第一部 第二章 8
第一部
第二章
8
午前九時。
学校における夏の風物詩といえば、恋やら部活やら、はたまた怪談話やらといろいろだが、それも土地柄によってかなり違ってくる。
校庭の草花や土埃の匂い、突然の通り雨(昨今はそんなかわいいものではなく、ゲリラ雷雨)などはある程度共通していても、教室を席巻する蝉時雨や、ときおり聞こえてくるカエルの合唱となると、都会の学校ではそうは味わえない。たまさかそんな日があったとしても、騒音がすべてを掻き消してしまう。
山里で暮らすということは、四季が運ぶ自然に順応し、共存していくということであり、三校の生徒たちは特に意識することなく、もしくは選択肢のないまま、毎日を生きていた。
*
今日は一学期の終業日――。
三校では、夏休みは八月1日から三十一日までと若干短く、逆に冬休みは積雪を考慮していくらか長い。始業式と終業式は天気が悪くないかぎり、春と夏は校庭、秋と冬は体育館というのが恒例になっている。
いまその校庭では、小中の教諭と生徒を併せて全体朝礼が行われていた。トップバッターとして登壇し、マイクの前に立っているのはむろん校長だ。
六十歳にほど近い、ちょっと四角ばった顔に金縁眼鏡をかけた、この福井敏男という校長は、厳格なだけでなく親しみやすさも持ち合わせており、生徒をはじめ、父兄や教員たちからも人気はあるのだが、いかんせん話が長いのがたまに瑕で、
「この夏休みが楽しい想い出となるよう云々……なにか新しいことに挑戦してみるのも云々……学力を伸ばすのも忘れずに云々……殊に中学三年生は自分の進路を見据えて云々……身体に気をつけて二学期の始業日には元気な姿で云々……」
校内の樹木に縦列した何百匹というセミのうねりが熱波を歪め、暑さ指数を底上げしていくなか、
(どうかお願い……)
ご祈願よろしく、心のなかでスリスリと手を合わせる小中学生や、
(いい加減、終わってくれ……)
横一線に並んだクールビズの教職員らの思念など、どこ吹く風で演説を繰り広げていた。
だがしかし、〆の言葉だけはさすが校長、
「記録的な猛暑になりそうですが、私くらいの歳になると、あと何回この季節を迎えることができるだろうかと、そんなふうに考えるようになります。みなさんはまだ実感できないかもしれませんが、どの季節も、どんな事柄も、美しく、愛おしいものです。みなさんの、この夏休みが、素晴らしいものとなりますよう願っております」
生徒にも教師にも、琴線に触れる文言を残して壇上を下りた。
そのあと、教頭から校庭開放や三郷図書館の利用についての説明、続いて保健体育の教師から体調管理についての話があり、ようやく解散。
とたんに弛緩したように隊列が揺らぎ、生徒たちがバラバラと校舎に向かって歩きだす。掌で顔を扇いだり、陽射を避けるために腕全体で庇を作っている者も少なくない。汗を光らせながら駆けだしていくのは、小学生の低学年くらいか。
校舎出入り口でしばし順番待ち。整然と並んだ、もはや黒ずんでさえいる木製の下駄箱の前で上履きに履き替え、年季の入った板敷きの廊下をそれぞれのクラスに散ってゆく。
小学生は校舎の一階、中学生は二階を使用していて、全学年一クラスずつだが、三村の共同分校ということもあり、山里の学校にしては生徒数が多い。小学校は一年生から六年生まで、だいたい十人前後、中学校は一年生が十四人、二年生が九人、三年生が十人といった具合で、男女比はまちまちだが、どの教室もなかなか賑やかだった。
まもなくして、一学期最後の始業チャイムが鳴り響いた。
**
校舎全体の冷暖房は、今日も役に立ちそうになく、すでにすべてのクラスの窓とカーテンが開けっ放しになっている。熱風とともに、ストレートに入り込んでくるセミの鳴き声。
彼らの複眼には、さいぜんの終業式と同じく、またもや似たような光景――たとえば、小学六年生のクラスでは、担任の篠原健一教諭が毛利真央と由美子に入れ替わり通知簿を手渡していたり、中学三年生のクラスでは、小山裕子がガムをクチャクチャやりながら担任の林田信夫教諭からそれを受け取っていたり――が、同時に映っていることだろう。
踏襲される日常。心と行動が必ずしも一致していなかったとしても、それでも、繰り返し繰り広げられてきた世界。
そんなものが、いまも見えていることだろう。
***
中三のクラスでは、担任の林田信夫が通知簿を配り終えるやいなやホームルームを終え、チャイムが鳴るまで自習時間(黒板には【夏休みの計画表】とある)にしたので、友だち同士で集まって図書館へいく予定などを話し合っていた。
各グループ、古い木造校舎の教室にはあまりマッチしていない、合板&パイプ製の机と椅子を寄せ合って、真面目な顔でヒソヒソやっている。生徒たちの頭のなかが高校受験、もしくは将来的なヴィジョンになっているせいか、ほかのクラスほどはしゃいでいる生徒は見当たらない。
教室内では自然と住んでいる地域単位でグループが形成される傾向が強いが、教員も生徒も天神村の者が半数以上を占める三校では、すべての学年で天神村のグループがいちばん人数が多い。中三のクラスでも天神村が七人、白河村が二人、黒滝村が一人という割合になっている。
ただこのクラスの天神村のグループだけは、さらにふたつの島に割れていた。
「ユーコ、やっぱモグラんなりてぇみてェだな」
どうせ自習なんだからと、短めに調節した制服のスカートをひるがえして教室を出ていく小山裕子の後ろ姿(たぶんトイレ、ついでにスマホ)を目で追いながら、高石正充がため息をついた。
パッチリしていてカワイイといえなくもない目が、こういうときは裏目に出る。おもちゃのビックリ目玉よろしく妙に血走ったギョロ目になり、女子からことごとく引かれている。
「モグラってもなぁ、高校……いはなひゃ……いへでらねへし……」
喋りながら、大あくびをしているのは中谷大介だ。
小さな目と鼻が肉付きのよい顔面に埋没し、上下に開いたタラコ唇だけが奇怪な生き物のように小刻みにプルプル震えている。これをいきなり目の前で見せられたら、誰であろうと逃げだしたくなる。
子供のころから徐々に太りだし、とうに肥満の域を超えているので、羽織っただけの開襟シャツはもとより、なかに着ているロゴの入った薄茶色のTシャツも首から腹まで汗びっしょりだ。カマキリ顔の、ヤセでノッポの父親とは似ても似つかない。クマのプーさんみたいでカワイイという物好きも(小学生の低学年にかぎり)いるにはいるが、こっちもおおかたの女子からはダメ出しされている。
ちなみにギョロ目とデブは、どちらかといえばそれぞれの母親、佐和子と直子の系統だ。
「オメェさァ、汗臭ぇし、キモいンだよ」
「なんだよぉ。オレの話じゃねぇーだろ。ユーコの話だろぉ」
正充がからかうと、大介が思わず口を尖らせる。見た目に似合わない高めの声が、クラスで浮いた空気を逆撫でする。
そこへ、黒いタンクトップにシャツを引っ掛けて腰パンでキメた、いかにも田舎ヤンキーの代表といった風体の――裕子よりだいぶ前にトイレにいって、しばしタバコを吸ってサボってきた――矢島明が、細く整えた片眉を吊り上げながら割り込んだ。
「マサもダイもわかってねえな。アイツならゼッテ―大丈夫だって」
父親譲りの鋭い目とちょっとドスの利いた声。中学生にしては上背があり、手も足も長い。かなりワルそうな雰囲気だが、それほどイカレて見えないのは、気品のある母親の影響かもしれない。
とはいえ、中三になってからリーゼントにしてメッシュまで入れた髪は(春に京都の叔父のところへ遊びにいったときにやったものらしく)、いまはなんだかよくわからない長髪になっている。
裕子を含めたこの四人は自他ともに不良を気取っているが、口と服装と素行が悪い程度の連中だった。というより、悪さをしたくても、そもそもこんな田舎の村では高が知れていた。なんせゲームセンターやカラオケといった遊戯施設はおろか、飲食店やコンビニエンスストア、それどころか信号機ひとつないのだから。
だが、本人たちにしてみれば、それでよかった。
警察と追いかけっこをすることもなく、他校とケンカするでもなく、せいぜい三校で幅を利かせるだけの、平和な村の、平和なヤンキー――。
とりわけ男子三人は、自分たちの将来を真剣に考えたこともなければ、夢と呼べるようなものもなかった。受験に失敗しても、正充と大介は父親の農協の見習いの仕事があったし、明は父親の林業の仕事に加えてもらえばいいという布石があった。
彼らにとって、未来とはあまりにも漠然としたつかみどころのないものであり、そんなことを考えるより、仲間と遊んだり、ゲームでもやって過ごしていればそれでよかった。
いままでは――。
しかし、そんな彼らが土壇場になって猛烈に勉強をはじめたのは、なにも突然克己心が芽生えたからではない。裕子の進路――都会の高校へ進学し、その容姿(今時のタレントにいそうな、スッキリとした顔立ちとスレンダーなスタイル)を活かしてどこかの芸能事務所に所属するという計画が、にわかに現実味を帯びてきたからだ。
そうか。それならオレらも一緒にいって、一旗揚げるのも悪くない。それもアリではないか――。
そう。安直な夢ほど魅力的なものである。これもいずこも変わらぬ若者たちの姿であった。
「ま、オレらはいまさらだけどな」
明が脚で椅子をずらして、どっかと腰を下ろす。
「だよなァ」
大介が舌打ちすると、正充が頷いてみせる。
「アイツらみてえに、一年のときから勉強してきたわけじゃねェからな」
三人はもういっぽうの天神村のグループに、ガンを飛ばすように視線を向けた。
「……あいつら、なに見てんだ?」
藤村光治が怪訝な顔で、明たちを見返した。
こっちは制服も髪型もいたってふつう。運動部にでもいそうなタイプだが、目つきや通りのよい声は精悍で、けっして彼らに負けていない。背もわりと高いほうで、明と同じくらいある。
「相手にするな」
机に向ったまま、顔も上げずに応じたのは木本拓也だ。
そうしていると長めの前髪に隠れて、覗き込まないかぎり、いま見ているのが数学の問題集(しかも、高校で使用するものだ)であることもわからない。近眼らしく、いつも眼鏡をかけているが、いわゆるネクラのガリ勉タイプとはいささか異なり、クラスでは静かな存在感を放っている。偏差値テストの結果が飛び抜けていたという噂はあるものの、本人は肯定も否定もしていない。
「そんなことよりコージ、おまえ――」
拓也がいいかけた横で、
「ホントに受験しないの?」
夏休みの宿題をカバンにしまいながら、松下美香があとを引き取った。
彼女もまた、裕子とはあらゆる意味で正反対――真面目で品行方正、まさにクラス委員にふさわしいタイプだ。
「ああ。俺は林業をやりながら農家を継ごうと思ってるんだ」
穏やかだが、きっぱりとした光治の答えに、美香は小さくため息をついた。
「どうして? 街の高校へいって、将来は都会へ出たいと思わないの?」
「ぜんぜん」
拓也がチラッと、上目遣いに光治を見る。
「都会に出れば、やりがいのある仕事もたくさんあるし、便利な暮らしだってできるのに」
「そうかな、俺はそうは思わないな。天神村はいい村だよ。ここだってそんなに不便ってわけじゃないし、林業や農業の仕事だってあるし、それにミカやタクのうちだって――」
美香の頬にサッと赤みが射した。
「ちょっと待ってよ!」
額にはアニメの怒りマークよろしく、くっきりと皺が刻まれている。
「あたしに百姓になれっていうのッ!」
彼女は腹が立ってくると、髪を梳くように弄くり回し、あげく一気に後ろに束ね、そして決まって両手の甲を腰に当てる癖がある。夏のはじめに髪は肩くらいまで切ってしまったので、いまは束ねられないが。
「なんだよ。そんな、怒ることないだろ」
つられたように、光治の声も荒くなる。
「怒ってなんか、ないわよ! あたしはね、こんなとこにいたってなんにもないじゃないっていってンのよッ!」
「わかった、わかったって。おまえはおまえの好きにすればいいじゃないか」
「いわれなくても、そうするわよッ!」
美香は顔を真っ赤にしてしばらく光治を睨んでいたが、やがてプイッと身をひるがえし――戸口のところでちょうど戻ってきた裕子(さっきと違って、明るく染めた長い髪をポニーテールに括り、耳にダンスの練習用の曲を流すためのイヤホンをつけ、うっすらとメイクしている)にぶつかったが、謝りもせずに教室を出ていった。
明たちの一団が、いっせいにヒュゥ―と口笛を吹く。
面食らった裕子が(ナニ、アレ? という顔で)、光治たちを顧みる。ワンテンポ遅れて後ろで括った髪がクルンと回り、衝突の衝撃で緩んだイヤホンがお気に入りのダンスナンバーを振り撒きながら落下していく。
誰もが皆、目の前の丘を乗り越えないわけにはいかないようだった。
ほかの女子もこのドタバタを、口元を押さえてクスクス笑っている。
中三のクラスは男女比が同率で、天神村の裕子と美香は男子のグループ、白河村の畑山敦子と田村かおり、黒滝村の村沖麻琴は女子でひとつのグループを作っている。
容姿も性格もそれぞれ。裕子だけは多少大人びて見えるが、みんなきわめてふつうの女子中学生だった。
なかでも美香は中三の、つまりこの学校の最年長のクラス委員なので、実質的に生徒会長のような立場であり、生徒ばかりか教師にも一目置かれていた。
「もうすこし違った言い方はできないもんかな……」
ふたりの様子をじっと窺っていた拓也が、首を横に振りながら問題集を閉じた。眉をひそめ、メタルフレームのブリッジを中指でグッと押し上げる。
「……スマン。俺はおまえたちが選んだ道をとやかくいうつもりはないんだ」
「そんなこと、わかってるさ。それよりまだ時間はある。もう一度よく考えてみろよ」
光治と美香、そして拓也は小学校のときからの仲良しで、学校以外でもほとんど一緒に行動していた。が、それも中学二年生まで。中三になって進路が分かれてからは、だんだんすれ違いが多くなってきた。
拓也と美香にはそれぞれ八つ歳の離れた兄姉がおり、ふたりとも将来的には兄姉が暮らす東京へいくことを望んだが、光治は村に残るほうを選んだ。
光治が受験しないと決めてから、三人の関係はすこしずつ変わっていった。帰りに寄り道して遅くまで話したり、誰かの家に集まったりすることもなくなった。そうなると当然のことながら、拓也と美香も一緒にいることが少なくなっていった。光治が抜けたことで、ふたりともこれまで意識しなかったものを――男と女を意識せざるを得なくなったからだ。彼らもまた、十五歳という年齢と現実的に向き合わねばならない時期に差しかかっていた。
だからこのごろ彼らの胸のうちをよぎるのは、一緒にいるのが当たり前だった仲良し三人組のころの姿であり、同時に自分たちはけっして後戻りできない時の旅人なのだ、というせつない想いだった。




