第一部 第二章 17
第一部
第二章
17
午後一時三十分。
酷暑のせいか、午前中は体調不良を訴える患者で、てんてこまいだった矢沢七瀬は、診察室で上杉ヨネに昼食――ふだんあまり使っていない一階のバックヤードのキッチンで(いつもは自室の電子レンジで用が足りていたので)、年寄りのために思いついたのが、トーストとゆで卵という誰にでもできるメニューだった――を摂らせたあと、自分のぶんとカルテをトレイに載せた。
診療所は木造白塗りの二階建てで、エントランスを入ってすぐ左、出窓の前にベンチソファを置いた待合室、その正面が診察室になっている。反対に右にいくとトイレと二階へ上がる階段があり、その手前を左に曲がると診察室とも行き来可能なバックヤードにあるキッチン、並びに風呂場と洗面所兼脱衣場兼洗濯機置き場に通じるドアにぶつかる。
ここにきた当初は無駄に広いと感じた診察室も、入院患者を想定して配置を変えたらちょうどいい具合になった。すべて前のまま、既存の物を利用したかたちだ。
入って正面に患者用のキャスター椅子、対面に七瀬のデスクと回転式キャスター椅子、その背面に薬品棚。それから三つある引き上げ式の窓の左側に診察用の寝台と点滴棒を置き、反対側の右手奥、キッチンや風呂場のスペースに通じる出入口付近に、DIYのやっつけ仕事でレール式カーテンを取り付け、県の医療課に無理をいって取り寄せた電動式の医療用ベッドとオーバーテーブルを入院用として設置してある。
医療用ベッドは診察台としても使用できるので、カーテンで遮断することによって、患者がバッティングしたり、休んだりしているときは、ほどよくプライバシーが守られる、といったメリットがある。
つまり一階部分は、診察室をグルリと囲んだような造りになっていて、他の来院者の目に触れさせずに患者を運んだり、治療中に汚れた白衣を着替えたりしなければならない医療従事者にとっては、利便性にとんだ構造になっていた。
相反して二階は階段を上がってドアを開けると、トイレと洗面台付きのだだっ広い洋室が一部屋というシンプルさで、前からあった備え付けの家具以外に、ベッドやテーブルやソファ、テレビやオーディオ、冷蔵庫等々を運び入れてもまだ充分広かった。三つある窓のうちふたつが出窓で、もうひとつは壁一面が採光のよいアルミサッシの掃き出し窓になっていて、広く張りだしたベランダに通じている。
建築基準法に則って手を入れてあるということだったが、元々昭和の木造建築。天井や壁や床もそれなりに朽ちて傷んではいるものの、レトロな白亜の洋館という趣を残しつつリフォームしたということなのだろう。
診療時間は毎日午前九時から午後五時まで。一時から三時までを昼休みと往診に充てている。基本的に土曜日は午前のみ、日曜祝日は休診日。
正面エントランスの大きな観音開きのガラスドアに休診中の札を掛け、一応施錠して白いカーテンを引いておく。さて、とそのまま廊下の端までいって階段を上がる。スリッパがペタペタ音をたて、古びた板がギシギシ鳴る。
猫を飼いはじめてからというもの、スリッパは自室でも履きっぱなしだ。完全にイエ猫ならいいけれど、ソト猫でもあるので衛生面には気を遣っている。
二階の自分の部屋に戻り、テーブルに昼食のトレイを置くと、七瀬は聴診器ごと白衣を脱いで黒のチュニックとクロップドパンツのままソファにダイブした。
片手で尻のポケットからスマートフォンを抜きだす。一般電話はファクス付きで、一階と二階に親機と子機が備わっているが、用はほとんど携帯電話で足りている。
ラインを開くと、白河村の高橋家と黒滝村の上野家から往診の依頼がきていた。どちらの家も、老人が風邪っぽい症状を訴えているという。【了解】を示す絵文字だけ返信しておく。
ここは人口こそ少ないが三つの村を診なければならないのと、三郷学園のいわば保健室のような役割もこなしているので、七瀬ひとりだと案外忙しい。今回のように入院患者が出た場合は、往診まで手が回らなくなる。
往診といっても、老人のひとり暮らしや、家族はいても日中は忙しくて診療所に連れてこられないとか、患者自身が腰痛や神経痛で動けないといった家がメインで、ほとんどが薬の配達みたいなものである。極論をいえば、ここでの治療にもっとも必要なのは薬剤で、それに関しては七瀬の古巣、世田谷に本院を構える東京中央医療センターに出入りしていた製薬会社が、なにかと融通を利かせてくれるので大いに助かっていた。
ちなみに七瀬は夏冬問わず、往診は自転車と決めていた。
診療所前の空きスペースにはダークブラウンのステーションワゴンがあるが、往診で乗ったことは一度もない。そもそも東京に住んでいるかぎり、車の免許なんて必要ないと思っていたので、免許は天神村に赴任が決まってから取得したものだ。車も患者の搬送に備えて買った中古車で、乗らないときは必ず銀色の断熱シートをかけている。
車を使用しないのは、どの家もチャリで十分いける距離だったし、適度な運動にもなるからだ。まあ、さすがにこれだけの猛暑だと、UV対策と水分は欠かせないが。
三十も半ばにさしかかると、気を遣わなければいけないことが多くなる。老いも死も怖くはないけれど、やはり死ぬときはピンピンコロリといきたい。
そこで、
(シャンシャンシャンシャン)
鈴の音とともに、
(トットットットットッ)
凄まじい勢いで階段を駆け上がってくる足音がした。
我が家の同居人、黒猫のノネムだ。まもなくドアの下部に取り付けたキャットドアが、勢いよく内側にポンッと開いた。
目を真ん丸にしたノネムが甘えるように鳴きながら、頭や体や尾っぽを執拗に擦りつけてくる。近ごろではそれが〝グォファーン〟といっているように聞こえるのは、飼い主の慾目か。
そうか、オヤツの時間か。しかも、今日はそうとう腹が減っているとみえる。いつも物音ひとつたてずに動いているくせに、なにかを主張するときだけはそのかぎりではない。
七瀬は、小分けされている猫用のオヤツの袋をふたつ種類違いで専用容器に入れてやった。ついでに水を替え、一応猫用トイレをチェックしておく。家と外を自由に出入りしている猫にトイレは不要なのだが、部屋から出るのが面倒くさいのか、マーキングのためなのか、置いておくとたまに用を足していることがある。糞はトイレに流し、尿はペットシーツが一週間、猫砂は一か月半くらいもつので掃除は楽だ。
この黒猫と同居するようになったのは、わずか二カ月ほど前。そのすこし前から毛利家のあたりで目撃されるようになり、どこからきたのか、村人たちも首を捻っていた。いくら自然豊かとはいえ、さすがにヤマネコはいないはずだから、さしづめ通りすがりの誰かが近くの山に捨てて、それが村に迷いこんできたというところだろう。
はじめのうちは毛利の娘の真央と由美子が飼いたいといっていたそうだが、晶子に猫アレルギーがあるということであえなく却下。とはいえ、七瀬は野良猫に手を差し伸べるほど動物好きではないし、ましてや猫に関しては苦い想い出まである。
小学五年生の秋、車に轢かれて道路の真ん中で血だらけになって転がっていたドラネコを(キレイだったのはクビから上だけで、それでもアタマを捻って彼女を見たので)血まみれになりながら抱きかかえ、歩道に寝かせて役所に連絡したりしていたら学校でその噂が広まってしまい、キモチワルッ、キタナッ、シンジランナイ、ジコマン、ギゼンシャ等々、卒業するまで数々の陰口や汚名を頂戴するハメになってしまった。
そのとき、七瀬自身も、おっしゃるとおり、と妙に納得したのを憶えている。
それがある日の午後、診療所の出入口の階段でグッタリしているところに出くわしたのが(あとで調べたら、ただ単にだらしない恰好で日向ぼっこしていただけなのだが)、運の尽きだった。
真黒い、綿毛のようにフワフワした毛並み。下腹部に白いハート形の模様。子猫にしてはけっこう大きい。真央と由美子で人馴れしたのか、水をやったらガブ飲みし、プレーンのクラッカーをやったらガツガツ食べて、その日は元気に去っていった。
翌日からは毎日のようにやってきた。出入口のドアを開けると、スルリと勝手に入ってくる。外に出しても、帰ってくる。昼となく、夜となく、ただいまとばかりに出入口のガラスドアをキュッキュキュッキュする。仕方なく入れてやると、我が物顔で二階の七瀬の部屋へ転がり込んでくる。
まるで一度招待したら遠慮なく出入りできる吸血鬼さながら。気がつけば、まさに血を吸われた僕よろしく結局招き入れている。
結局、吉野の金森動物病院というのが近いと小耳にはさんだので、そこで混合ワクチンを打ってもらい、オスだということも判明し、インターネット通販で猫用の首輪や餌や用品を買いあさり、さて、出入りはどうさせようか、ドアや窓を開けっ放しというわけにはいかないし、と思っていたら、飲みすぎで喉を痛めて来院した日曜大工が得意だという(村では優しくて力持ちで通っている)井出博が、猫専用の扉――ドアの下部を三0センチほど刳り貫き、内外に開閉可能なキャットドアを、正面エントランス横の板木の部分とバックヤードに続くドア、それと二階の七瀬の部屋のドアに、手間賃程度で取り付けてくれた。
ただし診察室の二か所のドアだけには付けていない。猫の毛やフケ、唾液にアレルギー反応を起こす人が一定数いるからだ。よって待合室と廊下の掃除だけは、こまめにやることになるのだが。
そんなこんなで七瀬はその黒猫と暮らすようになり(出入り自由にさせているので飼っているという意識はあまりないが)、名前はなんとなくノネムと呼ぶようになり、彼もその名前が気に入ったようで呼ばれると寄ってくるようになり、そのうち呼ばれなくてもゴハンとオヤツと夜寝るときはだいたいやってくるようになったのだった。
さて、あたしも音楽でも聴きながらランチにしようか。そう思って、スマホにイヤホンを挿そうとした、そのときだった。
オヤツを食べ終え、人間ならあり得ないような格好で毛繕いをしていたノネムがピタリと動きを止め、耳をレーダーよろしくピンと立てた。ふだんは愛らしい真ん丸の瞳孔が、縦にスッと細くなる。オスの黒猫というのもあるのだろうが、このときばかりはネコ科の猛獣を想起させる。
七瀬が立ち上がって出窓のところまでいくのと、ノネムがその窓框に跳び移るが、ほとんど同時だった。軽自動車がスピードを緩めながら診療所の敷地に入ってくるのが見えた。見憶えのある車だった。ノネムはつかのま腰を下ろして眺めていたが、すぐに関心が失せたのか、フンッとばかりにカーペットに跳び下り、またぞろ超人的な(まあ、人間ではないが)姿勢で毛繕いをはじめた。
車が七瀬のステーションワゴンの横に停まる。舗装はされていても地面が表出しているので土煙が舞っている。そこへ大きめのサングラスをかけた女が降りてきた。
明るいブラウンのセミロング。メイクもしっかりしている。スパンコール付きのドット柄のブラウスに、赤の合皮っぽい短めのスカート。ここからでも派手めであることがわかる。
誰だっけ、あの女?
いずれにせよ、この時間帯が休診中だということは、村の者ならみんな知っている――急患が出た場合を除いて。
イヤな予感がした。




