第一部 第二章 13
第一部
第二章
13
午前十時五十分。
まずは小学校の終業チャイム――夏休みを告げる、しばし解放の時を奏でるチャイムが鳴り終わると、三校の小学生たちは肩を組んだり、ふざけあったりしながら、意気揚揚と校門へ向かっていった。
小学生は私服、中学生は学生服なので、遠目からでもすぐわかる。ランドセルは強制ではないので、小学生も高学年になるとほとんどがサブバッグなど使っている。六年のうちにはランドセルも傷んでくるし、さりとて買い換えるのはもったいないし、なにより格好悪いからだろう。
夏の太陽は、そんな児童たちひとりひとりにまばゆいばかりの陽射しを降りそそいでいたが、なりたくもない大人と、戻りたくもない子供との境界線にさしかかった彼ら彼女らの、その心の内側まで照らしてやることはできなかった。
高学年と思しきひとりの女子児童が、校庭の真ん中で靴紐を結び直そうとしてしゃがみこんだ。
通り過ぎてゆくほかの児童たち――舞い上がる砂埃に、彼女は目を細めながら周囲を見回した。そこでふとなにかに気づいて愕然としたが、それもスカートのなかを覗きこんでいる男子児童を発見したことで、またしても彼女の深層心理からのSOSは実体をつかめないまま放置される結果となった。
顔を赤らめて男子児童を追いかけ回す彼女を見て、まわりの児童たちの歓声が校庭にこだました。
現在小学六年生を受け持っている篠原健一は、二階の職員室の開け放たれた窓から、そんな光景をじっと眺めていた。
奈良市内の大学で教育課程を終え、村の教育に貢献すべく意気揚々と帰郷したのはいいが、その計画は二年もしないうちに頓挫していた。
小学生のときから個性を大切にし、個々の学力に合わせた授業を行い、中学生からはそれを進路指導に特化するというやり方は、いくら彼ひとりがやっきになってみても、ほかの教師たちとの足並みが揃わなければどうにもなるものではない(彼の意見に賛成してくれたのは、中学二年生の担任で、現代国語を専科としている黒滝村出身の山本和馬という教師だけだった)。
田舎の学校で生徒の数も少ないのだから、個を尊重した教育は充分可能なようだが、教師の意識の低さもさることながら、小規模な学校ゆえに、それをするには教職員が足りていないというのも、また現実だった。
しかし、なんとかしたいものだ――。
と、さっきからセミの鳴き声の合間に、背後右手からボソボソと聞こえていた声のトーンがひと目盛上がった。いささか怒気をはらんでいるようだ。話に引っぱりこまれると面倒なので、篠原はあえて知らんぷりを決め込んだ。
職員室は小中の教職員で使用しているのでけっこう広い。出入口は教室同様、端と端の二か所で、片側には隣の校長室と直接行き来できるドアと、父兄や生徒が訪れたときのための簡単な応接セットが置かれている。教職員たちのデスクは、部屋の中央を境に小中の島に分かれたかたちになっていた。
いまその応接セットでは、小学三年生の担任の今泉敏と体育専科の城丈二が、終業日ごとに行われる打ち上げ会の段取りを決めている最中だった。校長と事務員兼用務員を抜かして、小中併せて十七名いる教師たちはそれに備えるべく大部分が退勤している。
今泉も城も、四十代後半のベテラン教師。ふたりとも天神村出身だ。
今泉は生き物の飼育が趣味で、とりわけ小学生から人気があり、筋トレが趣味の城は名前に因んで、生徒たちからジョジョの愛称で親しまれていた、ゆえに彼だけは、ほかの教師より浅黒く日焼けしている。もっとも冬でもあまり変わらないので、もともと地黒なのかもしれない。
そんな城だが、鍛え上げた体に似合わず優柔不断で決断力に欠けるところがあり、今泉もイライラしながら話を詰めているようだった。
幹事は毎回ふたり一組。篠原も昨年担当したが、これが案外たいへんで労力も必要ときている。打ち上げといっても、村に飲食店などあるはずもないので、飲食品を人数分+α(下戸とうわばみ)で計算して調達しなければならない。
場所は職員室。期末ごとの打ち上げは、体育館で行う父兄参加の卒業式とは違い、要するに教職員たちのおつかれ会のようなものである。なので参加者は一度帰宅したのち、三郷図書館の閉館時間に合わせて、ふたたび学校の職員室に集まることになっている。
幹事以外は強制参加ではないが、篠原は教師仲間と腹を割って話すいい機会だと考え、非常に億劫ではあるものの毎回足を運んでいた。
ようやく話がまとまったのか、テーブルをはさんで座っていた今泉と城がソファから立ち上がり、
「それじゃ、篠原先生。またあとで」
こっちを見て声をかけてきた。
「おふたりとも、大変ですね。ごくろうさまです」
「面倒くさいからやりたくないんですけどね……でもまあ、順番ですから」
今泉が口をへの字にすると、城も口を尖らせる。
「ほんとですよ。終業日なんて、家でゆっくりしたいくらいなのに」
篠原も苦笑しながら首肯する。
勘違いされがちだが、夏休みだからといって教師も同じだけ休みになるわけではない。一学期の学力データの総括、二学期の指導要項のまとめ、答案やプリントの作成など、学校にきてやらねばならないことはけっこうある。これが生徒数の多い都会の学校ともなると、通常出勤とまるで変わらない勤務形態となる。
三校は生徒も教職員も数が少ないため、部活動がないからまだいいが、学校によっては部活の顧問を担当する場合もあり、そうなるとさらに仕事が増えてしまう。特にスポーツ系の部活は練習だけでなく、試合遠征などもあり、ヘタに勝ち残ってしまったりするとやっかいだ。あと、夏休み中に生徒が問題を起こすパターン。警察に補導されたりすると、そのたびに呼びだされるハメになる。
「それにしてもねえ、飲み会っていっても、うちの学校は色気がなさすぎですよ」
今泉がつまらなそうな顔をしてみせる。
学期末と幹事の忙しさが重なってか、ちょっと心配になるほど頬がコケている。いつもかけている眼鏡も、顔の輪郭に対してやたらと大きく見える。寝不足なのか、顔色も悪い。城は、黒いのでよくわからないが。
そうそう、と城が褐色、というより土気色の顔で首肯する。
「せめて綺麗処でもいればいいんですけどね」
職員室には三人しかいなかったが、それでも篠原は思わずあたりを見回してしまった。
「聞かれたらマズいですよ。セクハラだって怒られますよ」
三校全体で女性教諭は五人。
中学校のほうは、天神村の井田三代子、白河村の渡部法子、黒滝村の永須理沙。
家庭科の井田と美術の永須は四十代既婚者。音楽教師の渡部は三十代バツイチだが、たしかにみな綺麗処とはいえない。ちなみに永須の夫の寛は小学校四年生の担任だ。
ほかに小学校の一年と五年の担任が女性ではあるが、そっちはとうに五十を過ぎている。
だからというわけではないが、まあ、仕方ないかな、と篠原も思う。
村には当然、クラブもキャバクラもないわけで、妻子持ちの今泉と城にとって、せめて飲み会くらいは、と思うのもわからないではない。
「ああ……ですね。永須先生なんか恐いですからね。……でもここだけの話、飲み会はやっぱり、若くて綺麗な女の子と呑みたいですよ」
「篠原先生はまだ二十代だし、それになんていうか、可愛らしい顔立ちだから、女性陣にチヤホヤされていいですけど。我々なんて、ねえ」
そういう問題ではないでしょう、と喉元まで出かかったが、グッと堪える。いわれなくても、そんなことは自覚している。結婚して兵庫に住んでいる姉の陽菜子にも、子供のころから、からかわれ続けてきた。
童顔で背は低いし、淡い色のシャツに紺色のスラックスを組み合わせたりすると、ともすれば高校生のように見えてしまう。教師としての風格なんて、まだぜんぜん身についていない。
「それなら診療所の矢沢さんとか誘ってみてはどうですか。日ごろ生徒たちがお世話になってるんだし」
なかば皮肉半分でいってみたら、
「ああ。とっくに断られました」
ほんとに声をかけていたようだ。
と、いきなり戸口のほうから、
「あの先生はこないでしょ。なんかちょっと暗いし、ノリ悪そうだし」
事務員兼用務員の入江保の声がした。校舎の見巡りのついでに顔を出したのだろう。ワーキングシャツとズボンという恰好だ。
輪に加わりながら、入江が続ける。
「ほんとは女子生徒も呼べればいいんですけどねェ。中学生なんか大人と変わんないですもん」
学校関係者にあるまじき発言だが、じつは天神村出身の小野寺弘教頭も、たまにこういうことを平気でいう。
いずれにせよ、同じ男としてわからないではない、という問題ではない。今泉も城もあきれたように顔をしかめている。
入江がなおも持論を展開する。
「小学生でも六年生になると、オトナっぽい子いますもんねェ。でもほらッ、体がね、まだできあがってないっていうか、肉質がね、まだちょっと硬そうっていうか、オンナってとこまでいってない。それがいいんですよね」
白河村の入江は四十過ぎの独身男で、事務員としても用務員としても、また人間としても、ふだんは特に可もなく不可もなくといった男なのだが、こうなるともう小太りでゲジ眉のロリコンオタクにしか見えなくなってくる。口調もいつになく、糸を引くように粘っこい。
そこでようやく場の空気を察したか、それとも口が滑りすぎたと思ったか、
「いや、いまどきの子は、飲み会の場にいてもおかしくないほど大人っぽいって、そういう話ですよ」
入江は所在なげに三人の顔を見回し、
「それじゃ、あとで」
カメのように首をすくめて退散していった。
「ちょっとヤバいな、あれ」
今泉が、顔をしかめたまま嘆息する。城の顔にも軽蔑の色が浮かんでいる。
「完全にあっち系ですよね」
そうだろうな、と思うと同時に、篠原はべつのことが気になっていた。
だとしたら、うちのクラスの誰のことをいっているのだろう。いまのクラスは四年生のときから受け持っている、篠原にとってはじめての教え子。男子も女子もみんな可愛い生徒だ。それをそんな目で見ているとは、担任として穏やかではいられない。
腕時計に目をやり、今泉が城を促す。
「じゃあ、そろそろいきましょうか」
「そうですね。準備、まだぜんぜんですもんね」
「ごくろうさまです」
軽く会釈を交わし、ふたりが出ていく。
篠原は、入江の吐きだした澱んだ空気を払うように大きくため息をつき、ふたたび窓の外に目をやった。
小学生たちの波はとうにはけ、今泉と城ががらんとした校庭を横切っていくのが見えた。入江の姿が見えないところをみると、彼は用務員室に向かったのだろう。
用務員室は、校舎一階端の体育館やプールに近い場所に位置していて、機材や掃除道具のストック置き場であるとともに、ランダムに行う夜間の見巡りのための仮眠室を兼ねた小部屋になっている。ひょっとすると、白河村の彼はそこで夜まで時間を潰して、直接お疲れ会に出るつもりなのかもしれない。
再度、チャイムが鳴った。
そのあと、スピーカーからガサガサした音が聞こえたので、入江がタイマーの確認をしていたのだろう。三郷図書館が開いていることもあって、夏休み中もチャイムは同じ時間に鳴るようになっている。
次は中学生の番だ。ダッシュで出てきたのだろう、気の早い連中がぽつぽつと目につきはじめる。またもや、夏の太陽が容赦なく生徒たちに狙いを定め、凪いでいた校庭に砂埃が舞い上がった。
「どうかしましたか?」
気持ちのこもっていない声。後ろからでも、それが中学三年の担任をしている林田信夫教諭だと誰何できる。
中等部向けのチャイムが鳴ったばかりだというのに、この男の瞬間移動ばりの登場はどうだ。早々にクラスを自習にしたままどこかでさぼっていて、チャイムが鳴るなり戻ってきたんじゃないか。やる気のなさを隠しもしない典型的な職業教師の印象からすると、そうとしか考えられない。
こいつもあまりかかわりたくないが。
篠原はしかたなく振り返った。
「ああ、林田先生」
覇気のない、そしてこれといって特徴のない顔に向かっていってみる。
「生徒たちの可能性を引きだしてやるには、どうしたらいいかなと、そんなことをね、ちょっと考えてたんですよ」
「可能性……ですか。若いですな。まあ、教師になってまだ三年目なら無理もないか」
林田は鼻先で笑うと、手に持っていたレポート用紙の束を、机に放り投げるようにして置いた。かすかにタバコの匂いが鼻をかすめる。校内は基本的に全面禁煙。おおかた校庭の片隅か、はたまた隣の図書館の外に設けた灰皿のところまでいって一服していたのだろう。
「それにね、篠原先生は小学生の担任だからそんなことがいえるんですよ。中学生にもなると生意気になるばかりで、人の話は聞かないし、なにを考えてるのか皆目見当がつかない。いくら可能性があったとしても――いいですか、あったとしても、ですよ、結局は自分で潰すことになるんですよ」
「そうでしょうか。不安定な年ごろですが、彼らにも個性があります。ひとりひとり、自分に合った道を見つけることで、より成長することができると思うんです。べつにみながみな、同じでなくてもいい。自分の道を見つけて、そしてそれを目標にして進んでいく。いまは高校や大学へ進学すれば安泰という時代じゃないですからね。それには勉強だけでなく、人間力――人間としての資質を伸ばしてやる必要があると思うんです」
「ほう。それじゃあなたは、それも我々教師の仕事だというわけですか。ははあ、まるであれだな……ドラマに出てくるセンセイみたいだな。金八先生とか、あとあれ、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ……ですか。たいした理想論だ」
デスクの上を片付けながら、林田は伸びてもいない髪を首を振って搔き上げる仕草をしてから、親指と人差し指を寝かせた腕を突き出してみせた。冗談のつもりだろうが、まるで面白くない。
これ以上、林田の顔を見ていたら殴ってしまいそうなので、篠原はふたたび窓の外に目をやりながら胸のうちでつぶやいた――おまえみたいな教師がいるから、なにも変わらないんだよ。
高度成長期が産みだした歪みは、バブル崩壊を経ていまなお膨張を続けている。それでもなお大人たちは、勝ち組だの負け組だのと根拠のない幻影に惑わされ、本来なら動かす必要のない天秤をどちらかに傾かせようとする。倒産やリストラ、そして年間三万人もの自殺者がいっこうに減らないのは、そのせいではないのか。
あの子たちにそんな人生を歩ませてはならない。いまならまだ――。
だが彼の想いは、校庭を横切っていくひとりの生徒を見かけたとたん、砂上の楼閣のように崩れていった。教室にしばらく残っていたのだろう、中学生に雑じって、自分のクラスの女子が三人、並んで校庭を横切っていく。
「篠原先生は、本気でそんなことができると思ってるんですか?」
どこからともなくやってきた突風が、校庭に砂嵐を捲き起こし、一瞬、生徒たちの姿が霞んだ。風で一斉に舞い上がった職員室の白いカーテンが、膨らみを帯びながらゆっくりと萎んで元の位置に戻っていく。セミの声がさっきより一瞬、やけに大きく耳に響いた。
なかなか返事が返ってこないので痺れを切らしたか。帰り支度を済ませてその場を立ち去ろうとしていた林田に、篠原は振り向きざまに答えた。
「いえ、あくまで理想論ですよ」




