第一部 第二章 9〜10
第一部
第二章
9
午前九時三十分。
二宮三沙子は夫の猛を林業の仕事に送りだしたあと、生まれて六ヵ月になる赤ん坊の舞をおぶって村道に面した実家の店にやってきた。
店の看板が「石川ドラッグストア」となっているのは、彼女の祖父母が薬屋を営んでいて、それを代々引き継いでいったからである。
三沙子は広島市内の短大を卒業後、そのまま職を転々としながら暮らしていたのだが、六年前、三十歳になったのを機に両親に呼び戻され、まんまとひと巡り歳の離れた同じ村の二宮猛と結婚させられたのだった(ちなみに彼女の姉は、両親の反対をよそに三重県の那智勝浦にあるホテルで働いており、兄は兄で田舎を嫌い、奈良市内の会社に就職していた)。以来、両親は三沙子に店をまかせ、農業に専念している。
これといって魅力のない猛だが――広島で付き合った男たちに比べて、と三沙子は結婚当初よく後悔していた――林業も農業もきっちりやるし、仕事も恋愛も長続きしない彼女にとっては、ちょうどよかったのである。
三沙子はシャッターを開けて店に入ると、雑貨屋のように雑然とした棚のあいだを通って奥に向かった。まずイの一番にやることは、クーラーをつけること。一応ドラッグストアを謳っているからには、身なりはすっきりしておかないといけない。
幸い出産後もほとんど体形は変わっていないので、今日は白のブラウスに黒のタイトスカートというコーディネイトだ。本日は毛先を内巻きにしてボブっぽくし、メイクはファッション雑誌を参考にして、ちょっと色気のある大人のオンナを演出している。シャッターを開けているときも、畑にいた山根祐介と木内勲が手を止めてこっちを凝視していた。
まあ、それはそれで気分がいいし、それが売り上げにつながるなら、なお良しというところだ。
そう。この村にはワクワクするようなことはひとつもない。たまに村外からやってくる農林業の関係者を除けば、出会う顔はいつも同じ。お洒落をして出かけるような場所もなければ、仕事だって惰性でやっているだけで、やりがいなんて感じたこともない。
それでも彼女は、この店にくると心底ホッとするのだった。
家に居て猛の母、貞子のわけのわからない話の相手をしているくらいなら、ここにいるほうがまだマシだ。
認知症のせいもあるのだろうが、もともと思い込みが烈しい性質で、なにかにつけていわれのない愚痴や文句ばかりいってくる。おまけに足が悪くて杖がないとどうにもならないので、家にいれば三沙子がなにかと面倒を見るハメになる。舞を実家の両親に預けるのは、そういった理由からだ。
早くなんとかなってくれないかしら、と彼女はいつも心の底で願っていた――とはいえ、そうなったらなったで、義母の年金がなくなるのは困るのだが。
店の奥の裏口から母屋へいく途中で舞がグズりはじめた。
顔が歪むと、なおさら夫と義母にソックリに見えてくる。そんなとき、舞の身体にはちょっとしたアザができることになる。三沙子は思いっきりつねってやりたいのをがまんして、母親に赤ん坊を手渡した。
彼女は舞が疎ましくなることがままあった。その気持ちが爆発すると、自分で自分がコントロールできなくなる。
これからはミルクに加えて離乳食の用意。寝ている時間は短くなり、グズる時間が多くなる。抱っこするにしてもおぶるにしても、ますます重くなってくる。ハイハイも盛んにするようになるだろう。目が放せない。ゆっくりできない。身体はきつい。考えただけでブルーになる。
え? 母性? いやいや。それをもってしても、どうにもならないのだ。
テレビのニュースでは、我が子を手にかける母親は鬼畜のごとく扱われるが、それが彼女には不思議に思えることがある。
人間って、そんなに立派なものなのかしら――。
店に戻って、殺虫剤や防虫剤、ついでにマスクや生理用品の補充をしていると、永野酒店の永野静子が顔を出した。もうじき萬屋の溝尻耀子もやってくるだろう。
静子と耀子は、商店仲間で人生の先輩。子育ても終わり、子供たちはとりあえず県外で就職している。家に老人を抱えているので、三沙子の愚痴もよく聞いてくれる。とりわけ耀子は、舅姑を内心殺してやりたいと思っているらしく、よけい親身になってくれる。
石川ドラッグストアは、これら舅姑の悩みを持つ女たちが集ってくる、ストレス発散場所でもあった。
10
午前九時四十五分。
蝉時雨がいちだんと烈しさを増してくるなか、毛利雅治は、普段着から農作業用の服に着替え、縁側からではなく、玄関で運動靴を履いて裏庭のほうに回った。
家屋一軒一軒の敷地が広い天神村にあっても、毛利家は格別大きい。村の中心部よりやや大神山寄りに位置し、お屋敷というほどではないにしろ、外門も外塀もあり、ひと目で農家とは一線を画す家柄だということがわかる。
外門から玄関までは車三台分のスペースと幅広の縁側が迫りだした表庭、家屋をはさんで反対側には土蔵を備えた裏庭があり、家の裏手の山側に畑を、村道を渡って田んぼを所有しているが、敷地に比べて農地面積がさほどでもないのは、隣家にだいぶ売却してしまったからで、それでもほかの農家よりはまだだいぶ広かった。
気配を感じたのか、ルームウェアのまま、サンダルをつっかけて洗濯物を干していた妻の晶子が、訝しげに振り返った。
「なによ。声かけてよ。びっくりするじゃない」
そういわれても、このセミの鳴き声だ。だいぶ大きな声を出さなければ聞こえまい。朝から妻の名を大声で怒鳴っていると思われるのも心外だ。
些細なことでも、噂は光速で拡散するもの。そしてそこには妬み嫉みどころか、確信的な悪意によって尾ヒレがくっつき、人の心に残ることになる。どんなに否定しても、けっして払拭できない、真実なんておかまいなしの事実として。
だから、新聞や週刊誌に書かれていることも、テレビで取りあげているいかなるコンテンツも、彼の心の円グラフにおける真偽は常に半々。そうであるべきだし、またそうならざるを得ない事情があった。
「ああ。ごめん、ごめん」
それよりも、ぼうっとしていた妻の様子が気になった。
伏し目がちで姿勢も少々猫背気味。髪型をセミロングよりすこし短めにしたせいもあって、いくらかふっくらしたように見えるが、やはりまだ完全に立ち直ったとはいえそうもない。
「……手伝おうか?」
「んーん。いいわよ……」
「……そうか」
夫の顔に思案げな色を見てとったのだろう。彼女は小さく笑うと、洗濯物を干す手を休めた。
「わかってるのよ……わかってるんだけど……」
晶子の顔が歪んだ。瞳が焦点を失い、睫毛が小刻みに震えだす。それをすぐまた、とり繕うように眉をすぼめて微笑んでみせる。
形容しがたい恨みや憎しみ、どうにもならない苦しみや哀しみ、そんなものを味わうと、人はこんな表情ができるようになるのかもしれない。同時にそんな妻が憐れだった。
そう。彼女は彼女なりに、一生懸命やってきたのだから――。
しかし、言葉にすることなく、雅治は庭伝いに裏木戸を開け、畑へ向かった。
声をかけてやりたくても、どういっていいかわからなかった。それは彼自身もまだ、振っ切れていないからかもしれなかった。




