第一部 第四章 1~3
第一部
第四章
1
天神村はもちろん、白河村や黒滝村でも、住民の大部分が昨夜の出来事を知っていた。
南原千尋の捜索に端を発した千鶴子と篠原健一の駆け落ちについては、早朝の農作業の合間に交わす挨拶とともに、ウイルスさながらに伝播していった。人の口に戸は立てられない。噂を仕入れた人間が、家に戻るなり家族に喋るものだから、八時を過ぎるころには知らない人間はいなくなっていた。
三校の校長である福井敏男は九時に緊急職員会議を開いたが、問題が教師と生徒の母親の不倫では、学校側としては篠原教諭に対する監督不行き届きを南原耕平に謝罪することくらいしかできることはなさそうで、むしろ生徒たちの心的フォローを言い渡された各学年の担任にとっては甚だ迷惑な話であった。
村人たちとて、当分のあいだは、南原、篠原、両家の確執に神経を遣うことになるだろう。じつのところ、彼らを心から心配している者はほとんどいなかった。
刺激の少ない山間の村では、この手の話題は稀にみるおいしいネタとして――かつて毛利家がそのかっこうの的となったように――延々と語り継がれていくことになりそうだった。
2
「あんたもゆうべはとんでもないことに巻き込まれて大変じゃったの。不倫のあげくの駆け落ちじゃと、ちょっとした騒ぎになっておる」
「そうですか……」
矢沢七瀬は三郷診療所の待合室のベンチソファに座り、検査入院前にヨネの見舞いに訪れた上杉善吉と話していた。
「それも時代の流れってやつかの」
「時代は関係ないと思いますけどね」
首から下にチラチラと視線を感じながら、七瀬は善吉からヨネの着替えと一緒に委任状と保険証類を受け取った。
「検査はどんな感じになるのかね?」
「心臓だけでなく、ほかの検査もしてもらうつもりですが、知人の医師にお願いしたのでなにもなければ明日には帰れます。でも一晩様子を看たいので、帰宅は明後日と考えておいてください」
「結果が芳しくなかったら?」
「そのまま医療センターに入院するか、それとも村に戻って自宅療養にするか、どちらかを選択することになります」
「そうなったら、どっちがいいと思われますかな?」
「さあ、私にはなんとも……ただはっきりいえるのは、本格的な治療や長期入院は診療所では無理だということです。こうした田舎の村で暮らしている方にとっては、難しい選択だと思いますね」
「そうじゃの」
「いずれにしても検査の結果次第ですから、明日連絡を入れます」
「うむ……よろしく頼む」
善吉は重い腰を上げ、七瀬の体をいま一度、眺めてから診療所を出ていった。
いくつになっても男は男、女は女ということか――。
エントランスのガラスドア越しに、老人性色素斑の目立つ細い手足を動かし、藍色の甚平姿の善吉がのろのろと遠ざかっていく。その後ろ姿を見送っているうちに、南原千鶴子と篠原健一のことが頭に浮かんだ。
世のなかにはたしかに、不倫から結ばれるカップルもいるにはいる。ふたりがあらゆる荒波を乗り越えてまで対岸にたどり着こうとするならば、それは結ばれるべき運命だったといえるだろう。でもだとしたら、この世には不倫カップルなど存在しなくなる。
不倫関係とは、その大半が愛情や絆以外の部分――セックスの合性やある種のステータスなどによって成立しているものなのだ。
もしもどちらかが本気なら、ためしに結婚を迫ってみるといい。
子供の問題、養育費の問題、慰謝料の問題――あらゆることを例に挙げて、じつにもっともらしい言い訳をするはずだ。
しかも……相手は相手の愛情につけ込む術を心得ている。
東京中央医療センター時代に起こした自殺未遂は、ひとりの妻子持ちの男性を転勤に追いやり、七瀬の人間的な(そして職場での)立場を破滅させる結果となった。
けっして望んでやったことではない。気がついたらそうなっていただけの話だ。略奪しようとか復讐しようとか、そんなことを望んでいたわけではない。
所詮、恋愛なんてまやかしだよ、とカレはいっていた。それでも結婚する覚悟はあるのかと。
アタシにはあった――。
そのときはそう信じていた。だが、それでもカレは妻子を選び、いまでもどこかで仲良く暮らしているはずだ。
結局、あれだけの修羅場をくぐり抜けてきたのは、自分ひとり。カレの修羅場とは、いかに家庭を守りながら、いかに愛人を言い包め、いかに上手に現状を維持していくか、という問題にすぎなかった。
愛や恋が幻なら、バカなのはどっちもどっち。ならばより真剣になったほうが分が悪い――そういうことだ。
しかしながら、あのふたりは対岸へと渡っていった。やり方は乱暴だったけれど。南原千鶴子は幸せ者かもしれない。篠原健一という男には、それだけの覚悟があったのだから。それなら千尋と新しい命とともに、うまくやっていけるかもしれない。
七瀬は二階の自室に上がって洗濯物を整理し、ノネム用にふだんは(衛生面が気になって)使っていない自動給餌機と自動給水器をセットしてから出かける支度に取りかかった。
久々に大先輩に逢うのだから、髪をひっつめにし、メイクはほどほどに。カットソーもパンツスーツも(ナナといえばの)黒で統一した。今日はコンタクトではなく、黒縁眼鏡にしておく。コーディネイト的にもグッドだし、外泊時はそっちのほうが面倒くさくない。あとは年季の入ったヴィトンのボストンバッグに一泊分の荷物を詰め込めば、ばっちり完了だ。
あとは一階の診察室でヨネの着替えと支度を終えたら出られる。善吉が持ってきた普段着は、クリーム色のブラウスに伸縮性のあるパンツなので遠出にはちょうどいい。念のため、替えの下着も余分に持っていくことにする。診療所にはもちろん車椅子があるのでそれを使用することも考えたが、おもに必要になるのは検査における院内移動だけなので、それは向こうの病院のを借りることにした。
すべての準備が整うと、七瀬はヨネと一緒にエントランスを出た。転んだりしないように注意しながら車のところまで連れていき、ステーションワゴンの銀色の断熱シートをはずす。ちょっと手間暇はかかるが、これのおかげで夏場の車内温度の上昇はだいふ抑えられている。
七瀬は車内に荷物を放り込み、ヨネに手を貸して車に乗せ、天神村を出発した。
3
日向孝之は、目が覚めてもすぐには動くことができなかった。
昨夜、帰ってから小森安代に事の次第を説明し、そうしているあいだにも駐在所の斉田友康からその後の顛末の連絡が入ったり、安代は安代で南原や篠原の家のことや捜索に加わった村人たちのことなどを話してくれたりしていたので、結局寝たのは午前一時を回っていた。
ともあれ、これですべてが一件落着していれば、もしかしたら予定どおり今日この村をあとにしていたかもしれないが、昨夜の一件はじつに後味の悪い、そして疑問の残る幕切れを迎えたのだった。
南原千尋が家に帰ったという連絡を受け、孝之たちが南原宅に着いたときには、当の千尋も母親の千鶴子も、そして待機していた担任の篠原健一もいなくなっていた――と、それだけなら、一も二もなく不倫の末の駆け落ちと考えるのが妥当だろう。
だが、どうも釈然としない。
というのは、南原宅の二台の車も篠原健一が乗っていた自転車も駐車スペースに残されていたからだ。おまけに玄関のドアは施錠されておらず、電気はついたまま。慌てて着の身着のまま出ていったとしても、だったらなおさら車を使うのではないか。
そのあと南原耕平と篠原の家に向かった友康によれば、三人とも篠原宅に立ち寄った形跡はなく、やはり車は持ちだしていないという。要するに篠原の家の人間が匿っていないかぎり、もしくは誰かが協力していないかぎり、三人はごく短時間のうちに徒歩で行方をくらましたことになる。
耕平と友康はそれからもしばらく村を捜すことにしたようだが、三人が見つかったという報告はなかった。
神隠し――。
頭のなかで、昨夜耕平から聞いた言葉が蘇る。
孝之は這いつくばるようにして布団から出ると、抗議の悲鳴をあげている体じゅうの筋肉にむち打ち、どうにか起き上がった。考えてみれば、昨日は登山やら捜索やらでさんざん歩き回ったのだから無理もない。
トレーナー姿のまま腑抜け同然で階段を下りていくと、ありがたいことに安代がキッチンテーブルに朝食兼昼食を用意してくれていた。昨晩、洗濯機に放り込んだままにしていた洗濯物も、テーブルの横の椅子にきちんと畳んで置いてあった。
孝之が礼をいうと、安代は「いえいえ」と大袈裟に手を振ってみせた。
「それより今朝、福井さんと彦坂さんから、捜索に参加してくれたことでお礼の電話がありましたよ」
福井敏男は三校の校長、彦坂道夫は青年団の代表として電話をくれたということか。
「もうちょっと寝かしといてあげようと思って、伝えときますっていっときました」
「そうですか。ありがとうございます」
おもだった人物とは携帯電話の番号を交換していたのだが、向こうも気を遣って安代の家電にかけてきたのだろう。
とはいえ、ゆうべは多かれ少ながれ感じていた。はじめのうちは誰もが疑いの目で自分を見ていることを。斉田が迎えにきたとき、この安代でさえも。
なにかあれば、真っ先に槍玉にあがるのは他所者と決まっている。アウェイなのだから致し方ない。けれど、ゾッとしたのもたしかだ。
日本のとこかに点在するという、村人全員が共同体の治外法権の村。足を踏み入れたら最期、二度と外には出られない、地図から消えた異郷の地――。
孝之は心のなかで苦笑いし、話題を変えた。
「ところで陰森を捜索中に耕平さんから聞いたんですが、神隠しの伝説って、あれほんとの話なんですか」
「ああ。陰森の言い伝えね。小さいころ、私も村の人たちにいわれましたよ――陰森には近づくな、けっして奥には入ってはならぬって。でも、私たちの家系がこの村に移ってきたのは大正になってからなんで、詳しいことはなんとも……」
そこで安代はあっと声をあげて、花柄のエプロンの前で手を叩いた。
「……三校の山本和馬先生。昨晩お会いしたっていってましたよね。あの先生なら村の歴史に詳しいですよ。ほら、前にお話しした大学教授。あの方が大神神社を国の重要文化財に推薦するときにも協力したりして。とってもいい方ですから、訪ねてみたらどうですか。夏のあいだは三郷図書館にいらっしゃいますよ」
神隠しの伝説……か。乗りかかった舟だ。もうすこし村に滞在して調べてみるか。
ふと、昨夜のどこかで見た、雅治の暗い表情と耕平の歪な笑みが心の片隅に浮かんだ。




