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第一部 第二章 20~22

 第一部


 第二章


 20


 午後三時。


 社殿の下から見上げる神殿は、格子窓から射し込む傾きかけた太陽の光で、さながら小さな舞台のように輝いていた。

 夏は樹々の香りと蝉時雨が、自然とのさらなる一体感を醸しだしている。春は桜が、秋は紅葉が、冬は雪化粧が――大神神社は山中ならでは。そういう場所に鎮座している。

 神事の時間は決まっているので、社殿の椅子には参拝者が数人。毛利真央の友だちだという南原千尋も座っている。

 誰であれ、参拝してくれるのはありがたいことだ、と宗方昇は胸のうちでつぶやいた。

 境内の隅には見慣れない男も立っているが、もしかすると彼が、村人たちのいっていた、東京からやってきたという旅行者かもしれない。

 ギャラリーは多いに越したことはない。信じる者が救われるかどうかは、さて措くとして。

 宗方は階段を上がり、神殿の前にかしこんだ。巫女っぽい衣装を着た真央がそれに続いて正座する。宗方はそれを待って、祝詞を唱えはじめた。

 大神神社にきて以来、真央はずっと、神事における細々した用事や掃除などを手伝ってくれていた。今日も千尋と一緒に、境内の奥に自生している榊を摘んで玉串を作ってくれた。

 真央の白装束姿も、もはやすっかり定着している。彼女は神社にくると社務所に寄って、必ずこの衣装に着替えている。母親の晶子が誂えた物で、村人たちからの受けもいい。事実、少女の巫女姿というのは、神聖な神社に非常によくマッチしていて、いまでは欠かせない存在となっている。

 最初のころは、頻繁に神社にやってきては、神殿をじっと見つめている真央の姿に面食らったものだが、ほどなくして宗方は、彼女にはなにか不思議な力を感じるようになった。

 超能力のようなものではない――あえて表現するなら、けっして放出されることのない、力とはいえない力、とでもいおうか。元来、万人に具わっていたはずの、原始的な力だ。

 それでも真央が神事の手伝いをしたいといいだしたときは、宗方もさすがに心配になって毛利邸を訪ねてみた。そしてそのときはじめて、父親の雅治から彼女の生い立ちを聞かされたのだった。

 真央は宗方を歳の離れた兄みたいに慕ってくれているようたが、彼もまた、彼女に対してのっぴきならないものを感じていた。それは真央が、離れ離れになった宗方の妹とどこか似ているからであり、別れたときの妹の歳と同じだったからである。

 祝詞が終わると、宗方はふたりを従えて祭壇を上がり、神殿の扉の前に玉串を捧げ、二礼二拍手一礼をもって神事を締め括った。

 祭壇では神殿に背を向けないよう後ろ向きのまま階段を下りるのが決まりなので、真央が一緒のときは、宗方がさきに下りて見守ることにしている。しかし今日にかぎって、神事の手順を知り尽くしているはずの真央が動こうとしない。なおも微動だにせず神殿を見つめている。声をかけようとして、宗方はハッとなった。

 その横顔は厳しく、そしてとても哀しげだった。

 宗方が神殿脇の大太鼓を打ちながらいま一度祝詞を唱えはじめると、透き通るような真央の声がそれに続いた。

 やがてふたりの唱和は、大太鼓の響きとともに山全体にこだましていった。


 21


 午後三時四十五分。


 林道の奥にある空き地では、人目を憚るように乗り入れられた二台の車のうちの一台に、ふたつ影が並んでいた。

 アイドリング状態なのは、クーラーをつけているからだろう。夏の風に乗って飛翔を楽しんでいたアゲハチョウが、サイドミラーをちょうどいい休憩場所にして静かに羽を閉じた。

「えっ、妊娠!」

「うん。生理が遅れてたんで、さっきエコー検査してもらおうと思って診療所にいってみたのよ。エコーで診てもらったほうがたしかだしね。でも、あそこじゃできないっていうから、代わりに妊娠検査薬をもらって調べてみたの……。

 ああ。大丈夫よ。誰にもいわないでっていったら、医者には守秘義務がありますからって。なんか、ちょっと感じ悪かったわ。娘をインフルエンザで連れてったときは、そうでもなかったんだけど……。で、どうする? 生んでほしい?」

「いや、でも……」

「私がどうしたいか知りたい? 私はね、あなたとこの村を出て、都会へいきたいわ。そこでこの子を育てるの。教師の仕事だって、きっとすぐに見つかるわ。私のほうは離婚届に印を捺して用意してあるし、駆け落ちしたとなれば、みっともなくて嫌でも別れることになるわよ」

「そんなに、簡単にいくだろうか。彼もそうだし、僕の両親だって、村で肩身の狭い思いを……」

「イヤ? イヤなら……いいのよ」

「そんなこと……」

「……ないっていえる? あたしなんて……所詮、子持ちのアラフォー女だもんね」

 バイブレーターにしていた女の携帯電話が、バッグのなかで着信を報せる振動を繰り返し、やがて止まった。

 彼女が携帯電話の電源を切らないのは、娘からの連絡に備えるというより、いつ着信があったかわかったほうが、なにかと都合がいいからだった。が――

「イヤなんかじゃないよ。ずっと一緒にいよう……」

――彼にとっては、それが一線を越える呼び水になったかもしれない。ほんとにそんな言葉を口にしようとしていたのかどうかさえ、じつのところ彼にはわからなかった。

「信じるわ……」

 赤い合皮のミニスカートからストッキングごと下ろされた下着が、左の踝のところで丸まって留まった。サイドミラーには、若い男の背中越しにうっすらと笑みを浮かべた女の顔が、八ミリフィルムのコマ送りのように映しだされていた。

 車が揺れはじめても、蝶は羽を震わせただけで翔び立たなかった。


 22


 午後四時十分。


 大神山から下山し、毛利真央と別れたあと、南原千尋はT字路を通り越し(駐在所のおまわりさんは所内で下を向いてたから、きっと居眠りかな)、そのまま家へ続く田んぼの小道の前も素通りした。

 天神村で暮らすようになってから、両親の関係がうまくいっていないことも、ママの外出が増えたことも、彼女はとっくに気づいていた。夫婦ゲンカは少なくなった――でも、だからといって仲がいいとはかぎらない。

 子供は、親が考えている以上に、家のなかの空気を敏感に感じとっているものである。なんとかうまくごまかせたと思っているのは親だけかもしれなかった。

 民家がまばらになっても、千尋は引き返さなかった。

 太陽はすでに西に傾きつつあったが、それまでさんざんあたり一面を炙られたせいで、村は陽炎みたいに揺れていた。稲穂の陰から気の早いカエルが鳴き声をあげると、それに逆らうように蝉時雨が激しさを増した。もう何年も過ごしてきた天神村の夏だった。なのに――

――あたしの居場所は、どこにあるんだろう。

 田んぼの畦道から黒猫がヒョイっと側溝を飛び越え、こっちに歩いてくるのが見えた。いつのまにか診療所に住みつくようになった、七瀬先生がノネムって呼んでいる黒猫だ。陰森のほうにでも遊びにいっていたのだろうか。すれ違いざまに「ノネム」と声をかけてみたが、立ち止まりも振り向きもせずにいってしまった。いつものことだけど、ちょっとムカついた。

 まもなくして前方から燃料会社のトラックが近づいてきたので、千尋は道路脇に寄ってやり過ごした。運転手(たしか、羽村さんといったっけ)は窓越しに軽く手を挙げてくれた。トラックの走行音が遠ざかると、田んぼの奥に点在する家のほうから人の話し声が聞こえてきた。

 このあたりの小道は、彦坂や岩間(いわま)の家に続いている。彦坂の家は道夫をはじめ全員が口うるさいし、岩間邦男(くにお)はパパと親しかったので、できることなら会いたくなかった。それに誰であろうと、こんなところにいるのを目撃されたら、早く帰るよう注意されるのは目に見えている。無理もない、村人全員が顔見知りなのだから。

 ほんとはこんな村、すぐにでも親と縁を切って、早く出ていきたいのだけれど……。

 子供は親に依存しなければ生きていけない。どんな家に生まれようが、どんな親を持とうが、こればかりはどうにもならない。つまり逃げ場がないのだ。親に逆らうことは、すなわち家族の絆に対する裏切りであり、よけいな波風を立てたくなければ、子供はじっとがまんするしかないのだ。

 大人になるまでは――。

 そんなわけで、彼女はまたもや陰森の前に立っていた。

 最近、家に帰るのがイヤで、ここで時間を潰すことが多くなった。マジで家出する気なら、こんなところにはいやしない。こっちとは正反対にある山越え道を抜けてさっさと村を脱出している。

 そう。この村を出ていく者なら、誰もが通る道。帰ってくる人もいれば、帰ってこない人もいる、あの暗いトンネルのような道。でも、とても魅力的な道。

 けれど待つんだ、いまは……。

 陰森から吹き抜けてきた風が、頬の涙をそっと撫でた。

 絶望も受け容れてしまえば楽になれる。いつかあたしにも、パパとママを措いて、あの道を往く日がきっとやってくる。それまでは……。

 するとそれに応えるかのように、風が耳元をかすめながら、鼓膜にムズ痒い響き――妙にザラザラしていて、いろんな声が入り混じったような――を残して去っていった。千尋はその残響のなかに、自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。

 と、そのとき、森の奥が仄かに明るくなった。陽光が次々と樹々のあいだを突き貫けて地面に反射し、まるで森のなかに光の道が拓けていくように見えた。

 ふたたび、風が囁いた。

 千尋は、招かれるように森のなかへ入っていった。

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