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第一部 第二章 25

 第一部


 第二章


 25


 午後六時。


 矢沢七瀬は午後の診察を終え、一階のバックヤードで着ていた白衣とタオル類をまとめて洗濯機に突っ込んで【おまかせボタン】を押し、さきほど彦坂家の娘が上杉ヨネのために差し入れしてくれた、ええっと、これはなんだ、筑前煮? がめ煮? とまれそれとご飯のタッパをキッチンの電子レンジで温めながら、

「本日は記録的な大盛況だったわ……」

 いささか意地の悪い調子でひとりごちた。

 高血圧や尿酸値の高い高齢者の常連に加えて、十六人もの老若男女が体調不良で来院したのだから――農作業中に足を捻挫した野呂圭輔と、ヨネが入院したのを聞きつけ、彼女の好物だという水羊羹をたずさえて見舞いに現れた関口史郎、そしてむろん南原千鶴子はべつだが。

 咳、痰、微熱、筋肉痛、倦怠感などなど――。

 七瀬もさすがに、午後からはマスクを着用していた。

 インフルエンザやコロナウイルスではなかったから(この村の住民は高齢者が多いこともあり、率先してワクチン接種を打つ傾向にあるので)夏風邪。流行の兆しあり、といったところか。

 チンッ!という合図を待って電子レンジから料理を取りだし、皿に盛りつけ、トレイにお茶と箸を一緒に載せて、診察室への直結ドアを開ける。

 大きな声ではいえないが、料理に関することはあまり得意じゃないし、はっきりいって煩わしい。なにかのドラマじゃないけれど、医療に関係ないことはなるべくいたしたくない。

 そんなこととはつゆ知らず、カーテンを引いてなかを覗くと、サイドテーブルのテレビを観ていたヨネがゆっくりと七瀬のほうを向いて笑みを浮かべた。

 ベッドを起こし、テーブルを引き寄せ、夕食を載せる。医療用ベッドは電動で上げ下げ可能だし、キャスター付きのオーバーテーブルも思った以上に役立っている。

 聴診器を当て、体温と血圧を測ってみたが、朝昼同様、特に問題は見られなかった。パイプ椅子を出して、ちょっとのあいだ世間話(善吉の話やお見舞いにきていた関口史郎の話)をしたあと、早ければ明日にでも精密検査をすることを伝えておく。検査結果によって、今後の治療方針を決めることになる。

 と、そこでいつものごとくエントランスのキャットドアの開閉音がして、鈴の音と足音が、廊下をグルリと回り込んでくるのが聞こえた。

(シャンシャンシャンシャン)

(トットットットッ)

 診察室にいてもはっきりと耳で追うことができる。

 音をたてているときは、なにかを主張しているとき。すなわちこの時間だと「グォファーン」ということになる。ちなみにそうでないときは、音どころか気配すら消せるところが凄い。

 ヨネとの会話も一段落したので、七瀬は待合室側のドアからそれこそ、そおっと廊下に出た。ノネムは開けしなにスルリと入ってくることがあるので気をつけておかないといけない。

 二階の自室に上がり、こっちもゴハンの用意に取りかかる。消化器ケアのキャットフード。厳選素材。抜群の栄養バランス。飲み物はお気に入りの猫専用羊乳。あたしより、はるかにいいモン喰っている。

 飼育当初に比べて、最近はゴハンの時刻になると必ず帰ってくる。往診などで外で見かけたりすると、田んぼや畑でなにかを追いかけているように見えるときもあるのだが、あれはただ遊んでいるだけなのか。そうかもしれない。大概は悠々と肩で風切って歩いているか、のんびり日向ぼっこしているか、どちらかなので。

 ノネムの世話をひと通り終えてから、七瀬はスウェットの上下に着替えた。猫がいるからには防護服になるのは致し方ない。特に、爪は要注意だ。ふだんは隠して収納しているし、たまに嫌がるのを承知でカットしたりもしているけれど、本気で立てられたら破壊力は目に見えている。

 本来なら猫という生き物は、医療従事者向きのペットではない。向こうに悪気はなくても、甘嚙みや爪で傷でも負おうものなら、血液感染のリスクは当然高くなる。同期の医師で水虫持ちの男がいたが、それが原因で救急患者の処置時にC型肝炎に感染した例もある。用心するに越したことはない。

 とりわけこいつはクーラーをつけて眠っていると、タオルケットにもぐり込み、たいてい脚の間、それもきわめて腿の付け根に近い場所、もしくは重苦しいと思ったら胸のあいだで眠っている、スケベなヤツなのだ。まあ、オスだしな。

 でも、ベッドでうつ伏せになっていると、脚から腰、背中のあたりまで、フニフニと足踏みしてくれるのはとっても気持ち好い。疲れが癒される。あと、明け方になると腹が減るのか、それとも、オレが起きたんだから、オマエも起きろ、という意思表示なのか、体の上でわざとのようにドシドシやられるのでいやでも目が醒める。休みの日にはえらい迷惑だか、ふだん朝が弱い七瀬にとっては好都合ではある。

 ま、居候なんだから、それくらいあって然るべきだろう。

 だんだん本能が薄れて、怠惰なネコになりつつあったりして――。

 電子ポットのお湯でコーヒーを入れ、アルミサッシの窓を開けて網戸にし、七瀬はようやくソファにもたれた。

 ほんとは出窓も開きたいところだが、残念ながらそれはできない。出窓は網戸の付かない押し開け式の窓なので、夏は開けたが最後、集光性のあらゆる虫が飛び込んでくるからだ。

 虫は紫外線の、それもある特定の波長に寄ってくる習性があるので、田舎の家では紫外線の弱いLED照明を使っているところが多い。この村もたいがいの家がそうだし、道路灯もそれに適した電球を使用している。それでも完全に虫が寄ってこないというわけではない。

 いまも窓ガラスや網戸には、掌ほどもある蛾に雑じって、やたらと足の長いカゲロウともバッタともつかない羽虫や、奇妙な形をした甲虫など、正体不明の蟲がへばりついてる。ベランダの木枠の端のほうでは、外国のタランチュラのように大きなクモが、網に掛った獲物めがけてスルスルと移動していく。

 とはいえ、生粋の都会っ子ならいざ知らず、高校まで長野(ながの)県の軽井沢(かるいざわ)で育った彼女は、それにもすぐ慣れてしまった。見たこともないような蟲が多いのは、(ちょっと気色悪いけれど)この地方特有の固有種なのかもしれない。

 七瀬は加熱式たばこをくわえながら、片手で携帯電話の画面を操作して、奈良市内にある医療センターの電話番号を表示させた。夕食といっても電子レンジでチンするだけなので、その前にもうひと仕事、片付けてしまいたいことがあった。

 ヨネの検査入院に関しては、夫の善吉に昼ごろ電話して了解をとってある。ふつうなら家族が連れていくか、救急車に搬送してもらうべきところを、七瀬が付き添う方向で話はまとまっている。

 そんな前例、というか悪例など作りたくなかったのだが、そうせざるを得ない事情があった。ひとつは老々介護の問題だ。車の有無や運転ができるか否か以前に、高齢の善吉では付き添いもままならないのが実状で、それはなにも上杉家にかぎったことではない。

 ここにきてすでに二軒の家が介護施設へ入居するのを見送っている。一軒は一人暮らし、もう一軒は夫婦で介護し合っているような状況で、家のなかは不衛生で異臭がしていた。

 身寄りの有無はあまり関係ない。たとえいたとしても他県で生活していて、戻ることもできなければ引き取ることもできないとか、下手をすれば相続問題まで絡んでくるとか、なかなか一筋縄ではいかない難題なのだ。

 そしてもうひとつ。ここ数日、体調不良を訴える患者が増えたことだ。どっちかといえば、こっちがメイン。

 酷暑の影響や熱帯夜による体調不良、ひいては夏風邪とか、いわゆるクーラー病とかならいい。だがインフルやコロナが陰性でも、ほかのウイルスによる集団感染の可能性もゼロではない。しかし、それには当然精密検査が必要になる。

 ヨネは数日間体調不良が続いたのち、狭心症を起こしている。彼女を検査すれば、そのへんのところもはっきりするかもしれない。

 タバコをくゆらせながらスマートフォンを手に持ち、しばらくのあいだ逡巡する……二本目、まだ逡巡する……三本目で、ようやく発信表示を押した。

 先方に診療所名と自分の名を名乗り、取り次いでほしい知人の名前を挙げると、「しばらくお待ちください」という言葉に続いて音楽が流れてくる。

 スマホを肩ではさみ(病院の保留音が、あるがままであれ、とはなかなかいいセンスだ、などと思いつつ)、食事を終えたノネムが窓框に跳び乗って、外側に集まってきた蟲たちにちょっかいをかけているのを見るともなしに見ているうちに、電話が回され――

「ようッ」

――歯切れのいい、懐かしい声が聞こえてきた。

 反射的にタバコのスティックをテーブルに置き、携帯電話をしっかり持ち直す。とっくに掌が汗ばんでいる。

 けれども相手はまったく意に介するふうもなく、七瀬からの電話を喜び、用件も一も二もなく快諾してくれた。会うのが楽しみというオマケまで付いた。

 まさか、いまでも……いやいや、ないない――。

 七瀬は、ちょっと後ろめたい気分で通話を終えた。

  過去はさて措き、相手は東京中央医療センターにいたころ可愛がってもらった、先輩にして高名なドクターだ。歳はひと回り近く上だが、浪人と留年を繰り返して医師になった七瀬とはそもそもデキが違う。しかも二年以上もご無沙汰なのに、いくらなんでもいきなりの用件がこれではさすがに気が引ける。

 要注意事項……何年も連絡をとり合ってない友人からの電話。最初は懐かしさに話が弾んでも、最後はろくでもない用件――借金の申し入れ、あるいは営業、はたまたまじめに順番待ちをしている患者をスッ飛ばしての特患依頼、等々――であることが多い。

 それでも診療所を留守にすることを考えれば、融通を利かしてもらえるに越したことはなかった。天秤は重いほうに傾くものだ。二者択一なら、背に腹は変えられない。

 そこでふと、午後診察にやってきた南原千鶴子のことが頭の片隅をかすめた。

  さて、あのオンナはどうするつもりだろうか――。

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