第一部 第二章 28
第一部
第二章
28
午後六時三十分。
太陽が沈みかけていることを、村人たちがじかに知ることはなかった。山間の村では、地平線が見えないからだ。彼らにとっての日没は、太陽が山に隠れてしまう時刻であり、彼らの夜はもうとっくにはじまっていた。
さんざんうるさかったセミも、ついにカエルたちにその座を明け渡し、田んぼのあちこちから聞こえてくる大合唱と道路灯に集まってくる虫の羽音だけが、人影のなくなった村道に響いていた。そんななかで村は誰にも知られぬまま、本当の日没を迎えようとしていた。
この時間になると、村人たちは一日の疲れを癒しながらゆっくり夕食を摂る。都会とは異なり、大人も学生も子供も時間の流れを共有しているので、全員が揃って食卓を囲む。村はいつものように、そんな平和な家庭の団欒に静かに耳を傾けていた――が、なかでもとりわけ興味を持ったのは、以下のような会話だった。
「おい。千尋はどうした? 一緒じゃなかったのか」
「友だちと遊んでるか、図書館にでもいってるんでしょ」
「おい。何時だと思ってるんだ。おまえ、千尋をほっぽらかしてどこいってたんだ!」
「なんであんたに、そんなこといちいち説明しなきゃなんないのよ!」
「……今日の夕飯はまだかい?」
「お義母さん、さっき食べたばっかりですよ」
「嘘いうんじゃないよ。私には飯も食わさないつもりかい」
「ハイハイ。そんなにいうなら用意しますから、この子、寝かしつけてきてくださいよ……」
「……あの医者、何様のつもりかしら。お義父さんの診察のとき、私、さんざん注意されたのよ。風邪をひかせるのは、ちゃんと看てないからだって。冗談じゃないわよ……」
「……いまチヒロのお母さんから、チヒロがきてないかってケータイに電話があって……なんか、チヒロ、まだ家に帰ってないみたいで……大神山から村へ下りるまでは一緒だったんだけど、そのあとどこいったんだろ……ユカやマサコやショウちゃんとこにも訊いてみたけど、やっぱりきてなかったって……ねえ、どうしよう……」
「……そういえば、たまに安代んとこにくる大学教授、やっぱりデキてるみたいだぞ。よく手紙がくるらしいんだ……」
「……猛の女房。いっつもパッツパツの服着て、どーゆー神経してんだろーな」
「赤ん坊も可哀そうだよ。母親そっくりじゃねぇか……」
「……こないだ、正一くんママが見たっていってたけど、あたしも今日、買い出しの帰りに見ちゃったのよ。ほら、千尋ちゃんママ。千鶴子さんよ。車二台で林道に入ってくところ。それがもう一台がさ、なんと……」
「……次はお祖父ちゃんが村長さんになるんでしょ」
「いや、いや、わしではないよ」
「どうして? ユイやマサコがいってたよ。いちばん偉い人がなるんだって。だから今度は早川のおジイちゃんだって」
「優花、よく覚えておきなさい。わしは偉くはないし、それにいちばん偉い人が村長になるとはかぎらないんだよ……」
「……アタシ、あのジジィ大嫌い! いい歳して、食事のあいだじゅう、アタシの体、ジロジロ見てるんだもン」
「ああ。それね。私にだってそうよ」
「大目に見てやれ。男はみんな、ジジイんなるとそうなるんだよ」
「明日は家に届けるわ! あんな顔見てたら、ご飯がまずくなるもン」
「まあまあ、おまえたち、もうすこしの辛抱だ。いずれあの家も田畑もうちの物になるんだから……」
「……まさかこんな田舎の村にきてまで、緊急出動があるとは思わなかったな」
「なんでもなければいいけど……」
「うん、とにかく戸締まりだけはしとくんだぞ……」
以上は言葉を通して語られたものだが、それが必ずしも心と同じでないことを、そして人間が知り得る(もしくは知っていると信じている)真実が、必ずしも事実でないことを村は知っていた。
たとえば最近太っただけでなく、頭も禿げてきた溝尻雄三を見て、妻の耀子が絶対に同じ墓には入らないわ、とひそかに思っていることを――
そしてすでに耀子からオトコとしての現役を終えていると思われている雄三が、街に買い出しにいくたびにソープランドの花子に跨ってもらい、頑張って二回はヌいて帰ってくることを――
または二宮三沙子が義母の貞子の持ち物を、気に入った物は懐に、気に入らない物はゴミ箱に、勝手に入れてしまっていることを――
そしてそんな嫁の本性に、猛だけが気づいていない、もしくは時として気づいていないフリをしていることを――
あるいは永野静子が、満彦なんかと結婚せずに都会へ出ていたら、こんな田舎の酒屋で店番なんかしなくて済んだのにと、死ぬほど後悔しながら暮らしていることを――
あるいは市川政夫の妻清子や中村芳郎の妻文子が、ふたりの持ち帰った安代の話を聞きながら、自分もほかの男に抱かれてみたいと思っていることを――
あるいは明石里子が、自室の抽斗の下部にいまだに覚醒剤のパケットと注射器一式を隠し持っていることを(彼女にとっては愛も恋も幻で、男も女も公衆便所にすぎないと思っていることを)――
あるいは今日の午前中、野呂圭輔が農作業中にうっかり足を捻ったのは、じつは以前懇意にしていた毛利雅治の妻晶子が、庭で洗濯物を干している姿に見惚れていたからだということを――
あるいは早川栄作をはじめ、跡取りのいる長老たちの家では、おおむね共通して遺産相続の問題が渦巻いていることを――
または隣村の美術教師の永須理沙は、夫の寛よりも愛犬の二匹のボクサーのほうが愛おしいと思っている(彼女の犬至上主義は職場結婚しても治らなかった)ことを――
または三週間ほど前、その永須教諭の写生の時間に脚を組んで絵を描いていた田村かおりが、ふとした拍子に太腿の内側に力が入り、それをきっかけに本格的にマスターベーションを覚えたことを――
またはこれも隣村ではあるが、三校の事務員兼用務員の入江保が大事そうに持ち歩いているUSBには、体育の時間に盗撮した女子生徒の写真が多数入っていることを――
そしてその入江と遠戚にあたり、彼を三校に引っ張ってやった教頭の小野寺弘が、じつはそれを知っていて黙認していることを――
または数学専科の山本和馬が、BDやDVDやCDをインターネットで注文する際、それが必ずしも映画や音楽といったジャンルにかぎらないことを――
または村沖麻琴は木本拓也に、畑山敦子は矢島明に、村をまたいでひそかに恋心を抱いていることを。しかしどちらも片想いなのはわかっているので、思わず泣きだしてしまう夜があることを――
あるいはその拓也と藤村光治、そして松下美香が恋や進路の問題を考えるとき、それぞれが己が心に巣喰う、(いかんともしがたい)作為的な小賢しさに直面し、悶々とした夜を過ごしていることを――
あるいは高石正充と中谷大介には(たまに光治と拓也もだが)、夜になると小山裕子を想いながら、勉強よりも精を出している手仕事があることを――
あるいはその裕子が、携帯電話のラインやメールで、東京や大阪に住む同世代の中学生たちと頻繁にやり取りしていることを――
あるいは矢島泰三が呑むと決まって偉そうに講釈をたれ、それを倅の明がうんざりしながら聞いていることを――
あるいは矢沢七瀬が、夜の診療所でニャニャニャニャアと奇声を発しながら(残念ながら、今夜はヨネが入院しているので控えているが)、黒猫のノネムと上へ下への追いかけっこをして遊んでいることを――
あるいは日向孝之が、電話で妻の智子の声を聞き、娘の未来の機関銃みたいなお喋りに耳を傾け、息子の真悟の意味不明な話に舌を巻きながら、自分でも滑稽なくらいホームシックになっていることを(だが内心、ホームってどこだ? とひとりごちていることを)――
あるいは奇しくも今朝の終業式の朝礼で福井敏男校長が話したとおり、ほとんどの三校の生徒にとって、これが二度とない特別な、そして最期の夏休みになりそうだということを――
そしてヒトという生き物があの森を陰森と呼ぶようになるずっと以前から、人類が地球上に現れるより遥か太古の昔から、あの森がそこに横たわっていることを――
もしくは今夜あたりはその森が、久しぶりに騒がしくなりそうだということを――
――村は知っていた。




