第一部 第二章 23~24
第一部
第二章
23
午後四時三十五分。
五條市の有限会社、東雲瓦斯燃料の従業員である羽村淳一は、山越え道の手前にトラックを停めて手に取ったノートに納品書と受領書をはさんだ。
後ろの荷台に積んでいるのは、縦型のプロパンガス(天然ガス)ボンベ。要するに家庭用の燃料ボンベだ。前回ガスの残量を調べたところ、天神村が七本、白河村と黒滝村は併せて六本が空になっていたので、それらを交換してきたのだ。
東雲瓦斯燃料は、奇しくもこの村の出身の安東家が大正初期に五條市に移り、石炭などを扱う会社を興したのがそのはじまりで、現在は家庭用(電気自動車が普及する前までは、タクシーなどの車載用も含めて)プロパンガスボンベの集配・充填・交換・耐圧検査(法令で定められた使用期限が切れたときに行う検査)などの業務を行っている。
淳一の担当は、おもに家庭用だ。
支払いは月締めの銀行引き落とし。集金の必要はない。ガスの使用量の点検や集配は地域ごとにまとめて廻っている。
天神村などの僻地の村の場合は、どの家も最低二本ずつボンベを置いているので、一本が空になったらガス充填済ボンベと差し換えるようにしている。便利なシステムだが、家人がまだ一本残っているとうっかり勘違いしていたら目も当てられない。特に冬場だと大変なことになる。なので各家のガスの残量を把握しておくのもマスト事項だ。
ボンベの設置場所は家屋の外壁のところなので、チャイムを鳴らすことなく確認できる。今日も配送の合間に、ほぼ全世帯のチェックをしておいた。
燃料はライフライン。淳一はそれを胆に銘じて、顧客の生活に支障が出ないように仕事をしてきた。
だが、それももう終わりだ――。
会長が亡くなったいま、もう会社に未練はない。現社長一家の顔を思い浮かべながら、淳一は鼻を鳴らした。
会長、つまり先代とその奥さんは素晴らしい人たちだったが、二代目はとんでもないボンクラ一家だったからだ。会長夫妻がよく嘆いていた。倅があんな男に成り下がったのは、嫁のせいだと。
しかし、先代には悪いが、それは違うと淳一は思っていた。
たとえそうだとしても、その女と結婚し、なおかついまも一緒にいるのだから、息子も似た者同士だったということだ。ちなみにこの二代目は長男で、次男のほうは若いころに家を出たままの放蕩息子だというから、先代はつくづく子供にはついていないのだろう。そうなると、そのまた孫だってまともに育つはずがない。
ああいう連中をウンコ製造機っていうんだろうな――。
さっき退職の報告にいったとき、小山俊昭はそういって笑った――歴史はそんなDNAは残さない。いつかどっかで淘汰されていくもんだ。まあ、なにかの肥やしくらいにはなるかもしれんけどな。
俊昭は、物腰は柔らかいが、ズバッと物事の核心を衝いたりする。それでいてユーモアを忘れない。
淳一も頷きながら笑ってしまった。
一緒に仕事をしていた期間は短かったものの、淳一にとって俊昭は、彼が会社を辞めたあとも配送時にちょこちょこ寄らせてもらっている、元同僚にしてもっとも尊敬できる先輩だった。
退職のことを知ると、それなら一緒に農業をやらないか、と社交辞令とは思えないほど真剣に誘ってくれた。
ありがたい話だったが、それは丁重に辞退した。淳一は、どうせならこの機会に自分を見直してみたいと考えていた。
奈良の奥地、十津川村の出身で学歴も金もないが、いっそ思いきって海外へいってみるのもアリではないか。先進国に興味はないが、発展途上国とかなら自分でもなにかの役に立てるかもしれない。三十歳はとうに過ぎたけれど、力仕事には自信がある。
それなら、海外ボランティアなんてのはどうだ――。
残念そうにしながらも、俊昭はそういってアドバイスをくれた。
淳一は、各家のガスの残量を記したメモをノートに書き写すと(誰が引き継ぐにせよ、役に立つだろう)、社名入りのワークシャツと安全靴を脱いだ。エアコンをつけていても、汗はなかなか退いてくれない。車内に置いているタオルで頭と顔と上半身、それと眼鏡を拭う。日焼けした右腕はすこし擦っただけでもけっこう痛い。
エンジン音に気づいて顔を上げたら、ちょうど山越え道からトラックがやってくるのが見えた。農協のトラック――高石と中谷のコンビだった。
上半身裸のまま片手を挙げると、彼らも速度を落とし、
(暑いもんなァ)
破顔しながらすれ違っていった。
夕焼けの空の下、バックミラーでひとしきり見送っているうちに、淳一はやたらと感傷的な気分に襲われた。窓を開けて顔を出し、思わず村を振り返っていた。
もう、ここにくることもないのか――。
ひとりつぶやきながら、視線を戻す。
山越え道が、待っている。
淳一はTシャツに着替え、スニーカーに履き替えてから、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
ラジオをつけると、しっとりとしたバラードが流れてきた。
もはやトンネルにしか見えないほど暗くなった山越え道に向かって、淳一はライトを照らした。
24
午後五時。
三郷農協組合の高石茂雄と中谷甲介は、村役場の隣奥にある公民館にいつもよりすこし遅れて到着したところだった。
ヘッドライトは消しても、冷蔵庫を積んでいるのでエンジンはかけっぱなしだ。プロパンガスで稼働する冷蔵庫もあるが、そっちは予備として公民館に置いてある。
「さあ、早いとこ準備しよう。モタモタしてるとみんなきちまうぞ」
村にはすでに道路灯が灯っている。点灯するのは、夏冬問わず夕方の五時から朝の六時までと決まっていて、村民もなにげにそれを目安にしていたりする。すなわちそれは、買い物を頼んだ住民が、そろそろ集まってくるということでもあった。
茂雄が舌打ちしながらトラックを降りると、甲介もそれに続いた。
荷物の積み下ろしが多いので、ふたりともいつも動きやすい服装をしている。とはいえ、市場にいくのにラフすぎるのもなんなので、今日はどっちもポロシャツに伸縮性にとんだスラックスといった恰好だ。
「今日は何軒だ」
「十軒くらいだったかな。天神村だけだ」
白河村と黒滝村のぶんも、商品の引き渡しに関しては、ここで行うことになっている。農作物の受付の際、天神村と同じように商品を受注しているが、わざわざ配達まではしない。そこはあくまでボランティアみたいなものなので了承してもらっている。
ふたりは二トントラックの荷台に飛び乗り、商品を入れたカゴを手前に引っ張りだした。
冷蔵庫に入れる必要のない物は、緊急でないかぎり、自分たちで街で買いだめしてもらうか、なるべく村内の商店を利用してもらうようにしているのだが――カゴのなかには、よほど急に食べたくなったか、彦坂家と木本家に頼まれたスパム……まあ、たしかに無性に食いたくなる味ではあるが、それが各二ダース、それと食パンが何軒分か入っている。そういえば、甲介が市場で抱えてたっけ。
茂雄は小さくため息をついた。
JA、つまり農協は農業協同組合の略称で一九〇〇年に発足して以来、現在、全国に八千を越える組合があり、その運営は農家の加入金や会費でまかなわれている。仕事は、米や野菜、果物などの農作物を一括して業者に卸す販売事業や、農家に必要な肥料、農薬、日用品などをまとめて安く仕入れる購買事業などを行っている。特に小さな農村や高齢化が進んでいる農村にとっては、個人で収穫物を売り捌くよりも組合に価格の交渉や卸し先を任せたほうが効率がいいのだ。
天神村の農協は、三十五年前、茂雄の父、光雄の提案で奈良県支部に加盟し、下市支所の管轄となっている。茂雄は。その父親の仕事の跡を継いだかたちだ。しかし時代の流れか、昨今では様々な品種改良に加えて、農薬や化学肥料を使用しない有機農法、生物学を応用したバイオ農法などが盛んに行われるようになり、彼も頭を悩ませていた。
相方の中谷甲介はそういった知識はないし、せいぜい村の農業の向上に率先的な小山俊昭を連れて支所に赴き、話を聞いてもらうしかない。支所の職員によれば、こうした最新技術はこれからの農業には欠かせないという。それにしても――。
「また去年より農作物が少なくなってるな」
カゴから出した商品を端に寄せ、茂雄は荷台を降りた。
「しょうがないだろ。それが時代の流れってやつさ」
荷台に座り込んで、並べた商品に注文した家の名前を書いたメモを貼りながら、甲介がわかったような口を利く。
まあ、それも間違いではないが。
たしかに積荷は年々減ってきていて、十数年前は四トン車でカゴを縦積みしても入りきらなかったのが、現在は二トン車でも持て余すまでに落ちこんでいた。
世代交代も理由のひとつだが、加えて少子化。林業の仕事が安定してきたことも影響しているのだろう。農業に力を入れる家が、どんどん減少しているのだ。率先して農耕機を買い替えたり、丸屋根のビニールハウスを作ったりして、頑張っている農家もあるにはあるが、あくまでも少数派だ。
茂雄がこの仕事を引き継いだころは、村人の農作に賭ける心意気のようなものが、この公民館の前でやり取りされていた。農耕機や化学肥料に関する情報交換はもとより、季節ごとの降雨量や気温の予想にいたるまで、お茶やコーヒーを飲みながら楽しそうに語り合っていたものだ。
それがいまでは、自分たちの注文した品物をピックアップするとさっさと帰ってしまう。朝は朝で農作物と注文リストをカゴに入れて置いていく農家が多いので、こっちで仕分けまでしなければならないときている。野良仕事はなおざり。こんな状況では農業は衰退する一方だ。いくら最新式の農法を提案しても、次世代が農業に関心を示さない現状からすれば、お先真っ暗といえそうだった。
そのことは倅の正充にも話して聞かせているのだが、いずれ村を出る決心は変わらないようで、明日からの夏休みも受験勉強とやらで図書館へ通うなどとほざいている。
茂雄は荷台に寄りかかると、胸のポケットから煙草を取りだし、口で一本引き抜いて火をつけた。
すると、同じようなことを考えていたのか、
「まったく、どういう風の吹きまわしなんだろうな。うちの大介が急に勉強しだすなんて」
一段落して手を止めた甲介が顔を上げてこっちを見る。
背は低いががっちりした茂雄と、逆にひょろりと痩せて背の高い甲介。性格も体型に準じてまるで違うふたりだが、長年コンビを組んでいると思考回路まで似てくるらしい、
「たぶん、明や裕子の影響だろ」
「まあ、俊昭んとこはわからないじゃないけど。あいつはわりと新しいっていうか、今風の考え方するからな。娘には好きにやらせてやりたいんだろ。でも泰三さんとこはどうなんだ。明に村を出られると、いろいろ当てがはずれるんじゃないか」
正充にも大介にも妹がいるし、裕子には弟がいる。三校の天神村の中三のなかで、一人っ子なのは明と光治のところだけだ。拓也と美香にもそれぞれ兄と姉がいるが、どちらもすでに村を出ている。
「ああ、そうだろうな。藤村んとこは進学しないで農業を継ぐって話だが……いざ拓也や美香が村を出るとなれば、光治だってどうなるかわからんぞ」
家を継がせるにしろ、老後を看てもらうにしろ、ひとりよりはふたりのほうがなにかと心強いのだが、昨今は何人子供がいようがその全員が村を出ていってしまい、年老いた親だけが残されるケースが増えている。
昔のように長男長女が家督を受け継ぐなどという考え方は、ナンセンスを通り越して、とっくのとうに消滅している。
茂雄はタバコの煙を夕闇の空に向かって吐きだした。
防虫用LED電球のおかげで数は減ったが、それでも道路灯を丸く囲むように虫が集まりつつあった。やわらかい光が薄闇に滲むこの時間帯は、やけに寂しく侘しく映る。
「子供なんて何人いたって当てにはならんよ。最近も池永さんとこと坂下さんとこが、奈良市内の介護施設に移ったろ。あそこだって子供は何人かいたのに、結局誰も帰ってこなかったじゃないか。俺たちんとこだってわからんぞ」
「そうだな」
甲介は頷きながら荷台の奥にいくと、冷蔵庫を開けるなり、いきなりすっとんきょうな声を張りあげた。
「なんだ、こりゃあ」
「ああ……アヒルだよ、アヒル」
驚くのも無理はない。甲介がスパムやらパンやら探しているあいだに、茂雄が買って入れておいたのだ。
「どこのどいつだ? こんなもん欲しがってるのは」
「早川さんとこだよ。市場にあったら買ってきてくれとさ。中国からの輸入品だよ」
「なんの料理に使うんだ?」
「さあね。女房に訊いてみな」
このあいだは耕平のカミさんからチョウザメの卵を頼まれるし、その前は松下んちがサワークリームとかいう代物を探してくれっていってくるし――やれやれ、最近は食い物まで変わってきやがった。
茂雄はかぶりを振りながら、タバコを携帯用灰皿に捻じ込んだ。
村人たちがぼちぼち集まってくるのが見えた。




