ショートケーキと『白い色は恋人の色』
ショートケーキと『白い色は恋人の色』
朝は、だいたい六時半に目が覚める。
目覚まし時計は使っていない。
昔は使っていたが、仕事を辞めてから鳴らす必要がなくなった。必要がなくなってからの方が、決まった時間に目が覚めるようになったのだから、人間の身体というのはよく分からない。
布団の中で一度伸びをする。
腰が少し痛い。
「よっこいしょ」
誰に聞かせるでもなく言って起きた。
カーテンを開ける。
晴れ。
ベランダに干したままの洗濯ばさみが風で揺れていた。
顔を洗って、台所へ行く。
食パンを一枚、トースターに入れる。
冷蔵庫を開けて、マーガリンを出す。
卵が三つ。
牛乳が半分。
昨日買った豆腐。
納豆。
奥に、使いかけのキャベツ。
「今日使わなあかんな」
扉を閉めた。
トースターが鳴る。
少し焦げた。
まあいい。
皿にのせてマーガリンを塗る。
インスタントコーヒーを淹れて、テレビをつけた。
朝のニュースをやっている。
どこそこで事故があった。
外国で何かがあった。
今日は気温が上がるらしい。
降水確率は二十パーセント。
「傘はいらんな」
トーストをかじる。
テレビの中では若い男が天気図の前で喋っている。
最近の天気予報はよく当たる。
昔は外れると文句を言ったものだが、今は当たったところで誰も褒めない。
損な仕事だと思う。
トーストを食べ終え、コーヒーを飲む。
カップを流しへ持っていく。
水につけておこうかと思ったが、どうせ一個だ。
洗う。
皿も洗う。
伏せておく。
時計を見る。
七時十五分。
まだ早い。
テレビを消した。
静かになった。
別に困らない。
着替える。
薄手の上着を羽織って、財布と鍵をポケットに入れる。
玄関で靴を履く。
「行ってきます」
癖で言った。
返事はない。
鍵を閉めた。
*
朝の道は好きだ。
夜よりいい。
夜はみんな帰るところがあるように見える。
朝はみんな、どこかへ出ていく。
駅へ向かう会社員。
自転車の高校生。
犬を連れた婆さん。
コンビニの前で缶コーヒーを飲んでいる作業着の兄ちゃん。
それぞれ勝手に動いている。
俺もその中に混ざる。
毎朝、だいたい同じ道を歩く。
医者から歩けと言われたわけではない。
健康のためでもない。
歩くと腹が減るから歩いている。
公園まで行く。
小さな公園だ。
滑り台とブランコと、何のためにあるのか分からない鉄の棒がある。
ベンチには誰もいなかった。
座る。
鳩が三羽寄ってきた。
「何もないぞ」
寄ってくる。
「ない言うてるやろ」
まだ来る。
「お前ら、毎朝俺から何も貰えてへんやろ。学習せえ」
一羽が首を振りながら足元まで来た。
「図々しいな」
俺も人のことは言えない。
しばらく座ってから立ち上がる。
公園を出て、商店街の方へ歩く。
パン屋が開店準備をしている。
八百屋が箱を並べている。
昨日百五十八円だった大根が百七十八円になっていた。
「上げよったな」
別に今日買う予定はない。
そのまま歩く。
角を二つ曲がる。
大学へ向かう学生が増えてくる。
朝から元気な奴もいれば、今にも死にそうな顔をした奴もいる。
若いころは朝が弱かった。
今は夜が弱い。
うまいことできている。
やがて、古い看板が見えた。
《KARAOKE HOUSE PALETTE》
「今日も開いとるな」
開いていなければ困る。
細い階段を上る。
昔より一段一段が高くなった気がする。
階段が変わったわけではない。
俺の方だ。
扉を開ける。
「おう」
受付の中から声がした。
「おう」
高瀬正治がいた。
七十。
俺より八つ下。
八つも下のくせに、最近は俺と同じような顔をしている。
「生きとったか」
「お前もな」
「何時間?」
「二時間」
「朝からよう歌うな」
「カラオケ屋来て歌わんで何すんねん」
「飯だけ食って帰る奴もおる」
「それはお前んとこが飯屋みたいなことしとるからや」
「褒めても何も出えへんぞ」
「褒めてへん」
正治が端末を触る。
「いつもの部屋でええか」
「空いとる?」
「朝八時から誰が取り合うねん」
「俺がおるやろ」
「お前しかおらん」
カードを受け取る。
「コーヒーいるか?」
「あとで頼む」
「はいはい」
正治は俺が何を頼むか知っている。
俺も正治が何時ごろ新聞を読むか知っている。
そういう付き合いだ。
友達かと言われると、少し違う。
店主と客かと言われると、それだけでもない。
年寄りになると、名前のつかない知り合いが増える。
悪くない。
*
二〇一号室。
俺はこの部屋が好きだ。
別に音がいいわけではない。
広くもない。
窓もない。
ただ、受付から近い。
それがいい。
ソファに座る。
リモコンを取る。
最近の機械は何でもできる。
本人映像だの、採点だの、知らん人と画面越しに一緒に歌えるだの。
いらん。
歌えたらええ。
曲名を入れる。
すぐに出てきた。
『白い色は恋人の色』
予約。
マイクを取る。
前奏が流れる。
何十回、何百回聞いたか分からない。
それでも最初の音を聞くと、背筋が少し伸びる。
歌う。
若いころより声は出ない。
高いところはしんどい。
途中で息も続かなくなる。
それでも歌う。
一番だけでやめることもある。
今日は最後まで歌った。
画面に点数が出た。
八十二点。
「余計なお世話や」
機械に言った。
前は八十五点だった。
気にしてはいない。
ほんまに。
マイクを置く。
端末を取る。
注文画面を開いた。
ホットコーヒー。
それから。
ショートケーキ。
一つ。
注文する。
次の曲を探していると、扉が開いた。
「失礼します」
若い女が入ってきた。
見たことがない。
大学生くらいだろう。
「ホットコーヒーと、ショートケーキです」
「ありがとう」
テーブルに置く手つきが少し危なっかしい。
「新人か?」
「分かります?」
「分かる」
「やっぱり」
名札を見る。
《小川》
「大学生?」
「一年です」
「そうか」
「はい」
それだけで帰るかと思ったが、小川という子はケーキを見た。
「朝からケーキっていいですね」
「悪いんか」
「いいって言ったじゃないですか」
「最近の若い子は何でも褒めるから分からん」
「面倒くさいですね」
「新人のくせに言うな」
小川は笑った。
「ごゆっくりどうぞ」
扉が閉まる。
「面倒くさい、か」
コーヒーを一口飲む。
正しい。
フォークを取った。
白い生クリーム。
真ん中に赤い苺。
何の変哲もないショートケーキだ。
食べる。
「……ん?」
もう一口。
首をかしげる。
端末を見た。
内線のボタンを押す。
『はい、フロントです』
「正治」
『何や』
「今日のケーキ、ちょっと甘ないか」
間があった。
『知らん』
「知らんて、お前んとこのケーキやろ」
『俺が作っとると思うか』
「思ってへん」
『ほな知らん』
「作った奴に聞いとけ」
『自分で聞け』
「客に仕事さすな」
『八時からケーキ食う爺さんに言われとうない』
切られた。
「何やあいつ」
ケーキをもう一口食べる。
やっぱり少し違う気がする。
甘い。
ほんの少し。
気のせいと言われれば、そうかもしれない。
全部食べた。
*
一時間ほど歌った。
演歌を二曲。
昔の歌謡曲を三曲。
知らない新しい歌を一曲入れて、途中で諦めた。
「最近の歌は忙しいな」
歌詞が多すぎる。
歌手は息をしているのだろうか。
トイレへ行こうと部屋を出た。
廊下に甘い匂いがした。
厨房の方からだ。
朝から何をしているのかと思って覗くと、女がいた。
さっきの小川ではない。
三十代くらい。
髪をまとめ、白い上着を着ている。
ボウルの中で何かを混ぜていた。
「お客さん?」
向こうから言われた。
「ああ」
「どうしました?」
「トイレ」
「反対です」
「知っとる」
「じゃあ何でこっち来たんですか」
「匂いしたから」
女が笑った。
「犬みたいですね」
「爺さん捕まえて犬言うな」
「すみません」
あまりすまなさそうではない。
厨房の奥には、焼いたスポンジが並んでいた。
「ケーキ作っとるんか」
「はい」
「お前さんが?」
「そうです」
「菜穂か」
「何で名前知ってるんです?」
「メニューに書いとる」
「ああ」
この店は最近、料理を作る人間の名前までメニューに載せるようになった。
昔はそんなものなかった。
「今日のショートケーキ、お前さん?」
「そうですけど」
「ちょっと甘い」
菜穂の手が止まった。
「クリームですか?」
「ああ」
「いつもと同じですよ」
「そうか?」
「同じ配合です」
「ほな俺の舌か」
菜穂は少し考えた。
「苺かもしれません」
「苺?」
「今日の苺、いつものより酸味が弱いんです。だからクリームが甘く感じるのかも」
「ほう」
「よく分かりましたね」
「毎回食っとるからな」
「毎回?」
「来たらな」
「朝から?」
「朝から」
菜穂が少し笑った。
「好きなんですね、ショートケーキ」
「まあな」
「一番好きですか?」
「いや」
「違うんですか」
「モンブラン」
菜穂が止まった。
「……じゃあ、なんで毎回ショートケーキなんですか?」
「何でやろな」
「私に聞かれても」
「俺にも分からん」
嘘だ。
分かっている。
「モンブランもありますよ」
「知っとる」
「次、食べてください」
「気が向いたらな」
そう言って厨房を離れた。
「トイレ、反対ですよ」
「分かっとるわ」
後ろから笑い声が聞こえた。
*
和子は、生クリームが嫌いだった。
嫌いというより、苦手だった。
甘すぎると言っていた。
初めて知ったのは、俺が二十一のときだった。
喫茶店だった。
今はもうない。
駅前の二階にあった、小さな店だ。
俺はショートケーキを頼んだ。
和子はコーヒーだけだった。
「食べへんの?」
「いらん」
「遠慮せんでええぞ」
「してへん」
「金ないんやったら出すで」
「生クリーム嫌いやねん」
「先言えや」
「聞かれてへんもん」
そういう女だった。
何でも先に説明してくれる女ではなかった。
聞けば答える。
聞かなければ言わない。
俺は逆だった。
聞かれていなくても喋った。
だから、ちょうどよかったのかもしれない。
店ではラジオが流れていた。
和子がふと耳を傾けた。
「あ、この歌好き」
「どれ?」
「今の」
「知らん」
「嘘やん。流行ってるやん」
「歌なんか知らん」
「ほんま何も知らんな」
「お前も野球知らんやろ」
「知らんでええもん」
「歌も知らんでええ」
「よくない」
後になって覚えた。
『白い色は恋人の色』。
俺が好きだった歌ではない。
和子が好きだった。
結婚してからも、ときどき口ずさんでいた。
洗濯物を干しながら。
台所で。
車の助手席で。
ちゃんと歌詞を覚えているのかと思ったら、途中から鼻歌になる。
そんな歌だった。
そして毎年、俺の誕生日になるとショートケーキを買ってきた。
「またこれか」
「あかんの?」
「お前食わへんやろ」
「あんたが好きやからやろ」
「モンブランでもええぞ」
「去年ショートケーキ喜んどったやん」
「喜んだかな」
「喜んどった」
「覚えてへん」
「ほな今年もこれでええやん」
結局、毎年ショートケーキだった。
いつからか俺も、誕生日はショートケーキだと思うようになった。
和子が食べないので、一個だけ。
俺が食べる。
和子はコーヒーを飲む。
それだけ。
特別なことは何もなかった。
*
「西村の爺さん」
部屋へ戻ろうとしたところで、正治に呼ばれた。
「何や」
「もう時間ちゃうんか」
時計を見る。
「まだ二十分ある」
「長居すんな」
「金払っとるわ」
「ケーキに文句までつけて」
「文句ちゃう。感想や」
「菜穂、気にしとったぞ」
「気にせんでええ。うまかった」
「先にそれ言え」
「本人に言うた」
「言うてへん言うてたぞ」
「……言うたような気がする」
「ボケたか」
「お前よりマシや」
受付の前に椅子がある。
座った。
もう歌わなくてもいい気がした。
正治が新聞を畳んだ。
「コーヒーもう一杯いるか」
「金取る?」
「当たり前や」
「ほないらん」
「ケチ」
「年金暮らしやぞ」
「俺も似たようなもんや」
「店あるやろ」
「店あっても金は勝手に湧いてこん」
「そういうもんか」
「そういうもんや」
少し黙った。
受付の向こうから、菜穂が何かを運んでいく。
朝の店は静かだ。
夜とは違う。
大学生もほとんどいない。
たまに俺みたいなのが来る。
正治が言った。
「今日は何歌った」
「いつもの」
「またか」
「悪いか」
「悪ないけど」
「お前も歌え」
「店番誰がすんねん」
「客おらんやろ」
「おるやろ。目の前に」
「もう帰る客や」
「はよ帰れ」
「冷たいな」
立ち上がろうとして、ふと思った。
「なあ正治」
「何や」
「お前んとこの、何好きやった?」
「何が?」
「嫁さん」
正治が俺を見た。
それから新聞をテーブルに置いた。
「食いもん?」
「ああ」
「何やろな」
「知らんのか」
「何でも食うとったからな」
少し考える。
「……ピラフかな」
「ここの?」
「うん」
「自分で作ったやつやろ」
「せや」
「自分の料理かい」
「そら自分が一番うまい思てたからな」
「大した嫁さんや」
「ほんまにな」
正治が笑った。
俺も笑った。
「和子さんは?」
「生クリーム嫌いやった」
「ほな何でお前、毎回ショートケーキ食うねん」
「知らん」
「知っとる顔やんけ」
「うるさい」
正治はそれ以上聞かなかった。
俺もそれ以上言わなかった。
それでいい。
*
和子が死んで、六年になる。
長いのか短いのか分からない。
最初の一年は、長かった。
朝が長い。
昼も長い。
夜はもっと長い。
一日というのは、こんなに時間があったのかと思った。
二年目から少し短くなった。
三年目には、普通になった。
普通というのは、忘れたという意味ではない。
朝起きる。
飯を食う。
洗濯をする。
買い物に行く。
テレビを見る。
風呂に入る。
寝る。
一人でやることに慣れた。
それだけだ。
人間は大抵のことには慣れる。
ありがたいような、腹立たしいような話だ。
和子がいなくなってから、誕生日にケーキを買わなくなった。
一人で家で食う気にならなかった。
別に悲しいからではない。
一個だけケーキを買って、箱をぶら下げて家へ帰るのが、何となく嫌だった。
ある朝、散歩の途中でパレットに入った。
正治がいた。
昔から店があることは知っていたが、朝から開いているとは知らなかった。
「カラオケ?」
「そう書いてあるやろ」
「朝から?」
「開いとるから入ってきたんやろ」
今と同じようなことを言われた。
一曲歌った。
『白い色は恋人の色』。
なぜその曲を選んだのかは覚えていない。
たぶん、朝だったからだ。
たぶん、和子を思い出したからだ。
たぶん、何となくだ。
歌い終わって、メニューを見た。
ショートケーキがあった。
一つ頼んだ。
それからだ。
毎日ではない。
週に一度のときもある。
二週間来ないこともある。
雨の日は来ない。
暑すぎても来ない。
膝が痛い日は公園で引き返す。
それでも、パレットまで来た日はだいたい歌う。
だいたい食べる。
和子のためではない。
供養でもない。
そんな大層なものではない。
俺が歌いたいから歌う。
俺が食べたいから食べる。
ただ、歌う曲と食べるものを選ぶと、だいたい和子がいる。
それだけだ。
*
「ありがとうございましたー」
小川の声を背中で聞きながら階段を下りた。
外へ出る。
朝より人が増えていた。
学生が歩いている。
自転車が走る。
車が通る。
世界は忙しい。
俺には関係ない。
スーパーへ寄った。
キャベツは家にある。
豆腐もある。
今夜は何にするか。
魚売り場を見る。
鯖が安かった。
一切れ買う。
総菜売り場を通る。
コロッケが目に入った。
一個だけ買った。
レジへ向かう途中、洋菓子の棚があった。
小さなショートケーキが二個入ったパック。
足が止まる。
「二個はいらんな」
通り過ぎた。
家へ帰る。
鍵を開ける。
「ただいま」
癖で言った。
返事はない。
靴を脱ぐ。
買ったものを冷蔵庫へ入れる。
朝洗ったカップと皿が乾いていた。
棚に戻す。
昼にはまだ少し早い。
テレビでも見るか。
いや、その前に洗濯をしよう。
天気予報では晴れだった。
ベランダへ出る。
空は青い。
風が少しある。
洗濯物はよく乾きそうだ。
シャツを一枚、ハンガーにかける。
次を取る。
気づけば、鼻歌が出ていた。
途中まで歌って、やめた。
「……そこから分からんねん」
和子なら続きが分かった。
俺は知らない。
六年経っても、まだ覚えていない。
別に覚えなくてもいい。
次にパレットへ行けば、画面に出る。
また歌えばいい。
ショートケーキも食えばいい。
今日の苺は、少し甘かった。
次はどうだろう。
そんなことを考えながら、最後のシャツを干した。
何でもない朝だった。
たぶん明日も、そんな朝だ。




