第一部 第四章 7
第一部
第四章
7
日向孝之が三郷図書館に入っていくと、三校の教諭の山本和馬が諸手を挙げて受付カウンターから出てきた。整理でもしていたのか、カウンターの上には高校受験用のテキストや小学生用のドリルが山積みになっている。
「昨夜は本当にごくろうさまでした。村民として礼をいいます」
居住まいを正し、和馬が丁寧に頭を下げてくる。
この男が人格者であろうことは、昨夜交わした、いくばくかの会話でも察せられたが、それでも孝之は少々面食らってしまった。
「いえ。乗りかかった舟ですから」
「そういってもらえると助かります。ええと、日向さんでしたね。本日は図書館の利用ですか?」
「ええ。僕でも利用できますか?」
「もちろん。ここは三校の生徒だけでなく、村人の利用者も多いんですよ。まあ、そっちは本を読むというより、涼みがてらっていうのがほんとのところなんですがね」
和馬は、濃い眉を段違いにして肩をすくめてみせた。
村外者ということで気遣ってくれているのかもしれないが、彼の言葉にはほとんど訛りがなかった。それは友康や宮司の宗方、それと診療所の矢沢七瀬にもいえることで、安代情報によれば友康の妻の響子も入れて、その四人はもともとこの村の人間ではないらしい。
クーラーのほどよく効いた館内には、十二卓の大きな机が縦四列横三列に並んでいて、老若男女が三十名くらいだろうか、席についているのが見えた。壁一面の本棚にはびっしり書籍が収納されており、受付カウンター奥の棚には映画のディスクや音楽のCDまで並んでいる。カウンターの対面には自販機と大きなテーブルをはさんでソファが置かれていて、ちょっとした休憩スペースになっている。
「ここへは車で? それとも自転車ですか?」
「いえ、歩きです」
「それじゃ暑かったでしょう。もっとも私も身体のことを考えて、ほとんど徒歩かチャリですけどね」
「歩きついでに周囲をぐるっと回ってみたんですが、ここは隣の三校よりずいぶんと新しい感じがしますね」
「田舎の図書館にしては立派なものでしょう。三つの村の共同施設として八年前に建てられたんですよ。三校の校舎も、あれはあれで趣があっていいんですけどね」
そのとおりだった。孝之は三校と図書館の周囲を金網越しに歩いてみたのだが、古風な木造校舎と比較的新しい図書館のミスマッチは、ともすればヴァーチャル的ですらあり、敷地の面積が広くとられているので、ここはさながらフィールド上に突如出現した巨大なオアシスのようだった。位置的にはちょうど三つの村の中心部にあるから利便性はすこぶる高い。
すると和馬はいったん思案するような間を置き、孝之にソファをすすめてきた。
「カウンターの上の参考書類を片付けてきますので、すこし待っていてください」
孝之はいわれるままに腰を下ろすと、【携帯電話はマナーモードに】という壁の張り紙を見てスマートフォンをオフにし、ついでにジャケットを脱いで背もたれにかけた。Tシャツもジーンズもけっこう汗ばんでいる。
いかんせん、太陽の強い陽射しと地面からの放射熱でジリジリ灼かれているような道のりだったので、ここの涼しさときたらまるで天国と地獄ほどもありがたかった。
受付カウンター奥の棚に並んだ映画やCOのタイトルを眺めていると、
「著作権法違反なのかもしれませんがね」
和馬が視線に気づいて悪戯っぽく笑った。
この一角はほとんどが彼の自前で、おもに希望する生徒たちに貸しているという。
と、ふと奥のほうの席で、毛利真央が小さく手を振っているのが目に入った。昨夜駐在所で雅治と一緒にいたときに会っただけなのに憶えていてくれたらしい。今日は長い黒髪をふたつに括っている。ちなみに彼女は子供なので捜索には参加しなかったのだが、なぜかその印象は孝之の心にも強く残っていた。
横にいる色違いのカットソーを着た少女も、それに気づいてちょこんとおじぎをする。安代のいっていた、毛利家のもうひとりの娘と思われた。双子ということだったが、そっくりというわけではなく、彼女もまた真央に負けず劣らず可愛らしい女の子だった。母親は知らないが、父親の雅治のルックスからすれば当然といえた。
孝之が手を挙げて応じると、ふたりは肘でつつきあい、ちょっと照れたようにニコッと笑った。
カウンターから出てきた和馬が、自販機で缶コーヒーを二本買って対面に座った。受付は目の前なので、無人になっても問題なさそうだ。
「ちょうど、自販機の補充があったばかりで……このプレミアムはけっこうイケるんですよ」
そういって、ブラックコーヒーを差しだしてくる。孝之は礼をいって受け取り、プルタブを上げた。
たしかにひと昔前までは缶コーヒー、特にブラックは飲めたものではなかったが、コンビニエンスストアが挽きたてコーヒーの提供をはじめたくらいからか、その味は飛躍的に向上している。
自販機の補充と聞いて、孝之はここにくる途中ですれ違った永野酒屋のロゴが入ったミニバンを思いだした。運転していたショートカットの奥さんと目顔で挨拶した際、側面の窓越しに清涼飲料水の銘柄が印字された段ボールが荷台にいくつか載っているのが見えたから、図書館の納品はあそこが引き受けているのだろう。
永野酒店もそうだだが、スーパー萬屋や石川ドラッグストアも、もういっぱしの顔馴染みだ。
缶コーヒーをひと口飲み、なにを思ったか和馬がニヤリと笑みを浮かべた、ブラックフレームの眼鏡の奥で目がすっと細くなる。
「もしかしたら、神隠しのことをお知りになりたいんじゃないですか?」
図星だった。安代はああ言ったものの、他所者にはあまり話したくない話題かもしれないと思っていたので、そのじつどう切りだしていいものか迷っているところだった。それだけにあっけらかんとした和馬の態度には正直驚いた。
頷きながら和馬が続ける。
「昨日の今日ですからね。あなたが誰かに聞いていれば興味を持つのも当然です」
「僕なんかに話してもいいんですか」
「ええ。あなたは巻き添えを喰ったわけですから、その権利は充分ありますよ。ここなら話をしていても、さほど迷惑にはなりませんから」
ウィンクこそしなかったが、ひょうきんな顔でまた笑う。
歳は五十代半ばくらいだろうか。濃い系の顔で、短めの髪は黒々としており髭剃り痕も濃い。屈託がなく、話しやすいタイプだ。堅苦しさを感じさせないオ―バ―サイズのシャツに薄い色のスラックスも、人柄と相まってよく似合っている。
教師に特段悪い印象を持っているわけではないが、孝之の和馬に対する評価はかなり上がった。
「では、お言葉に甘えて。……僕も昨夜の駆け落ちには腑に落ちない部分がいくつかあるんです」
孝之がいうと、和馬も同調するように深く頷いた。
「車も身の回りの物も置いたまま、ですからね。一時避難的に誰かの家に匿ってもらうというのも、狭い村だし、問題が問題なので考えづらい。むしろどこかに隠れているとか、徒歩で山越え道を越えたとか、そう考えるほうがまだ現実的です」
「たしかに。でも、あの時間から子供を連れてとなると、それもかなり無理がありますよね」
「ええ。ですからゆうべの一件を知って、村の言い伝えが頭をかすめた村人も少なからずいるはずです。私みたいにね。
幼いころ、私もよく両親に言い聞かされましたよ。陰森には入るなとか、言う事をきかないと神隠しに遭うとか……。まあ、物心ついたころには、子供が迷子にならないための作り話だと考えるようになりましたがね」
「陰森は迷い森だと聞きましたが、磁場があるらしいですね」
「地質学の研究チームによるとそうらしいです。もしかするとコンパスがない時代でも、人間の五感的な部分で方向感覚を狂わされた可能性はあったかもしれません。しかし、かりにそうだったとしても、問題はそこではありません。実際にそういった出来事があったということです」
「人が行方不明になることがですか」
「ええ。それも七度も……」
そういう出来事があった、と。
ではひとりやふたりではなかったということか、と思うと同時に、孝之はこのときなにかが気になった。
なんだろう。頭のなかには浮かんでいるのに具体化されない、思いだせそうで思いだせない、それとよく似ていた。
「……ですが天神村の長老たち――全員が村長の助役みたいなものですが、彼らはその話をしたがりません。家によっては古文署というか、当時の日記みたいな文献もあったと聞きますが、紛失したのか破棄したのか……。だから村人たちも若い人ほど神隠しの詳細は知りません。私にしても大神神社を重要文化財に指定する働きかけを手伝った際、村の歴史の一環として調べてみるまで詳しい内容に触れる機会はありませんでしたから。
それにしても天神村の長老たちから話を訊きだすのはひと苦労でしたよ。まあ、覚書程度には話してもらえましたが。それも私が黒滝村出身というのが大きかったのかもしれませんがね」
いったん言葉を切って、和馬がまたもや眉尻を下げて孝之を見る。
「天神村からすれば、ほかのふたつの村は大神山とも陰森とも直結していませんからね。そうなると私もいまのあなたと同じ、他所者というわけです。むしろ白河村や黒滝村の長老たちのほうが協力的だったくらいですよ。そんなわけで、この話は当時一緒に調べてくれた大学の教授としか共有していませんので一応、他言無用でお願いします」
その大学教授というのが、例の安代のいっていた人物だろう。その彼もまた、自分と同じ他所者ということか。
もちろん、と孝之が応じると、和馬はふたたびカウンターのなかに入り、小さなノートを持って戻ってきた。そのときの覚書だという。懐かしそうにペラペラめくるのを見ていると、まさに覚書といった感じの筆記体で大雑把に文字が並んでいた。
それから和馬は、長老たちの記憶に齟齬があることや語り継がれていくうちに曖昧になっている部分があることは否めないが、と前置きしたうえで、当時の覚書を見ながら国語教師らしく要点をまとめて話してくれた。
大化四年から享保十七年、西暦でいえば六四八年から一七三二年、つまり飛鳥時代から江戸時代までのあいだで陰森における行方不明者は全部で七名。全員女の子で、しかも八人目の女児以外、発見された子はひとりもいないという。
特筆すべきは、陰森で女児が行方不明になったあと、村の者が次々と姿を消しており、しかも村人たちは、村から逃げようにも逃げられなかった、と伝えられている点だ。
ただし、この陰森を端に発した集団失踪は毎回ではなかったらしい。陰森で女児が行方不明になっただけの年のほうが多かったというから、大規模な失踪事件は何十年か何百年かごとにランダムに発生していたと考えられる。
いずれにおいても、神隠しは飢饉の年に起こっていたというから、異常気象による干ばつなどの被害が甚大だった年ということになる。
大化四年のときには通りすがりの行者(その人物こそが、大神神社を創建したのではないかといわれているが、正体は不明――年代と土地柄から役小角ではないかと和馬は推測していた)によって事なきを得、享保十七年のときには山で暮らしていた山人衆のなかのひとりが自らの命と引き換えに、行方不明になっていた女児を救ったとされている。ほかの年に関しては、ここまではっきりした伝承はなかったというから、集団失踪事件は最初と最後のふたつの年だけだったのかもしれない。
さらにこれらの怪事件の収束の経緯や真相にいたっては、語り継がれていくうちに徐々に抜け落ちていったのか、あるいは当初から禁忌にしたのか、詳しくは継承されなかったようで、唯一残っているのは陰森に火災が発生し、〝荒ぶる神々〟を〝リュウ〟が鎮めたという伝承だけだという。
「話をまとめると、だいたいこんなところです」
和馬は覚書ノートを閉じ、口を湿らすようにコーヒーを口に含んだ。
蒼々とした顎の下で喉がゴクリと音をたてる。その眼鏡の奥の目は、話に出てきた長老たちを思わせた。
ひと息ついて、孝之も缶コーヒーに手を伸ばした。
勉強の合間の小休止にでもいくのか、中学生らしき女の子がふたり、こっちをチラチラ見ながら横を通っていった。出入口の自動ドアの開閉音にかぶるようにして、太陽に炙られた熱風がセミの声とともに傾れ込んでくる。
女の子たちが外に出るのを見届けてから、孝之は訊いてみた。
「伝承に出てきた〝リュウ〟ですが、それっていわゆる、あの架空の生き物の〝龍〟のことですか?」
和馬が浅く頷く。
「おそらくそうでしょう。荒ぶる神々を鎮めたのは、その龍ということになりますね」
「それは神隠しが起きるたびに出現したということでしょうか」
「そこのところははっきりしません。ただ、最初と最後の年だけは間違いないようです。陰森が火事になったという伝承が残っていますから……といっても、ほんとに龍が出たなんてことはないでしょうから、なにかの喩え、暗喩や比喩の類でしょう。時代によって事象の捉え方は大きく異なりますからね。伝承とはそんなものです」
「なるほど」
頷き返してはみたものの、孝之の頭のなかには数々の疑問が生じていた。
なぜ陰森の行方不明者の最初のひとりは、いつも女児なのか。行方不明になった場所が陰森だと、どうして特定できたのか。
大化のときの最初のひとりはいいとして……つまりなんらかの手がかりから陰森で迷子になったことが判明したとして……だがそのあとの七人は、いくら時代が違っているとはいえあまりに数が多すぎる。陰森で行方不明になった事件は語り継がれていたはずだし、だからこその言い伝えだったはずだ。
それもひとりも帰ってこないとは。
たしかにあの森で迷子になれば、遭難による事故死や餓死の可能性は高いだろう。しかし、幾人かは発見されてもよさそうなものだ。
山人に救われたという、八人目の女児は別にして。
加えて、村の住民まで行方不明になっているのはなぜか。女児の捜索に出てのことなのか、それとは無関係なのか。そもそも彼らのほうはどうなったのか。村から逃げようにも逃げられなかった、とはどういう意味なのか。
収束の経緯や真相は伝承されなかったというけれど、これほど肝心な部分がすっぽり抜け落ちているということは、むしろきわめて意図的にそうされていったとしか思えない。
そして、陰森の火事。さらに〝荒ぶる神々〟と、それを鎮めたという〝龍〟――。
そのときふいに、孝之をじっと見つめている和馬の視線に気がついた。
昨夜陰森の話をしているときに耕平の瞳の奥にチラリを浮かんだ不快な光――それといくらか共通したような鈍い輝きがひそんでいるような気がした。
「まあ、釈然としない部分はあると思いますが……所詮は伝承」
孝之の疑問を見抜いたように、和馬が言葉を継いだ。
「私もいろいろ考えを巡らせてみたりしたんですが、それもあくまで憶測に過ぎません。証明のしようがない、というのが実際のところです」
和馬は遠くを見るような目をして、スッと肩の力を抜いた。その瞳からは、さいぜんの光は失せていた。
伝承を信じるなら神隠しは千年以上に亘って、数十年、あるいは数百年ごとに起こっていたことになるわけで、そうであるならいまそれが起きても不思議はないのだが、果たしてそんな迷信じみた事象が実際に発生するだろうか。
しかし孝之はそれ以上、話を飛躍させることはしなかった。そのことと今回の件を結びつけてみても、それこそ憶測の域を出ないからだ。
「興味深い話、ありがとうございました」
和馬は相好を崩すと、いやいや、と手を振ってみせた。
「せっかくここまできたんですから、この村やこの地方にまつわる書籍でも用意しましょうか」
もとよりそのつもりだったので、
「助かります。お願いします」
孝之が頼むと和馬は嬉しそうに頷き、立ち上がって書棚のほうへ向かっていった。
そのとき、ふたたび出入口のドアが開き、さっきの女の子たちが戻ってきた。
ふたりともプリントTシャツにダメージジーンズ。年相応の若々しい恰好をしている。肌も夏らしい色に灼けている。まんま、原宿を歩いていそうな感じだ。情報化社会となったいま、都会と地方の差など存在しないのだろう。
ふたりは窓の外を気にするそぶりで館内の奥、端に座っている男子のもとに小走りで駆け寄っていく。
腰を浮かせて窓の外に目をやると、通りを渡った駐車場のところで男女が数人。口論しているように見えた。どうやら女子ひとりに対して男女4人という構図のようだ。そこにもうひとり、べつの男子が加わろうとしている。
館内にいる男子も友だちなのだろう。都会では高校球児くらいしかお目にかかれないタイプだが、表にいる同年代の男子と比べるとやはり少数派のようだ。
彼は女の子たちから耳打ちを受けるなり、気色ばんだ表情で孝之の横を通って外へ出ていった。そこにちょうど、本を抱えた和馬が戻ってきた。
「五冊ほど見繕ってきました。奥の席が落ち着きますよ」
孝之が礼をいうよりさきに、さっきの女の子たちが今度はこっちにやってきた。ふたりは孝之を見て、軽く頭を下げてから和馬に向き直った。
「おう、どうした?」
和馬が気さくに声をかける。
「あの、ミカとアキラたちが、モメてます」
んん、といいながら、和馬が休憩スペースの窓から外を見やる。つられてもう一度外を見てみたら、大変なことになっていた。




