梅毒の検査
兎衣は初めて誠の勤めるクリニック・おとなりケアに足を踏み入れた。
検査後、鷹中と二人、個室の中で検査結果を待つ。
病院というよりは、隠れ家のようだった。壁は無機質な白ではなく、木目調のパネルが貼られていて落ち着いた雰囲気。ふかふかの椅子に、明るくない照明。
待合室などはなく、一本道の廊下を通り、スタッフとも顔を合わせず、個室で検査と問診、全てが完結する仕組み。プライバシーを気にする人にはこれ以上ない設計だろう。
妙に納得してしまった。確かに、これなら来やすい。
兎衣はそっと隣を見る。
鷹中は腕を組み、眉間に皺を寄せたまま一言も発していない。いつものあの強気な態度は消え、何か獣でも恐れるように息を潜めている。その様子を見るとだんだん可哀想にも思えてきた。
(……奥さんに、なんて謝るつもりなんだろ)
ふとそんなことを考えた。本人の証言を信じるなら、キャバクラのキャストと酔った勢いでキスしてしまっただけだ。でもそんなことを伝えたところで相手は信じないだろう。兎衣でも信じない。定期の相手がいると疑うに決まっている。
その時、無機質な電子音が室内に鳴った。検査結果が出た合図だった。
鷹中はびくりと肩を震わせ、スマホを手に取る。そしておずおずとQRコードを読み取った。
数秒の読み込みの後、静かに表示された結果に、彼はじっと見入る。まるで時間が止まったかのようだった。
その表情からは、何の感情も読み取れなかった。ただ、顔色が少し青ざめて見えた。
やがて鷹中は黙って画面を伏せると、立ち上がり、診察希望ボタンを押す。
淡々とした足取りで、誠の待つ診察室へと向かう。兎衣も言葉をかけるタイミングを逃し、その後に続いた。
ドアが静かに開き、誠が振り返る前に、鷹中は深く腰を下ろし、スマホを机の上に置いた。
そして、目を伏せたまま、低くしぼり出すように言った。
「……これ、どういうことだ?」
その声にはただ、現実を信じたくないという不安のようなものが滲んでいるように聞こえた。
「どうもこうも、そのままだ。お前なら見れば分かるだろ。お前は梅毒じゃない」
誠の口調は淡々としていた。
鷹中は一瞬、目を見開いたまま固まった。
「は……? いや、どういうことだよ。TPHAが陰性なのはともかく、RPRまで陰性なのはおかしいだろ。じゃあ何で俺の嫁はどっちも陽性だったんだよ。何で……」
鷹中の声は震えていた。
兎衣がよく分からずオロオロしていると、誠が兎衣にその意味を説明してくれた。梅毒の抗体検査は二重で行われる。鷹中には、過去の感染も現行の感染も、どちらもない。つまり、鷹中は――最初から感染していなかったのだ。
机の上のスマホが、手の中よりも重く見えた。
兎衣はただ黙って、誠と鷹中の顔を交互に見る。鷹中は、ひどく傷ついているようだった。
「検査に行ってこいって言ったのは梅毒陽性だった嫁か?」
誠の声に、鷹中は小さく頷いた。
「そうだ。検査の結果を医者から一緒に聞いた後、お前が浮気したんだろってあいつが怒り出して……。さっさと検査行けって、蹴り飛ばされて出てきた。俺も心当たりがあるから、俺のせいだと思い込んで急いですすきのまで……」
誠がふうっと短く息を吐く。
「嫁の方は、自分の梅毒がお前にうつってて、お前のせいにできないかっていう賭けに出たんだろうな」
診察室の空気が凍る。それはあまりにも明確な答えだった。
鷹中の肩が小さく震える。信じたくなかったのだろう。だが、検査結果の数値はいくら見つめたところで変わらない。
「そんな……わけ……」
絞り出した声が、床に落ちて消える。
「つ……つまりえっと、浮気してたのは奥さんの方で、それを誤魔化すために逆ギレして、わんちゃん鷹中さんの方にうつってて鷹中さんのせいにできないか賭けたってことですか?」
兎衣の戸惑いの言葉は、鷹中にとって追い打ちとなったらしい。鷹中が無言になる。
診察室には、しばらく壁掛け時計の秒針の音だけが響いていた。
鷹中は椅子に座ったまま、背を丸め、握った拳を膝の上で震わせている。いつもの威圧感がない。そこにあるのはただ、呆然とした男の顔だった。
鷹中と、まだお腹の中にいる赤子のこれからのことを思うと、兎衣の胸がずしんと重くなった。
「……俺、どうしたらいいんだよ」
ぽつりと溢れたその声に、誠はデスク越しから立ち上がると、鷹中の隣の椅子に腰を下ろす。
「浮気された被害者はお前だ。でも子どもには罪はない。これからどうするかは、お前が決めるしかない」
そう言う声は、いつになく優しかった。
「……俺に、浮気した女の子供の、父親が務まるか分からない」
「だったら別れろ。中途半端な覚悟じゃ親にはなれない」
鷹中の目の奥は赤く滲んでいた。
「そんな簡単に言うなよっ……お前、結婚したことないくせにっ」
「経験者としてじゃなく、お前の友達として言ってる」
「な……」
「お前が幸せになれないなら、自分の罪をお前に擦り付けようとするような相手なら、子供がいようと別れるべきだ。お前の根が正直者で、うまく取り繕えるような器用さがないのは知ってる。愛せない女の傍にいて、お前が子供の前でそれをごまかせると思えない。それとも、〝幸せな家族〟を、子供が成人するまでずっと、演じられる自信があるのか?」
誠の目は、大学時代の友人へ向けるような、心配している者の眼差しだった。
瞬間、椅子ががたんと音を立てて倒れ、鷹中が無言のまま立ち上がった。兎衣の方から顔は見えなかった。
鷹中は何も言わず、兎衣の方を一度も振り返らずに、診察室のドアを乱暴に開けて出ていってしまう。
兎衣はぽかんとしたまま、鷹中が出ていった扉を見つめた。口を開いたものの、言葉が出てこない。
正面に座る誠が、ふうと短いため息を漏らした。
「……あいつも大変だな。ようやく第一子ができたっていうのに」
静かに椅子に寄りかかり、窓の外を見る。
「性病は、人間関係を壊す病気だと言われてる。こういうことは珍しくない。堅物のあいつががっつり浮気するとも思えねぇし、下で話聞いた時から違和感はあったんだよ。こうなるだろうなとは思ってた」
兎衣はやるせなさの滲む声を聞きながら、さっきの誠の言葉を反芻していた。
――〝幸せな家族〟を、子供が成人するまでずっと、演じられる自信があるのか?
それは鷹中に向けられた問いだったが、それは兎衣の胸の奥にも鋭く差し込んだ。まるで、長らく見ないふりをしていた心の扉を、優しく、容赦なく叩くような発言だった。
心の底のわだかまりが、音を立てて解けていく。
兎衣はずっと、両親に離婚してほしくなかったと思っていた。兎衣にとって、それは理不尽で悲しいことだった。子供を愛しているのなら、どんなに辛くても我慢して、両親揃っているべきだと思っていたから。それができない両親は、兎衣のことを愛していないのだと思った。本当は少しだけ、憎んだ。
ずっとどこかで、母のことも父のことも許せていなかった。
けれど、さっき誠が問うていたのは――子への愛情だけで家庭は続かないという現実だった。
親だって人間だ。迷い、失敗し、傷付き、限界の先で選ぶしかない。
(……演じきれなかっただけなんだ)
兎衣の大事な時期に離婚した両親のことを、やっと理解できた気がした。
認められた。腑に落ちた。
兎衣は、誠の横顔を見つめたまま、そっと呟いた。
「ありがとうございます、誠先生」
誠は「は?」と訝しげな顔をした。
でも、分かってもらえなくてもよいと思った。ただ、今の自分の心が、少しだけ解放された感謝を伝えたかった。




