第一部 第四章 4~5
第一部
第四章
4
三郷郵便局員の中村芳郎は、妻の弁当にも飽きていたので、今日は局内でカップ麺を食べてから隣の村役場に向かった。荷物を出す客がいれば、役場から見えるので問題ない。午後の配達はないが、一応ポストを廻らなければならないのでスクーターは脇にある駐輪場で充電中だ。
郵便局のバイク――いわゆる郵便カブがガソリンから電動式に換わったことによって、家庭でも充電できるし、燃料のストックに気を使わなくて済むので圧倒的に便利になった。もっとも車体は赤が基調なので、そんなことには気づかない人が多いかもしれない。
それにしても暑い。役場までほんのわずかだというのに、顔や腕がチリチリする。支給されたユニフォームを直射日光が直接突き刺してくる。
役場のガラス扉を開けると、職員の市川政夫がいつものごとく長椅子に座ってくつろいでいた。冷房はよく効いていて、カウンターの端に置いてあるテレビの画面にはお馴染みの昼のワイドショーが流れている。「おう」と軽く頷き合い、芳郎も対面の長椅子に腰掛けた。
「千尋もかわいそうにな」
政夫がさっそく昨晩の一件を話しだす。芳郎も政夫も南原千尋の捜索には途中から参加していたので、ふたりとも事の顛末は聞き及んでいた。
「あれじゃ家出したくもなるだろ」
男好きしそうな人妻と、その娘の担任で若くて真面目そうな独身の教師。そして三行半を衝きつけられたみじめな夫。話は尽きない。
政夫は芳郎よりひとつ上だが、三校も一緒に通った仲だし、ふたりとも県外の高校を卒業したあとそれぞれ村で仕事に就いたので、かれこれ五十年以上の付き合いになる。
出入口のガラス扉の向こうには村道をはさんで、毛利雅治と早川の倅の大作が向かいの畦道を話しながら横切っていくのが見える。そのさきには、下山秀夫と浜田勝雄のグループ、すこし離れたところでひとり黙々と農作業をしているのは原島哲哉だ。佐藤光夫と斉藤元の軽トラックは側溝をまたいで駐車したまま。ということは、水見ついでに反対側の畑に回っているのだろう。
林業との兼ね合いで、田畑に出ているメンバーは毎回同じではないのだが、今日は人数がすこし少ないように見えた。昨夜の捜索で休んでいる者がいるのかもしれない。
田畑で農作業をしている連中の横を、「永野酒店」のロゴが入ったミニのライトバンが通り過ぎ、T字路を曲がってゆく。運転しているのは静子のようだ。満彦は店番か。あとで寄って、焼酎でも買っていってやるか。
陽炎で揺らぐ村を眺めながら、芳郎はふと、なんともいえない気持ちになった。
昨日までは千鶴子も千尋も篠原も、この村の一部だったのだ。けれどその三人が欠けたからといって、なにかが変わるわけではない。だとしたら、いま自分が座っているこの席も、いつか誰かにとって代わるだけ。俺たちは村っていう生き物を構成する細胞で、古くなったり悪くなったりしたら消滅していくだけ。誰かが欠けても、例外も特例もない。村はいつもと変わらず存在し、何事もなかったかのように生き続ける。
心にサァーと砂混じりの風が吹き、村が茶色く霞んでいく。
みんな、なにかの代替品……。
「……おい、大丈夫か。顔色悪いぞ」
芳郎は、政夫の言葉で我に返った。
「ああ……うん。ここんとこ、ちょっと寝不足気味なんだ。熱帯夜のせいもあるんだろうけど。クーラーつけっぱなしってのもよくないのかもしれないな」
「俺もだよ。ゆうべなんか疲れてるのに眠れなくてな。そうでなくても、ここんとこ夏祭りの再開案とか考えてるせいで寝不足なのに、まいったよ」
夏祭りは毎年八月の終わりに行われていたが、猛暑の年が増えたため不定期になり、新型コロナウイルスの流行の影響もあって、そのまま立ち消えになっている村の行事のひとつだ。「祭り」といっても、山車が出るような本格的なものではまったくなく、村の青年団が簡単な屋台やゲームコーナーを公民館の内外で催す程度の、おもに子供たちのための縁日みたいなものだった。
中止なら中止でよさそうなものだが、村の慣習は残しておいたほうがいいという意見も多く、また村民の結束を図るいい機会でもあるので、政夫も張り切っているフシがある。
芳郎はそんなとき、多少の皮肉と落胆を込めて思う。自分たちは、自分たちが思っているよりはるかに強く、村に愛着を持っているのだと。
登場人物を容赦なく挿げ替えていくというのに――。
「いつやるか、予定は決まったのか」
「いや、まだだよ。勲と話を詰めることになってるんだが。……毎年こんなに暑いんじゃ、いっそ秋祭りにしてもいいかもしれんな」
木内勲は、青年団のなかでも夏祭りの旗振り役的な存在だ。
それで思いだした。
「そういえばさっき、木内と山根んとこの女房がゆうパックを出しにきたんだが……」
「親戚とかに盆用の農作物だろ。あんなもん送りつけられて、嬉しいもんかね」
「そりゃあ、気持ちの問題だろ……そんなことよりそのふたりがいってたんだが、小松んとこと、あと大石と岩間の家が留守らしい。政夫はなんか聞いてないか」
村の住人は家を空ける際、近辺の家にひと声かけていくことが少なくない。不在中の家や田畑のこともあるし、留守にする日数によっては様子を見てくれるよう頼んでおくに越したことはないからだ。
それに政夫の妻清子は、岩間邦男の妹、つまり縁者に当たる。
「初耳だぞ。じゃあ、そのふたりはなんで気づいたんだ」
「それが玄関が開けっ放しになってたんで、てっきり閉め忘れて田畑にでもいってるんだろうと思っていたら、いつまで経ってもそのまんまで……時間的に朝からなのか、それともゆうべからなのか……とにかく田畑を見渡してもいないし、玄関越しに声掛けしても返事はないし、でも車はあるし…………で、とりあえず引き戸だけは閉めといてやった、とはいってたんだが……」
最近は家の改装で玄関も引き戸ではなく勝手に閉まる、いわゆるドアタイプが多くなってきたが、先の三軒は引き戸のままだ。
どちらにせよ、昔に比べて施錠する家が増えてきたとはいえ、夏など風通しのために戸やドアに隙間を設けたり、開けっ放しにしている家があってもおかしくはないのだが。しかし、だんだんと物騒になってきたいまのご時世、さすがに長時間はあり得ない。
「……まあ、誰かにバス停か駅まで送ってもらって電車とかで出かけたんだろうけど、政夫も知らないんじゃ、いつ戻るかもわからないな」
政夫がまた、わかりやすく鼻を鳴らす。
「邦男のやつ。どっかいくならいくで、ひと言いってくれりゃいいのに。こっちは土産物を頼むつもりなんかないんだから。……ま、いいか。俺は聞いてないからな。留守中になんかあっても知らねえからな」
そこでT字路の一本道を白河、黒滝方面へ猛スピードで曲がっていく自転車が見えた。その瞬間だけペダルを緩め、体を倒して見事なコーナーリングだ。この距離でも思わず、日焼けした剥きだしの脚に目がいってしまう。俊明の娘の裕子だ。おおかた三郷図書館にでもいくのだろう。今風の不良っぽい女の子だが、田舎でおおらかに育ったせいか、持って生まれたものなのか、どこか憎めない感じがして芳郎は嫌いではない。
「郁江さんがいってたが、あの娘はモデルとかタレントになるのが夢なんだとさ」
「へえ。そんなにウマくいくもんかね」
「どうかな。うまく業界にもぐり込めればなんとかなるんじゃないか。売れっ子んなれなくても、ある程度の受け皿はありそうだしな」
「しかし芸能界なんて、俊昭と郁江さんもよく許可したな」
政夫がまたもやフンと鼻を鳴らす。
「今時の親なんだろ。……俺としちゃ、あの娘がグラビアやったら喜んで買ってやるよ」
それは、自分もそうだが。
「ほかはどうなんだ」
「藤村んとこを抜かして全員、受験組らしい」
「そうか……。寮付きの高校か、あるいはアパートを借りるんだろうけど、親も大変だな」
大変なのは親ばかりではない。芳郎の頭のなかで、村の細胞がどんどん抜け落ちていくさまが浮かんだ。
「泰三さんなんか、冗談じゃねえって嘆いてたよ。村の人口がどんどん減っちまうってな。……おまけに教師が生徒の母親と駆け落ちするくらいだ。これからどうなることやら」
窓の外を太陽の動線が通過していく。ガラス扉の向こう。民家や田畑に照りつける強烈な陽射しが、すべてを灼き尽くしていく。
そんななか、南原耕平と駐在所の斉田友康の姿が目に入った。
方角からして、篠原健一の家へいくところだろう。目的はいうまでもない。いなくなった三人の行方を調べるためだ。
目が合うことはないだろうが、それでも芳郎と政夫は煙草を探すフリをして下を向いた。
女房子供に逃げられたばかりの耕平とは、やはり顔を合わせたくなかった。それも相手は娘の担任。しかも捜索のときにはご親切にもその男を家に待機させ、そのまま駆け落ちされたのだから。心中は察して余りある――
(みんな、なにかの代替品)
――ならば村に残った者同士、武士の情けといこうじゃないか。
5
警察が恋人や夫婦の問題に関与しない、いわゆる民事不介入の時代は遥か昔の話だ。DVやストーカー、脅迫や強要、あるいはそれらに抵触する事案なら警察はいつでも動く。とはいえ、さすがに不倫や駆け落ちとなると当事者同士の民事案件。警察が出る幕はない。
駐在所の斉田友康が、それでも南原耕平が篠原の家を訪ねるのにつき合うのは村社会の一員であるがゆえで、本来ならそんな義務はない。あえてほかに理由を挙げるとすれば、不謹慎かもしれないが好奇心――もっとはっきりいえば、まるで納得がいかない事柄があるからだった。が――。
あらためて篠原健一の両親の武男と時枝と話してみても、結局新しい情報はつかめずにいた。令状もなしに家宅捜索などできるわけないが、篠原の父母が三人を匿っている様子はやはりなかったし、心当たりがないというのも嘘とは思えなかった。
千鶴子も健一も、それぞれの自宅にある車や自転車は使っていない。そればかりか身の回りの品などもいっさい持ちだした形跡はないという。
では、三人はどこにいったのか――。
昨夜あれからしばらく耕平と一緒に村道をチェックしてみたが、結局見つからなかった。かといって、車や自転車を使用せずに村を出ていったとも考えにくい。徒歩という方法もあるが、子供を連れて、夜間に何時間も山越え道を歩くのは現実的ではない。
考えられるとしたら、友人に匿ってもらっているという可能性だが、これも下手をすれば南原家や篠原家と禍根を残す結果になるので、村に住んでいる者としては及び腰にならざるを得ない。
ほかに泥だらけになる覚悟があるなら、誰にも見られないように田んぼのなかを突っ切って、陰森に身を隠すという手もないではない。大神山に比べて滅多に人はこないし、容易には見つかりそうもないので、頃合いを見計らって篠原の家に寄り、準備を整えて村を出ていくという計画なら成立しそうだ。
だが、と友康は思う。それ以前に、そもそも千鶴子と篠原はそんな短絡的な行動を起こすだろうか。情念にトチ狂っていたにせよ、ふたりともいい大人だ。十代の、周りが見えない歳ではない。自らの行動が周囲に対して及ぼす影響など、容易に想像できたはずだ。それがいきなり駆け落ちなどするだろうか。
――相変わらず甘いな、おまえは。
あの本庁の捜査一課の先輩刑事なら、そんなふうにいいそうだが。
友康の見立てをよそに、武男と時枝は居間のテーブルをはさんで涙ながらに耕平に謝罪を繰り返している。
もっとも耕平といえども、篠原の両親まで責めるわけにはいかないのだろう。聞けば耕平の両親は生前、武男と時枝と親しくしていたというから、なおさらだ。
腕を組み、眉間に深い縦皺を残したまま、耕平が鼻から大きく息を吐く。
「あんたんとこの息子とうちの千鶴子が、どうしても一緒になりたいっていうなら、それも仕方ないが……俺としては娘の千尋のこともあるから、とにかく一度話し合いがしたい」
「ええ、ええ、もちろんです。なにかわかったらすぐに連絡します」
時枝は割烹着のような恰好だが、武雄はファストファッション店の涼しそうなルームウェアの上下を着ている。一方の耕平は無精髭もそのままに、服装も家のどこになにがあるのか見当もつかない亭主が選んだみたいな、いかにもな感じがする。
そして武男と時枝はまた頭を下げる。何度目だろう。友康は、水差しに嘴を突っ込む鳥の置物を連想すると同時に、ある種の不快感を禁じ得なかった。慇懃無礼の裏にある本心……こういったことを嗅ぎとるのは、警察官という職業柄、いやでも身に付いてしまった習性だ。
アタマはいくら下げても、タダーー。
友康は昼飯も喉を通らなかったという武男と時枝から――焼き魚の匂いとともに――それらを嗅ぎとっていた。




