者にも確認してもらった。
論文の原稿だって、ほぼ形になっている。
問題は俺だった。
二十分で、どこまで話す。
何を捨てる。
何を残す。
どこから話せば、この研究を初めて見る人間に面白さが伝わる。
研究というのは、やったことを全部話せばいいわけではない。
むしろ逆だ。
半年かけた実験を一枚にする。
三週間悩んだ条件設定を一言で済ませる。
失敗した百回は、たいてい発表には出てこない。
残ったものだけ見せて、筋道を作る。
その筋道が、気に入らない。
「……腹減ったな」
誰に言ったわけでもない。
腹が鳴った。
時計を見る。
零時五十八分。
研究室の机の端に、昼に買った菓子パンの袋がある。
空だった。
夕食は食べていない。
夕方、学生にもらったチョコレートを二個食べた。
それを夕食に数えるのは、さすがに無理がある。
スマートフォンを見る。
コンビニ。
牛丼。
ラーメン。
この時間なら、そのくらいだ。
「帰るか」
保存する。
念のため、もう一度保存する。
ノートパソコンを閉じる。
立ち上がる。
そこで止まった。
ノートパソコンを開いた。
十七枚目を見る。
「…………」
閉じた。
「帰ろ」
白衣を脱いだ。
*
九月の夜は、昼よりずっと歩きやすかった。
大学の門を出る。
学生の姿はほとんどない。
昼間なら自転車と学生でごちゃごちゃしている道が、妙に広く見える。
俺は鞄を肩にかけて駅の方へ歩いた。
コンビニの明かりが見える。
今日はおにぎり二個くらいでいい。
帰ったらシャワーを浴びて寝る。
明日の朝、十七枚目をもう一度考える。
そう決めた。
決めたはずだった。
コンビニの少し手前で、別の明かりが目に入った。
《KARAOKE HOUSE PALETTE》
「あ」
知っている。
もちろん知っている。
摂陽大学の教員で、この店を知らない人間は少ないと思う。
学生がよく行くカラオケ屋だ。
ゼミの学生が、
「昨日パレットで朝まで歌ってて」
などと言っているのを何度も聞いたことがある。
そのたびに俺は、
「それを寝坊の理由にしないで」
と言ってきた。
一度、学生に聞かれたこともある。
「先生、パレット行ったことあります?」
「ない」
「マジですか」
「何で驚くの」
「摂大の人、だいたい一回は行きますよ」
「俺、学生じゃないから」
「先生も摂大の人やん」
確かにそうなのだが、そのときは行かなかった。
そもそも一人でカラオケに行く習慣がない。
学生と行くのも気を使う。
向こうも気を使うだろう。
だから、これまで縁がなかった。
そのパレットの階段の前に、小さな黒板が出ていた。
《本日の夜食》
その下。
《鯛茶漬け》
俺は立ち止まった。
「…………」
カラオケ屋だよな。
看板を見る。
《KARAOKE HOUSE PALETTE》
間違いない。
黒板を見る。
《鯛茶漬け》
「何で?」
誰も答えない。
コンビニを見る。
パレットを見る。
コンビニ。
鯛茶漬け。
午前一時過ぎ。
腹が鳴った。
「……飯だけでもいけるのかな」
階段を上った。
*
扉を開ける。
思っていたより静かだった。
受付に男がいた。
俺と同じくらいか、少し上だろうか。
黒いTシャツにエプロン。
こちらを見る。
「いらっしゃいませ」
「あの」
「はい」
「一人なんですけど」
「はい」
終わった。
俺は次の言葉を待った。
男も待っている。
「……飯だけって、いけます?」
「いけますよ」
「あ、いけるんですね」
「部屋になりますけど」
やっぱりカラオケはするらしい。
「何時間にします?」
「……一時間で」
「学生さんですか?」
「違います」
「一般ですね」
「はい」
学生証を出せと言われたら職員証を見せるべきなのだろうか、と一瞬考えていた自分が恥ずかしい。
男が端末を操作する。
「二〇一で」
「はい」
「注文、部屋からできます」
「あ、外の黒板の」
「鯛茶漬け?」
「はい」
「ありますよ」
「じゃあ、それ一つ」
「わさび大丈夫です?」
「大丈夫です」
「じゃあ持っていきます」
それだけだった。
俺は伝票を受け取った。
廊下へ向かう。
数歩歩いてから振り返った。
男はもう厨房の方へ入っていた。
何だろう。
愛想が悪いわけではない。
感じが悪いわけでもない。
ただ、必要なことしか喋らない。
少し親近感が湧いた。
*
二〇一号室。
一人には広い。
ソファに鞄を置く。
座る。
目の前に大きな画面。
テーブルの上にマイクが二本。
端末。
俺は何となくマイクを一本持った。
「…………」
置いた。
何をしているんだ、俺は。
飯を食いに来ただけだ。
スマートフォンを出す。
メールが三件。
共同研究先から一件。
学生から一件。
大学の事務から一件。
共同研究先のメールを開く。
《真壁先生
発表資料の件ですが――》
閉じた。
「今はいい」
スマートフォンを伏せた。
五分ほどして、扉が開いた。
「お待たせしました」
受付の男だった。
盆を置く。
器が一つ。
小さな急須のようなもの。
薬味。
「最初、そのままでも食べられます。途中で出汁かけてください」
「これ、出汁ですか」
「はい」
「お茶じゃなくて?」
「出汁です」
「……鯛茶漬けなのに?」
男が俺を見る。
「出汁茶漬けですね」
「ああ、なるほど」
「嫌ならお茶もありますけど」
「いや、これで」
「はい」
男が出ていこうとする。
俺は器を見た。
鯛の切り身。
胡麻。
刻み海苔。
三つ葉。
わさび。
見た目が完全にカラオケ屋ではない。
「あの」
男が振り返る。
「はい」
「これ、ここで作ってるんですか」
「はい」
「鯛も?」
「鯛は作れません」
一瞬、意味が分からなかった。
男の口元が少しだけ動いた。
冗談だったらしい。
「……そういうこと言うんですね」
「たまに」
「魚、ここで捌いてるんですか」
「今日、市場でいいのがあったんで」
「市場?」
「はい」
「カラオケ屋ですよね?」
「そうですよ」
やっぱり少しだけ笑っている。
「ごゆっくり」
扉が閉まった。
「何なんだ、この店」
俺は箸を取った。
まず、言われた通りそのまま食べる。
鯛を一切れ。
胡麻の風味。
少し甘い醤油。
「……うま」
声が出た。
ご飯と食べる。
もう一口。
「うまいな」
誰もいないので、感想が全部独り言になる。
半分ほど食べたところで、出汁をかける。
湯気が立つ。
海苔の匂いが上がる。
鯛の表面が少し白くなる。
わさびを少し溶く。
食べる。
「…………」
何だ、これ。
さっきまで頭の中に十七枚目のスライドがいた。
ずっといた。
大学を出てもいた。
階段を上っているときもいた。
今、いない。
代わりに出汁がいる。
もう一口。
熱い。
うまい。
胃に落ちる。
「……出汁、うま」
俺は急須のような器を見た。
何の出汁だろう。
昆布。
鰹。
それだけではない気もする。
考え始めて、やめた。
「仕事じゃないんだから」
料理まで分析する必要はない。
うまければいい。
最後の一口まで食べた。
器を置く。
「……ふう」
久しぶりに息を吐いた気がした。
*
時計を見る。
まだ三十五分ある。
帰ってもいい。
料金は一時間分払うことになるが、別に構わない。
鯛茶漬け代だと思えばいい。
スマートフォンを取る。
また伏せる。
画面を見る。
カラオケの映像が勝手に流れている。
マイクが二本。
端末。
俺は端末を取った。
「…………」
せっかく来たんだから、一曲くらい。
検索画面を開く。
何を歌う。
最近の曲は知らない。
学生が話している曲名なら分かるが、歌えない。
大学生のころは、よく行った。
研究室の同期と。
飲み会のあと。
終電を逃したとき。
修士のころも行った。
博士課程に入ってから減った。
ポスドクになって、ほとんど行かなくなった。
最後にカラオケへ行ったのはいつだろう。
十年は前かもしれない。
指が勝手に動いた。
《マキシマム ザ ホルモン》
曲名が並ぶ。
見つけた。
『爪爪爪』
「……まだ入ってるんだ」
当たり前だ。
俺が聴かなくなったからといって、曲が消えるわけではない。
予約。
前奏が流れる。
「…………」
音が大きい。
少し下げる。
いや。
戻す。
マイクを持った。
最初の声を出した瞬間、自分でも驚いた。
出る。
覚えている。
頭ではなく、口が覚えている。
さっきまで学生に淡々と実験条件を説明していた声とは思えない。
自分でも何を言っているのか分からないくらいの勢いで歌う。
いや。
叫ぶ。
「――ッ!」
久しぶりすぎて喉が追いつかない。
構わない。
一人だ。
誰もいない。
十七枚目。
共同研究先。
査読。
学生の実験。
明日の講義。
教授会。
研究費。
全部どうでもいい。
今だけは。
画面の文字を追う。
声を出す。
途中でむせた。
「げほっ……」
水を飲む。
「……歳だな」
三十八歳。
二十歳のころと同じようにはいかない。
それでも続けた。
最後まで歌った。
曲が終わる。
採点。
六十八点。
「低っ」
思わず笑った。
大学生のころでも、もう少し取れた気がする。
「もう一回」
予約した。
二回目。
さっきよりひどかった。
六十五点。
「下がってるじゃないか」
笑った。
誰もいない部屋で、一人で。
何がおかしいのか、自分でもよく分からなかった。
でも笑った。
*
三曲歌った。
全部ホルモンだった。
喉が痛い。
鯛茶漬けで落ち着いた胃と、酷使された喉が、同じ人間のものとは思えない。
時間になった。
部屋を出る。
受付には、さっきの男がいた。
「ありがとうございました」
伝票を渡す。
男が会計をする。
俺は財布を出した。
「鯛茶漬け、美味しかったです」
「ありがとうございます」
「出汁、何使ってるんですか」
「昆布と鰹です。今日は鯛のあらも少し」
「やっぱり」
「分かりました?」
「いや、全然」
男が少し笑った。
「適当に言いました」
「そうですか」
会計を払う。
レシートを受け取る。
そのとき、レジ横に貼られたシフト表が目に入った。
《高瀬》
受付の男が厨房へ入る前、他のスタッフからそう呼ばれていたのを思い出した。
「高瀬さん」
「はい」
「料理人なんですか?」
「一応」
「一応」
「今はカラオケ屋なんで」
この店の人間は、どうも自分を料理人と呼びたがらないらしい。
「先生ですよね」
今度は俺が止まった。
「……何で?」
「摂大の」
「何で分かったんですか」
「見たことあるんで」
「どこで?」
「大学のホームページか何かで」
「そうですか」
まずい。
ということは。
俺は恐る恐る聞いた。
「……歌、聞こえてました?」
「聞こえますよ」
「ですよね」
防音とは何だったのか。
高瀬さんは淡々としている。
「結構、歌うんですね」
「忘れてください」
「はい」
「本当に」
「はい」
「学生には」
「言いませんよ」
「絶対ですよ」
「誰に言うんですか」
確かに。
俺は鞄を持ち直した。
「ごちそうさまでした」
「またどうぞ」
「……夜中でも鯛茶漬けあるんですか」
「鯛があれば」
「ない日は?」
「その日の魚で何かします」
「毎日?」
「市場で何かあれば」
「何でカラオケ屋でそんなことしてるんですか」
高瀬さんは少し考えた。
「夜中、腹減るでしょ」
それだけだった。
「……そうですね」
妙に納得した。
階段を下りた。
*
家に着いたのは二時半だった。
シャワーを浴びる。
ベッドに入る。
目を閉じる。
十七枚目が出てきた。
「…………」
目を開ける。
さっきまでなら、起きてノートパソコンを開いていたと思う。
でも今日は開かなかった。
代わりに、鯛茶漬けを思い出した。
その次に『爪爪爪』。
「何だ、この組み合わせ」
笑った。
寝た。
*
翌朝。
九時十三分。
研究室。
コーヒーを置いて、ノートパソコンを開く。
昨日の発表資料。
一枚目から見る。
五枚目。
七枚目。
十二枚目。
十五枚目。
十七枚目。
「…………」
昨日まで、ここで止まっていた。
何度見ても気に入らなかった。
今日は違った。
理由が分かった。
「順番じゃないな」
十七枚目を消す。
三秒。
戻さない。
グラフだけを十八枚目に移す。
説明文をほとんど削る。
タイトルを変える。
「これでいい」
たったそれだけだった。
昨夜二時間悩んだものが、十分で終わった。
鯛茶漬けのおかげとは思わない。
『爪爪爪』のおかげとも思わない。
寝たからだ。
たぶん。
そこへ研究室の扉が開いた。
四年の学生が二人入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
「先生、昨日何時までいたんですか?」
「一時くらい」
「えぐ」
「君らは真似しなくていいから」
「先生が言っても説得力ないですよ」
「俺はいいの」
「何でですか」
「教員だから」
「ブラック発言や」
「違う。好きで残ってるだけ」
学生が笑う。
一人が鞄を置きながら言った。
「そういや昨日、友達とパレット行ってたんですけど」
俺の手が止まった。
「……そう」
「夜中まで」
「寝坊しなくて偉いね」
「でしょ?」
「褒めてないけど」
「隣の部屋、めっちゃヤバかったんですよ」
「何が」
「一人でホルモン歌ってる人おって」
「…………」
「声えぐかったっす」
「そう」
「しかも同じ曲何回も歌ってて」
「そう」
「『爪爪爪』」
「…………そう」
学生が笑う。
「先生、ホルモン知ってます?」
俺はノートパソコンを見た。
十七枚目は、もうない。
「名前くらいは」
「先生絶対聴かんやろ」
「そうだね」
「ですよね」
俺はコーヒーを飲んだ。
喉が少し痛かった。
「それより」
画面を指す。
「昨日のデータ見せて」
学生の顔が固まった。
「え」
「測ったんでしょ」
「……はい」
「じゃあ見せて」
「先生、今日ちょっと機嫌よくないですか?」
「気のせい」
「何かありました?」
「別に」
鯛茶漬けを食べた。
カラオケで叫んだ。
六十八点だった。
二回目は六十五点だった。
そんなことを学生に説明する必要はない。
「早くデータ」
「はい」
学生がノートパソコンを開く。
俺は椅子を寄せた。
いつもの朝が始まった。
三日後には発表がある。
終われば論文を仕上げる。
その次は学生の中間発表。
実験も続く。
十七枚目を消したくらいで、仕事が減るわけではない。
それでも、まあ。
また詰まったら。
大学を出て五分。
階段を上がればいい。
鯛があるかどうかは、その日の市場次第らしい。
歌うかどうかは、そのときの俺次第だ。




