乱闘
――その時だった。
部屋の奥のドアが、不意に開いた。
「悪いんだけどここ、一人暮らしじゃないのよね。下調べが足りないんじゃない?」
冷たい声。隣の部屋から出てきたのは千香子だった。
ゆっくりとこちらに歩み寄りながら、片手にはスマートフォンを持っている。通話画面が開いたままで、そこには「110」の数字が表示されていた。
もう片方の手には、ガールズバーOnlyの社用携帯が握られていて、そのレンズが山原を正面から捉えている。
「ベランダで煙草吸ってたのに、あんたらがうるさく暴れるから聞こえちゃったじゃない」
うんざりしたように言う千香子。
倒れている兎衣の服はもう十分に乱れている。
山原の顔が初めて強張った。立ち尽くす男たちも、動揺している。
「おい、まじで警察に電話繋がってるぞ」
誰かの上擦った声が部屋に響いた次の瞬間、男たちは兎衣の上から退き、蜘蛛の子を散らすように動き出した。
けれど、兎衣は彼らの進行方向に立ち塞がった。足が震えている。心臓がうるさい。自分の鼓動の音すら邪魔に思えた。
――逃がさない。逃がしてしまったら、また同じことが繰り返される。
兎衣は部屋のドアを背に、決してそこから退くまいと力いっぱい両足で立つ。
「退けっ!」
面を付けた男が怒声をあげ、兎衣の肩を乱暴に突き飛ばす。けれど兎衣は転ばなかった。足を踏ん張って、なおも前を塞ぎ、叫ぶ。
「地獄に落ちるのは絶対に絶対にあなたたちだからっ! 浄化なんて名目で、今まで何人の女の子を苦しめたと思ってるの! 私は、今もあなたたちのせいで苦しんでる人を知ってる! 相応を報いを受けてもらわないと気が済まない!」
男が兎衣の腹を思い切り蹴った。そのあまりの力強さに、兎衣は腹を押さえながら嘔吐する。次に、何度も拳がとんでくる。骨が折れるのではないかというほどの力で殴られながらも、兎衣は決してそこから退かなかった。
怒声と物音が部屋の中に響き渡る。
男たちの力は圧倒的で、兎衣の身体はもう限界だった。
膝が笑い、視界が滲み、呼吸がうまくできない。
――もうだめだ。
そう思った瞬間。
「――兎!」
玄関が乱暴に開かれる音とともに、誠の叫び声が飛び込んできた。
走ってくる誠の姿がまるでスローモーションのように見えた。
――あの時と同じだ。サクラから助けてくれた時も、誠は、兎衣に奇跡を起こしてくれた。
あの経験があったから、きっと誰かが助けに来てくれると確信していたから、痛みも恐怖も我慢することができた。
誠の後ろには、何故か畠山と細川の姿もある。
「逃がすか!」
「兎衣、大丈夫か!」
「ばにぃちゃん! 今助ける!」
誠が先頭の男に突っ込む。
誠の拳が、襲撃者の腹に殴り込んだ。後ろから来た畠山と細川も、家具を薙ぎ倒す勢いで男たちに突っ込んでいく。
「警察がもう来る、諦めろ!」
「俺の鍛え上げた筋肉を舐めるなよ!」
仮面をつけた男たちは混乱した様子で、口々に罵声を上げながら出口へ殺到する。
だが、誠と畠山、細川がそれを許さない。玄関先で乱闘となり、混乱の中でいくつかの仮面が床に転がった。
その全てを、千香子はスマホのカメラに収め続けている。
一部始終を。
「兎衣!」
千香子が走り寄り、倒れそうな兎衣の身体を抱きとめる。
その腕の中で、兎衣はようやく、浅く震える呼吸を吐き出した。
「大丈夫、あんたはもう一人じゃないよ。もう一人で頑張らなくていいから」
その言葉に、兎衣の目から、ぽろぽろと涙が零れた。
「誠先生にはね、タップ一つで兎衣の位置情報が送られるようにしてたの。何かあった時、このマンションだと警察よりも先生の勤務先の方が近いから」
千香子の声は少しだけ震えていた。
「ほら、あのクソ客のGPS。意外と役に立ったでしょ?」
無理に明るく振る舞おうとするその声音に、兎衣は微かに笑った。
涙と汗と恐怖と安心が、胸の奥でぐちゃぐちゃになっていた。
奇跡がまた起きた。
あの時と同じように――みんな、助けに来てくれた。
誠に床に叩きつけられた山原の背中が鈍く響く音を立てた。抵抗も虚しく、うつ伏せにされ、両腕を背中で固く押さえられている。
他の男たちは、畠山と細川が部屋から出ないように止めている。
押さえ付けられた山原の目が、不意に横へと流れる。
その目は、兎衣を真っ直ぐに捉えていた。
ぞわりと背筋が凍る。それはまるで、助けを求める子供のような目だった。
山原は、突如として奇妙な声をあげはじめた。
「おかあさん……」
掠れた声だった。最初は囁きのように小さく、どこか現実味のない調子だった。
「おかあさん! おかあさんおかあさんおかあさんおかあさん! たすけておかあさん!」
声が段々と大きくなっていく。
まるで幼児が夜中に夢を見て泣き叫ぶかのように、抑えの利かない嗚咽交じりの叫びが、部屋の中を狂ったようにこだまする。
「たすけて……たすけておかあさん! やだよ! いやだ! おかあさんおかあさんっ!」
誠に押さえ付けられた身体はぐにゃぐにゃと暴れ、手足もじたばたと動く。
その姿は、もはや一人の人間というより、壊れた玩具のようだった。
兎衣も誠も千香子も、ただ言葉を失い、息を呑むしかなかった。
怯えや怒りすらも一瞬遠退く。
しばらくして、数人の警察官が部屋に入ってくる音がした。
山原は誠と交代するような形で、警察に取り押さえられた。
兎衣の目には彼の姿が――一瞬、泣いている幼い子供に見えた。




