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第一部 第三章 8

 第一部


 第三章


 8


 毛利雅治は事の次第を家族に話して聞かせたあと、真央と由美子が自室に引き上げ、晶子が風呂に入ったのを機に、そっと勝手口から裏庭に回った。

 霧が濃くなったせいで、外はさっきよりも暗かった。

 南原家や篠原家のことを考えると、まさに古傷が疼く想いだったが、いまは村自体が背負ってきたものまでが、彼の心に暗い影を投げかけていた。

 陰森からの帰り道も、なにかがずっとあとを追ってくるような、さながら歴史に埋もれていた真実が、夜陰にまぎれて過去から遡ってくるような、そんな気がしてならなかった。

 毛利家は、昔この一帯で勢力を誇っていたとされる豪族の末裔である。後醍醐(ごだいご)天皇や源義経(みなもとのよしつね)も、奈良・吉野の潜伏時には秘密裏に彼らの協力を仰いだという逸話も残されている。

 とはいえ、それがあの毛利元就(もとなり)と血縁関係にあたる一族かどうかは定かでない。そもそも江戸時代初期に一族の流れを汲む者が、この村の娘と結婚したのが天神村の毛利家の起源であり、それ以前に家系の枝葉がどう分かれていたとしても、雅治はまったく興味がなかった。

 家屋は、塀に囲まれた平屋の日本家屋。敷地面積は広く、表庭に加えて裏庭には堅固な土蔵まで備わっていた。いまでは災害用に非常食と水のペットボトルを保管しているくらいだが、かつてその土蔵には豪族時代に集めた財産が貯蔵されていたと伝えられ、先人がそれらを処分しつつ農地を拡大していったというから、海千山千、当時はさぞ疎まれていたことだろう。

 ともあれ、これらの田畑があったからこそ、毛利家は代々、農家として安定した収入を得てきたのだし、両親を早くに病気で亡くしても、雅治が大学への進学をあきらめさえすれば、妹の小夜子を養っていくことができたのだった。だが――

 雅治はタバコをくわえながら裏庭を横切り、土蔵の前で立ち止まった。

――もうすぐおまえの命日……真央の誕生日だな。

 線香代わりのタバコは、台所に置いてあった晶子のものだ。彼自身はとうに禁煙していたが、今宵は吸わずにはおれない気分だった。

 霧中にぽつんとタバコの赤い点が浮かぶと、それを見つけたかのように遠くで鳴いていたフクロウの声がやんだ。

 土蔵は観音開きの重い鉄製の扉となまこ壁を使用した頑丈な造りで、外側だけでなく、内側にもボルト式の鉄棒の閂があり、白河村の晶子との結婚が決まったときなど、小夜子はまる一日ここに立て籠もっていたものだった。

 ひと回り近く違うとはいえ、小夜子は三校を卒業したばかり。兄というより親代わりのような存在だった雅治が、遠くへいってしまうような気がしたのだろう。そのあまりの強情さにさすがの雅治も腹に据えかね、ついには外側の閂を掛けて閉じ込めてしまったほどだ。

 そんな小夜子も県内の高校に進学してからは、帰郷のたびに晶子を実の姉みたいに慕うようになり、卒業後は家に戻って彼女と一緒に農業を手伝うようになったのだが。小夜子が突然倒れ、しかも妊娠していることがわかったのは、それから二年が過ぎたころのことだった。

 奇しくもその日は、下市市の病院で晶子が由美子を出産した日でもあった。

 雅治はもとより、村じゅうの者が驚き、そして困惑した。ラフな服を(おそらくお腹が目立たないように)着ていたにせよ、臨月間近だとは誰も気づかなかったからである。

 街まで運ぶ時間もなく、当時診療所に勤務していた中居(なかい)裕道(ひろみち)という医師がなんとか赤ん坊を取り上げたものの、その日の明け方、小夜子は父親の名を明かすことなく、二十の歳でこの世を去ってしまった。そしてそれは悲しむ暇さえないほどの、辛苦の日々の幕開けとなった。

 呪われた子、怨念の子――。

 長老たちのなかには、真っ先に陰森にまつわる言い伝えと結びつける輩もいたようだが、おおっぴらに口にする者がいなかったのはせめてもの救いだった。もっとも彼らとて、村のおぞましい慣習まで掘り起こしたくなかったのだろう。だからこそ言い伝えの、それこそ陰の部分に関しては語り継がれなくなったのだ。

 しかし、村における毛利家の立場は一変した。無理もない。小夜子は父親不明の私生児を産んだのだから。

 葬式のときは弔問にやってきた村人たちも、その後訪れる者はひとりとしていなかった。道で挨拶を交わしても、みな蜘蛛の子を散らすように退散していった。野呂圭輔や関口尚也といった、日ごろ親しくしていた面々でさえ、そんな調子だった。

 雅治はこのときはじめて人間というものに、怖気を震うような嫌悪感を覚えた。

 晶子は晶子で、実妹のように想っていたその絆を裏切られたあげく、誰の子ともわからない赤ん坊を押しつけられたかたちで、日に日にやるせない想いを募らせていった。やがてそれらが憎しみへと変わるころ――ちょうど四十九日も終わり、遺骨を村営墓地に埋葬した段階で、彼女は自らの手で小夜子の想い出を封印した。

 それは小夜子に対する、彼女の最後の、そして精いっぱいの愛情だったのかもしれない。あるいは、そうしなければ真央を育てる覚悟などできなかったのかもしれない。

 村人たちの態度が変わっていったのは、それから六年後、それも時の流れが解決したわけではない。こうした山里では、小夜子の一件は簡単に忘れ去られるような問題ではなかったからである。

 真央は、歳を重ねるごとに小夜子そっくりの美しい子に育ったが、彼女にはなにか不思議な力が具わっているようだった。それが、村人たちの心の奥底で氷山のように凍結していた偏見や不安を溶かしていったのだろうと、雅治は思っている。さらに真央が小学校に入学したのを期に、大神神社の宗方が神事の手伝いをさせたのも功を奏した。

 こうして真央はいつしか村人たちに愛されるようになり、毛利家もふたたび村の輪のなかに戻ることができたのである。

 しかしながら、いまもって父親は不明のままだ。

 雅治も晶子も、小夜子の行動すべてを把握していたわけではないが、休みの日は大神神社に参拝することが多かったし、当時は宮司もおらず無人だったから、逢瀬を重ねるような相手がいたとしたらそのときくらいしか思いつかないのだが……。

 じつをいえば、雅治には心当たりがあった。

 しかもそれはたんなる邪推などではなく、血筋が成せる継承的な理由からだった。だが、そんな詮索も四十九日を以ってやめにした。なによりそれが、小夜子の遺志でもあったのだから。

 そして雅治は、晶子のこともよく理解しているつもりだった。

 実際、気が狂わないのが不思議なくらいの、村人たちの耐え難い、冷ややかな態度のなかで、彼女は必死になって真央を守り、育てたのだ。

 そう。義理の妹が残した忘れ形見として――真央という名は、小夜子が今際の際にうわ言のなかでつぶやいた言葉で、出生届も書類上は由美子と双子として出されている。それもこれも真央の将来を考えて、晶子がいいだしたことだった。

 もっとも真央も由美子も物心つくころにはそのことを知っていたし、小さな村だ、どこからそんな情報を仕入れたかも、あえて聞く必要はなかった。

 古傷はふとした拍子にふたたび血を流す。その傷があまりに深く、癒えない傷ならなおさら……。晶子の心のバランスがときおり崩れてしまうのは、そういうことなのだ。

 雅治はため息をつくと、タバコを草履で丁寧に揉み消し、吸い殻を甚平のポケットに入れた。月は朧で、あたりは濃い闇夜になりつつあった。霧はすっかり庭に居据わり、もはや外壁を這いまわるヤモリも黒い影にしか見えなかった。

 するとさきほど陰森からの帰り道で感じたあの奇妙な感覚が、さしずめこのときを待っていたかのごとく、するりと戻ってきた。

 ふいに土蔵のなかから、

「開けて!」

 小夜子の叫び声が聞こえた気がして、雅治は思わず閂に手をかけた。あり得ないことだとわかっていても、手が勝手に動いてボルトを撥ね上げ、閂をスライドしてはずしていた。

 観音開きの鉄の重い扉を開くと、漆喰のひんやりとした空気が、蒸し暑い夜気にまぎれて吹き抜けていった。下に澱んでいた霧が、上方の明かり採りの窓から射し込むわずかな月光を反射して、冬場のダイヤモンドダストのようにキラキラと輝いている。そこに――。

 月の雫を透かして、小夜子の後ろ姿が浮かんだ。

 通夜の晩から数えて十余年、雅治は冷たい床に跪き、はじめて泣いた。救いを求めるかのごとく、手を差し伸べながら。その姿はまるで懺悔する者のように見えた。

 妹の幻影はやがて、江戸時代からひっそりと安置されてきた、一体の地蔵と重なるように同化して消えた。

 しかるに今宵は、そんな夜なのかもしれなかった。

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