中華丼と『Time goes by』
中華丼と『Time goes by』
私のお母さんは、今日だけで十二回「懐かしい」と言った。
十一回目くらいから、数えるのをやめた。
「ひなた、見て。ここ、まだある」
「何が?」
「この道。お母さんら、ようここ通って駅まで行ってん」
「道はあるやろ」
「そういう意味ちゃうやん」
分かっている。
分かっているけど、私は今日初めて来たのだ。
初めて来た大学。初めて歩く道。初めて見る街。
なのに隣を歩く母は、さっきから二十年以上前の話ばかりしている。
「あ、この喫茶店もある!」
「十三回目」
「何が?」
「何でもない」
摂陽大学のオープンキャンパスが終わったのは、午後三時を少し回ったころだった。
高校三年生になってからというもの、進路、進路、進路。
学校でも家でも、何かというとその話になる。
私はまだ、ここにすると決めたわけではない。
摂陽大学は候補の一つ。
家から通える。学びたい学科もある。今日見たキャンパスの感じも悪くなかった。
ただ一つ、気に入らないところがある。
お母さんの母校なのだ。
「昔、この辺に本屋あってんけどなあ」
「はいはい」
「ほんまやって。教科書そこで買って――」
「お母さん」
「何?」
「私、今日大学見に来たんやで」
「見たやん」
「お母さんの思い出巡りに来たんちゃうねん」
「ついでやん」
母は笑った。
こういうところがずるい。
別に仲が悪いわけではない。
服を買いに行くこともあるし、一緒にテレビも見る。お父さんがいない日は二人で外に食べに行くこともある。
ただ、進路の話になると面倒くさい。
摂大ええで。
摂大やったら家から通えるで。
摂大のこの学部、ひなたに合うんちゃう?
本人は押しつけているつもりがないらしい。
押している側は、だいたいそう言う。
「この辺も変わったなあ」
「二十年以上経ってんねんから当たり前やろ」
「お母さんが大学生のころ、まだスマホもなかってんで」
「知ってる」
「待ち合わせとか大変やってんから」
「知ってるって」
「携帯はあったけどな」
「どっちでもええわ」
駅へ向かって歩いていると、突然、母が止まった。
危うくぶつかりそうになる。
「ちょっと」
「……嘘やろ」
母は私を見ていなかった。
道の向こうを見ている。
「何?」
「まだある」
視線の先に、古い建物があった。
二階へ上がる細い階段。その上に、少し色の褪せた看板が出ている。
《KARAOKE HOUSE PALETTE》
「カラオケ?」
「パレットや」
「書いてあるやん」
「ちゃうねん。まだあんねん」
母が妙に嬉しそうだった。
「ここ、よう来てたわ」
「へえ」
「授業終わってからとか、空きコマとか」
「へえ」
「ピラフ美味しかってん」
そこで初めて、少し興味が出た。
「カラオケの話ちゃうん?」
「カラオケ屋やで」
「なんで最初にピラフ出てくんの」
「美味しかってんもん」
母は看板を見上げたまま笑っている。
その顔を見て、私は言った。
「……入る?」
「え?」
「そんな見たいんやったら」
「ええの?」
「休憩したいし」
「行こ行こ」
急に歩くのが速くなった。
「子供か」
「何か言うた?」
「何も」
細い階段を上る。
途中の壁には、知らないバンドの古いポスターや、いつ撮ったのか分からない学生らしい人たちの写真が貼ってあった。
その中に、今の店には似つかわしくない写真が一枚あった。
白いコック帽をかぶった若い男の人と、鍋を持った女の人。二人の前には、カラオケの料理とは思えないほど大きな皿が並んでいる。
写真の端に、手書きで《パレット厨房、開店の日》と書かれていた。
「これ、昔からあったん?」
私が聞くと、母は足を止めた。
「……知らん」
今日初めて、母が自分の思い出の場所で、知らないものを見つけた。
扉を開ける。
「いらっしゃいませー」
受付にいた女の人が顔を上げた。
いや、女の人というより、たぶん私とそんなに変わらない。
大学生くらい。
名札には《小川》とある。
「二名様ですか?」
「はい」
「ご利用時間は――」
言いながら、彼女は手元の紙を見た。
それから横を見た。
「えっと、二人やったら……」
「二時間ならこのパック」
隣にいた男の人が小声で教えた。
「あ、そうでした。二時間でしたら、こちらのパックがお得です」
新人なんや。
分かりやすかった。
男の人は大学生っぽく、名札には《森本》とある。
受付の奥では、母と同じくらいか少し上の女の人が電話に出ていた。
「はい、パレットです」
その横で小川さんが私たちの受付を続ける。
「学生証は――」
電話の声が聞こえた。
「土曜日の七時から、四名様ですね。少々お待ちください」
電話の人が予約表らしいものを開く。
「あー……申し訳ありません。土曜の夜はもう満室でして」
私は何となくそちらを見た。
今日は水曜日だ。
「はい。六時台も……すみません、埋まってますね。五時半でしたら一室ございます」
古いカラオケ屋なのに。
失礼ながら、そんな人気店には見えなかった。
電話が終わる。
小川さんも同じことを思ったらしい。
「田辺さん、もう土曜埋まってるんですか?」
「夜はな」
「まだ水曜ですよ?」
森本さんが横から言った。
「週末のパレット舐めたらあかんで」
「そんなすごいんですか?」
「小川、今週土曜入るんやろ?」
「はい」
「……頑張れ」
「何ですか、その間」
田辺さんと呼ばれた人が笑った。
何かあるらしい。
受付の横には、古い電話機の隣に新しいタブレットが置かれていた。予約表も紙と画面の両方がある。
昔の店を残しながら、少しずつ別の店になっている。
そんな感じがした。
「二〇五、空いてるで」
「あ、はい。では二〇五号室です」
小川さんから伝票を受け取った。
「ご注文は部屋の端末からできます。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
母が歩き出す。
数歩進んでから、振り返った。
「昔、こんな受付やったっけ」
「知らんがな」
私は今日初めて来た。
*
「うわあ」
部屋に入った瞬間、母が言った。
「何?」
「こんなんやったわ」
ソファを触る。
壁を見る。
テーブルを見る。
「ほんまに?」
「うん」
少し考えて、
「いや、もうちょい綺麗やった」
「それ古なっただけやん」
「そら二十年以上経ってるもん」
「自分で答え出してるやん」
私はソファに座った。
古い。
でも汚くはない。
ちゃんと掃除されている。
機械だけは新しそうだった。
「この辺に電話置いてあってん」
「電話?」
「昔は電話で注文してん」
「うそ」
「ほんまやって」
「原始時代やん」
「お母さんを何歳やと思ってんねん」
母がリモコンを取った。
「何歌お」
「もう歌うん?」
「カラオケ来たんやから歌うやろ」
「ピラフ食べに来たんちゃうん」
「それもや」
私はテーブルに置かれたメニューを開いた。
そして、ちょっと驚いた。
「……多ない?」
「何が?」
「メニュー」
ページをめくる。
唐揚げ。フライドポテト。
ここまでは分かる。
オムライス。ナポリタン。ビーフシチュー。
炒飯。麻婆豆腐。焼きそば。
きつねうどん。だし巻き。親子丼。
プリン。チーズケーキ。ガトーショコラ。
「ファミレスやん」
「そんなあった?」
母が横から覗き込む。
指差したのは、見慣れない料理だった。
「中華丼?」
「中華丼やな」
「昔そんなんなかったで」
「いや、今はある」
母はページをめくった。
「麻婆豆腐?」
「あるな」
「だし巻き?」
「あるな」
「ケーキまであるやん」
「あるな」
「何があったん、この店」
知らない。
私に聞かれても困る。
メニューの隅には、小さく《厨房担当:美玲/菓子担当:菜穂》と印刷されていた。
「料理人の名前まで載ってる」
「ほんまや」
母がその文字を指でなぞった。
「昔は、こんなんなかったで」
「昔は料理人もおらんかったん?」
「おったんかもしれへんけど、表に名前なんか出てなかった」
母は少し考えた。
「前は、店長さんが何でも作ってた気がする」
その言い方が、妙に曖昧だった。
「あ」
母の指が止まった。
そこには写真もなく、他より少し地味に書かれた料理があった。
《昔ながらのパレットピラフ》
「これ」
「それ?」
「これや」
「普通のピラフやん」
「美味しかってんって」
「じゃあ頼んだら」
「頼む」
即答だった。
「ひなたは?」
「んー」
せっかくだから。
「中華丼」
「なんで」
「お母さんが知らん料理を食べてみたいから」
「別に止めへんけど」
「じゃあ決まり」
注文を送信した。
母はすぐにリモコンを触り始めた。
「これどうやんの」
「貸して」
「昔と違う」
「そらそうやろ」
検索画面を出して渡す。
母は慣れない手つきで文字を入れた。
しばらくして前奏が流れた。
画面に曲名が出る。
『Time goes by』
「うわ、それ歌うん」
「何よ」
「お母さん絶対それ歌うやん」
「好きやねんからええやろ」
「車でも歌ってるやん」
「ええ曲は何回歌ってもええねん」
母がマイクを持った。
私はウーロン茶を飲みながら聞いていた。
家でも車でも聞いたことのある歌。
ただ、ふと変なことを思った。
「なあ」
「何?」
「これ、昔もここで歌ってたん?」
前奏の途中で母がこちらを見る。
「歌ってたよ」
「大学のとき?」
「うん。友達と」
「へえ」
曲が始まった。
母が歌い出す。
私は画面ではなく、母を見た。
お母さんが大学生だった。
当たり前の話だ。
生まれたときから母親だったわけではない。
そんなことは知っている。
でも、知っているのと想像できるのは少し違う。
私と同じくらいの歳のお母さんが、この店で友達と笑って、ピラフを食べて、この曲を歌っていた。
そう考えると、目の前のお母さんが少しだけ知らない人に見えた。
知らない人というのも変だけど。
私の知らないお母さん。
曲が終わる。
「どう?」
「何が?」
「久しぶりのパレットで歌う『Time goes by』」
「歌い方、昔から一緒なんかなと思って」
「感想それ?」
そのときだった。
廊下の向こうから、
ゴオッ!
と音がした。
「何?」
思わず扉を見る。
母も見る。
「何やろ」
もう一度、音が響いた。
ゴオッ!
「火?」
「火やな」
「カラオケ屋で?」
「……知らん」
今日初めて、母がそう言った。
ちょっと面白かった。
*
十分もしないうちに扉が開いた。
「失礼します。お待たせしました」
さっきの小川さんだった。
「パレットピラフと、中華丼です」
テーブルに皿が置かれる。
まず母のピラフ。
見た目は普通だった。
少し黄色いご飯に、玉ねぎやハムやマッシュルーム。
お母さんがあれだけ勧めるほど特別には見えない。
問題は私の方だった。
「……これ?」
「中華丼です」
分かっている。
でも、思っていたのと違った。
白菜。豚肉。海老。イカ。きくらげ。うずら卵。
熱々の餡がつやつやしている。
湯気が上がっていた。
「熱いので気をつけてください」
「はい」
「ごゆっくりどうぞ」
小川さんが出ていく。
私はレンゲを持った。
「美味しそうやん」
「うん」
「ちょっとちょうだい」
「まだ私食べてないやん」
「一口だけ」
「待ってって」
餡とご飯を一緒にすくう。
ふう、と息を吹きかけて口に入れた。
「……何これ」
「どうしたん」
もう一口。
「めっちゃ美味しい」
「ほんま?」
「うん」
何がどう美味しいのかは説明できない。
でも、ちゃんと美味しい。
白菜はしゃきっとしているし、海老もちゃんとしている。
餡だけでご飯が食べられる。
「ちょうだい」
「はい」
母にレンゲを渡す。
一口。
母が止まった。
「……いや」
「何?」
「こんなん昔なかったって」
「昔なかったら美味しかったらあかんの?」
「そういう意味ちゃうねん」
母はもう一口取ろうとした。
「二口目やん」
「ええやん」
「自分のピラフ食べ」
「はいはい」
母がピラフを口に運んだ。
そして、今度は本当に動かなくなった。
「何?」
返事がない。
「お母さん?」
「……これや」
「何が?」
「これ」
もう一口食べる。
「変わってへん」
母が笑った。
大げさな笑い方じゃなかった。
声も出さずに、ただ少し笑った。
「そんな覚えてるもん?」
「覚えてるよ」
「二十年以上前やろ」
「味って覚えてんねん」
「ふうん」
私はまた中華丼を食べた。
母は昔と同じものを食べている。
私は、母の昔にはなかったものを食べている。
同じテーブルで。
何となく、不思議だった。
「なあ、ひなた」
「ん?」
「今日、大学どうやった?」
来た。
進路の話。
「普通」
「普通って」
「悪くなかった」
「やろ?」
その「やろ?」が嫌だった。
「でも、お母さんが行ってたからって、私もここじゃなくてええやろ」
母の箸が止まった。
「分かってるよ」
「ずっと摂大ええでって言うやん」
「それは――」
「今日もずっと昔の話してるし」
言ってから、少し言いすぎたと思った。
でも謝るほどでもない。
母はピラフを一口食べた。
「別に、同じとこ行ってほしいわけちゃうよ」
「ほんまに?」
「ほんまに」
少し間があった。
「ただ、私は楽しかったから」
それだけだった。
何が楽しかったのか。
授業なのか、友達なのか、サークルなのか。
この店なのか。
聞かなかった。
代わりに中華丼を食べた。
さっきより少し冷めていたけど、やっぱり美味しかった。
*
「失礼しまーす。お皿、お下げしていいですか?」
しばらくして小川さんがやってきた。
「あ、はい」
私は空になった丼を渡した。
「中華丼、めっちゃ美味しかったです」
「ですよね」
小川さんが急に嬉しそうになった。
「私もここのご飯が美味しくてバイト始めたんです」
母が笑った。
「そんな理由で?」
「履歴書には違うこと書きました」
正直な人だ。
私はちょっと、この人が好きになった。
「デザートどうします?」
「いや、もうお腹いっぱい」
母が即答した。
私はメニューを開いた。
「ケーキあるやん」
「まだ食べんの?」
「別腹」
「中華丼全部食べたやん」
「半分こしよ」
母もメニューを見る。
「チーズケーキ、ガトーショコラ……」
そして何気なく言った。
「まあ、どうせ冷凍やろ」
小川さんが止まった。
「……たぶん、それ言わない方がいいです」
「え?」
「ここで作ってます」
母と私は同時に顔を上げた。
「これも?」
「はい」
「誰が?」
「えっと……」
小川さんが困った。
「美玲さんじゃない人です」
「誰?」
「すみません。私もまだ入ったばっかりで」
そこへ廊下を通りかかった森本さんが顔を出した。
「今日、菜穂さんのチーズケーキあるで」
「ほんとですか?」
「まだあるはず」
私は即決した。
「それください」
「食べるん?」
「半分こ」
「もう頼んでるやん」
母は呆れていた。
でも断らなかった。
*
出てきたチーズケーキは、また普通だった。
普通というか。
ちゃんとケーキ屋さんに置いてありそうだった。
変な飾りもない。
一切れのベイクドチーズケーキ。
フォークが二本。
「ほんまにここで作ってんの?」
「らしいで」
私が先に食べた。
「……美味しい」
「ほんま?」
「食べてみ」
母も一口。
「…………」
「何?」
「何なん、この店」
今日のお母さんは、そればっかりだった。
二人で半分ずつ食べた。
最後の一口だけ、少し大きかったのでじゃんけんした。
私が勝った。
*
会計をしていると、厨房の方から女の人が出てきた。
四十歳くらいだと思う。
手に布巾を持っている。
小川さんが「あ、美玲さん」と呼んだ。
私は何となく聞いた。
「中華丼作った人ですか?」
「そうやけど」
「めっちゃ美味しかったです」
「そらよかった」
あっさりしていた。
母が横から入ってきた。
「私、学生のころここよう来てたんですけど、中華料理なんてなかったですよね?」
「なかったですよ」
「ですよね!」
母は満足そうにうなずいた。
「私が作るようになったんで」
「……店員さん?」
「嫁です」
「お嫁さん?」
「はい」
母の顔が、また分からなくなったという顔になった。
「料理されてたんですか?」
「昔は」
美玲さんはそう言って、厨房の奥をちらりと見た。
そこには、使い込まれた中華鍋と、古い洋食用の大鍋が並んでいた。
「今は、ここでしか作ってませんけど」
その言い方が少し気になった。
料理人をやめたのか、ここに来る前に何かあったのか。
でも、母が先に聞いた。
「前はどこで?」
「まあ、色々です」
美玲さんは笑った。
その笑い方は、母の「懐かしい」と同じくらい、何かを隠しているように見えた。
すると受付の奥から声がした。
「今も料理人やろ」
見ると、年配の男の人が座っていた。
店の人らしい。
美玲さんが振り返る。
「今はカラオケ屋です」
「お前がそれ言うんか」
どういう家族なのか、よく分からない。
母も同じらしい。
「あの、ケーキも美味しかったです」
「それ私ちゃいますよ」
「え?」
「弟の嫁」
「弟さんの……お嫁さん?」
「はい」
「その人も料理人なんですか?」
「菓子職人」
母が黙った。
古い受付を見る。
廊下を見る。
厨房の方を見る。
壁の色褪せた写真を見る。
さっきの写真の、若い料理人たちを思い出す。
そして言った。
「……ほんまに何があったん、この店」
年配の男の人が笑った。
「色々あったんや」
その声には、冗談だけではない響きがあった。
けれど、それ以上は誰も説明してくれなかった。
*
店を出ると、もう夕方だった。
駅へ向かって歩く。
「いやあ、懐かしかったわ」
「また言うてる」
「何が?」
「懐かしい」
「ええやん」
「今日何回言ったと思う?」
「そんな言うてへんやろ」
「めっちゃ言ってる」
「昔はな――」
「ほら」
「何よ」
二人で笑った。
少し歩いた。
背後で、パレットの看板が夕日に照らされていた。
古い文字の下に、新しい小さなプレートがある。
《料理と歌の店 PALETTE》
いつ付けられたものかは分からない。
でも、母が通っていたころには、きっとなかった。
「でもさ」
「ん?」
「あのケーキは昔なかったんやろ?」
「なかったなあ」
「中華丼も?」
「なかった」
「じゃあ」
私は少し考えた。
お母さんには、あのピラフがある。
あの店で歌った歌がある。
私の知らない友達がいて、私の知らない大学生だった時間がある。
美玲さんには、昔の厨房と、今の中華鍋がある。
菜穂さんには、まだ会っていないけれど、あのチーズケーキがある。
パレットには、昔から残っているものと、誰かが新しく持ち込んだものがある。
それは、古い店がただ昔のまま残っているということではなかった。
誰かがここに来て、何かを置いていった。
料理を置いて、歌を置いて、働く場所を置いて、また次の誰かが新しいものを足していく。
お母さんの思い出の中に、今日、私の知らない料理が増えた。
そして私の中にも、今日までなかった時間ができた。
「じゃあ、あれは今日からやな」
「何が?」
「思い出」
母が黙った。
いつものように笑って流すと思った。
でも、すぐには笑わなかった。
夕方の風が、二人の間を通り抜けた。
「……うん」
母が小さく言った。
「今日からの思い出やな」
その言葉を聞いた瞬間、さっきまでの店の音が一度に戻ってきた。
古い階段の軋む音。
新しい端末の電子音。
厨房から響いた火の音。
母の歌声。
中華丼の餡をすくう音。
昔からあるものと、今日初めて生まれたもの。
それらが全部、同じ店の中にあった。
私は母の隣を歩いた。
さっきより少しだけ、歩幅を合わせて。
「……知らんけど」
照れ隠しにそう付け足すと、母が笑った。
今度は私も笑った。
摂陽大学に行くかどうかは、まだ決めていない。
お母さんが通っていたから、という理由で決めるつもりもない。
自分で決める。
それは変わらない。
ただ。
もし、ここに通うことになったら。
帰りにまた、あの中華丼を食べてもいい。
今度は一人でも。
そのとき、今日のことを思い出すだろう。
母が十二回「懐かしい」と言ったこと。
パレットが、母の知っている店でありながら、私の知らない店でもあったこと。
そして、今日から私たちの間に増えた、新しい思い出のことを。
それくらいなら。
悪くないと思った。




