第一部 第三章 1
第一部
第三章
1
三郷駐在所の斉田友康巡査部長は、紺色のジャージの上下からふたたび制服に着替えて自宅を出た。
夜間通報など、東京にいたとき以来だな……。
夜闇が迫る小道を振り返り、縁側で見送ってくれている響子のシルエットに向かって軽く手を上げる。セミロングの黒髪に濃いグレーのジャージ姿は、もはや影法師にしか見えない。
彼の住まいは駐在所のさきの小道を入ったところにあり、その近くの空地に簡単なトタン屋根を作って、支給してもらった警察車両(軽のミニパト)と自家用の軽自動車を駐めてある。
本当はどちらか一台あればいいのだが、警察事案が発生した場合、一般の軽自動車では即座にそれとは判別しにくいし、逆に私用で街に出るときにミニパトというのはマズいので、結果二台になっている。とはいえ、使用しているのはもっぱら自家用車のほうだ。
ついでにいえば、無線機は国道で事故があったときに使用するくらいで、貸与拳銃にいたっては無用の長物。家の金庫に入れっ放しだ。
この地域では、警察官が臨場するような出来事に遭遇する機会はほとんどなかった。ありがたいことに。
友康はいま、珍しくその駐車場へ向かっていた。今回のこれが事件だった場合、重要参考人を留置施設のある洞川警察署まで連行、という可能性もなきにしも非ずだからだ。
砂利を踏む自分の足音を聞きながら、友康は深いため息をついた。
村道の大通りと、三校と各村を結ぶT字路の一本道には道路灯があるが、田畑を走る小道に明かりはない。まもなく一面、深い闇と化すだろう。
突然、どこかでけたたましいセミの鳴き声がした。おおかた夜の捕食者にでも襲われたのだろう。しかしながら道路灯に集まる虫や田んぼのカエルたちが、それで気分を害することはなさそうだった。悲鳴のような断末魔はすぐに断片的になり、やがて唐突に終わった。
事件とはそういうものだ――。
友康はちょっと迷ってから、自家用の軽自動車のほうに乗り込んだ。
東京都下の調布で生まれ育ち、都内の高校を卒業後、大学受験に失敗し五年間のアルバイト生活を経て、入庁。警察学校の成績が良かったからか、はたまた教官の気まぐれか、卒業後の配属先、いわゆる「卒配」は全国きってのマンモス署。新宿警察署だった。友康が本署地域課で歌舞伎町交番に立ったのは八年前のことである。
事件の起こらない日など一日としてない東京一の歓楽街――暴力団や半グレが絡んだ揉め事、ハメをはずしまくる一般人、トラブルを起こす酔客、たむろする少年少女、傷害、器物破損、ドラッグ、売春、買春、性犯罪、脅迫、恐喝、詐欺、窃盗、強盗、たまに殺人、エトセトラ、エトセトラ――。
夜が明けはじめ、空が白々としてくる頃――新宿御苑からやってきたカラスたちがゴミをあさり、路上に散乱した紙屑やビニール片が風に舞うなか、友康は同僚とともにパトロールに出る。
シャッターの前ではカップルが寄り添って眠り、交差点では女がしゃがみこんで泣いている。腹を刺されたチンピラが路地から運びだされても、牛丼屋に並んだ顔は救急車の赤灯を気怠るそうに跳ね返すだけだ。
帰りそこなったな――。
そんな連中に向かって、友康は心のなかでそっと声をかける。
ほのかに蒼みを帯びた空の下。いつもと同じ歌舞伎町界隈の早朝の風景。
市民の安全と平和を守り……警察学校の教官の言葉が虚しく空回りする。
妻の響子と知り合ったのは、そんなふうにして四年が過ぎたころ。東南アジア系窃盗団が仲間割れに端を発して起こした殺害事件の帳場、すなわち特別捜査本部、略して特捜が新宿署に立ったのがきっかけだった。
特捜とは、殺人事件が発生し、所轄だけではすみやかな犯人確保が見込めない場合、警視庁本部と協力して事案にあたるために当該所轄署内に設置されるもので、犯行が管区をまたぐ場合は特別合同捜査本部となる。
特捜が立つと、本部の刑事部捜査第一課殺人犯捜査係が捜査を主導し、所轄署員は一課捜査員とペアを組んで捜査をすることになる。所轄から特捜入りするのは、おもに刑組課。殺人や強盗傷害を扱う刑事組織犯罪対策課強行犯係だ。
ただし新宿署などの大規模署になると事件が多すぎて人手が足りないことが多く、部署に関係なく召集がかかり、近隣署からも応援要員が補充されてくる。
そんなわけで友康は地域課から、響子は応援要員として代々木署の生活安全課から特捜入りする運びとなったのだが――。
なんといっても友康にとっては、はじめての刑事捜査。しかも特捜。本来ならイレギュラーな人選だが、このとき新宿署も含め、近隣の警察署にもいくつか特捜本部が立っており、どこも人員が足りずにアップアップしていたという状況でなければ、捜査経験のない地域課員などお呼びでなかったはずだ。
捜査会議の講堂にちょっとくらい気になる女性捜査員がいたからといって、鼻の下を伸ばしている余裕はない。慣れない捜査と、同僚から聞いていた話(特捜では署に泊まり込みになるとか、所轄署員は地理案内的役割が大きいとか、重要なネタをつかんでも一課員の手柄になるとか、捜査に貢献して本庁に取り立ててもらえるよう張り切る者も少なくないとか)を実体験するのでいっぱいいっぱい。
情報交換のつもりで響子とポツポツ言葉を交わすようになったのは、捜査も終盤に差しかかったころのことだった。
特捜の事案は一か月ほどで黒人物を四人逮捕し、事件は無事終結した。
では、なにか事件解決に貢献できたかといえば、響子は地取り捜査で重要な証言を拾って結果を出し、友康も……まあ、この事案とはまったく関係なかったが、捜一の主任に道案内を頼まれたときに遭遇した事件でポイントは稼いだ(会社員同士の喧嘩による傷害と器物破損という、ショボい緊急逮捕だったが)。それでも手柄は手柄だ。
響子とは歳も同じ。階級も同格の巡査長。どこかウマの合う部分があったのだと思う。特捜解散後も連絡をとり合ったりしているうちに、自然とデートするような間柄になっていた。
両者とも単身者用待機寮。住まいがわりと近かったというのも要因のひとつだったが、もっとも大きかったのは、特捜での努力を評価してくれたのか、帳場が解散したあとも本部の主任警部補がふたりをよく飲みに連れていってくれたことだ。
それからまもなく、友康は二十八歳で昇任試験に合格。晴れて巡査部長となり、刑事講習を受けるチャンスも授かったが、そっちは一も二もなく断った。本当はカレシが制服、カノジョが私服って、なんか一般的には恰好悪いな、と思わくもなかったが、その代わり、階級はひとつ上だと自分を納得させた。
むしろ友康が悩んでいたのは、もっとべつのところにあった。
じつはその頃、彼は極度のジレンマに陥っていた。
犯罪者に対してというより、顔や場所が変わるだけで、いつも同じことを繰り返す、人間という生き物に。
そう、犯罪者には顔がない――。
夜の繁華街をさまよいながら、明け方になるとどこへともなく消えていく人の群れ……彼は護るべき理由がわからなくなっていた。そして――
「……都会を離れたい」
友康が思わずつぶやいたひと言を、響子は異を唱えることなく受け容れてくれた。
警察官も公務員である以上、基本的には五年ごとに異動がある。もしくは昇任試験に合格して階級が上がったとき。だからそこがひとつの節目、ターニングポイントとなった。
特捜での評価なども考慮され、昇任異動における田舎の駐在所への転属願はすんなり受理された。響子は退官し、駐在所補助員という位置付けになった。
教会で式を挙げ、会費制で披露宴パーティを開き、警察官仲間や友人たちから人並みに祝福されて、ふたりはこの地へやってきた。やがて息子の勇太が生まれ、かけがえのない家庭が築かれると、すべては彼の望んだとおりになった。
望んだとおりに――。
だが、どこにいても犯罪は起こる。
無意識に、腰に手がいっていた。
この村にきて以来、拳銃はおろか、警棒さえ持ち歩いたことはない。これが事件で、村に犯人がいるとしたら、せめてそれくらいは携行してくるべきだっただろうか。
掌にも、じっとりと汗が滲んできた。




