第一部 第三章 5
第一部
第三章
5
日向孝之は、斉田友康、毛利雅治、南原耕平とともに、村道の行き止まり、陰森の入口からはじめて、徐々に森のなかに移動しながら南原千尋を捜していた。しかし、村の青年団が用意してくれた大型懐中電灯に引っかかる人影はなく、名前を呼んでも樹木の合間を虚しくすり抜けていくだけだった。
この森は入ってしばらくは低い草むらだが、すこしさきからは樹々が欝蒼と生い茂り、見通しが利くのはせいぜい二十メートルかそこら。おまけにいつのまに漂いはじめたのか、霧が懐中電灯の光が反射してしまい、遠くまで届かなくなってきている。
見ようによっては壮麗で浄土を思わせ、いっぽうで得体の知れない不気味さが宿る不思議な森だ。
しかもT字路からの一本道と田畑をはさんで並走しながら三校から白河村まで続いており、そのさきは無限ともいえる原生林が拡がっているというから、かりに千尋が森の奥に入ってしまったら、たとえ百人態勢で臨んでも見つかる気がしなかった。
変なことに巻き込まれちまったな――。
孝之は歩きながら、胸のうちで皮肉めいたつぶやきを漏らした。
駐在所の警察官が孝之を迎えに安代の家にやってきたときには、それもなにやら疑われているように感じたときには、驚きよりむしろ怒りを覚えたものの(それも他所者だから致し方ないにせよ)、いざ駐在所に連れていかれてみると嫌疑は思いのほかあっさり晴れたのだった。
今日は午後から大神山に登り、神社を参拝したり、頂上で昼食を食べたりしたのだが、駐在所に集合していた村人のなかに、孝之が宮司と挨拶程度の会話を交わしていた姿を目撃した者が複数いたからだ。そのあと夕方四時半に小森宅に戻り、以後外出していないことは安代が確認の電話で証言してくれた。
そのときになって、斉田友康ははじめて、三校の小学校六年生の女の子がまだ帰宅していない旨を明かした。氏名はナンバラ・チヒロ。着衣はオレンジ色のTシャツにキャメル色のスカートパンツ。父親の南原耕平の話では、最近の家庭内の雰囲気からすると、事件でないなら家出、または事故や遭難の可能性が高いとのことで、これから村の有志でその女の子を捜しにいくという。
村には有事の際に活動する、比較的若い世代(当の耕平や毛利雅治もそうだが)で構成される消防団も兼ねた青年団があり、彼らと三校の教師たちが分散して村の捜索にあたることになったのだが――正直、他所者というだけで疑われたのは面白くなかったけれど、知ってしまった以上、知らんぷりというわけにもいかない。
そんなわけで孝之も駐在所に集まっていた村人たちと連絡先を交換し、こうして雅治や耕平、そして友康とともに割り当てられた陰森方面を、さらに森の奥へ進もうとしていた。
そう。人生は思いもよらない出来事が起きるものだ。そしてそれらは往々にして陳腐で、圧倒的に悲喜劇であることが多い。
ほかの三人に覚られぬよう、孝之はまたひとり笑んだ。
代々、東京に家と会社を構える日向家で生まれ育った孝之は、自他共に認める放蕩息子だった。大学時代、心理学部の先輩は彼を称して、人格形成は環境だけでは決まらない顕著な例、つまりはただのイケスカないボンボンというレッテルを早々と貼り付けたものだ。
孝之はいまになって、不思議に思うことがある。
大学を中退し、まさしく放蕩していた自分が、その彼女とのちに結婚することになろうとは。そしてもしもその出会いがなかったら、自分はおそらく結婚どころか、家とも会社とも縁を切り、まったくべつの線状で生きていただろうから。
そう考えると、人と人との出会いはコンマの狂いもなく時空間に仕組まれた、運命という名の出来レースではないかと勘繰りたくなる。「神はサイコロを振らない」という言葉に真理があるとすれば、「人生いつだって一寸先は闇」という、じつに都合のいい部分だけではないかと思えてしまう。
そしてその闇は、父親が親族に騙され、あげく自らが多額の負債を背負うという、あまりにも馬鹿げた、そして「よくある」かたちでやってきた。
家の売却と会社の倒産を余儀なくされた孝之は、最終的に智子の実家の近くへ引っ越すことに決めた。子供たちにとって急激な環境の変化を考えると、せめて妻方の祖父母の近くがいい、そう考えたからだった。
引越の準備を終えると、孝之はひと足先に旅立った。
これからどうなるのか、どうすればいいのか、まったくわからなかった。だが、失ったものにとり憑かれて生きていくのだけはごめんだった。たとえこのさきどうなるにせよ、すべてを断ち切ってしまいたい。それこそが、彼がいまここにいる理由だった。
斉田友康が、奇しくも孝之から「訳あり」なニオイを感じとったのは、刑事としてあながち間違いではなかったことになる。
みなに気を遣った面もあるのだろう。南原耕平が足を止め、煙草と携帯灰皿を取りだした。孝之と友康もそれに倣い、ひとところに集まった。懐中電灯は電池のことを考え、しかし遠くからも見えるように一灯だけつけておく。
耕平や友康と同じく、外に出たときは孝之も着火式の紙タバコだ。喫煙者ではないのか、毛利雅治だけは若干、離れた位置に残っている。
ライターを擦る音とともに、暗がりのなかで一瞬だけ、それぞれの口元が明るくなった。
森の奥から風に乗って霧がうっすらと吹き抜けてきては、吐きだした煙がそれに混じって散っていく。涼風とはいえないものの、汗ばんだ体にはそれなりに心地好い。
青年団や三校の教師たちも携帯していたが、虫除けスプレーを持参してきたのは正解だった。虫は蚊にかぎらず、蛾や、種類はわからないが羽虫や甲虫、田畑があるせいか蝿も多い。
孝之はジーンズにTシャツ、上に薄手のジャケットを羽織っているからまだいいが、友康は制服といっても半袖だし、耕平は水色のポロシャツにスラックス。村の夏の夜に慣れているせいもあるのだろうが、雅治にいたっては紺色の甚べえときている。これでは蚊に餌を与えにきたようなものだから、虫除けスプレーはやはり必需品だ。
それにしても、この森に入るだろうか――?
森の入口から遠くに見えていた民家の明かりも、森のなかに足を踏み入れた瞬間からまるで見えなくなる。そこからはすり鉢状に広大な原生林が拡がっていて、昼間でも奥が見通せないほど暗い。どんな事情があるにせよ、小学生の女子がひとりで入っていくとは到底思えない。
すると、思っていたことが伝わったかのように、横でタバコをくゆらしていた耕平がぼそっと口を開いた。
「ここにきたとしても、これ以上、奥にはいかんよ」
まったく同感だが、その口ぶりにかすかな含みを感じた。
「どういうことです?」
孝之が尋ねると、耕平は暗がりに同化しそうなほど日焼けした顔に苦笑いを浮かべた。
「この森には入るな……そう教えてきたからだ」
「なにか理由でもあるんですか」
警察官として、というよりは好奇心からか。友康が割り込んでくる。
「ん? そうか。あんたも知るわけないか。……まあ、田舎の村はどこも似たような言い伝えがあるもんだが、この村にも陰森にまつわるそんな話があるんだよ。〝神隠しの伝説〟といってな。俺も親父に、親父は祖父さんに、そう言い聞かされてきた」
「あ、それ、私も村の誰かに聞いた憶えがあります。……でも、ほんとにそんなことがあったんですか」
「どうかな。……ほんとにあったかどうか。なんせ江戸時代より、もっと前の話らしいからな。……でもこの森が迷い森なのは、あながち間違いじゃない。だから猟が盛んだった時代でも、猟師たちはこの森には入らなかったそうだ」
「迷い森?」
友康につられて、孝之も思わず眉をひそめた。
「つまり実際この森は危険なんだよ。間口こそ狭いが、この森はここから台高山脈まで延々と南東に向かって伸びていてな。奥へいけばいくほど同じような景色になって、自分の居場所さえわからなくなってくる。
それに磁場のせいで磁石が利かない。何年か前、どっかの研究機関が調べにきたんだが、磁鉄鉱とかで、噴火の熱によって磁場が発生することがあるらしい。ただ、それ以前から猟師たちは肌で感じてたんだろう。陰森に入るのは危険だってな」
磁石が利かない、か。携帯灰皿にタバコを消し入れながら孝之は思った。それなら、そんな言い伝えがあっても不思議ではない。真っ先に頭に浮かんだのは富士山の青木ヶ原だが、そういった場所が世界各地に存在するという話は聞いたことがある。
万が一を考えてのことか。今度は警官らしい確認口調で友康が尋ねる。
「では、これまでに森に入った人はいない、ということですね?」
耕平は二本目のタバコに火をつけながら、すこし離れて森の様子を窺っていた雅治と顔を見合わせた。村外者にどこまで話していいものか。ふたりともそんな表情に見えた。
雅治が浅く頷くのを待って、耕平は夜空にゆっくりと煙を吐いてから話しはじめた。
「森の奥まで足を踏み入れたのはふたりだけだったよ。もう二十年以上前になるが、陰森にもっとも近い場所にモトミヤって家があったんだ。そこにタカアキとヒロアキっていう双子の兄弟がいてな、十代のころに病気で両親を亡くしてから高校へいかず農家を継いで頑張ってたんだが……」
耕平は懐かしむように、細い目をさらに細めた。
「……あれはふたりがちょうど二十歳の夏だったか。その年も猛暑でな。動物たちがちょいちょい田畑を荒らすようになったことがあったんだ。それも山からやってくるんじゃなくて、陰森からじゃないかって話んなって、それで弟のヒロアキが森に入るっていいだしたんだ。まあ、ちょいと脅かせば里に出てこなくなるだろうし、ついでに獲物でも狩れりゃばんばんざい、くらいの軽い気持ちだったんだろう。とはいえ、神隠しの言い伝えもある。タカアキ以外の村の者はみんな反対したんだが、それでも奴は実行した。
モトミヤ家ってのは、昭和の初期まではもともと狩りを生業とする狩猟筋の家柄だったから、タカアキもヒロアキも猟銃は持ってたし、腕も抜群だった。狩猟解禁のシーズンになると、指定区域で獲物を獲ってきて、それこそシカやイノシシ、クマんときもあった。それをみんなに配ってくれたりしてな。ふたりとも親父や祖父さんが生きてたころ、農業のかたわらに仕込まれたんだろう。ついでにいえばモトミヤの先祖は山人、つまり山で暮らしていた家系だったらしいしな」
「耕平さん。その話は関係ないですよ」
近くに寄っていきながら、雅治が口をはさんだ。薄く笑みを浮かべてはいるものの、持ち前の端正な顔立ちのせいか、いささか冷淡な感じがした。
孝之もなんとなく。その話には触れずにおいた。
「それで、ヒロアキさんですか、その人はちゃんと戻ってこられたんですか」
耕平は、フンッと鼻を鳴らして頷いた。
「三日経っても戻ってこなかったよ。だが、そこはそんなに珍しいことじゃない。猟師なら獲物を追って、何日も山のなかにいることがあるからな。しかしそうはいっても、相手は陰森だ。どっかで迷ってるんじゃないかって、兄貴のタカアキが心配して、ひとりで捜しにいったんだ」
「みんなで捜索しなかったんですか」
「もちろん当時の青年団が声をあげた。俺も子供ながらに、よく憶えてる。でもタカアキは、みんなに迷惑がかかるからって、頑としてその申し出を受け容れなかった。もしかするとご先祖から陰森がいかに危険な場所か、俺たち以上に言い聞かされてきたのかもしれないな。とにかく猟銃とナイフ、それとロープっていう最低限の装備で森に入っていった。実際、それから四日ほどして奴はちゃんとヒロアキを連れて帰ってきたよ……」
言葉を切り、耕平が頬を歪な形に吊り上げる。笑っているようにも、それを我慢しているようにも見える。あまり気持ちのいい笑みではなかった。
雅治は甚べえの袖に手を入れて腕を組み、ときおり注がれる耕平の視線に小さく頷きながら、友康とともに黙って話を聞いている。
短くなったタバコを揉み消しながら、耕平が言葉を継ぐ。
「……戻ってきたとき、タカアキは片方の肩に猟銃をふたつ提げて、もういっぽうに半分気を失ったみたいになったヒロアキを担いでた。ふたりとも、まるで獣と闘ったみたいに体じゅう傷だらけで、とにかくひどい有り様だった。それで騒ぎになって、人も集まってきて、家に帰るのに手を貸したりしたんだが。不思議だったのはそのあとさ。
ふたりとも森でなにがあったのか、誰にも話そうとしなかった。いや、前みたいに人とかかわらなくなった。それどころか、しばらくすると弟のヒロアキは村を出ちまうし、タカアキはタカアキで家と田畑を他人に譲って山奥に籠っちまった」
「いまも、ですか」
「ああ。ヒロアキは行方知れず。タカアキはたまに山道や林道で見かけることもあるんだが、いまじゃ誰もかかわらない。見た目が仙人みたいになってたんで、最近はタカ爺って呼ばれてるよ。もともと山人で狩猟筋、山で暮らすのはなんてことないんだろう」
耕平が新しいタバコに火をつける。
話は終わりのようだった。
孝之はあらためて陰森を見やった。
月明かりを浴びた森には、霧が立ち込め、妖気がそこら中に漂っているように見えた。不思議なことに、村のほうからは夏の虫やカエルの鳴き声が聞こえてくるのに、森の奥からは物音ひとつ聞こえてこない。まるで人間に見られているのを知っていて、逆にじっとこちらを見返しているような、そんな気がした。
そのときふいに、森の彼方から、かすかだが地鳴りのような音が聞こえてきた。孝之はほとんど反射的に息を殺して耳をすました。
それは音というより、断続的な振動だった。一定の間隔で足裏から脚に伝わり、しばらくすると消え入るように途絶えた。すると今度はもっと近くの樹々のあいだを、なにかがそっと移動していくような気配を感じた。
「日向さんが驚くのも無理はない……」
思わずフリーズしたままの孝之を見て、雅治が微笑んだ。
「……ですが、村の者にとっては珍しいことではないんですよ」
友康も経験があるのだろう。そうそう、と大きく二度頷いている、
雅治が組んでいた腕をほどき、片手で大きく森を示す。
「この途方もなく広大な原生林には、地盤の弛いところもあれば、未確認の川や滝、そして湧き水によってできた沼や鍾乳洞といったものが、無数に存在しているといわれていますからね」
つまりいま聞こえてきた音は、森のなかで起きた自然現象によるものだと、このあたりでは考えられているという。人間には感知し得ない微細な地核の変動に自然が反応して、どこかで崖崩れや増水が起き、それらがまた、さらなる事象を引き起こす――。
「こうした現象は昼夜を問わず起こってるんでしょうが、特に静かな夜なんかは、いまみたいに地鳴りのような音が聞こえてくることがあるんですよ」
「……なるほど」
孝之は目顔では納得しながらも、心のなかでは薄ら寒いものを感じていた。
たとえば、真夜中の海上をひとりぼっちで小舟で揺られているときに、もしもすぐ間近でクジラの鳴き声を聞いたとしたら、おそらく感動よりも恐怖を覚えるであろうように。
それにさっき感じたのは――
あれは、「音」ではなかった。
――気配だった。
まあいい。いまやるべきことは、南原千尋を見つけることだ。
いまのところほかを捜している捜索隊からも、千尋が帰ってきたときに備えて自宅で待機している妻の千鶴子と担任の篠原健一からも、なんの連絡もない。捜索範囲を、それこそ陰森の奥深くや、反対に山越え道まで広げるとなると、この人数ではとても足りない。友康もある程度捜して見つからなければ、県警に応援を要請する構えのようだ。
と、そこで突然、誰かの携帯電話が鳴りだした。
友康が慌ててズボンのポケットからスマートフォンを取りだし、ディスプレイの表示を確認しながら電話に出る。
「もしもし、はい、はい――」
友康は何度か頷いたあと、いったん送話口を押さえ、
「千鶴子さんからです。千尋ちゃん、いま帰ったそうです」
破顔しながらスマホを耕平に差しだした。
孝之と雅治は、どちらともなく顔を見合わせて頬を緩めた。
ところが、
「どういうことだ……」
はじめは小さかった声が、
「……なにをいってるんだ、おまえは……」
だんだん大きくなってくる。
「……ふざけるな! 篠田を出せ、篠田を!」
そこで通話が切れたのか、耕平は絶句したまま固まっている。ほかの三人は呆気に取られたまま見守っているしかなかった。
ややあって、耕平が押し殺した声で友康にいった。
「斉田さん、いますぐ俺んちまで乗せてってくれ」
陰森の前に停めてあった友康の軽自動車に乗り込み、耕平の家にいくまでの道中で、孝之と雅治は分担してほかの捜索隊の面々に、千尋が無事に帰宅したことを携帯電話で報告した。友康は運転に集中していて、耕平は終始無言だった。
南原家は、田んぼの小道を入った、ちょっと奥まったところにあった。安代の家ほどではないにしろ農家っぽくない二階建てで、都会にあっても、さほど違和感のない一軒家だ。正面に車を寄せると、玄関のドアが開いていて光が漏れているのが見えた。
ふいに千尋がどんな生徒なのか、どんな女の子で、母親の千鶴子はどんな人なのか、そして担任の篠原とはどんな人物なのか、にわかに興味が湧いた。顔を合わせたことはあっても、その人となりまではわからない。とりわけさっきの耕平との電話のやり取りを聞いてしまったからには。
ところが――。
いざ家に着いてみると、千尋はおろか、千鶴子も担任の篠原もいなかった。
家のなかは、完全にもぬけの殻だった。




