第一部 第二章 14
第一部
第二章
14
午前十一時二十五分。
「先祖代々続いている家系で若い世代、というなら彦坂だけではあるまい。ほかにも大勢おるじゃろう」
「うむ。藤村、木本、松下、小山……それに南原や明石……あとは原島、石井、佐藤、斉藤あたりか」
「農民筋でなくてもよいなら、矢島、高石、中谷、下山、浜田……ほかにも山根や木内だっておる」
「本来なら毛利がいちばん妥当なんじゃがの」
冷房の冷気を逃さないために障子を閉め切った部屋は、薄暗いうえに漂う紫煙で靄がかかったように霞んでいた。
何人かが無言で頷き、何人かが首を横に振る。
村は古い。どの家も永い歴史を生き抜いてきている。だが、名家が必ずしも由緒ある家系とはかぎらない。元来農民しかいなかったこの村に現在村長候補に挙がっている、武家や豪族の流れを汲む彦坂家や毛利家が定住するようになったのは、むしろほかの家系よりもずっとあとのことである。
気だるい沈黙ののち、ふたたび深い皺に縁取られた唇が緩慢に動いた。
「たしかに江戸時代から続く家柄には違いないが、やはり毛利を村長の座に据えるわけにはいかん」
「ふん。また昔の話か。それなら毛利家だけの問題ではあるまい」
「そうじゃ。村全体の問題よ。神社でよけいなモンまで見つかったからな」
「どうせあんなもの見ても誰にもわからん。本宮の家もとうに無うなっとるしな。代々語り継がれてきた話も、わしらで終わりじゃ」
「それでも言い伝えは残っておる。陰森には近づくな、けっして奥には入ってはならぬ……元を辿れば嫌でも毛利へとたどり着く」
「毛利の土蔵に地蔵があるぞ、か。そんな童歌も、もう誰も知らん。だいたいたどり着いたらどうだというんじゃ? もとはといえば、ご先祖たちが馬鹿げた儀式を――」
「それ以上、いってはならん!」
一斉に漏れた深いため息が、つかのま紫煙を払い退け、上杉善吉の家に集まった長老たち十三人の顔を浮かび上がらせた。
絽の着物を着ている者もいれば、紗の着物を着ている者もいる。長老――それも由緒ある家の長が集まる会合ともなると、甚平や作務衣、あるいはステテコなどの普段着はひとりもいない。
三郷の各村は村長の家系が代々その座を継承していくことが多いのだが、天神村では上杉家に跡取りがいないため、そろそろほかにふさわしい家柄を選出しなければならない時期にきていた。世襲しない場合、移譲の権限は現村長にあっても、長老たちと相談して決めるのが習わしだった。
村長といっても村の代表者という肩書きだけで、昔のように重要な任務を担っているわけでも、なにかの決定権があるわけでもない。まだ行政がきちんと行き届いていなかった時代の名残であり、現在では自治体の会長職といった程度のものである。それでも風習を重んじ、肩書きを重要視する人間が要るのも事実で、今回は奇しくも絽と紗の着物が、意見の対立を顕著に表していた。
「毛利家は悪しき習慣を絶ち切ったとはいえ、当時の村の総意を裏切っておる。それに加えて近年は小夜子のこともある」
「それは措いたとしも、善吉さん。なぜ彦坂なんじゃ。そもそも若い世代に、というのが間違いなんじゃないのかね」
「そうじゃ。順当に長老たちの家から選べばよかろう」
「いまはもう、そんな時代ではない」
善吉は絽の着物の襟を正し、辛抱強く続けた。長老たちの半数以上が、今風にいえば出来レースを確信し、業を煮やしているのは承知していた。
その筆頭が早川栄作である。
次の村長を長老たちのなかから選ぶとしたら、その早川家がもっとも妥当だからだ。大石家や小松家という手もあるが、それだとあからさまに順番を無視したかたちとなり、どうにも据わりが悪くなる。早川家にだけは移譲したくない善吉としては、なんとしても思い通りにはさせたくなかった。
こうした決め事があると、栄作は必ず善吉と反対の意見を出してくる。昔からそうだ。土地持ちの家系で、先々代のころにそのほとんどをほかの農家に譲っているが、いまでも彼に追従する長老は多い。同じような家柄なので対抗意識が湧くのもわからないではないが、いちゃもんの本当の原因――その根っこの部分にあるのはおそらくヨネだと善吉は踏んでいる。栄作は若いころヨネを、そして善吉がめとったあとは、妹のツネを好いていたフシがある。
若い世代に継がせたほうが村のためになると考えているのは事実だが、本音をいえば、栄作に継がせないことこそが、自分のほうがなにかにつけ優位であることの証でもあった。
「これからはわしら長老が幅を利かせていては、村の発展はない。もっと新しい広い視野で身軽に動ける人間が適任なんじゃ」
昨今の過疎化問題を憂いての、もっともらしい意見である。腹に一物も二物もあるにしろ、ちょうどいいではないか。時代の流れには逆らえない。死ぬまで栄作には勝っていたい。一石二鳥の正論だ。
しばらく黙っていた栄作が、
「ならば長老に譲るのではなく、その息子に直接というのはどうかね。わしのところが不満なら、大石や小松の息子を考えてみたらいかがかな」
冷気を入れるためか、紗の着物の襟をすこし広げ、善吉にまっすぐな視線を向けてくる。
薄くなった白髪頭とは相反して、胸元にはフサフサとした胸毛が覗いている。熊のような風貌は老いても変わらない。幼いころから狐に喩えられてきた善吉には、それも面白くない。
「わしがいっておるのは、そんなことではない。いくら歴史があるからといって、ここに集う十三家だけで回していくことをやめようといってるんじゃ」
「それならどこでもよさそうなもんじゃがな。なぜそうまでして彦坂にこだわる」
栄作はいったん言葉を切って、静かに笑みを浮かべた。
なるほど。気づいておるのか。
そう。いちばんの理由は、上杉家には子供もほかに身内もいないので、老後のことを彦坂家に任せようと思っているからだ。
善吉も笑んだ。
皺だらけの笑みと笑みがぶつかった。
ほかの十一人はとうに話をする気は失せたのか、妙な鍔迫り合いを静観しているようだ。
「まあ、どっちにしても、善吉さん、あんたが決めることじゃ」
さきに真顔に戻ったのは、栄作のほうだった。
善吉は満足そうに頷いてみせたものの、ふいに心の臓に苦々しいものが拡がってゆくのを感じた。この男は、昔よりさらに威風堂々としている。同じ年月を生きてきたというのに。まったくもって……面白くない。
「皆の衆、これ以上長居しても仕方がない。退座するとしよう」
早川栄作が席を立つと、大石俊兵衛と小松誠一郎が続き、ほかの者も陶器の灰皿にタバコを捻じ捨て、ぱらぱらと腰を上げた。
善吉が玄関先で、大儀そうに帰路につく長老たちを見送っていると、最後尾の野呂と関口が口々に声をかけてきた。
「栄作さんらは、自分ところを候補に挙げてほしかったんじゃろ」
「ああ。俊兵衛さんや誠一郎さんも息子や娘婿がおるからの。栄作さんとこでないなら、自分たちがと思っとったはずじゃ」
そうはいいながら、宗夫も史郎もいつかは――息子の圭輔や尚也の代でなくてもいいから、いずれは村長の座を手にしたいと願っているのは善吉も察していた。
「ところでおヨネさんの具合は、どんなかね?」
「さっき診療所の矢沢から電話があってな、街の病院で検査を受けさせることになりそうじゃ」
「なんでもなければよいがの。まあ、なにかあったらいつでも声をかけとくれ」
「おヨネさんがおらんと、いろいろ不自由じゃろ。食事とか困るようならいつでも嫁に届けさせるんでな」
「すまんの」
「礼には及ばんよ。そのぐらいさせんと、家に置いてる意味がない」
「嫁ばかりか、息子もじゃ」
笑いながら出ていくふたりを見送りながら、それでも善吉は彼らが羨ましかった。




