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すすきの性病専門クリニックのワケあり医師とバニーちゃん  作者: 淡雪みさ
FILE3 山原の過去

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溢れる涙



 山原はそのまましばらく兎衣を見下ろしていたが、すぐにふっと表情を緩めた。

 まるでスイッチが切り替わったように、また、あの優しい〝先生〟の顔に戻る。


「ごめんね、兎衣ちゃん。痛かっただろう?」


 手を伸ばし、そっと頬に触れようとする。兎衣は本能的に身体を引いた。

 山原はそれを気にする素振りも見せず微笑んだ。


「でも、分かってほしいんだ。兎衣ちゃんを正しく浄化するためには、時には少しだけ厳しくする必要がある。君を思ってのことだよ」


 その声は、いつもと何一つ変わらない穏やかな調子だった。

 それが、余計に恐ろしかった。

 兎衣は震える手でスカートの裾を握りしめ、必死に感情を抑えた。


(……録音は、できてる。大丈夫。証拠は残ってる)


 頭の中でそう繰り返しながらも、胸の中では、サクラに襲われた時に感じたような、本物の恐怖が根を下ろし始めていた。



 :


 八月も終わりが近づいたある日、兎衣のスマートフォンに母からメッセージが届いた。


『兎衣、最近ママへの仕送り減らした?』


 短く打たれた文面に、兎衣は無言で画面を見つめた。確かに、この数ヶ月で母に送る金額は減っている。仕方のないことだった。魂啓会へのサブスクリプション代、霊感グッズの購入、交通費……それに加えて母への仕送りとなると、余裕がない。


(……ママへの仕送りもちゃんとやらなきゃ)


 もっと稼がなければ――と、兎衣の中で焦りが生じる。


 その日から兎衣は、ガールズバーのシフトを増やした。

 夜通し働いて昼間は寝ていることが多くなり、誠と会わない日が続いた。

 そのうち兎衣の心は、だんだん疲弊していった。


 週末の夜、Onlyは客で賑わう。笑い声が耳障りに聞こえた。

 疲労が骨の芯まで染みついている感覚があった。頭が鈍く痛み、意識の輪郭に霞がかっている。


「ばにぃちゃん、俺のグラス空いてるよ〜?」


 にやけた声が飛んでくる。反射的に兎衣はボトルを手に取った。表情筋を使って口角を引き上げる。いつものように、いつも通りの動きで。

 けれど、その動作はうまくいかなかった。


「あっ……!」


 注ぎ口がグラスを外れ、酒が勢いよく客の胸元へと飛び散った。

 ワイシャツの前面に、液体が染み込んで広がっていく。香りの強いウイスキーの匂いが、辺りにぷわっと立ち込めた。


「てめえ……何してくれてんだよ!」


 客の声が、店内の喧騒を切り裂くように響いた。近くの客が振り向き、空気が一気に緊張を帯びる。


「クリーニング代、どうしてくれんの!? こっちは高いシャツ着てきてんだぞ! お前らみたいな安い女が汚していい服じゃねぇんだよ!」


 グラスがテーブルに叩きつけられる音がした。

 兎衣は硬直したまま、その場に立ち尽くした。頭の中が真っ白になる。何かを言わなければならないのに、疲れていていつものように頭が回らず、喉が動かなかった。


「すみませ……っ」

「謝って済むと思ってんのか! 新人か? ふざけんなよ!」


 ようやく絞り出した声は、客の怒声にかき消された。

 後ろから先輩のキャストがさっと入ってきて、「すみません、すぐ拭きますので……」と低姿勢で頭を下げ、兎衣の手からボトルをそっと取り上げた。


「もう裏に下がって。休憩してて。あなた、最近ぼーっとしてない? やる気ないなら馬鹿みたいにシフト増やさないで」


 彼女は苛立ったように吐き捨てる。

 兎衣は頭を下げたまま、ふらふらとバックヤードへ向かった。グラスの音も、笑い声も、もう何も頭に入ってこなかった。冷たい床に腰を下ろした瞬間、勝手に涙が勝手に溢れてきた。

 心と体の境目が崩れ、現実がぼやけていく。



 酔っ払い客の怒鳴り声がまだ耳に残っている中、兎衣はコンビニで安いペットボトルの水を買い、ふらつく足取りで帰宅の道を歩いていた。むっとするアスファルトの熱気と、肌に冷たい夜風が交互に兎衣の体を撫でていく。札幌の街はようやく暑さのピークを過ぎたものの、まだ不快な熱が残っている。


(あと何回、こんなに疲れ果てた状態で、この道を歩くんだろう)


 兎衣は自分の足元を見つめながらぼんやりと思った。肌にまとわりつく湿気が、今日も一日頑張ったという実感より、大きな疲労を運んでくる。


(でも、ここまで頑張ったんだから、今更中断して全部無駄にすることはできない。もう少し頑張らないと……。……そもそも私、何のために頑張ってるんだっけ? こんなことして何になるんだっけ。いつもいつも、お金、お金、お金、お金って、お金のことばかり考えて。いつだって働いてるのにお金が足りない。頑張って稼いでもすぐに消えていく。いや、違う。私が稼ぐのはママのため。サクラさんのため。誠先生のため。今できることをやりたい。誰かのヒーローみたいな人になりたい。それで、それで…………それで、どうなるんだっけ)


 脳裏に、ベッドの中で泣いている、高校三年生の時の自分の姿が過ぎる。


(ああ、そっか。私、人のためって言いながら、自分を救いたいだけだ。自分が有用だと思いたいんだ。あの日、自分が無力だと痛感したから)


 ふらつきながら角を曲がったその時だった。

 街灯の下に立つ、一人の人影が目に入った。

 蒸し暑い夜の気怠さのせいで、最初は幻でも見ているのかと思った。けれど、そのシルエットに、自然と心がざわついた。


「……誠先生?」


 そこに立っていたのは、誠だった。街灯に照らされたその顔は、いつになく硬い表情をしていた。

 夜風が誠の薄手のシャツをふわりと揺らす。


「……何で」


 またパフェでも食べに来たのだろうかと思って見上げる。けれど、どうやら違うらしい。


「お前、最近ずっとバイト入れてるって聞いた。昼間、寝てばかりなんだろ」


 兎衣は返事ができなかった。少し間を置いて尋ねる。


「……誰に聞いたんですか?」

「千香子さんだよ。お前のこと心配してたぞ」


 それを聞いた瞬間、胸が詰まる思いがした。


「俺に黙って、何やってる?」


 その一言が、堪えていたものをすべて崩した。

 風の音も、通り過ぎていく人の声も、どこか遠くへ消えていく。街灯の明かりだけが、正面に立つ誠の顔を淡く照らしていて、いっそ彼に助けを求めた方がいいのではないかと思えてくる。

 兎衣の震える唇から、縋るような弱音が漏れ出した。


「……ごめんなさい。もう、全部、きついです」


 ぼろぼろと涙が溢れた。




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