第一部 第三章 2
第一部
第三章
2
この村にやってきて二年。一度もなかった夜の出勤に夫を送りだしたあと、斉田響子はリビング(というより、古民家なので居間というべきか)の前の縁側に座って、十ヵ月になったばかりの勇太を寝かしつけながら、暮れなずむ山々を見るともなしに眺めていた。
いくぶんノスタルジックな気分になるのは、蒸し暑い風に運ばれてくる夏の虫たちの調べのせいかもしれないが、どうやらこうしたパステル調の世界では、どっちにしてもあまりいい想い出というのは去来してこないらしい。
私の場合は、と彼女は自嘲気味に付け加えた。
自分がおカタい職業を選んだのも、田舎の村へ越してきたのも、厳格な家庭で育ったことが影響しているのかどうかも――精神科医ではないので判然としないが。
響子はふいに、高校で同級生だった近松康子のことを想いだした。
仇名はカオナシ――いわゆる引っ込み思案の泣き虫で、まだ仇名が付いただけマシなのだが、さりとてどの子がその「カオナシ」なのか、二学期になるまで響子のグループは誰ひとり知らなかった。ところが縁は異なもので、文化祭の用事で康子の家にいったとき、母親から娘が内向的で困っているという悩みを打ち明けられた。
それが友情のはじまりだった。
響子は康子をグループに引き入れ、一緒に遊んだり、得意な油絵を教えたりもした。彼女もすこしずつではあるが、徐々に人付き合いができるようになっていった。高校を卒業後、響子がイタリアへ美術留学すると、彼女も画家になるといって、あとを追うようにフランスへ旅立った。響子が日本に戻って警察学校に入るころには、彼女は本格的にパリに移住していた。
芽が出ないまま月日が流れた。
康子が絵画の世界で成功しないことは、響子にはわかっていた。美術、あるいは音楽や小説などもそうだが、クリエイティブな世界は作品だけでなく、そこに投影された作り手自身が鑑賞される。そこで受け手の心を震わせることができなければ、それはただの自己満足にほかならない。プロフェッショナルとアマチュアの違いは知識や技術ではなく、じつはそこにある。
響子が卒配で大崎署の交通課に配置され、刑事課を希望して代々木署の生活安全課に異動するころになっても、康子は日本に帰ってこなかった。
そんなある日、国際電話で響子はいった。
「日本で通用しないものが、どうして外国で通用するの?」
「こっちのほうがやりやすいのよ。住みやすいし、専門家も多いし、アーティストへの偏見もないし……」
「それじゃ、ダメよ。自分自身と正面から向きあいなさい。」
もしも自分と出会わなければ、こんなふうにはならなかっただろうに。自責の念にとらわれながら響子は続けた。
「そうしないと、あなたはいつまでたっても、自分から逃げてるだけで……」
しかしその会話は、康子がいきなりフランス語で(それも虫唾が走るようなイントネーションで)反論しはじめたことで中断された。
これが、この子のプライド――。
そう。それはまさに彼女の描く絵そのものだった。鑑賞する側が、観ていて恥ずかしくなるような絵。それはまさしくヤスコそのものだった。
薄っぺらい、なにもかもが――。
響子の胸中に、苛立ちよりもさきに失望と幻滅が広がっていった。
そしてふたりの友情は終わった。
たしかにそうやって目を逸らしていれば楽だろう。本当の自分も、消してしまいたい過去も。だが、成功しようが失敗しようが、逃避からはなにも生まれない。仮面の厚みが増すだけで、実になるものなどなにひとつない。
開墾しない畑にいくら種を蒔いたって、そこは土壌にはなり得ない。どんなに一生懸命、水をやったって、そこからはなにも育たない。育つのは――。
響子は、友康とのセックスを通じて絶頂というものを味わったことがない。それが自分のせいなのか、あるいは彼のせいなのか。抱かれていて幸せを感じることはできても、肉体のほうがそこからさきを拒否していた。
しかしながら性の悦びをまったく知らないかといえば、そうではない。友康には悪いが、とある男のときには、自分が不感症であることすら忘れられたのだから。
でも、その人は女をまともに愛せるような男ではなかったし、といえば体がいいが、要するに遊ばれていたわけで、その心の隙間にスッと入ってきたのが友康だったわけで。で、お付き合いして結婚に至ったと、そういうわけだからいまの生活に不満があるわけではない。それも月並みな女に必要な処世術だと開き直ってもいる。
そう。詰まるところ、すべてはコンプレックスの裏返しなのだ。
いつだったか、友康もいってたではないか――俺は小さいころから内気でケンカとかも苦手でね……警察官になったのはきっとその反動だよ。
人間がなにかをはじめる動機なんて、そんなモノだ。けれど、いつまでも偽りのステージを生きるわけにはいかない
おまえ、斉田よりデカ向きだな、といわれたことがある。なにを以ってしてかは定かでないが、ある意味それは当たっていると思う。
友康は容姿的にも雰囲気的にも、人畜無害というか、まるで睨みが利くようなタイプではないし、身長も警察官募集要項ギリギリで、体つきは響子のほうが厚みがあるくらいだ。
実際、新宿署の帳場で一緒になったとき、柔道の朝稽古で手合わせしたけれど、案外いい勝負だった。射撃の成績も逮捕術もどっこいどっこい。これも本人にはいえないが、たしかに自分のほうが刑事には適していると思う。
さりとて彼女自身は、退官したことを後悔してはいなかった。
なぜならあのまま東京にいたら、友康は疲弊して、病んで、いつか壊れてしまいそうで怖かったから。
それに都会なら定年までローンを組んでやっと郊外にマンションが買える程度だが、田舎なら庭付きの一戸建が格安で手に入る(資産価値などどうでもいい)。事件とは無縁ののどかな場所で、平和な時が流れてゆく。
でも、ほんとにそれでよかったのだろうか……。
打ち破るも、逃げだすも、あきらめて留まるも、どれも正解。重要なのは、正しい選択をしたかどうか。
いまにして想えば、康子を咎める資格は自分にもなかったかもしれない……。
響子はふと、彼方の空に目を留めた。
陽がどっぷり暮れかかっているのに、種類の異なる鳥がいっせいに移動していくのは、なんとも不思議な光景だった。彼女は、自分たちの未来に向かう不吉な予兆のような気がして、無性に不安になった。




