第一部 第三章 6~7
第一部
第三章
6
駐在所から診療所に戻ると、七瀬は一階のバックヤードで洗濯済の衣類とタオルをたたんでからコーヒーを淹れた。
ノネムはといえば、七瀬の横をすり抜けてさっさと二階へ上がっていった。人間が集まる場所にはやってこないので駐在所に現れたときにはちょっと驚いたけれど、夜の散歩でもしていたのかもしれない。
斉田友康から南原千尋の件で駐在所集合の連絡を受けるまで、七瀬は洗いざらしの髪のままビール片手にパソコンで映画を観ていたのだが、さりとていまから続きをという気にはなれない。千尋が見つかり、怪我でもしていたら、診察や往診の可能性があるからだ。
駐在所には青年団やら三校の教師やら、それとわりと最近、東京から村にやってきたという日向孝之という中年男性まで勢揃いしていたが、南原千鶴子は千尋の担任の篠原健一と自宅で待機しているらしく、その姿はなかった。
七瀬の心境は複雑だった。いや、苛立っていた、といったほうがいい。
テストスティックを確認するまでもない。千鶴子は、間違いなく妊娠していた。それも夫の子供ではないときた。そんな状態で家庭が円満とは思えない。であるならば、だ。千尋が家に帰らないのは、それが原因による家出の可能性が高い。
でもまあ、だからって、自分は誰かを非難できるような人間ではないし、そうありたいと思いつつ、そうなれずに生きてきたわけだから、偉そうなことはいえない。自分は自分の役割を果たすだけ。いまは千尋が無事見つかることを願うのみだ。
そんなことを考えていたら、ジャージのポケットでスマートフォンが震えた。
斉田からだった。
千尋が無事、自宅に帰ったという良い報せだった。が、あとが悪かった。千鶴子からその連絡を受けて自宅にいってみたら、千尋も千鶴子も、そして担任の篠原までもがいなくなっていたという。
カッチン! なるほど。頭のなかでパズルがはまったときの音とは、こういうものか。というくらいわかりやすかった。不倫相手は――千尋の担任の篠原健一。なんにせよ、これで済むとは到底思えないが。そこからさきは、自分が干渉すべき問題ではない。
斉田がほっとしたようながっかりしたような、なんともいえない声で電話を切ったのが可笑しかった。
もとより人の好さそうなおまわりさんではあるけれど。ちなみに七瀬は斉田友康の妻、響子とは挨拶程度の面識しかない。近年男児を儲けているが出産は下市の病院だったし、元警察官で身体が頑丈なのか、診療所に来院したこともない。色白の美人さんだが意外とグラマーで、体幹はダンナよりしっかりしているように見える。こちらもあまりバランスがいいカップルとは思えないが、それも大きなお世話。自分が立ち入るべき問題ではない。
さて、と七瀬は腰を浮かせた。
二階に上がる前に、ヨネの様子を見ておくことにする。
七瀬もバタバタしていたし、外ではついさっきまで千尋を捜す人の気配がしていただろうから、心配しているかもしれない。
そう思いながら診察室に続くドアを開けたとたん、いきなりいつもと違う雰囲気――まるで部屋の空気が水気をたっぷりと含んでいるかのような蒸し暑さと重苦しさ――を感じて、七瀬は眉をひそめた。まるでその部屋だけが、どこかべつの空間になってしまったかのような錯覚を覚えた。
ヨネは眠っているのだろうか。常夜灯はついたままだが、入院患者用のカーテンの内側にあるサイドテーブルのテレビやライトスタンドは消えている。起こしてしまっては悪いので、七瀬は自分のデスクのライトをつけた。
ふと風の流れを感じて窓を見ると、わずかに開いているのがわかった。
クーラーが効きすぎたせいで、ヨネが開けたのだろう。良いのか悪いのか、村の人間は戸締りにあまり頓着しない。常夜灯だけだったので、虫の侵入は小さい蛾が数匹、茶色の豆球の周りを飛んでいる程度で済んだようだ。
七瀬は窓を閉めて施錠した。外にはいつのまにかうっすらと霧が出はじめていた。
空気が重たく感じられたのは、流れ込んできた霧のせいか……。
いや……やはりなにかが違う。
なんだろう、この違和感は――。
七瀬は、霊魂や幽霊といった非科学的な存在は肯定も否定もしていない――ただし医師としての自分は。これまでいくどか人の死に立ち会ってきたけれど、一度たりとも肉体から魂が抜けだすのを見たこともなければ、感じたこともなかった。ましてや幽霊など、残念ながらお目にかかったことはない。
ただし、非現実的な感覚――いわれのない恐怖や不安、予感や既視感などに遭遇することならあった。
たとえば、外に出たとき突如として感じる、日常なのに日常ではない、あの奇妙な違和感――いつもと同じ道が、店が、ビルが、電車が、行き交う車や人々が、街全体が妙によそよそしくて、もしかしたら自分はここには存在していないのではないか、そんなふうに思うと同時に、それでいてまんざら居心地が悪くもない、透明の歪んだ乖離的空間――それなら東京でインターンをしていたころに一度ならず憶えがある。とはいえ、それもそのときの精神状態を鑑みれば、おそらく説明のつくことだった。
そう、不思議とはどんなときも心のなかにしか存在しない。そういったことはほとんどが心的な問題、あるいは偶然性に根ざしたものにすぎないのだから。
とまれ、この感覚はそれに非常によく似ていた。
だが、いまはあの頃とは違う――。
ふいに頭のなかに、ある馬鹿げたシーンが浮かんできた。週刊誌の終わりのほうに載っている間違い探しのゲームのページ。物憂げに二枚の絵を見比べている自分の姿……ベッドサイドのかぼそい明かりのもと、男が眠ってしまったあとの、誰も知らない自分の姿……けれど、無意識に答えを探している。
いまその瞳は、いったんヨネが眠っている患者用のベッドを仕切るカーテンを通り過ぎ、そしてすぐまた吸い寄せられるようにその場所に引き戻された。
そこしかなかった――例の非現実的な感覚を喚起させるなにかが放たれているとしたら、だが。
やれ、やれ……。
七瀬はひとつため息をつき、静かにカーテンを引いた。その瞬間、思わず掌で口許を押さえていた。心臓が跳ね、全身が総毛立った。
なんだ、これは……。
人間の繭――?
いや、そうではない……そうではなくて、これは……。
部屋に入り込んだ霧がカーテンの内側に滞留して、ヨネの身体を覆っているように見えているのだ。ほのかに蒼白い光を放っているのは、霧が室内の明かりを反射しているからだろう。
村にきてから夜霧は見慣れている。なのにどういうわけか、この霧は死体に群がる蟲を――ひいてはヨネを迎えにきた死神を連想させた。
七瀬は慌ててサイド―テーブルのライトスタンドに手を伸ばした。点灯したとたん、それはサッと散るように空気中に融け込んで消えていった。が、七瀬はベッドに横たわったヨネを見ても、ほっとするよりむしろ不安になった。
そのほうがずっと不自然なことのように思われたのだ。
いまここに残っているのは、診療所を空けているあいだに、心不全の発作で亡くなった上杉ヨネのヌケガラで、魂は霧と一緒にどこかへいってしまったのではないか――。
と、そのときヨネが目を開けた。
「先生……」
まだうまく焦点が合わない目を七瀬に向ける。
「ごめん。起しちゃったね」
七瀬は小さく息を整えながら、ヨネに微笑みかけた。そのうわべとは裏腹に、内心かなり自嘲気味に。
――そう、不思議とはどんなときも心のなかにしか存在しない。そういったことはほとんどが心的な問題、あるいは偶然性に根ざしたものにすぎないのだから。
「私……夢を……」
「夢……見てたの?」
「ええ……ええ、主人の夢を……」
「そうなんだ。会いたいのね、善吉さんに」
目を細めて痩せた顎を浅く上下させる。喉が乾燥して、声を出しにくいのかもしれない。検査は明日の午後からだし、軽い物なら胃に入れても支障はない。
「冷たいお茶と、関口さんから頂いた水羊羹、まだ残ってるから持ってこようか?」
すると、とたんにヨネの目の焦点が戻った。
「まあ! うれしい!」
落ち窪んだ眼窩から七瀬を見つめてニッコリ笑う。
一瞬、言葉に詰まった。人間、最期まで残るのは欲だけだとわかっていても、なんか、恐かった。
千鶴子だけでなく、ヨネも。そして自分も……。
笑いの渦が込み上げてきそうになった。
やめろ、重ねるな。もう終わったことだ――。
窓に目をやると、夜と霧の両方に取り込まれてしまったかのような自分の姿が、白い枠組みのガラス面に(バカバカしいほど絵画的に)映っているのが見えた。
透明の歪んだ乖離的空間は、ここにもあった。
7
また、スマートフォンが鳴っている。
今度はなんだろう?
三校の国語教師である山本和馬は、大神山の登山道の途中で立ち止まった。霧は出てきたがさほどではなく、月明かりもあるので懐中電灯をオフにしても真っ暗ではない。
一緒に捜索にあたっていた数学専科の林田信夫と小学二年生担任の三好達也は、千尋が帰宅したという報せを受けるなり、悪態をつきながらとっとと下山していった。
着信表示は斉田・携帯となっている。
さっきは何人かで分担していたのか、今夜駐在所で携帯電話の番号を交換したばかりの日向孝之という男からの連絡だったが、またなにかあったのだろうか。
しかし斉田からの電話の内容は、まったくもって陳腐なものだった。
斉田たちが南原の自宅に着いてみたら、千尋も千鶴子も、念のため待機させておいた担任の篠原健一もおらず、携帯電話は三人とも圏外でつながらなくなっているという。
しかし、それを聞いても和馬はたいして驚かなかった。
篠原が児童の母親と付き合っているという噂を耳にしたことがあったからだ。むろん、真に受けていたわけではない。篠原は若いし童顔だし、実直で教育熱心な男だ。児童のみならず、児童の母親にもウケがいい。噂もそのあたりから、要するにやっかみ半分で出てきたものだろうくらいに思っていた。
だが、どうやら噂は事実だったようだ。
和馬は電話を切ると、首をひと振りしてからふたたび山道を歩きだした。
青年団に借りた大型懐中電灯に集まってくる虫を払ったり避けたり、さらにはたかられたり刺されたりしないように(そろそろ虫除けスプレーの効果も薄れているかもしれないので)、体を揺らしながら下りていく。
夏の虫が草むらでひっきりなしに鳴いている。ガサガサと音がするのは爬虫類か、小動物だろう。山林の隙間から、村の灯がちらほら見えてくる。もうあと、三分の一くらいか。木立を吹き抜けてくる風の音が、今夜はやけに虚しく聞こえる。
内心、和馬の腸は煮えくり返っていた。
不倫も結構。離婚も結構。家出も結構。それが悪いとはいわない。
ただひとつ。大事なものが欠けていた。イマジネーション――彼らに(千尋も含めて)足りなかったのはそれだ。
想像力がなければ、情緒は育たない。豊かな感情や感性も生まれない。当たり前だが、奥行きのない箱に抽斗はつけられない。無理につけても、狭すぎてたいしたものは入らない。親や教師からしてそれでは、今夜のようなことが起こっても不思議ではない。
と、そこまで考えて和馬はため息をついた。
やめておこう。私にそんな偉そうなことをいう資格はない。
罰なき罪――前科なき罪人。
自分もそのうちのひとりなのだから。
歩きながら、頸や四肢、ときたま身体全体を揺すっているうちに、和馬はふいに可笑しくなってきた。こうしていると、まるで奇妙なダンスをしながら山道を歩いている、なんともイカレた男のようだ。
和馬は自嘲気味に笑った。
さて……と、我と我が身に問い質してみる。そのイカレた男の人生を採点するとしたら、何点くらいのものだろう。
二束三文だが家はある。たいしたことはないが学歴や肩書もある。公務員として教職の仕事にも就いている。退職金も貰えるし、老後はなんとかなるだけの年金もある。ほんのわずかではあるが、友人もいる。車も持っているし、趣味だってある。離婚はしたが、別れた妻とのあいだに息子もいる(成人してから、ほとんど手紙はこなくなったが)。旅行もしたし、村を出て鎌倉に住んでいたこともある(山間に生まれ育ったので、海にはたいそう憧れがあった)。父親は間に合わなかったが、母親はきちんと看取ってやれた。死んだら、入る墓もある。
このうえ、なにが欲しい?
他人に羨まれるような人生ではないが、イカレた男にしては上出来じゃないか。
――きみは本当の自由について考えたことがあるか?
ない? あってもできない? それじゃあ、ちっぽけでくだらないプライドでも、しがみついてなけりゃやってられないってわけだ。
和馬は声をあげて嗤ってみた。マリオネットのようにおかしなダンスを踊りながら。大きな声で嗤ってみた。
操っているのは、ダレだ――?
山林を抜け、岩場を通り、村道に下り立っても、嗤いはいっこうに収まらなかった。
霧にうっすらと覆われた村は、幻みたいに見えた。




