第一部 第二章 26~27
第一部
第二章
26
午後六時十分。
昔ながらの蚊取り線香から立ち昇る煙が、部屋の中空で亡霊のように霞んで揺らいでいた。小さな赤い灯が紡ぐ、いくつもの過去。知らぬまに燃え尽きていった残灰は、今宵も可笑しいくらい綺麗な渦巻になっている。そこが、いい。やはりリキッドタイプは好きになれない。
昔を振り返るたびに襲ってくる罪悪感――それでいてなお、この時間になると自然に体が疼くのが、嬉しくもあり、悲しくもある。もっともいまでもそつなくできるかどうか、甚だ疑問ではあるが……。
正月とお盆の里帰りの時期は、子供のいない上杉善吉にとっては殊のほか侘しい季節だった。毎年、賑やかになるほかの長老たちの家を羨望と悔恨のまなざしで眺めることになるからだが、そこで思い至るのは、まさに因果応報というひと言に尽きた。
善吉は、ヨネと結婚した当初から妾を三人抱え、毎晩のように外泊していた。相手は皆、夫を早くに亡くした未亡人で、村長がそこにつけ込んで薄幸な女たちの面倒をみるというのも、当時はなんとなく黙認されていた。
しかし、彼はそれでも飽き足らず、ヨネの実姉で、両親の死後ひとりで家の切り盛りをしていたツネにも手を出した。これにはさすがに村人たちもあきれ返り、特に女子供は上杉家とかかわることを避けるようになった。
おかげで農業を継いでいたひとり息子は、嫁の来手もないまま生涯を終えた。クモ膜下出血に因る逆縁だった。
それでも善吉はやめなかった。ヨネが止めようとしようものなら平気で殴りつけた。代々村長の家系で育ってきた彼は、それが当たり前だと思っていた。
それに逆らっていつもヨネを庇っていたのが、善吉の実の弟の辰吉だった。辰吉は正義感が強く、生真面目な男だったが、これも善吉のせいで独身のままこの世を去った。
最後まで残ってくれたのがヨネだった。
いまにして想えば、ヨネは自分にはもったいないくらいよくできた女房だった。善吉がなにをしていようと、従順で文句もいわず家を守ってきてくれた。せめてこれからはヨネを大切にしてやりたい。
そう思っていた矢先に――。
もしもヨネが入院することになったら、もしもさきに逝かれでもしたら、自分はどうすればいい?
善吉はひとりになるのが死ぬほど恐ろしかった。もはや身寄りはひとりもいないのだ。誰かに家や田畑を譲ることを条件に、面倒を見てもらうよりほかないだろう。
彼にとって、それは愛情や後悔の念よりも現実的な問題だった。押し並べてみればこの善吉という男は、誰よりも自分を愛していた。
「こんばんは!」
玄関の戸が開いて、明菜の溌剌とした声がした。ヨネが入院したので、夕飯に呼びにきてくれたのだ。
明菜は彦坂家の長女で、今年十九になる、目のクリクリした気立てのいい娘だった。そして善吉が村長の座を継がせ、同時に自分の土地を与えて面倒も見てもらおうと思っているのが、この彦坂家だった。
善吉は蚊取り線香の先端を折り、腰を上げた。
「いま、用意するからな」
玄関先で待っている明菜に声をかける。
絽の着物のままだったので、鏡を見ながら簡単に直すだけで済むことだ。
「そうだ。さっき診療所におヨネさんの晩ご飯も差し入れしてきたよ」
「すまんの、春ちゃん」
座敷と玄関とのやり取りなので、ふたりとも声が大きくなる。
「いいのよ、困ったときはお互い様でしょ。それより大きな病院で検査するんですって」
「ああ。入院ぜずに済めばいいんじゃがな」
善吉がため息をついたのが聞こえたのか、明菜が話題を変えた。
「そうそう。東京からきたっていう男の人。今日、大神神社ではじめて遭ったよ」
彦坂道夫はマメで人付き合いがいい。たぶん神社に農作物でも届けさせたんだろう。
「ほう。村役場に寄ったとき政夫から聞いたが……まだ村におるのかね?」
「うん。安代さんのとこにいるんだって。ちょっと話したけど感じの好い人だったよ。村に旅の人がくるのって、あの大学教授以来じゃない」
「そうじゃな。しかし村に人がくるのは、悪いことではないんじゃよ」
善吉が身支度を終えて出ていくと、
「どうして?」
明菜は声のボリュームを落として、不思議そうに善吉に見上げた。
肩でそろえた明るい色の髪がハラリと左右に割れる。掌の上の携帯電話の画面が明るい光を発している。
最近の若者は皆、こんな感じだ。なにをしているときも、携帯電話を手放さない。だからこそ、陸の孤島のような村でも、情報だけは事欠かなくなったわけだが。
玄関先に腰掛けた明菜の胸元と太腿に目を奪われながらも、善吉は話を流すことなく真面目に応じた。
「天神村のような山里は、昔から情報が不足しがちでな、村人の多くは自分の村のこと以外、なんにも知らなかったんじゃ。いまのように交通手段もなく、ましてやパソコンだのインターネットなどもなかったからの。するとどうなるか。時代の流れについていけず、あげく廃村への道をたどることになる。多くの村が、そうやって消えていったんじゃよ」
「じゃあ、なんでこの村は生き残れたの?」
「神仏に所縁があったからじゃな」
「大神神社のこと?」
「うむ。でなければ、これといった特色もない人里離れた山村など、とっくに無くなっていたじゃろう。このあたり一帯に根付いた山岳信仰や、あの古社への参拝があったからこそ、この村は隔絶されることなく外部との交流を保ち、自給自足でしかなかった農業も仕事としてやれるまでになったんじゃ。つまり村に人がくるのは、悪いことでは――」
そのとき彼の老いた脳の片隅に、子供のころに聞いた、とある錆びついた声が甦ってきた――村に来た者、厄災を祓う。
思えば、祖父が神隠しの伝説を語るとき、必ず話のどこかで出てきた言葉だった。誰かがどこかで断ち切らなければならなかった、悪しき風習――。
「どうしたの?」
「……いや、ここ幾年かで、村にやってくる人間が増えたと思っての」
「そうよね。宗方さんに斉田さん、診療所の七瀬先生も……」
ふいに夕飯に呼びにきたことを思いだしたのだろう、明菜は突然言葉を切ると、草履を履こうとしたまま突っ立っていた善吉に声を張った。
「早くいこ! 晩ご飯、冷めちゃうよ」
玄関を出てからも、善吉の頭のなかから祖父の言葉が消えることはなかった。
27
午後六時二十分。
山々の稜線が闇に溶けはじめると、大神山の中腹だけが仄かに明るくなった。
大神神社では夕刻になると社殿や境内の灯籠に蝋燭が灯される。夜間に参拝者が訪れるのは、正月と季節ごとに行なわれる神事のときくらいだが、こうして夜を迎えるのが宮司としての宗方昇の日課だった。
神社内のすべての点火を終えると、宗方は一日の最後の祝詞をあげるために、境内を抜けて社殿へ向かった。
空気の澄んだ夜、灯籠の薄明りのなかを歩く白装束姿は、遠目から見ると幽霊のように映るらしい。電気を引かなかったからだと、いくどか村人たちにからかわれたことがあった。その天神村も上から眺めれば、すでに人通りはなく、影絵のように夜に埋没しようとしている。
宗方は賽銭箱の横で草履を脱ぎ、誰もいない社殿に上がった。蝋燭だけなので、かなり暗い。
だが、このくらいの明るさでちょうどいい……。
蝋燭の炎が織りなす陰影を踏みしめながら階段を上り、神殿に向かってかしこむ。頭を上げた宗方の瞳が、揺らめく炎を見てわずかになごんだ。
炎を透かして、幸せそうに寄り添う父と母、そしてその真ん中で無邪気に笑いかけてくる妹の姿が浮かんだ。
やがて夜風が吹きぬけ、その姿が搔き消されると、彼はまたひとり、取り残されたような気がした。




