ピラフと『風吹けば恋』
ピラフと『風吹けば恋』
一人暮らしを始めて分かったことがある。
自由には、晩ご飯がついてこない。
実家にいたころは、そんなこと考えたこともなかった。
夕方になれば母が台所に立っていたし、私が部屋でスマホをいじっていようが、風呂に入っていようが、時間になれば「ご飯できたよ」と呼ばれた。
今日は何、と聞いて、魚だと言われればちょっと嫌な顔をして、唐揚げなら喜んだ。
たまに母が「今日は作るのしんどい」と言ってスーパーのお惣菜になれば、それはそれで嬉しかった。
今なら謝りたい。
魚で嫌な顔をしてごめんなさい。
お惣菜で喜んでごめんなさい。
何でもいい。
誰か、私に晩ご飯を作ってください。
四月。
私は摂陽大学に入学して、大学から自転車で十分ほどのワンルームで一人暮らしを始めた。
最初の三日くらいは楽しかった。
夜更かししても怒られない。
お風呂にいつ入ってもいい。
ベッドの上でお菓子を食べてもいい。
冷蔵庫を開ければ、中に入っているものは全部私のものだ。
問題は、その冷蔵庫に何も入っていないことだった。
自炊も一応やった。
最初に作ったのはカレーだった。
カレーなんて失敗しようがないと思っていた。
失敗した。
四人前のルーを使って、なぜか十人前くらいできた。
三日食べた。
四日目の朝、鍋を見て嫌になった。
次に親子丼を作ろうとした。
鶏肉に火が通っているのか怖くなって、ずっと煮た。
親子丼というより、鶏肉の卵煮込みみたいなものができた。
それから私は、自炊という文化と少し距離を置いている。
結果として、大学の学食、コンビニ、牛丼、コンビニ、学食、たまにパン、という食生活になった。
別に不味くはない。
むしろ美味しい。
コンビニは偉大だ。
だけど二週間もすると、なんとなく飽きる。
そんなことを考えていた日の四限終わりだった。
「結衣ちゃん、今日暇?」
後ろの席から声をかけてきたのは、入学してから知り合った真帆だった。
大学というところは不思議で、四月の最初の一週間くらいは、隣に座ったというだけで友達になれる。
真帆とは必修の英語で隣になった。
その隣に座っていた彩香と、そのまた後ろにいた奈々も加わって、なんとなく四人でいることが増えた。
「暇やけど」
「パレット行かへん?」
「パレット?」
知らない店だった。
「カラオケ」
「ああ」
それなら分かる。
大学生らしい。
私は大学に入って二週間ほど経つが、まだ自分が思い描いていた「大学生らしいこと」をほとんどしていない。
サークルにはまだ入っていないし、飲み会なんて当然ない。
授業を受けて、スーパーで値引きされた弁当を買って帰るだけの日もある。
カラオケくらい行っておいた方がいい。
「行く」
「ほな決まり」
真帆が立ち上がった。
「今日四人やったらパレットでええな」
彩香が鞄を肩に掛けながら言った。
「久しぶりにピラフ食べよかな」
「私、炒飯」
奈々も言った。
私は首を傾げた。
「晩ご飯も食べるの?」
三人が私を見た。
何か変なことを言ったらしい。
「食べるやろ」
「カラオケで?」
「パレットやで?」
知らんがな。
そのパレットを私は今日初めて聞いた。
大学を出て、四人で駅の方へ歩いた。
摂陽大学から駅までは歩いて十五分ほどかかる。
大学の周りには学生向けらしい店が多かった。
安い定食屋。ラーメン屋。古い喫茶店。クリーニング屋。自転車屋。その間に新しいマンションやコンビニが混ざっている。
駅前まで行けばチェーンの居酒屋もカラオケもある。
だから私はてっきり、そちらへ向かうものだと思っていた。
ところが真帆は途中の細い道へ曲がった。
「こっち?」
「うん」
少し歩く。
住宅と小さな店が並ぶ通りに出た。
その先で真帆が指を差した。
「あそこ」
見上げる。
三階建ての建物だった。
一階の入口の上に大きな看板がある。
《KARAOKE HOUSE PALETTE》
赤、青、黄色。
たぶん昔はもっと鮮やかだったんだと思う。
今はいい感じに全部が薄い。
「……ここ?」
「ここ」
私はもう一度建物を見た。
古い。
ものすごく古いわけではない。
廃墟でもない。
ちゃんと営業している。
ただ、駅前で見たカラオケチェーンとは明らかに時間の流れ方が違う。
入口横には料金表が出ていた。
学生料金。
フリータイム。
ドリンクバー。
そこまでは普通だった。
ただ、その横に、
《お昼のおすすめ オムライス》
と手書きされた小さな黒板が置いてある。
「カラオケ屋やんな?」
「そうやで」
「なんでオムライスおすすめしてんの?」
「美味しいからちゃう?」
答えになっているようで、なっていない。
真帆が何のためらいもなくドアを開けた。
カラン、と音がした。
カラオケ屋の入口で鳴る音として正しいのか分からない。
中へ入ると、小さな受付があった。
壁には料金表や新機種のポスター。その間に、いつ撮ったのか分からない写真や色紙が何枚も飾られている。
受付の奥にいたおじいさんが新聞から顔を上げた。
白髪で、眼鏡を掛けている。
「おっちゃん、空いてる?」
真帆が言った。
店員に対する距離ではない。
「見たら分かるやろ」
おじいさんが答えた。
「ガラガラや」
店員の返事でもない。
「四人」
「何時間?」
「二時間かな」
「学生証」
「知ってるやろ」
「知ってても出せ。決まりや」
真帆が面倒くさそうに学生証を出した。
彩香と奈々も続く。
私も慌てて財布から学生証を取り出した。
おじいさんは私の学生証だけ少し長く見た。
「一年?」
「あ、はい」
「新入生か」
「はい」
「ほな、まだまともやな」
どういう意味だろう。
「おっちゃん、それうちらがまともちゃうみたいやん」
「違うんか?」
「客に言う?」
「学生は客ちゃう」
「金払ってるわ」
そんなやり取りをしながら、おじいさんは伝票に何かを書いた。
「二〇三。ドリンクバーあっち」
鍵を渡される。
真帆が受け取った。
私は三人について階段へ向かった。
途中で振り返る。
おじいさんはもう新聞を読んでいた。
「……あの人、店長?」
私が小声で聞くと、真帆が笑った。
「ちゃうんちゃう?」
「店員?」
「それもなんか違う」
「じゃあ誰?」
「おっちゃん」
結局何も分からなかった。
二階へ上がる。
廊下は少し狭い。
カーペットも新しくはない。
部屋の扉には二〇一、二〇二、二〇三と番号が振ってある。
どこかの部屋から、ものすごく上手い女性の歌声が聞こえてきた。
その隣からは、ものすごく下手な男性の歌声が聞こえてきた。
ちゃんとカラオケ屋だ。
少し安心した。
二〇三号室に入る。
ソファには多少年季が入っていたけれど、機械とモニターは意外なくらい新しい。
「普通や」
思わず口に出た。
「何が?」
「いや、もっと古い機械出てくるんかと思った」
「そこ古かったら誰も来んやろ」
もっともだった。
真帆がテーブルの上の端末を手に取った。
私は鞄を置いて、上着を脱いだ。
さて。
何を歌おう。
そう思って端末を覗き込む。
真帆は曲を探していなかった。
フードメニューを開いていた。
「結衣ちゃん、何食べる?」
「もう?」
「うん」
まだ一曲も歌っていない。
彩香も奈々もメニューを覗き込む。
「私、やっぱ炒飯」
「唐揚げも頼も」
「ポテトいる?」
「いる」
話がどんどん進んでいく。
私は仕方なく自分の前に置かれていたメニューを開いた。
そして、少し驚いた。
ピラフ。
炒飯。
オムライス。
ナポリタン。
麻婆豆腐。
親子丼。
きつねうどん。
焼きそば。
唐揚げ。
だし巻き。
カレー。
ガトーショコラ。
プリン。
私は最初からもう一度見た。
洋食。
中華。
和食。
ケーキ。
「……何屋なん、ここ」
「カラオケ」
真帆が即答した。
それはもう聞いた。
メニューの一番上に、小さな写真付きで載っている料理があった。
《昔ながらのパレットピラフ》
その横に手書きっぽい文字で、
《当店名物》
とある。
「これ?」
私が指差した。
真帆が頷く。
「あ、それ。一回食べてみ」
「ピラフが名物なん?」
「うん」
「カラオケ屋で?」
「うん」
奈々が横から言った。
「ここの冷凍ちゃうで」
私は奈々を見る。
「……それ、そんな自慢することなん?」
三人が笑った。
私はまだ知らなかった。
この店で「冷凍じゃない」という言葉が、思っているよりずっと長い時間を背負っていることを。
もちろん、そのときの私にはそんなことは分からない。
ただ、お腹が減っていた。
だから私は注文用の端末を取った。
《昔ながらのパレットピラフ》
その横の注文ボタンを押す。
このときの私は、まだ歌う曲すら決めていなかった。
なのに晩ご飯だけは決まっていた。
カラオケに来たはずなのに。
注文を済ませて、ようやくカラオケが始まった。
最初に歌ったのは真帆だった。
入学して二週間。
私たちは一緒に昼ご飯を食べたり、授業を受けたりはしているけれど、お互いのことをまだほとんど知らない。
だからカラオケというのは少し怖い。
選曲でその人の何かが分かってしまう気がする。
真帆は迷いなく最新の曲を入れた。
上手い。
しかもちゃんと最近の曲を知っている。
次の彩香も最近の曲だった。
奈々もそうだった。
まずい。
私の番が近づいてくる。
何を歌えばいい。
高校の友達なら何も考えずに歌えるのに、知り合って二週間の大学生三人を前にすると、急に正解が分からなくなる。
流行りすぎている曲は狙っているみたいだし、古すぎる曲は趣味を疑われそうだ。
アニソンはまだ早い。
いや、別に隠しているわけではない。
ただ、まだ早い。
端末を握ったまま悩んでいると、
「結衣ちゃん、次入れた?」
真帆に言われた。
「今探してる」
嘘だ。
さっきから同じページを三回くらい行ったり来たりしている。
そのときだった。
何か、いい匂いがした。
一瞬、気のせいかと思った。
部屋の中には私たちしかいない。
テーブルにはドリンクバーから持ってきたジュースしかない。
もう一度。
今度ははっきり分かった。
バターだ。
「……なんか、いい匂いせえへん?」
私が言うと、奈々が鼻を動かした。
「ああ、ピラフちゃう?」
「もう?」
「そろそろやろ」
歌っていた彩香がこちらを見て、歌詞を一行飛ばした。
廊下から匂いが入ってきている。
バターの匂い。
それから、玉ねぎを炒めたような甘い匂い。
急にお腹が鳴った。
幸い、曲が大きかったので誰にも聞こえていない。
たぶん。
私は端末を置いた。
もう選曲どころではない。
「そんな匂いする?」
「厨房近いからな」
「厨房?」
私は聞き返した。
「あるで。一階」
「そら厨房くらいあるやろ」
真帆が笑った。
いや。
そうなんだけど。
私が知っているカラオケ屋の厨房は、電子レンジとフライヤーが並んでいるような場所だった。
もちろん中に入ったことはないから、勝手な想像だけど。
少なくとも、こんな匂いが廊下まで流れてくるものだろうか。
コンコン。
扉が開いた。
「失礼しまーす」
若い男の店員が入ってきた。
大学生くらいだろうか。
片手に大きなトレーを持っている。
「ピラフと炒飯、唐揚げ、ポテトです」
テーブルに料理が並べられていく。
最初に私の前へ置かれたのが、ピラフだった。
「……普通」
思わず言った。
店員が私を見た。
「あ、すみません」
「いや、いいっすよ。普通なんで」
店員は笑って部屋を出ていった。
恥ずかしい。
でも、本当に普通だった。
もっと何か、とんでもないものが出てくるのかと思っていた。
白い楕円の皿。
薄い茶色のご飯。
玉ねぎ、ベーコン、マッシュルーム。細かく切ったにんじんと、緑色の何か。
上にパセリ。
それだけ。
喫茶店で出てきそうなピラフだった。
「食べてみ」
なぜか真帆が得意げに言う。
「なんで真帆が自慢すんの」
「ええから」
スプーンを取った。
湯気が上がっている。
一口。
「……うまっ」
自分でもびっくりするくらい、そのまま声が出た。
三人が笑った。
「やろ?」
「何これ」
もう一口食べる。
やっぱりうまい。
何がどう美味しいのか説明しろと言われると困る。
私は料理評論家じゃない。
バター。
たぶんバター。
それから玉ねぎ。
ベーコン。
マッシュルーム。
見れば分かることしか分からない。
ただ、ご飯そのものに味がついている。
何かの味が。
何かは分からない。
「これ、何味?」
「知らん」
真帆が答えた。
「知らんのかい」
「美味しい味」
一番信用できない食レポだった。
でも私も、それ以上のことは言えなかった。
美味しい味。
確かにそうだった。
冷凍じゃない、と奈々が言っていた意味が少し分かった。
冷凍食品が嫌いなわけではない。
むしろ好きだ。
最近の冷凍食品は本当に美味しい。
一人暮らしを始めてから何度も助けてもらっている。
だけど、これは違う。
なんというか。
ちゃんと誰かが作った味がした。
そのことを考えた瞬間、実家の台所が浮かんだ。
母がフライパンを振っている後ろ姿。
「今日何?」
「食べたら分かる」
「魚?」
「魚やったら何なん」
「いや別に」
「嫌やったら食べんでよろしい」
そこまで思い出して、私はスプーンを止めた。
家を出て、まだ二週間ちょっとだ。
早すぎる。
ホームシックになるには早すぎる。
「結衣ちゃん?」
「ん?」
「どうしたん?」
「いや」
私はもう一口食べた。
「ピラフうまいなと思って」
「せやろ」
真帆がまた自慢した。
だから何であんたが自慢するんだ。
少し笑った。
それで十分だった。
横を見ると、彩香が炒飯を食べている。
こっちはピラフとは全然違う。
色も濃い。
卵とネギと焼豚が入っている。
「それも美味しい?」
聞くと、彩香が無言でレンゲを差し出した。
「食べてみ」
一口もらう。
「……うまっ」
また同じ言葉が出た。
「何これ」
「炒飯」
「それは分かる」
さっきのピラフは優しい味だった。
こっちは強い。
香ばしい。
ご飯がべちゃっとしていない。
中華料理屋で食べる炒飯みたいだった。
いや、中華料理屋なんてそんなに行ったことはないけど。
少なくともカラオケ屋の炒飯ではない。
「これもここで作ってんの?」
「そうちゃう?」
「何で?」
「何でって何が?」
「何でカラオケ屋が炒飯ちゃんと作ってんの?」
彩香が首を傾げる。
「昔からやで」
地元の人間は怖い。
昔からあるものを、何も疑問に思わない。
そのとき。
一階の方から、
ゴオッ、
と音がした。
私は止まった。
「……何?」
「何が?」
「今の音」
「知らん」
また聞こえた。
ゴオッ。
何かが燃えている。
いや、たぶん燃えてはいけないものではない。
たぶん。
「火事ちゃう?」
「ちゃうやろ」
「結構な音したで」
奈々が唐揚げを食べながら言った。
「炒飯ちゃう?」
「炒飯?」
「中華鍋振ってる音」
私は扉を見た。
「なんでカラオケ屋でそんな音すんの?」
三人とも答えなかった。
答えられないんだと思う。
私は唐揚げにも手を伸ばした。
「これも一個もらっていい?」
「ええよ」
熱い。
揚げたてだった。
噛む。
「……うま」
三回目なので、もう驚かなかった。
いや、驚いてはいる。
ただ、だんだん腹が立ってきた。
「何なん、この店」
「カラオケ屋」
「それはもうええねん」
唐揚げは外がカリッとしていて、中は柔らかかった。
味もしっかりついている。
レモンをかけるかどうかで奈々と彩香が揉め始めたので、私は自分のピラフへ戻った。
曲は流れている。
誰かが歌っている。
途中から誰の番なのか分からなくなっていた。
カラオケに来たのに、全員食べている。
曲だけが勝手に進んでいく。
「なあ」
私は言った。
「ここって、みんな飯食べに来るん?」
「結構おるで」
「カラオケせんと?」
「する人もおるし」
「せん人もおるん?」
「昼とか、ご飯だけ食べて帰る人おるで」
私は箸を止めた。
「それもう飲食店やん」
「でもカラオケ屋やで」
どうしてもそこは譲らないらしい。
しばらくして、ようやく私も一曲歌った。
無難に高校時代によく歌っていた曲を選んだ。
歌っている途中でピラフを食べたくなって、一度止めようかと思った。
止めなかった。
そこまで食い意地は張っていない。
歌い終わる。
残っていたピラフを食べる。
少し冷めていた。
それでも美味しかった。
二時間はあっという間だった。
歌って、食べて、笑った。
最初に何を歌えばいいか悩んでいたのも、途中からどうでもよくなった。
真帆が懐かしいアニメの曲を入れた。
私は反射的に、
「それ知ってる!」
と言ってしまった。
「結衣ちゃん、アニメ見るん?」
しまった。
まだ早いと思っていたのに。
「まあ、ちょっと」
「私も見るで」
何を警戒していたんだろう。
そこからは楽だった。
知っている曲を入れて、みんなで歌った。
大学に入ってから、たぶん初めてだった。
新しい友達と一緒にいて、自分がどう見られているかを考えなかったのは。
残り時間十分の電話が鳴った。
真帆が出る。
「延長どうします?」
受話器から声が漏れた。
真帆がみんなを見る。
「どうする?」
「明日一限」
奈々が言った。
「私も」
「じゃあ出よか」
テーブルの上には空になった皿が並んでいた。
私のピラフも、米粒一つ残っていない。
一階へ降りる。
さっきのおじいさんが受付にいた。
「二〇三です」
真帆が伝票を出す。
「はいよ」
おじいさんがレジを打つ。
私は財布を出しながら、何となく受付の奥を見た。
扉が少し開いている。
その向こうに銀色の作業台が見えた。
ステンレス。
大きな冷蔵庫。
壁に掛けられたフライパン。
さらに奥で誰かが動いている。
思っていたより、ずっとちゃんとした厨房だった。
というより。
「……広ない?」
私が呟くと、おじいさんが顔を上げた。
「何が?」
「あ、厨房」
「そうか?」
「カラオケ屋ですよね?」
おじいさんが私を見た。
「せやで」
今日何度目だろう。
みんな同じ答えをする。
そのとき、厨房の奥から女の人の声が飛んできた。
「お父さん! 三〇一、会計終わったら皿下げて!」
おじいさんが顔をしかめた。
「俺もう上がる時間やぞ!」
「まだ十分ある!」
「細かいなあ!」
「ええから動いて!」
おじいさんは舌打ちして立ち上がった。
「人使い荒いわ、ほんま」
私たちは笑った。
会計を済ませる。
思っていたより安かった。
これだけ食べて、二時間歌って、この値段なら学生が来るのも分かる。
「またな、おっちゃん」
「はいはい。勉強せえよ」
「してるって」
「嘘つけ」
真帆たちが出口へ向かう。
私も続こうとして、
ふと止まった。
受付の横。
壁に、一枚のコピー用紙が貼ってあった。
何でもない紙だった。
パソコンで作ったらしい文字が並んでいる。
《アルバイト募集》
私は何となく読んだ。
週二日から。
大学生歓迎。
未経験可。
土曜勤務できる方歓迎。
そこまでは普通だった。
その下。
少し太い文字で、
《まかない有》
私はもう一度読んだ。
まかない有。
頭の中に、さっきのピラフが浮かんだ。
バターの匂い。
炒飯。
唐揚げ。
私は紙を見た。
それから厨房を見た。
もう一度、紙を見た。
「結衣ちゃん?」
入口から真帆が呼んだ。
「あ、今行く!」
慌てて追いかける。
ドアを開ける直前、もう一度だけ振り返った。
《まかない有》
その五文字だけ、妙にはっきり見えた。
パレットを出ると、外はまだ明るかった。
四月の日は思っていたより長い。
店の中に二時間いただけなのに、外の空気が少し冷たく感じた。
「どうやった?」
真帆が聞いてきた。
「何が?」
「パレット」
「カラオケ?」
「飯」
そっちなんだ。
私は少し考えた。
「美味しかった」
「やろ?」
また得意げだ。
「でも、やっぱりおかしいと思う」
「何が?」
「カラオケ屋であんなちゃんと作る必要ある?」
三人が笑った。
「結衣ちゃん、気に入りすぎやろ」
「気に入ったとは言ってない」
「ピラフ完食してたやん」
「お腹減ってただけ」
「唐揚げも食べてた」
「一個だけ」
「炒飯も」
「味見」
「ポテトも」
「それはみんな食べてたやろ」
言い返しているうちに、駅へ向かう大きな道へ出た。
ここで奈々とは方向が分かれた。
彩香は駅から電車。
真帆も駅の向こう側に住んでいるらしい。
私は大学近くのアパートなので、途中で一人になる。
「じゃ、また明日」
「一限遅れんなよ」
「そっちこそ」
手を振って別れた。
一人で歩き始める。
さっきまで四人で騒いでいたから、急に静かになった気がした。
車の音。
自転車のベル。
どこかの家から夕飯の匂いがする。
私はスマホを取り出した。
母からメッセージが来ていた。
《ちゃんと食べてる?》
タイミングが良すぎる。
私は少し笑った。
《食べてる》
と返す。
嘘ではない。
今日はちゃんと食べた。
むしろ食べすぎた。
少し考えて、
《カラオケでピラフ食べた》
と付け足した。
すぐ既読がついた。
《なんで?》
そうなるよね。
私だってそう思う。
《知らん》
と返した。
家に着く。
誰もいない部屋の電気をつける。
朝、脱いだパジャマがベッドの上にそのままになっていた。
洗っていないマグカップもある。
出かけるときは気にならなかったのに、帰ってくると急に生活感が目につく。
実家なら母に怒られていた。
今は誰も怒らない。
自由だ。
やっぱり自由には、いろんなものがついてこない。
私はベッドの上のパジャマを拾った。
洗濯籠へ放り込む。
外した。
床に落ちた。
見なかったことにした。
その日はそれで終わった。
別に、パレットのことばかり考えていたわけではない。
次の日も普通に大学へ行った。
授業を受けた。
真帆たちと学食で昼ご飯を食べた。
サークルの勧誘につかまった。
興味のないテニスサークルの説明を十分くらい聞いた。
スーパーにも寄った。
卵が安かったので買った。
使い道は決めていない。
一人暮らしを始めてから、安いという理由だけで食材を買ってしまうことが増えた。
そのうち使う。
たぶん。
問題は、その日の夜だった。
晩ご飯を買い忘れた。
冷蔵庫を開ける。
卵。
水。
ペットボトルのお茶。
以上。
「……何もない」
卵はある。
卵料理を作ればいい。
何を?
目玉焼き。
それだけでは晩ご飯として寂しい。
卵焼き。
作ったことがない。
親子丼。
嫌な記憶がある。
私は冷蔵庫を閉めた。
もう一度開けた。
増えてはいなかった。
仕方なくコンビニへ行った。
お弁当の棚の前で迷って、生姜焼き弁当を買った。
ついでにプリンも買った。
部屋へ戻る。
電子レンジで温める。
蓋を開ける。
いい匂いがした。
いただきます、と小さく言って食べた。
美味しい。
普通に美味しい。
コンビニは本当に偉大だ。
一人暮らしの味方だ。
半分くらい食べたところで、ふと思い出した。
ピラフ。
何で今。
生姜焼きを食べているのに。
あの薄い茶色のご飯。
ベーコン。
玉ねぎ。
マッシュルーム。
バターの匂い。
私は生姜焼きを食べた。
美味しい。
でもピラフが食べたい。
「……あかん」
昨日一回食べただけだ。
そんなに好きになる?
それにピラフを食べたければ、また行けばいい。
カラオケなんだから、一人でも行ける。
いや。
ピラフを食べるためだけに一人でカラオケへ行くのは、何か違う気がする。
そこで、あの紙を思い出した。
《アルバイト募集》
そして、
《まかない有》
箸が止まった。
まかない。
あれが出るんだろうか。
ピラフ。
いや、毎日ピラフではないだろう。
炒飯の日もあるかもしれない。
唐揚げの日も。
メニューにあったオムライスも気になる。
麻婆豆腐も。
きつねうどんも。
ガトーショコラは、まかないに入るんだろうか。
「…………毎回あれ食べられるんかな」
口に出してから、自分でちょっと引いた。
アルバイトを選ぶ理由として、どうなんだろう。
時給もちゃんと見ていない。
仕事内容も知らない。
勤務時間も覚えていない。
土曜勤務できる方歓迎、というのだけは覚えている。
あと、まかない。
そこだけは鮮明だった。
私はスマホを手に取った。
検索する。
カラオケハウス パレット。
出てきた。
写真を見る。
昨日見た、少し色褪せた看板。
営業時間を見る。
一瞬、目を疑った。
朝から、次の日の朝まで。
「ほぼずっと開いてるやん」
定休日は日曜日。
口コミもあった。
《大学時代から通っています》
《料理がおいしい》
《久しぶりに行ったけど変わってなかった》
《チャーハンおすすめ》
《カラオケより飯》
最後の口コミに笑った。
私だけじゃないらしい。
それから求人情報を探した。
店の公式サイトには載っていなかった。
やっぱり、あの店内の紙だけなのかもしれない。
どうしよう。
アルバイトは探していた。
親からの仕送りはある。
でも全部出してもらうのも悪いし、自分で使うお金くらいは自分で稼ぎたい。
大学にも慣れてきた。
そろそろ探そうとは思っていた。
コンビニ。
居酒屋。
カフェ。
塾。
いろいろ考えていた。
カラオケ屋は考えていなかった。
ましてや、飯の美味しいカラオケ屋なんて。
私は残りの生姜焼きを食べた。
プリンも食べた。
歯を磨いた。
シャワーを浴びた。
ベッドに入った。
スマホを見た。
寝る前に、もう一度だけパレットの口コミを見た。
《料理がおいしい》
知ってる。
電気を消した。
翌朝。
一限は眠かった。
二限も眠かった。
昼休みに真帆から、
「昨日のお母さんの返信どうやった?」
と聞かれた。
「何で知ってんの?」
「カラオケで送ってたやん」
「ああ」
母とのやり取りを見せた。
《カラオケでピラフ食べた》
《なんで?》
真帆が笑った。
「お母さん正しいな」
「私もそう思う」
「今日も行く?」
「行かん」
即答した。
さすがに二日連続はない。
その日の帰り、文房具屋に寄った。
履歴書を買った。
家に帰ってから書いた。
名前。
小川結衣。
生年月日。
住所。
電話番号。
学歴。
アルバイト経験。
なし。
資格。
特になし。
書けることがない。
高校を卒業したばかりの十八歳なんて、履歴書に書けば驚くほど薄い人間だった。
志望動機。
ここで止まった。
《まかないが美味しそうだったため》
さすがに駄目だと思う。
《大学から近く、長く働けると思ったため》
急に嘘っぽい。
いや、嘘ではない。
近い。
四年間いる予定だ。
でも本当の理由ではない。
十分くらい悩んだ。
結局、
《大学生活と両立しながら接客の仕事を経験したいと思い応募しました》
と書いた。
誰だ、この真面目な人。
履歴書の中に知らない小川結衣がいる。
まあいい。
面接なんてそんなものだろう。
たぶん。
翌日。
授業が終わったあと、私は一人で大学を出た。
駅とは少し違う道。
一度来ただけなのに覚えていた。
定食屋。
クリーニング屋。
自転車屋。
細い道を曲がる。
見えてきた。
《KARAOKE HOUSE PALETTE》
やっぱり看板は少し色褪せている。
入口横の黒板。
今日のお昼のおすすめは、
《麻婆丼》
だった。
「……食べたい」
違う。
今日はそれじゃない。
リュックの中を確認する。
履歴書。
ある。
店の前で立ち止まった。
急に緊張してきた。
アルバイトの面接なんて初めてだ。
昨日までは、まかないのことしか考えていなかった。
よく考えれば、採用されるとは限らない。
そもそも、まだ募集しているかも分からない。
紙を剥がしていなかっただけかもしれない。
「……帰ろかな」
誰も見ていない。
帰るなら今だ。
また別のアルバイトを探せばいい。
コンビニでもいい。
大学の近くにも募集している店はいくらでもある。
私はパレットのドアを見た。
ガラス越しに受付が少し見える。
その奥。
厨房の方から、何かの匂いがした。
今日はピラフじゃない。
ちょっと辛そうな匂い。
たぶん麻婆丼。
「…………」
私はドアを開けた。
カラン。
やっぱり鳴った。
受付には、あのおじいさんがいた。
今日は新聞ではなく、テレビを見ていた。
私に気づいて顔を向ける。
「いらっしゃい」
「あ……」
声が裏返りそうになった。
落ち着け。
名前を言う。
面接に来たと言う。
それだけだ。
「一人?」
おじいさんが聞いた。
「いえ」
「待ち合わせ?」
「違います」
「ほな何?」
私はリュックを開けた。
履歴書の入った封筒を取り出す。
両手で持つ。
なぜか大学の入学式より緊張した。
一度息を吸う。
「小川結衣です」
おじいさんがテレビの音量を下げた。
私は頭を下げた。
「アルバイトの面接に来ました」
おじいさんは私を見た。
それから履歴書を見る。
もう一度、私を見る。
少しだけ目を細めた。
「ああ」
覚えていたらしい。
おじいさんは言った。
「ピラフの子か」




