溢れる涙
山原はそのまましばらく兎衣を見下ろしていたが、すぐにふっと表情を緩めた。
まるでスイッチが切り替わったように、また、あの優しい〝先生〟の顔に戻る。
「ごめんね、兎衣ちゃん。痛かっただろう?」
手を伸ばし、そっと頬に触れようとする。兎衣は本能的に身体を引いた。
山原はそれを気にする素振りも見せず微笑んだ。
「でも、分かってほしいんだ。兎衣ちゃんを正しく浄化するためには、時には少しだけ厳しくする必要がある。君を思ってのことだよ」
その声は、いつもと何一つ変わらない穏やかな調子だった。
それが、余計に恐ろしかった。
兎衣は震える手でスカートの裾を握りしめ、必死に感情を抑えた。
(……録音は、できてる。大丈夫。証拠は残ってる)
頭の中でそう繰り返しながらも、胸の中では、サクラに襲われた時に感じたような、本物の恐怖が根を下ろし始めていた。
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八月も終わりが近づいたある日、兎衣のスマートフォンに母からメッセージが届いた。
『兎衣、最近ママへの仕送り減らした?』
短く打たれた文面に、兎衣は無言で画面を見つめた。確かに、この数ヶ月で母に送る金額は減っている。仕方のないことだった。魂啓会へのサブスクリプション代、霊感グッズの購入、交通費……それに加えて母への仕送りとなると、余裕がない。
(……ママへの仕送りもちゃんとやらなきゃ)
もっと稼がなければ――と、兎衣の中で焦りが生じる。
その日から兎衣は、ガールズバーのシフトを増やした。
夜通し働いて昼間は寝ていることが多くなり、誠と会わない日が続いた。
そのうち兎衣の心は、だんだん疲弊していった。
週末の夜、Onlyは客で賑わう。笑い声が耳障りに聞こえた。
疲労が骨の芯まで染みついている感覚があった。頭が鈍く痛み、意識の輪郭に霞がかっている。
「ばにぃちゃん、俺のグラス空いてるよ〜?」
にやけた声が飛んでくる。反射的に兎衣はボトルを手に取った。表情筋を使って口角を引き上げる。いつものように、いつも通りの動きで。
けれど、その動作はうまくいかなかった。
「あっ……!」
注ぎ口がグラスを外れ、酒が勢いよく客の胸元へと飛び散った。
ワイシャツの前面に、液体が染み込んで広がっていく。香りの強いウイスキーの匂いが、辺りにぷわっと立ち込めた。
「てめえ……何してくれてんだよ!」
客の声が、店内の喧騒を切り裂くように響いた。近くの客が振り向き、空気が一気に緊張を帯びる。
「クリーニング代、どうしてくれんの!? こっちは高いシャツ着てきてんだぞ! お前らみたいな安い女が汚していい服じゃねぇんだよ!」
グラスがテーブルに叩きつけられる音がした。
兎衣は硬直したまま、その場に立ち尽くした。頭の中が真っ白になる。何かを言わなければならないのに、疲れていていつものように頭が回らず、喉が動かなかった。
「すみませ……っ」
「謝って済むと思ってんのか! 新人か? ふざけんなよ!」
ようやく絞り出した声は、客の怒声にかき消された。
後ろから先輩のキャストがさっと入ってきて、「すみません、すぐ拭きますので……」と低姿勢で頭を下げ、兎衣の手からボトルをそっと取り上げた。
「もう裏に下がって。休憩してて。あなた、最近ぼーっとしてない? やる気ないなら馬鹿みたいにシフト増やさないで」
彼女は苛立ったように吐き捨てる。
兎衣は頭を下げたまま、ふらふらとバックヤードへ向かった。グラスの音も、笑い声も、もう何も頭に入ってこなかった。冷たい床に腰を下ろした瞬間、勝手に涙が勝手に溢れてきた。
心と体の境目が崩れ、現実がぼやけていく。
酔っ払い客の怒鳴り声がまだ耳に残っている中、兎衣はコンビニで安いペットボトルの水を買い、ふらつく足取りで帰宅の道を歩いていた。むっとするアスファルトの熱気と、肌に冷たい夜風が交互に兎衣の体を撫でていく。札幌の街はようやく暑さのピークを過ぎたものの、まだ不快な熱が残っている。
(あと何回、こんなに疲れ果てた状態で、この道を歩くんだろう)
兎衣は自分の足元を見つめながらぼんやりと思った。肌にまとわりつく湿気が、今日も一日頑張ったという実感より、大きな疲労を運んでくる。
(でも、ここまで頑張ったんだから、今更中断して全部無駄にすることはできない。もう少し頑張らないと……。……そもそも私、何のために頑張ってるんだっけ? こんなことして何になるんだっけ。いつもいつも、お金、お金、お金、お金って、お金のことばかり考えて。いつだって働いてるのにお金が足りない。頑張って稼いでもすぐに消えていく。いや、違う。私が稼ぐのはママのため。サクラさんのため。誠先生のため。今できることをやりたい。誰かのヒーローみたいな人になりたい。それで、それで…………それで、どうなるんだっけ)
脳裏に、ベッドの中で泣いている、高校三年生の時の自分の姿が過ぎる。
(ああ、そっか。私、人のためって言いながら、自分を救いたいだけだ。自分が有用だと思いたいんだ。あの日、自分が無力だと痛感したから)
ふらつきながら角を曲がったその時だった。
街灯の下に立つ、一人の人影が目に入った。
蒸し暑い夜の気怠さのせいで、最初は幻でも見ているのかと思った。けれど、そのシルエットに、自然と心がざわついた。
「……誠先生?」
そこに立っていたのは、誠だった。街灯に照らされたその顔は、いつになく硬い表情をしていた。
夜風が誠の薄手のシャツをふわりと揺らす。
「……何で」
またパフェでも食べに来たのだろうかと思って見上げる。けれど、どうやら違うらしい。
「お前、最近ずっとバイト入れてるって聞いた。昼間、寝てばかりなんだろ」
兎衣は返事ができなかった。少し間を置いて尋ねる。
「……誰に聞いたんですか?」
「千香子さんだよ。お前のこと心配してたぞ」
それを聞いた瞬間、胸が詰まる思いがした。
「俺に黙って、何やってる?」
その一言が、堪えていたものをすべて崩した。
風の音も、通り過ぎていく人の声も、どこか遠くへ消えていく。街灯の明かりだけが、正面に立つ誠の顔を淡く照らしていて、いっそ彼に助けを求めた方がいいのではないかと思えてくる。
兎衣の震える唇から、縋るような弱音が漏れ出した。
「……ごめんなさい。もう、全部、きついです」
ぼろぼろと涙が溢れた。




